「いらっしゃーい。……って、あれ? 蓮ちゃん」
「イトリ、客だ」
薄明かりの灯る店内。香水のような臭いが鼻につく僕に、店主と思われるドレス姿の女性がけらけらと笑い駆けてきた。……普通に綺麗なヒトだったので、僕はどぎまぎ。
「見りゃわかるけど、何、若すぎじゃない? 未成年でしょ」
「あ、はい。……未成年です」
「カワイイ子だねぇ。君、カノジョとか居る?」
「ええ!?」
「イトリよせ」
「んんもう、何よつまんない」
色々と目のやりばに困るというか、半眼で悪戯っぽく笑いながら迫ってくる彼女に、僕は困惑した。顎から鼻を擽って笑い、彼女は持っていたグラスの中身を一気に飲み干す。
そのまま前かがみになって僕に顔を近づけるイトリさん。何とも言えない独特な、くらっとくるような酔っ払うような臭い。
「で、何知りたいわけ? 君。お酒飲みに来たわけじゃないっしょ? まカワイコちゃんとランチキするのも悪くないかもだけど、こ~んな怪しいお姉さんを頼ってくる理由の方が面白そうじゃない」
「……あの、その」
ん? と微笑みながら頭を傾げる彼女に、僕はストレートに聞いた。
「ジェイル、という喰種のことを知ってますか?」
「ジェイル。……ジェイルって、あー……、アレね。牢獄模様。
目元に檻みたいな痣があるヤツよね?」
片目を閉じて赫を見せて、彼女はその目の上下を指で撫ぜた。
何かご存知なんですか、と聞けば、彼女は僕の顔をみてうーんと唸った。
「知っているような、知っていないような……、っていうか、うんうん? 確か前に来てたあの子が――あーはいはい、イトリさんのデータベースには少年の役立ちそうなのありそうよん?」
「本当ですか!?」
「お、おう、結構大胆だねぇ」
衝動的に彼女の肩をつかんで叫ぶ僕に、イトリさんは少し驚いたように言った。
「ただねぇ少年。情報っていうんは世の中、凄く高価なものなんだよ。だからそれなりに対価はもらうよ?」
「対価……、ですか」
「そ。例えば――身体で払ってもらう、とかあいたッ!」
四方さんがイトリさんの頭にチョップを入れた。
「イトリ、茶化すな」
「茶化してないわよムッツリスケベ。ま要するに、自分の足使って情報わーっと集めてきてってことよ。
ま、今は必要ないっちゃないんだけどね。捜査官の資料とか欲しいっちゃ欲しいけど、記憶もないカワイコちゃんに押し付けるのも気が引けるし。だから残念。無料であげられる情報もなくはないけど、欲しい?」
「あ、はい!」
「ふふん、それじゃあまずトーカちゃんのスリ――あうちっ!」
「茶化すな」
「んもう、カネキチの方が良か……やめて蓮ちゃん、真面目にやるから拳握らないで」
無言の圧力をかける四方さんに、イトリさんはうろたえた。……っていうか、今なんかものすごい情報を口走ろうとしていなかったか、イトリさん。
その後、彼女と少し雑談をした(イトリさん曰く「たまーに掘り出し物の情報があるかもしれないから、会話はしても損じゃない」らしい)。何度かからかわれるものの、多少は慣れたのか少し流せるようになってきた頃合で。
「記憶喪失かぁ……。じゃあ、クインケドライバーって知ってる?」
そんな風に、突然話を切り出した。
「知らない、です……? いや、何か、名前だけは聞いたことのあるような、ないような」
「ふぅん……。元々喰種を拘束する道具として作られたんだけど、ある程度強い食種が付けるとパワーアップしちゃう道具ってな訳よ。で、それが”アオギリの樹”によるコクリア襲撃事件の後、ちょっとこっちにいくらか流出してね。別にアタシは欲しいわけじゃないんだけど、今の会話でちょっとわかったことが一つ」
「?」
「少年。君、今お腹を押さえたね?」
指差すイトリさん。その先は、確かに僕は両手で腹のあたりを庇うような体勢をとっていた。
