『そのロウって、女性の喰種が、以前の君を知ってるかもしれない、ということか』
カネキさんは電話で、一度頷くとしばらく押し黙った。何を考えて居るのだろうと思ったけど、しばらくして開かれた言葉は、僕からすれば意表をついたものだった。
『……「はじめまして」と言って、「臭いを辿ってきた」と言ってたんだよね』
「あ、はい……」
『とすると……。リオくんとは、面識がなかったのかもしれない』
「へ?」
『いや、でも……。口調からして……、いや、そうすると前提が違ってくるのか?
――! 嗚呼、そんなまさか……』
ぶつぶつと呟くカネキさんの言葉の意味が、僕は理解できない。でも、どうやら僕の言葉から何かを掴んだらしい。
『少し、調べることが出来た。えっと……、リオくん、明々後日の午後にあんていくで会えないかな』
「えっと、別に大丈夫ですけど……」
『……じゃあ、一つだけ言わせて。以前、イトリさんが言ってた事なんだけど』
カネキさんは、ゆっくりと、続ける。
『――隠されている真実というのは、残酷なことの方が多い、らしい』
「隠されている?」
『この場合、リオくんの記憶が、ってことかな。ひょっとしたらだけど――リオくんは、自分で自分の記憶を封印した、のかもしれない』
「自分で……」
そっと、左目を押さえる僕。記憶の残滓と共に、迸るこの痛み。ひょっとしたらカネキさんの言う通り、思い出したくない記憶を無理にこじ開けようとしているからこその痛みなのかもしれない。
それだけ失う前の記憶が辛いのかもしれない。でも、だとしても――。
「それでも僕は、知らなきゃいけないんです。じゃないと、だって――」
『――お兄さんのタイムリミットが、分からないから?』
カネキさんの言葉に、僕は思考が停止した。
なんで……、なんで、そんな。
『当りだった? えっと、リオくんが最近様子がおかしいと思っていてさ。で、何か焦ってるように思ったんだ。切っ掛けまでは分からなかったけどね。だから、僕なりに考えてみたんだ。君の立場だったら、どう思うかとかさ』
その結果、行きついた先が正解なんだから、やっぱりカネキさんは凄いと思う。
そう、そうだ。あのバケモノみたいな奴に兄さんが捕まって、既にどれくらい時間が経っているかわからない。相手に連絡をとることも出来なければ、兄さんの安否さえわからない。だというのに、捜査官相手にキンコがバラバラに殺されてしまったのだ。僕が、情報を流したからからだろう――。
それは、イコールで兄さんの命の保障が、全くなくなってしまったのと一緒だったのだ。
だって、兄さんと僕を捕まえたのは――。
目の奥に走る激痛。それを押さえて、僕はカネキさんに笑った。笑いながら、焦っていた時に思っていたことを言った。カネキさんは、黙ってそれを聞いてくれた。
「……でも、なんでしょうかね。この間みんなと一緒に働いていて……、なんとなく、その不安が晴れた気がしたんですよ」
『不安が?』
「みんなと一緒に居るあんていくが……、なんだか、居場所があるみたいな感じがして。その安心感が、兄さんが殺されてしまってるかもしれないって恐怖に打ち勝っちゃったんだと思うんです。……最低ですよね、僕」
自嘲するしかない。たった一人の家族の兄さんを助けなきゃいけないのに、それを差し置いて今の現状に満足してしまっている自分が居るのだ。こんなの、薄情どころじゃない。単なるクズだ。
カネキさんは、それでも、そんな僕の言葉をしっかり聞いてくれていた。
『リオくん』
「?」
『僕も……、いや、僕は、そうは思わないよ。だって、君はバンジョーさんの辛い心に寄り添えたじゃないか』
「……」
何度か万丈さんと、彼に頼まれて訓練みたいなことをしたことがある。その時、落ち込む彼に慰めるようなことを言った。それを指しての言葉だと思うけど、でも、それだって――。
「あれは……、単に、そう思ったから――」
『それだよ』
カネキさんは、少しだけ照れたように、まぶしいように言った。
『僕は、それが心底羨ましい』
「羨ま、しい……」
『僕は、どう足掻いてもそういう感情を、自然と思うことが出来ないから』
僕、あんまり愛されて育ってないんだよ。
『友達とか、先生とか、周りの人の助けがあったから辛うじてってくらいなんだけどさ。でも……、一番愛情が欲しかった人から、欲しかったように愛されはしなかった。
