カフカの有名な小説に、青年が大きな毒虫になってしまう話がある。
僕はそれを小学校五年生の頃に読んだのだけれど……。
当時は、もし自分がそうなってしまったらどうしよう、くらいにしか考えてなかった気がする。
『――少女に臓器提供の意志はあったんですか? 遺族への確認は――』
『――彼女は見殺しですか!? 医者なら全力を――』
『――彼女は搬送された時点で死亡が確認されており、即死だったものと思われ――』
『――誤診の可能性は――』
『――まだ脳死状態だったかも――』
『――何にしても、自分の目の前の命を救うことが重要だったと、私の使命だと考え、今回の決断を――』
「……」
テレビで、僕を救ってくれた嘉納教授が、メディアに対して何事か言っていた。
内容は決まっていた。僕が生き残って、彼女が死んだ。その理由は何かということについて、考えれば自ずと知れた。
トイレの鏡の前で、服の前ボタンを外せば、僕の命を繋いだ傷跡。僕の命を奪い欠けた傷跡。
肝臓のあたりをぱっくりと切り裂いた、その痕。
――時間が経てば経つほど、あの日の出来事から現実感が薄れて行く。
リゼさんが「喰種」だったことも。
そして――僕の目の前に現れた、「仮面ライダー」。
「喰種」とはまた別な意味で、仮面ライダーも都市伝説だ。怪人を倒す超人。主にバイクに乗っていることが多いため、ついた通称がそれらしい。
むしろ現実的に何ら話もないので、こっちの方が都市伝説だ。
あのフクロウのような仮面。超人的な戦闘能力。
何より、リゼさんのそれと同系統の力を使っていた部分が、違和感こそあれど、嗚呼、これがライダーなのだという説得力を伴っていた。
「調子はどうだい? 金木君」
「……まぁ、普通です」
嘘だ。だが、余計なことを言えば危険なことを、僕は本能的に判断していた。
病人食を残している事に、診察している時の先生は不審がっていた。
しかし――受け付けないのだ。
魚は、嗅覚を劈くように生臭い。
味噌汁からはタールのような濁った機械油の匂いが漂う。
豆腐の食感は動物の脂肪を塗り固めたような感覚。
白米に至っては、口の中で糊でも捏ねてるような――。
総じて、不味い。
無理やり飲み込むことは出来る。たぶん消化とかもされてるんだろう。
でも、何日も繰り返してたらきっと発狂する。それくらい不味いのだ。
看護師さんも味は普通と言っていた。
つまり、異常なのは僕の味覚だけ。
――本当に味覚だけなのか?
その可能性に、少なからず襲われる僕。
大学に復帰してからも、食欲は減る一方。
ヒデが、体調の優れない僕を心配して、女の子が可愛いステーキハウスに誘ったりもした。
今日、僕はそれに招待される形。
嘉納先生の所から退院しても、治る気配が一向にない。
「「「「「いらっしゃいませー!」」」」」
ビッグハンバーグと目玉焼きハンバーグをオーダーしてから、ヒデは僕に苦笑いを浮かべる。
「お前んとこの医者、すげー叩かれてるよなぁ」
「未だにワイドショーで出てるからね……。本人または遺族の同意なしに移殖したのが問題視されてる。倫理的にとか、制度的にとか」
「でもその子……、家族誰も居なかったんだろ? しかもほとんど――あ、悪い」
ヒデには真実を伝えていない。彼女に襲われたこと、喰われそうになったことも。
現実味がなさすぎるし、何より今は忘れていたい。
ひょっとしたら、リゼという名前さえ偽名だったのかもしれない。
あの時、確かにリゼさんが好きになりかけていた僕だったけど。その姿が虚構だったろうことが、意外と僕は堪えていなかった。
ウェートレスさんが僕らの前を横切る。配膳するために盆を運んでいた。
――そして、そのミニスカートとニーソックスの間。
柔らかな人肌が露出している箇所を見て、不意に、僕は「ああ、うまそうだ」と思った。
「…………ッ!」
口元を拭う。涎が出ている。