「今話して得た情報から勘案して、君はたぶん、その『アオギリの樹』によるコクリア襲撃に乗じて逃げ出した、喰種の一人だ。向こうでは、たまーに今でも拘束にドライバーが使われてるらしいからね。おまけに身体が条件反射で反応してるところを見るに、常習的に行われていたか」
「……」
「まあそうすると、君がいつ記憶を失ったのかとか、色々考える余地はあるけどね、何せニ、三週間も開きがあるわけだし。その間どこで何をやっていたんだ、とかね」
結局この日は、それ以上の情報は得られなかった。情報と言っても、彼女のそれは推理のようなものであったのだけど、でも、僕は不思議と違和感がなかった。彼女の言ってる言葉は、すんなりと頭に入ってきて――たぶんそれが、正解なんだろうと思った。
なにせ僕の腹部には、明らかに何かを巻き続けていたような、擦れた跡がくっきり残っていたのだから。
※
夜道こそ見回りが不可欠だ。喰種による捕食事件の発生件数は、夕暮れ、夜中にかけてが一番多い。人間も喰種も、事を起すなら人目のない時間帯を狙うのは一緒ということだろう。
真戸さんの居ない今、その仕事は主に俺が引き継いでいる。それでも彼ほど完璧な見回りが出来ているとはとても思えず、そこは日々、直接アドバイスを貰っている次第だ。昨日もニット帽の少年を、先々月にあった事件の現場から遠ざけた。
だが、今日は少々事情が違う。先月中ごろから末にかけて、一緒にとある事件を追った刑事から、その後の進展を話してもらう予定だった。あれからいくらか動きが出たらしく、向こうからの連絡を受けて俺は20区の駅前の居酒屋で飲む予定だった。
「あ、おーい亜門さん」
……そして待ち合わせ先でしばらく待機していると、例の刑事、守峰さんと一緒に見覚えのある捜査官が居た。
「ああ、わざわざこちらまで来て頂いて申し訳な……、ん? 13区の五里二等……? なんでここに」
「駅前でちょろっと会ってね」
相変わらず物腰が飄々とした刑事の後ろに居たのは、女性捜査官としては理想的なほどの力強い体格に恵まれた、五里美郷の姿があった。11区の総攻撃の際に顔合わせした程度の間だが、何故ここに……?
守峰さん曰く、何か渡すものがあると言ったが――。
「あ、亜門鋼太朗ォオッ!!」
「お、おお……?」
ラッピングされたドーナッツを掴みながら、ぶつぶつと彼女は小声を繰り返し、絶叫して俺に押し付けた。
「――ォ、黒磐特等ォオオッ! 手作りだこのドーナツはッ!」
「と、特等が!? しかし何故……」
俺は特別なのだ、と言う彼女。守峰さんが何か頬を引き釣らせて「食い違ってね?」と言ったが、それはさておき。ラップを開けた先の臭いに、思わず俺はのけぞる。何だこの、名状し難い……、いや、それ以前に刺激臭が、強烈に鼻の奥に――。
しかし、特等はこれを好んで食べていたという。とするならば、好き嫌いがある自分への指導も兼ねているのかもしれない。
すべて頂こうと手に取り、俺は勢いに任せて一気に食べた――。
「ご、ちそうさまでした」
「う、うわぁ……。あ、おい姉ちゃん!?
行っちまったよ嗚呼……」
走りぬける五里に、守峰さんは「あちゃー」とため息をつく。
「もう何日か待てば気付いたかもしれねぇが……、いや無理そうだな」
後日、特等にお礼状を描かねばと俺はメモに記入。そして二人で店に入ろうとしたタイミングで、悲鳴が聞こえた。男、いやまだ青年と呼べるくらいの年齢の悲鳴だ。俺と守峰さんは顔を合わせて、そして走った。
「亜門サン!」
『――クラ・スマッシャー!』
隠れてなどいない。表通りも大通り、えぐれた車道の先に、一人の青年と悪魔のような、怪物のような仮面の喰種。青年の帽子はCCGで見た覚えのあるものだ。捜査官補佐候補、といったところだろうか。
俺は展開したクラを構えて突進。被いかぶさる喰種に背後から一撃――しかし弾かれる。甲赫同士の激突音だが、眼前の喰種は背中からめきめきと、羽赫の弾丸のようなものを展開しはじめている。
咄嗟におれは、クラの制御装置を操作。
『――リコンストラクション!
