学園であった騒動を得て、湊は今までと少しばかりだが意識が変わってきていた。
それはレイナーレへの感情。
最初は困っていたから手を貸して上げ、そして話してみると楽しくて仲良くなった知人。本人曰く堕天使とのことだが、あながち嘘では無いと湊は思った。
それは彼が今まで感じてきたどの人との気配にも似ていない不思議な気配がしていたから。目が見えない彼に天使や悪魔はお伽話の存在だと証明することは難しい。だからこそ、彼にとってそんな人達が居ても可笑しくない。それは学園で時たま感じる気配が彼にとって少し特殊だったからというのもあった。もしかすると学園にもそんな普通じゃない人がいるのかもしれないと。
そしてレイナーレとの会話は湊にとって本当に楽しい時間となった。
自分の目のことを気味悪がずに普通に話しかけてくれて、そして自分では見ることが出来ない世界の事を教えてくれる。
きっと彼女にはなんてことない日常の出来事なのだろうが、湊にとってそれは宝物のように輝いていた。
そして親しくなっていくにつれて、もっと彼女の事が知りたくなっていた。
目が見えない湊はレイナーレの事を気配と声でしか認識出来ない。気配は漠然とした物であり、近くに居るのが分かるといった程度。そして声はとても綺麗で可愛らしい声をしているということだろうか。
それしか知ることが出来ないことが少し悔しかった。こんなにも親しくしてくれる相手のことをもっと知りたかった。
だからこそ、勇気を出して顔を触らせてもらった。肌を撫でる柔肌の感触に内心ではドキドキしつつ、失礼がないようにちゃんと調べていく。
そして湊はまた一つ、レイナーレの事を知った。
彼女の顔は声に違わずとても綺麗だと言うこと。具体的な表情なんかがわかるわけではない。だが、その形、目の位置、唇の形など、全てを感じ取ると分かる美しい構成。それ故に、湊の胸は高鳴ってしまった。
彼女はとても美しく綺麗な女性なのだろうと。
それにより、湊の中ではレイナーレはより女性なのだと意識するようになる。
これが恋なのかと言われればどうなのかはわからない。
だが、湊は確かにレイナーレに惹かれていた。
彼女と一緒に居られる時間は本当に楽しくて、どこか胸の奥で感じていた孤独が癒されていく。
目が見えないことで、湊は周りとは一線をどこかで引いていた。自分は彼等と違う。そのことが彼にとって、当たり前であり寂しかった。
だが、レイナーレと一緒に居る時間だけは違かった。
別に彼女は自分と同じように目が見えないなんてことはない。だが、彼女は湊のことを知っても本当に怖がったりせずに話しかけてくれるのだ。物怖じせず、純粋に興味で湊の世界のことを聞き、そして湊の事を知ろうとしてくれた。
それが凄く嬉しかった。
だからこそ、もっと一緒に居たいと思った。レイナーレと一緒に居る時間、それは湊にとって幸せと言っても差し支えなかったから。
そして彼にとって、その抱いていた感情がはっきりとしたのは先日にあった出来事。レイナーレが学園に手続きせずに入って来てしまった事だ。
この時の騒動で湊はレイナーレのことを庇った。その時知ったのだ。
不安に駆られている彼女のことを、そして彼女がか弱い女の子であることを。
そして彼女に会う少し前に聞かされた話をもう一度あの三人にされたことで、湊は少し怒りを抱いた。
こんな綺麗な人をそんな邪な目で見ないで欲しい。
そして嫉妬もしたのだ。
自分が見れない彼女のことを見れる彼等のことを。そんな感情を抱いている自分に怒りながらも気付き、そして分かってしまった。
自分は彼女に好意を抱いていると。
初めての感情にどうしてよいか分からない湊。だが、彼はその感情が決して嫌じゃなかった。だからこそ、彼女を不快にさせない程度になら出してもいいんじゃないかと、そう思ったのだ。
まさか向こうも同じように抱いているとは思いもせず、彼は一人でそれなりに答えを出す。
『こんな自分と彼女では釣り合うわけがない。きっと身分違いの恋なのだろう。決して成就することはない。だけどせめて、この時間が過ごせるのなら、その間だけで良いから、彼女にその感情を抱くくらいは許してほしい』