今、何を考えた? 僕は。
「……おいカネキ、今俺の面白トークシカトしてたろ」
「あ……、ごめん」
「…………本当大丈夫か? いや、ガッツリ系に連れ出した俺も俺だけどよ」
お待たせ致しました、と目の前に配膳されるハンバーグ。
これを見ても、僕は、欠片も「美味そうだ」と思わない。……思えない。
水は飲める。それだけが現時点では僥倖と言うべきか。
唾を飲み込むその仕草は、むしろ食欲より忌避感から来るものだ。
「うめええええええええええ!」
ヒデは美味しそうに食べる。実際、ハンバーグは美味しいのだろう。
でも、僕はとてもじゃないが食べれない。
あれほど大好きだったハンバーグが、今じゃ単なる拷問道具だ。
食べてはいる。ヒデを心配させるから。
でもその味は、食べたこともないけど、豚の生きた消化器官を、外側から舐めているような――。
「……ごめん、半分で」
「あー、悪い悪い。……ちょっとずつでも食べろよ、カネキ。体力持たねーからな」
「うん、ありがとうヒデ」
結局、料金までヒデに奢ってもらう始末。立つ瀬がない。情けない。
「……何だって言うんだ、僕の体は」
本当は、気付いている。
気付いてはいるけど、目を背けたい自分がいる。
公園のベンチに背を預け、無為に現実から目を背ける。
ボール遊びをしていた小さい子が投げたボールが、それてこちらに当る。
それを拾って渡してあげた時、その子から漂う汗の香りに、理性が飛びそうになった。
あふれ出るその感覚は――文字通り、衝動的な食欲。
「……」
家でベッドに横になる。現実逃避する他に道がない。
『――高田ビル通りであった、”喰種”の捕食事件――』
『――ここで喰種専門家、小倉先生にお話を――』
画面に映るちょび髭のおじさん。彼が言うには、グールは短期間で大量に食事する必要がないらしい。
だからこそ、こんな「大食い」は性質が悪い。
そもそも、喰種は人間の食事で満足できない。人間以外から栄養を吸収することが出来ない。全くとは言わないが、相当に効率が悪いためだ。喰種特有のある酵素が原因であるらしい。
舌の作りからして、まず人間のそれとは大きく違う。食べるものが、凄まじく不味く感じるらしい。
「……」
一応、説明はつく。
僕に移殖された臓器は、リゼさんのものだ。だから彼女の臓器から、その酵素が体に回って、食事に対する感覚が変わってしまったのだ、と。
ただ、そうじゃないという気が僕はしていた。
色々なものを食べた。冷蔵庫にしまってあったカレー。りんご。冷凍食品。ファーストフード店で買って来たハンバーガーの残り。
どれを食べても、満足できない。
味が、とても受け付けない。
「……ッ」
それでも無理やり飲み込んで、流しこむのは現実を認めたくないからか。
――毒虫となってしまったザムザにとって、新鮮な食べ物は口に合わず、腐り掛けのチーズなどを好むようになったらしい。
だとするならば、僕にとってのチーズは――。
試すまでもない。嗚呼、試すまでもない。
今日一日のそれを振り返れば、自ずと答えは見えてくる。
「……」
それでもなお、何か合う食べ物はないかと考えて、僕は家を出る。
コンビニに向かう足取りは重い。つい先日、霧嶋さんを送ったりした道のりの途中。
路地裏ということもあって人通りは少ない。
そこを歩いていると、女の子が、中年に絡まれていた。
「ちょっと……ッ」
「そんな足出しちゃってさぁ……。いいから来いって、遊んでくれよぅ」
「離してって、これから家に帰る途中――あっ」
「……あれ、霧嶋さん?」
酔っ払いに腕を掴まれていたのは、霧嶋トーカさん。喫茶「あんていく」のアルバイトさんだ。
今日も帰りが遅い……。バイトか、はたまた友達と一緒に居たのか。
「助かった! ちょっと、カネキさん聞いて下さいよー」