だから、たぶんどこかが可笑しいんだと思う。だって――未だに心のどこかで、破滅願望みたいなものがあるから』
「……」
『だから、そうやって自然に誰かのことを思えるってさ。すごく、素晴らしいことだと思うんだ。
君が怖いと思ったのは、お兄さんが死んでしまうかもしれないという恐怖からだよね。でも、その焦りが解消されたとしても、リオくんはジェイルを探すことを止めない。違う?』
「それは……、当たり前です」
『うん。だったら、大丈夫だよ。お兄さんを失うのが悲しいっていうのは、お兄さんのことを愛してるから。
僕のそれとは、たぶん、大きくニュアンスが違うと思う』
言葉が、上手く見つからない。カネキさんの言ってる事は、結構、滅茶苦茶だと思う。でも、その言葉を聞くと、目の奥の痛みがそのまま、外に溢れて、零れてくる。
『リオ君は、優しいヒトだよ。最低じゃない』
「……ッ」
ありがとうございます、の一言も言えず。涙をながしながらしゃくりあげる自分が、どうしても、どうしても情けなかった。
※
カネキさんと会うまで、まだ時間がある。
翌日、僕は少し表を出歩いていた。二月も終わり頃、なんだか珍しく温かな感じがしていたので、ニット帽は今日は置いてきた。
繁華街……、場所は全然違うんだけど、ここから路地を抜けると、以前ルチと遭遇した場所に着いてしまいそうな気がする。
そんなことを考えていたからじゃないとは思うけど……、ルチがこちら目掛けて、慌てて走ってくる。
「おいガキ、退け!」
「ええっ!?」
「あばよ! テメェの相手はしてらんねぇ!」
慌ててルチは、僕の背後のビルとビルの隙間に入っていく。
呆気にとられてそれを見送って、視線を戻すともっと驚くべきことがあった。白いコートにあのエンブレムは、CCGか。なんだか普通の捜査官が一人、こちらに走ってきていた。
「はぁ……、はぁ……、済まない。君、こっちに男が走ってこなかったか? 長髪で痩せ形の」
「……えっと、そのヒトでしたら、あっちの方に――」
おそらく、目の前のこの捜査官から逃げてきたのだろうと判断し、僕はそれとなく捜査官に嘘の道筋を教えた。……思ったほど捜査官を前に嘘をつくことに抵抗感や緊張感がなくて、自分自身に驚いた。たぶんだけど、什造というあの少年捜査官と相対したことがあるからかもしれない。
捜査官がどこかに行ったのを見送ってから、僕はそのまま立ち去ろうと――。
「……オイ」
「?」
ビルの隙間から顔を出したルチは、自分の肩を押さえながら、こちらを睨んでいた。どうやら、あのまま逃げられなくて引き返してきたらしい。
「……いや、何でもねぇ。別に助けてもらったなんて、思わねぇからな」
「恩に着せるつもりもないですよ。ただ、何となく嫌だっただけです」
「……そうかよ。じゃあな――」
立ち去ろうとするルチ。その背中を見て、僕の脳裏には先日見た、カヤさんと彼とのやりとりがフラッシュバックし――。気が付けば、僕は彼の手を引いていた。
「? なんだ」
「……いつまで、続けるんですか?」
「……んだと?」
「カヤさんは、もうきっと戻りませんよ」
「テメェ……、カヤさんの知り合いなのか?」
僕があんていくで働いていることを話すと、彼は途端に機嫌が悪くなった。あの店のせいで平和ボケしちまった、と不快感を叫ぶ彼に、僕は、なんとなく思ったことを言った。
「あのジジィさえ居なければ――」
「……たぶん、違うと思います」
「あ?」
「……今のカヤさんの表情を、見たことがありますか?」
僕の言葉に、ルチは黙った。
着いてきてください、と、僕はあんていくまで彼を誘導する。
店の入り口から覗く店内。ニシキさんと、トーカさんとに指示を出して笑いながら、所々古間さんと張り合ったりしている。その表情は、僕が言うまでもなく平和な、あたたかなそれだ。
「あんな表情で居たら、たぶんきっと、今でもそのグループの頭をしていたんじゃないかと、思うんです」
「……」
「ルチさんは、カヤさんのこと好きだったんですか?」
「……!? あ? テメェいきなり何を――」
「あー、変な意味じゃなくって。こう、ヒトとしてどうか、みたいな感じです。僕は好きですよ、カヤさんのこと」
「……否定する意味もねぇな」
