7月6日
「陽乃さん?」
「…………」
比企谷君の呼びかけにこたえるべく緩やかに規則正しく背中を上下させ、寝ているふりを継続させる。
カフェで休憩しだして、そろそろ3度目の呼びかけだった。
本日は、明日めでたくも誕生日を迎えるわたしの為に雪乃ちゃんたちがなにやら準備してくれているらしい。
ただ、雪乃ちゃん達は受験生でもあり、わたしは応援がてら家庭教師をしている。
とはいうものの、教える対象は比企谷君なんだけどね。あと、ガハマちゃんはなんだかいまだにわたしの事を警戒しちゃって、あまり近づいてはこない。
まっ、いいけどさ。
よって必然的にガハマちゃんの家庭教師は雪乃ちゃんとなる。普通に考えれば雪乃ちゃんも受験生なわけだけど、……問題ないか。雪乃ちゃんだし。
それに、これで受験に失敗したら、それはそれで面白いかもしれないし。
なぁんてことは絶対に言わないけどね。これは比企谷君との約束だっけ。
どうもわたしは以前の比企谷君並に捻くれた言動を雪乃ちゃんにしてしまう。
こんなにも妹を愛している姉なんて世界中探したっていないのに、失礼な奴らめ。
そんなわたしを見かねて比企谷君が提案したのが雪乃ちゃんを可愛がり過ぎない事だった。たしかにわたしの愛は深すぎるかもしれない。比企谷君曰く、普通の人間なら押しつぶされる重さだとか。
ほんとわたしに対して遠慮がない奴だ。もうっ、愛い奴め。
こうなったら雪乃ちゃんの代りに比企谷君を可愛がってあげる(きゃぴっ)って言ったら、あいつったら露骨に嫌な顔したっけ。
それがあまりにも可愛くて抱きしめてあげたら、顔を真っ赤にして抵抗できないでいたなぁ。いつもは大人っぽい態度をとるくせに、こういう所だけは純情なんだから。
とまあ、今回も比企谷君はわたしの生贄に……いや、人身御供に、虜囚に? 違うか……、人質、捕虜、囚われのお姫様? ……わたしのデート相手として勉強会を休講にする口実になっていた。
実際はサプライズの誕生日会でもなく、明日の準備をするのを邪魔されたくない為にわたしを雪乃ちゃんのマンションから遠ざけたというのが真相ではある。
そういうわけで今現在、本屋で比企谷君用の参考書をいくつか見繕った後に、わたしと比企谷君はカフェにて、わたしは居眠り、比企谷君は買ったばかりの参考書を眺めていた。
「陽乃、さん?」
ぐずるように頭を軽くゆらすと、さらりと前髪がおでこを撫でる。今回も前髪の隙間から薄目を開けて比企谷君を観察する。
じじじっとわたしを凝視する比企谷君は、いくらわたしの目を覗きこもうとしても前髪が邪魔して見えやしないだろうにしつこく覗きこむ。
あんまり見つめられちゃうと、お姉ちゃんとしてでもちょっとばかしこそばゆい。それに、見つめられているとわかると、わたしも目をそらせないじゃない。
あっ……、目があった。
けれど、わたしも比企谷君も視線をそらすどころか体も反応をみせはしなかった。
まあ、比企谷君はしばらくしてから前回同様困った顔をしてから再び参考書に目を落としたけど。
「……んぅ?」
ここで諦めちゃうの? もうちょっと遊んで欲しいなぁ……。
「そろそろ起きてください」
さすが比企谷君。
「…………」
「……ひゃいっ?」
比較的落ち着いた雰囲気の店内に、比企谷君の卑猥な?叫びが響き渡る。街にあふれまくっている某チェーン店とは違く、場所柄それなりに裕福な人たちが集まってくるこのカフェは、一瞬くらいなら騒いでも目をつぶってはくれる。
近くにいる老夫婦も気にした様子はないし、店員も一度目をこちらに向けただけだ。
その代わりといってはなんだが、比企谷君は店内全員分の好奇心を可愛らしい恨みに変換してわたしを睨みつけてきた。
「セクハラはよしてくれませんかね?」
相変わらず寝たふりをしているわたしは、パンプスを脱いで黒いストッキングのみになった足先を、つつつっっと比企谷君の足元から膝のあたりまで昇り詰める。
比企谷君はピクリと肩を揺らしわたしをもう一度睨みつけると、諦めに満ちたため息をつき、苦笑いを浮かべる。
「いい加減おきてください」
「ん~……そっか、寝ちゃったかな」
「そうですね」
「でも、わたしが選んであげた参考書読んでいたんでしょ?」
「ええ、まあそうです。だから暇ではなかったですよ」
「そ? で、使えそうな本だった?」
「陽乃さんが選んでくれた参考書ですし、最初からはずれだとは思っていませんよ」
「そう? 買い被りすぎじゃあないかな?」
「それはないです」
「そうかしら?」
「家庭教師をしてもらってるのですから、その辺はわかります。それに、俺の参考書を選ぶ為に何冊も読んで、書き込みしながら研究してくれているとか」
「雪乃ちゃんだな?」
「まあ、そうです」
悪い奴め。仕返しとして、雪乃ちゃんへの罰を比企谷君に実行してあげよう。
早速わたしは、今度は両足で比企谷君の脚を挟み込む。
これなら逃げられないでしょ? 観念しなさい。
「きゃっ」
予想外の反撃に、わたしは生娘らしい声をあげてしまう。
「大丈夫ですか?」
「もう、悪いと思っているんなら、その手、離してくれないかしら?」
「陽乃さんがセクハラまがいの事をしてくるから脚を掴んだまでです」
「そうかしら? もしかして脚フェチだったとかしない?」
「それはないですから安心してください」
「きゃっ……。いきなり脚を離さないで」