ほっとした顔をした彼女は、掴まれていた手を払い近寄り、僕の左腕を「抱きしめて」くる。意図的に牽制をかけているのが丸分かりだけど、僕は、それどころじゃない。
可愛い女の子とくっついている、という理由からじゃない。
脳裏に涌いたのは――食欲。
ショートパンツから覗く柔らかそうな脚。手の甲をくすぐる脂肪の感触。
細い胴体と、その内側に詰まっている肉の臓器。腕に押し付けられる、案外大きな「肉」の感触。
それらが齎したものが異性に対する緊張などではないのが、酷く恐ろしく、「愉」しかった。
「何人が目をつけた娘と。……何? カレシ? こんな――」
「――ッ!」
そして、僕の視界は、半分が歪んだ。
「――な、何だその気持ち悪い目!?」
酔っ払いは、目の前で酷く動揺した。
「カネキさん……?」
目を見開く霧嶋さん。
その目に映った僕は――片方の目が、赤と、黒に染まっていた。
「あ……ッ、あ……」
僕の脳裏に、リゼさんが踊る。
笑い、嗤い、ただただ愉しそうに僕をいたぶり。
愛しそうに「食べよう」としていた彼女の姿が、その顔が、表情が――目が。
霧嶋さんの目に映った僕のそれに投射され、ダブり、思わず僕は彼女を突き飛ばした。
驚く霧嶋さん。そして、彼女の腕を引くおじさん。
「このバケモンが、そんな野郎より――ッ」
だが、酔っ払いさんの言葉は、それ以上続かなかった。
びゅん、という音と共に、彼の首が「握られる」。
「……アンタむかつく。何? 目の色が違っただけで『バケモノ』なの?」
「は……はぁ?」
「バケモノってのは、もっと『言葉』が通じない相手でしょ。……アンタみたいな」
ぎり、と彼女は歯軋りをして、掴んだ左手でおじさんを「持ち上げた」。
彼を睨む彼女の目は――黒目が赤くなった、真っ黒な瞳だった。
「ひ、ひぃィー―ッ」
どさり、と落とすと、彼の腹を蹴り上げる彼女。
その一撃の威力は、明らかに見た目通りの女の子のものではない。
「感謝しな。私が『違って』たら、アンタ命なかったわよ」
「あ――ああああああああああああ!!!!」
霧嶋さんの背中からは、赤と黒で彩られた、羽根が出現していた。
それは凄く綺麗で、彼女の瞳の色に合わせたもので。
制服の首筋のところから、煙のように漏れ出る、蝶のような、鳥のような翼。
目の前の光景に見蕩れる僕と、失禁しながら駆け出す酔っ払い。
アンモニアになる前の匂いに顔を顰めつつ、彼女は口元を手で覆った。
「クソ……。こんなんでも食欲出てくるから、”喰種”って面倒くさっ」
「……き、霧嶋さん」
肩に下げていたバッグから、彼女は何かを取り出す。
おつまみのジャーキーのようにも見えたそれを、彼女は加えて、噛み千切る。
それと同時に、背中のそれが霧消していった。
「……酷い顔してんじゃん。ほら、食べる?」
ほれ、と千切った残りのジャーキーを、僕に向ける彼女。
食べないの? ほーれほーれ、と目の前でゆらゆら動かす様がちょっとコミカル。
でも、そんなこと関係ない。
嗚呼。そうか。やっぱりか。
認めたくない。でも、認めざるを得ない。
時間が欲しい。この事実を受け止めるための――。
だけれど、現実っていうのは当たり前のように残酷で。
ただただ、言葉にして確認しなければならない。
「……カネキさん、だったっけ。何で食べないの。『禁断症状』出かかってるじゃん」
「……僕、は……、」
確認したくないことであったとしても。
「――僕は、”喰種”、なのか?」
「……は?」
その確認が、第三者に理解されないものだとしても。
気が付けば、手を伸ばそうとしている僕。
でも、それを心のどこかで拒否している僕。
目の前にある物体に対する「食欲」が、どんどん、僕の意識を塗りつぶそうとしている。
震える手に、霧嶋さんは不審げな表情を浮かべる。
「……あー、もうハッキリしろっての!」
「――ッ!」
口に押し付けられるそれを、僕は、噛み付こうとして。