あの一件から数日が経ったが、湊とレイナーレは……あまりいつもと変わらなかった。
学校から帰ると直ぐに公園の自販機の前へ……レイナーレと過ごす場所に向かう湊。別に約束したわけではないが、きっと彼女がいると信じて湊は必ずそこに向かう。
そしてレイナーレもまた、ほぼ毎日必ずと言って良い程にこの場所に来ていた。
二人とも会いたい一心であり、ここまで同じ事を考えているというのはある意味凄い。以心伝心というわけではないが、お互いに想い合っているからだろう。
だが、それは互いに分かってはいない。二人ともまだ自分の感情を理解するのに精一杯だから。
そして二人はいつものように話し合う。
その日あった出来事、レイナーレの仕事の愚痴や部下の苦情、日常における湊のちょっとした悩みなど。
他愛ない話だが、それで二人にとってそんなことでも一緒に居られることが嬉しかった。
だが、湊は少しばかり心配になってきていることが出来始めた。
最近なのだが、どうもレイナーレの様子がおかしいのだ。
何かあったというわけではないのだが、言葉の端に妙に疲れた感じがする。
それに偶に触れる手の柔らかさにドキドキしたりしてしまうのだが、その時妙に手に何かが貼られていることに気付いた。
それについて聞くが、レイナーレは苦笑して流してしまう。
「レイナーレさん、その手、どうかしましたか? 何やら色々と貼ってあるようですけど……」
「え、いや、これは……あははははは」
といった感じだ。
知られたくないのなら無理に聞かない方が良い。だが、レイナーレの綺麗な手が何かしら傷付いているのが彼には心配だったのだ。
そんな日が数日続いたある日の夕方、いつものように湊とレイナーレは自販機の前で会う。
そして会話に華を咲かせるのだが、レイナーレの声を聞いて湊は少しだけいつもと違う感じを抱いた。
何というか、緊張したような感じが見受けられるのだ。目が見えないせいか、湊は人の感情を声で識別することが多少は出来る。その感性からすると、レイナーレがいつもより緊張していることが分かった。
「どうしたんですか、レイナーレさん? 少しいつもと様子が違うようですけど」
そう聞かれ、レイナーレは慌てた様子で取り繕った。まるで隠し事がばれそうになった子供の様に。
「そ、そんなことないわよ! 私はいつもと変わらないわ!」
そう答えるレイナーレだが、その背には紙袋が隠されていた。
中に入っているのは、彼女が数日前に部下にお願いして教わったクッキーである。
彼女の手が絆創膏だらけになっている理由、それは湊に助けて貰ったお礼をしたいということでクッキーを渡そうと思ったからであった。
箱入り娘と言う程では無いが、今まで家事をしてこなかったレイナーレは料理などしたことがなかった。だから当然お菓子も作ったことがない。
そのため、部下のカワラーナは心底苦労しながらレイナーレにクッキーの作り方を教えることに。そこで発覚したのは、レイナーレがかなり不器用だという事実。仕事は出来るし、掃除やら片付けは出来るのに、料理だけはまったくもって駄目だったのだ。そのせいでレイナーレは手に何度も怪我をし、手を絆創膏だらけにしたというわけだ。
御蔭で今も手はボロボロであり、女の子として恥ずかしくレイナーレは思っている。
だが、それ以上に彼女は緊張していてそれどころでは無かった。
(蒼崎君、美味しいって言ってくれるかな……頑張って一番上手く出来たと思うけど、カラワーナのと比べると歪だし美味しくなさそうだし……あぁ、どうやって渡したらいいんだろう……うぅ~~~~)
お礼の品は出来たがその出来に不満が残り、更にどうやって渡せば良いのかレイナーレは困っていたのだ。タイミングが掴めない。
しかもクッキーの出来はカラワーナに比べれば天と地の然程あり、中には少し焦げてしまった物もあるという始末。
これでもし美味くないと言われたら、レイナーレはショックのあまり寝込むかも知れない。そんな恐怖が彼女を苛む。