クラ・フルスマッシュ!』
『!――っおお』
横薙ぎに振り回したクラのプレート部で、肩から上が切り裂かれ跳ね飛ばされた喰種。
「やったか……、は、はァ!?」
だが、この一撃で俺は敵を駆逐できなかった。
守峰さんが驚きの声を上げる。切り離された切断面、上下両方から赫子のような細い触手が出て、お互いに繋がり、身体に接続し。首をぐるりと回して、その怪物のような喰種はこちらに舌打ちをした。
『チッ。だが、目的は達した』
「何?」
俺の言葉に反応せず、喰種は周囲に蒸気を撒き散らした。視界が奪われかけるが、気合を込めて目を閉じ、開き、音の去る上空を見上げる。
上空には、赫子を羽根のように展開してこの場から立ち去る喰種の姿があった。
「……大変なことになったな亜門サン。内海の話してるところじゃないか?」
「……いえ、出来ればこの後お願いします」
「そうかい? まあ俺も明日明後日は休みだから構わないけど……。おう大丈夫か、兄ちゃん」
「い、痛……」
打ち身をしているらしい青年を抱き起こす守峰さん。左胸にCCGのマークと共に、「旧多」という名札がされていた。
自分の身分を明かすと、彼は狼狽しながら答えた。
「あ、あの、局でアルバイトしてて、鈴屋さんとキジマさんから呼ばれて、資料持って行って、あの――」
「ひょっとして、あの喰種に奪われたのか?」
「あ、は、はい……」
話を続ける俺の横で、救急車へ連絡をとる守峰さん。
俺は喰種が起した被害の跡を確認して――道路の下、破裂しているような水道管が、不自然に凍っているのを見た。
※
かつん、かつんと足音が聞こえる――。
あの音が聞こえると、僕は蹲り身を隠すしかない。わずかに思い出した記憶の底にある僕は、そうして震えることさえ出来ず、傷つけられる一方だった。その相手が、何をどういったのかまでは思い出せないけれど、それでも兄の命がジェイルにかかっているということを言っていたのは理解していた。
『ヘタレ! ヘタレ!』
でも、あんていくに引き取られた今でも、あの音が聞こえると僕は――。
あんていくで飼っている鳥の鳴き声で、僕は目を覚ました。そのまま夜風に当ろうと窓を開けて、あの足音が耳に聞こえた僕は身体を滑らせ、地面に落ちた。コンクリートの地面には赫子のお陰か無傷でいられたけど、流石に身体がちょっとしびれている。
立ち上がり、ふらふらした足取りで「あんていく」に戻ろうと上を見上げて赫子を伸ばすと、背後から「おい」と声をかけられた。振り返ると、特徴的な顎鬚をもった強面の男の人が居た。身長も体格もすごく良い。
「お前、何やってるんだ」
「へ……?」
言われて今の自分の状況に気付く。嗚呼、これ完全に泥棒とかの動きだなーと思ったところで、彼は拳を握った。
「顔色が変わったな。なんだ? 話せないのか……?
――あんていくに何の用だ?」
「え、あ、いや単に戻――」
「怪しい野郎だ、話せないなら力づくでも聞いてやる!」
来る、目の前の男性は、両目を赤と黒に染め上げて殴りかかってきた。赫眼――じゃあこのヒトも喰種?