でも同時に、僕の中の「境界線」が、それを許そうとしない。
間違いない。今、突きつけられているそれは「人肉」だ。
これを食べれば、おそらく今の僕の症状からは開放されるはずだ。
でも、それが出来れば、今僕はこうしていない。
リゼさんのトラウマと、人間的な倫理観と。
カフカのザムザ虫の末路とが脳裏を過ぎって、僕は、その場に倒れ混む。
「はぁ!?」という霧嶋さんの声も、うすらいだ意識で聞くばかり。
「最悪。……何、
「僕は……、人間、だから」
「あ?」
困惑するように言う彼女だけど、僕は、とてもそれを受け入れられない。
手足がしびれて言うことを効かなくなっても。
触覚が薄れて、涙が止まらなくても。
ぶつぶつと呟きながら、霧嶋さんは何処かへ電話をかける。
「いや、でも、ひょっとしてリゼの……? いや、でもそんなのって有り得る? 小説とか映画とかじゃあるまいし。……はい、店長。私です。えっと、この間店長が助けそこなった……、はい。何か、どうも”喰種”みたいな感じになってて……。はい。はい。……はぁ? いや、ちょっと、流石にそれは……。
――あああああああああ、わかりましたよ! 全く、給料お願いしますよ!」
しばらく会話すると、彼女は嫌そうな顔をしながら、残りのジャーキーを口に含み、もちゃもちゃと軽く咀嚼して。
「……ぜってー後でぶん殴るから、覚えとけよ」
「―ーッ!」
口を開くことを拒否する僕の顎を押さえて、無理やり下ろして、勢い良く唇を重ねた。
覆われた口から、咀嚼されて飲み込み易くなったそれが、僕の口内に落される。
何一つ甘いものはない。入れられた瞬間に口を放し、顎を閉じて吐き出すのを阻止された。
その状態で拒否しようともがく僕の理性と――受け入れようと言う本能。
この味を、何と例えよう。
この幸福感を、何と例えよう――。
食欲に理性が、完全に呑まれてしまいそうだ。全身にかけ廻る快楽は、まるで麻薬のようだ。体感したことのないその浮遊感。
確かにこれなら、高田ビルのような「大食い」が出てくることも、頷けるのかもしれない。
でも、これは――これは、あんまりだ。
こんなのって、あんまりじゃないか。
「うぇ……。ほら、飲め」
口を拭ってペットボトルの水を飲んでから、彼女はそれを僕に突き出す。
特に何も気にする様子がないのは、異性として見られていないのか、元から気にする性格ではないのか、あるいは気にするだけの余裕もないのか。
それでも、僕はそれを受け取り、口にする。
少しでも快感と、胸の奥に感じる不快感とを拭い去れないかと考えて。
そんなの、結局気休めでしかないのだろうけど。
「……来な」
「……来るって?」
「”店長”が呼んでる。……アンタに話があるからって」
それを受けても、僕は動けない。
どうしたって、今のショックから立ち直る気配がない。
蹲ったままの僕の髪を持ち上げ、彼女は顔を近づけて言う。
その目からは、強い意志が感じ取れた。
「状況は詳しく知らないし、カネキさ……、アンタのことなんて全然知らない。
でもアンタ、そのままで良いわけ? 放置しておいたら――理性飛んで、死にたくなるくらい苦しくなって、目先の
大事な相手だって食い散らかして、散らばった血と臓物の中で後悔するわけ?」
「――ッ!」
だがそれでも、霧嶋さんのその一言は、砕けた僕に活を入れるだけの効果はあったらしい。
反射的に立ち上がると、ニヤリと笑ってから「こっち」と言って、僕を先導する霧嶋さん。
「……」
何が起こるか分かりもしないし、彼女が何処へ連れて行こうとしてるのかもわからない。
でも、今、間違いなく彼女に付いて行かなきゃ後悔する。
それだけを直感的に理解して、僕は、霧嶋さんの数歩後を歩いていった。
恋愛描写・・・? かどうかはともかく、トーカちゃんは大好きです b
変身はもうちょっと先なんじゃ;