ばつが悪そうに顔を顰めながらも、ルチはカヤさんから視線を外すことが出来ないでいた。
「あの人は、言ってました。悩んでたって。湧き起こる憎悪を、どこにぶつけたら良いかさえわからなくなりながら」
「……」
「だからきっと、止めてしまったのだとすれば――彼女も、苦しんでいたんだと思うんです」
ルチは、黙ったまま、じっと彼女の働く姿を見ていた。
「僕は、みんなが好きです。店で働いている皆が、第二の家族のようなものだと思ってます。
だから……、やっぱり悲しんで欲しくはない」
「……オレ達のところに戻ったら、あのヒトは、また悲しむっていうのか」
「……」
「……」
無言のまま、ルチは僕に背を向け、あんていくを離れて行く。その背中がこの間見たそれとは違い、とても小さなものに見えた。
路地裏に向かう彼。なんとなく、その後ろを歩く。彼のつぶやく独り言は、そのまま僕の耳に入ってきていた。
「十年って、早いな」
「ルチさん?」
「あの時代は……、終わってたんだな。ハッ、俺は、俺らは何のために……。あのヒトを悲しませちまうじゃねえか、そんなんじゃ――」
「……でも、それでも、何かは出来るんだと思います」
僕の脳裏に浮かぶのは、姿形さえあやふやになってしまっている兄さんの記憶。
「会えない人や、会えなくなってしまった人。それは、どうしたって悔しいですよね。僕も……。
でも少なくとも、カヤさんは生きてます。少し、日の当るところに歩み寄れば、いつだって会えます。だから……」
「……」
押し黙ったルチは、しばらくしてから大笑いをした。まるで今まで染み付いていた険を、全部弾き飛ばすように、洗い流すように。
こちらを見たその表情は、どこか晴れやかなものだった。
「うめぇんだろうな、あのヒトの珈琲。昔から、器用で、何でも出来たヒトだったから」
「……」
「坊主。……ありがとよ」
お前も頑張れと、何かを察したように彼は僕の頭をぽんと撫でてから、路地裏の道に入っていった。
これから彼がどうなるか、僕にはわからない。でも――その背中は十年の寂しさだけじゃなく、どこか逞しさも感じさせた。
そして、ルチが何を察していたのかを直後に僕は知る事になった。
「お~っほっほっほ! みぃつけた~~~~っ!」
「うあああああああああっ!!!?」
突如、上空からロウが降って来たのだ。背後から大声で叫ばれたものだから、反射的に振り返って、思わず絶叫してしまった。いやだって、いくら赫子を使っているからとはいえ壁に虫か何かのように張り付いている美女なんて、悪夢以外何者でもない。
きっとこっちを振り返った瞬間、後ろのビルの壁で待機していた彼女を見たせいだろう。そんな理由でエール送られても、ルチさん!?
そして、わずかにかつん、かつんと、どこかで聞き覚えのある音が聞こえる。
「よかったわぁ、やっと会えたわ、アタクシのリオ♡」
まるで恋する女の子のように身をくねらせるロウ……って、え!?
「なな、何で僕の名前を!?」
「そりゃ好きなヒトの名前くらい、知りたいと思うのは当然ではなくって? あの手この手で調べたわ……。MM氏に支払って」
「え、えむ……? って、好き?」
「当たり前ですこと! 私はリオが好き=食べ物が好き=私はリオが食べたい! 常識ですわよ!」
「いやいや、意味わかんないですって!」
「アタクシのルールブックではそうなってるのよ? ものすごく量を食べる友人も言ってたけど、恋も食欲も全部一緒にしてしまった方がわかりやすいしすっきりしているのですわ!」
無茶苦茶だこのヒト!? 圧倒されすぎていて、ロクに質問もできやしない。
そして苦手意識が先行しているからか、思わず敬語になってしまった……。この感じ、イトリさんと似たベクトルの苦手さだろうか。
「さあ、せっかくだし丁度良い広さの屋上を見つけたのよ。一緒にそこで汗を流して――食べられちゃって!」
「い、嫌ですよ」
「問答無用ですわ!」
飛びかかった彼女は、そのまま僕に抱きついてきて、ホールドした。硬直する僕に「あら可愛い♡」と楽しそうに微笑み、赫子を出して壁に突き刺して。そのまま壁をよじ登ろうと――。
「ッフフフ! ……リ オ く ん、見 ィ つ け ェ たァァァァ――!」
そして、彼女の赫子が、チェーンソーのような音と共にぶった切られた。
キジマ式、遭遇。
次回からいよいよ佳境です。