だが、それでも彼女は本当に頑張って作ってきたのだ、初めてのクッキーを。
湊のためだけを思い、彼への感謝と思慕の念を込めて。
教わって練習している間、ずっと湊に美味しいと言ってもらえることを願いながら。
だが、ここで少しヘタレてしまうのは仕方ないのかもしれない。
初めて異性に物を贈るのだから。
だが、そんなレイナーレにとって良いのか悪いのか、湊が先に気付いてしまった。
「あれ? 何か甘い香りがする。レイナーレさん、何か持ってるの?」
「っ!? いや、これは、その……」
まさか香りで気付かれると思わなかった。
レイナーレは隠していたことがばれてしまい凄く慌てる。その顔は真っ赤であり、もう色々とパニックになりつつあった。
だが、ここで退けば絶対に後悔する。レイナーレはそう思い決意を固めて湊の前にそれを指し出した。
「そ、その、これ、作ってみたの、前のお礼に! あの時蒼崎君はいいって言ってたけど、それでもやっぱり私、ちゃんと感謝の気持ちを伝えたくて!」
ばれたからには隠す必要は無い。
だからといって、全部を吐き出して良いわけが無いのだが、レイナーレはそれを考えるどころではなかった。もう今しか無いと思い、恥も何もかも捨てて湊に告げたのだ。
そして言い終えると共に恥ずかしさで顔から火がでるんじゃないかというくらい真っ赤になる。
内心は自己嫌悪やら恥ずかしさやらで悶えていた。
差し出された紙袋を前に、湊はゆっくりと袋を開けると一つ中から摘まみ取り出した。
「あ…………」
それは少し茶色いクッキーであり、レイナーレはそれを見た途端凍り付く。
まさか最初から焦がしてしまった奴を摘まむなんて思わなかったから。
それは出来れば他の奴を食べた後に『そのクッキーは少し焦がしちゃって。あまり美味しくないと思うから嫌なら食べなくて良いから』といって回収しようとしていたものである。それを最初からひくというのは、運が良いのか悪いのか。
だが、それを食べさせないようにすることはレイナーレには出来なかった。
湊はその一つを摘まむと、レイナーレに向かって笑顔を向けてこう言った。
「そこまで言われてしまったら受け取らないわけにはいかないですね。では、いただきます」
そしてその焦げたクッキーを口の中で咀嚼し、飲み込んだ。
レイナーレは緊張のあまり息をするのも忘れて湊を見つめてしまう。どう言われてしまうのか恐かったが、同時に気になって仕方なかった。
そしてその答えは直ぐに出た。
湊は手を少し彷徨わせると、レイナーレの手を握ってきたのだ。
緊張し過ぎていたせいで反応に遅れたレイナーレは驚くことすら忘れて湊に集中する。
そんなレイナーレに湊は笑顔で答えた。
「やっとわかりました。何でこんなに手に一杯貼ってあるのか? きっと一生懸命頑張ったんですね。とても優しくて暖かい味がしました。美味しいですよ、レイナーレさん」
「っっっっっっっっっっっっっ!?!?」
その心からの感謝の言葉と笑顔を見て、レイナーレは束縛が外れたかのように息に動き出す。あまりの感激で顔が真っ赤になりすぎて倒れそうになり、嬉しさのあまり口から声にならない喜びの声が出掛ける。
それらを飲み込みつつ、それでも本当かどうか確認するために湊に聞くレイナーレ。
「本当? 本当に美味しい?」
その不安で一杯な声に対し湊は無邪気とも言える笑みを浮かべた。
「えぇ、とっても。人の作ったお菓子なんて久しぶりで………それに」
そこで一旦言葉を切ると、今度は湊の顔が赤くなり始める。
「レイナーレさんが一生懸命作ってくれたんです。それだけでも、僕は嬉しいですよ」
その言葉を聞いたレイナーレ、そして言った湊は二人して真っ赤になり、その後しばらく二人は気恥ずかしい沈黙を味わった。
だが、その心はとても幸せで満たされていた。特にレイナーレは直ぐにでも昇天するんじゃないかというくらい。
こうしてレイナーレは湊にお礼を返すことに成功した。
そして後日、料理にはまったレイナーレはカラワーナに教えを請うことなり、その時だけは上下が逆転するという可笑しな事になったとか。