怪しまれて当然の行動をとっていたにはとっていたけど、話を聞かず目を血走らせて? 殴りかかってきた。
「(……弱いっ!!? って言うよりバテバテだ)」
そして、赫子をほんの少し振るっただけなのに、目の前の彼はかなり簡単に倒れてしまった。目の前に筋骨隆々の男性が転がるという絵面は、それはそれで色々アレなものがあった。
「あ、あの……」
「こ、このヤロ――」
「……何やってんの、アンタら」
ばっと、僕も彼も声がした方を振り返る。ちょっと厚着をしたトーカさんが、ポケットに両手を入れて佇んでいた。
「トーカさん?」「アヤトの姉ちゃん?」
そして、その一言でお互い顔を見合わせる。アヤト? という誰かのことはわからないけど、ひょっとして知り合い……? 対する相手も、僕と似たような表情をしていた。
トーカさんは「ケンカなら余所でやれ、近所迷惑ってか見つかるだろ」と言って踵を返した。
「……ひょっとしてだけどお前、あんていくの新人、とかだったりするのか?」
「……は、はい。今は2階に住んでます」
「す、すまねぇ」
ばっと両手をついて、頭地して謝る彼に、僕は大丈夫だと言いながら頭を上げさせるのに四苦八苦した。
万丈数壱、というのが彼の名前らしかった。
翌日カネキさんに聞くと「良いヒトだけど、ちょっと真っ直ぐすぎるヒトかな」と笑いながら教えてくれた。僕のシフトは入ってなかったんだけど、まだお客もあまり居ない時間だったので、少し話させてもらった。
「今は四方さんに裏の仕事を教わったり、訓練してもらったりしてるよ」
「裏の仕事?」
「――死体調達よ」
からんからん、と扉が開かれ、向こうから私服のトーカさんが来た。……あれ? と少し頭を傾げる。こころなし昨日来ていた服より、色合いとかデザインとかがオシャレな感じになっているような、居ないような。
そして彼女の傍には、僕より年下そうな女の子が一緒に来ていた。
「お兄ちゃんおはよ!」
「おはよう、ヒナミちゃん」
ぱあ、と表情をほころばせて彼女はカネキさんの両手をとった。
そして彼女は、僕の方を見て少し不思議そうな顔をする。
「ヒナ。そいつはリオ。あんていくの新人」
「あ! はじめまして。笛口雛実です。……あの、よろしくお願いします」
「リオです、よろしく」
苗字が違うということは、知り合いの娘さんとか、なのかな? でもトーカさんが連れて来てるあたり、彼女もまた喰種なんだろう。
店の奥に彼女を見送った後、トーカさんはカネキさんに昨日の僕のことを聞いているようだ。……そしてバンジョーさんが毒づかれてた。
「まあまあ、トーカちゃん。
あ、そうそう。リオくん少し良いかな」
「え?」
「名前、決めないと」
何の名前の話か聞けば、どうやら僕のことらしい。人間に聞かれてストレートに「リオ」と名乗ると問題があるかもしれないから、そういう場合のための偽名を考えようということだった。
「昨日ちょっと考えたんだけど、織部倫太郎とかどうか――」
「却下」
「いきなりだね、トーカちゃん……」
「ダサい」
「ちょっと韻を踏んでるところがあって悪くないと思ったんだけど」
「ダサい」
「あ、あの、僕はそれでも全然――」
しばらくしてヒナミちゃんとトーカさんが店から出ると、カネキさんが表の掃除に向かう。
僕は、店内で古間さんと二人きりになった。カネキさんからもらった一杯を飲みながら、ちらりと彼の手元を見ると、何だか不思議なことをやっていた。三角形に切りそろえたパンの間に、卵やレタスを詰めてラッピングし、冷蔵庫の中に入れていく。
「気になるかい? リオくん」
「あ、はい……」
「これは、サンドウィッチさ。なんでもイギリスの伯爵だかが、トランプしながら片手で手軽に食べられるものをと所望したのが起源だとか言われているね」
「人間のお客さん用ですよね」
「そうそう。うーん……、もし予定がないなら、この後一緒に作らないかい? いずれ一人で出来るようになってもらわないとっていうのもあるからね。この”魔猿スペシャル”を伝授してあげよう」
首肯した後、常連らしい女性の(人間の)お客さんが来るまでの間、僕は古間さんからサンドウィッチの作り方を教わった。驚いたのは、作ったものの一つを飄々と食べて、味の感想を言って調整しはじめたところなどだ。僕が試しにと齧って吐きそうになったのに対して、彼はごく普通に――人間のように振舞う。
お客さんに出すんだから、味見くらい出来ないと。レシピ通りかどうかくらい分からないとね、と言う彼に、僕は言葉が出なかった。何ということもないように振舞っているけど、人間の食べ物をわざわざ味わって食べるのも、相当努力が必要なはずだ。
喰種も人間も関係ない。このヒトは、本気で喫茶店の仕事と向き合っているんだ。
「今日はもう無理みたいだけど、また後で一緒に練習しよう」
得意げに微笑む彼に、僕は頷いて。
掃除を終えて店内に入ってきたカネキさんが、それを少し眩しそうに見ていた。
古間「やあ、年内最後に僕の大活躍、見てもらえたかな? 新年早々だった君も年末年始で顔合わせをした君も、おめでとう、良い年末と新年を」