「すみません」
と、嘘でもたて前でもなく、本当にすまなそうに比企谷君は離しかけた脚を掴み直す。
「いきなり手を離したら、バランス崩して椅子から落ちちゃうでしょ。今でも両足掴まれて不安定なのに」
「それは陽乃さんのせいでは?」
「比企谷君のせいよ」
「はぁ……、それでいいです」
「白状したわね。今テーブルの下を覗いたら、短いスカートの中身、見ほうだいよ?」
「はぁ…………、右足から離しますけど、それでいいですか?」
「つまんなぁい」
「離しますよ?」
「はいはい」
「左足も離します」
「はぁ~い」
「で、参考書の話ですけど……」
切り替え早いわね。
でも、ちょっと顔が赤くなってるから、それで許してあげよっかな。
うん、雪乃ちゃんのお姉さんだしね。
「うん、それで?」
「雪ノ下から聞いたのですが、陽乃さん、俺がわかりやすいようにと参考書に結構な量の書き込みをしているとか」
「ええ、そうよ。比企谷君が苦手そうなところを重点的に書いているわ。一応比企谷君の家庭教師だし」
「それは大変ありがたい事なのですが、書き込みがあるとはいえ、俺が同じ参考書を買う必要があるんですか? できればその参考書を頂いた方が予習も復習もしやすい、かと」
「それだけ?」
ほら、目をそらさない。他に理由がありますって白状しているものよ。
「ほら、俺って庶民の出ですし、参考書代もばかにならないんですよ。それに同じ参考書が二冊もあっても無駄じゃないですか。お布施をするんならラノベ作家にすべきです」
「お布施云々は別にして、比企谷君にお金がないっていうのは理解しているわ。だって、このカフェに入るのも最初躊躇したものね」
「普段なら入っていましたよ。でも、参考書にかかるお金って馬鹿にならないじゃないですか。だから今日は財布の中身が真冬だったんですよ」
「だからか。わたしが奢ってあげるって言ってあげたら、ヒモの鏡みたいな顔をして店内に入っていったものね」
「そんな顔していません」
「してたわよ」
「養われる気はありますけど、寄生する気はありませんからっ」
「同じようなものじゃない……。じゃあ、わたしに養われてみる?」
「陽乃さんに?」
「ええ、わたし。こう見えてもけっこうどころか極上物件だとは思うわよ」
「それは否定しませんよ。…………でもほら、両親と同居ですよね?」
また目をそらしたか。……まっ、いいわ。
「同居だけど、両親とはほとんど顔をあわせないわよ。平日は二人とも夜中まで帰ってこないし、朝も早いわ。それに休日もいろいろと出ている事が多いわね。だから、基本的には誰もいないってところかしら」
「ということは、あの馬鹿でかい家にいつも陽乃さん一人ってことですか?」
「そういうことになるわね。でも昼間はハウスキーパーが家事をしているし、完全に一人ってわけではないわよ? …………なによ? 睨んじゃって」
「身内は誰もいないでしょって事ですよ」
わかってるわよ。優しすぎるんだから。ほんと、雪乃ちゃんにはもったいなすぎるわね。
「家族なんてそんなものよ。比企谷君の家もそんな感じでしょ?」
「両親はそうですけど、それでも休日は平日の睡眠時間を取り戻すべく寝ていますよ。それに平日は小町もいますし」
「わたしをかわいそうだと思っているの?」
「いえ、同情とか、そういう気持ではないですよ。ただ、雪ノ下ともっとうまくやれていたんじゃないかって思えて。もう少し早く和解できていたんじゃないかと」
「どうかしら? 時間が解決してくれるなんて甘っちょろい幻想は持ってはいないけど、時間をかけなければ解決できいないこともあるわ」
「……そうですね」
雪乃ちゃん思いで、こっちが妬けちゃうわ。
彼がわたしに特別な感情を抱いてはいないって、わかっている。よくて雪乃ちゃんの姉ね。
わたしから見ても、彼が雪乃ちゃんに特別な感情を抱いている事がよくわかる。それに、雪乃ちゃんのほうもまんざらでもないみたいだし。
ガハマちゃんも同じように彼の事を思ってはいるみたいだけど、ここは雪乃ちゃんリードってところかな。彼からは身贔屓だっていわれそうだけど。
まあね、わたしは彼が特別な感情を抱いている雪乃ちゃんの姉っていうポジションがなければ、こうして今日みたいに彼を連れ回すことなんてできやしないって理解しているわ。
「さてと、参考書だっけ?」
「はい」
「じゃあ、今度わたしの部屋にとりにきなさい」
「陽乃さんの部屋にですか?」
「ええ、そうよ」
「陽乃さんが持ってきてくれるものかと」
「参考書、欲しいのよね?」
「……はい」
「お願いする立場なら、取りに来るのが当然よね?」
「…………はい、今度お伺いします」
「よろしい」
うん、その苦味がある笑顔、最高ね。かわいくって、抱きしめたくなっちゃう。
赤いスポーツカーが千葉駅そばの駐車場から出て、幕張方面へと進んでいく。大きな国道に入り、いつものように道路工事が行われていた。
これでもだいぶ工事が進んだようで、いくつか完成した部分も見受けられる。しかし、こう何年も工事を続けられてしまうと、一生工事が続くとさえ思えてしまし、あながち冗談ではないとさえ思えてくる。
道だって使えば舗装が痛むし、何年も使っていれば再工事が必要になる。だから、当初の予定の工事が終わったとしても、今度は修繕の為の工事が必要になるわけよね。
まっ、わたしが心配する事ではないか。
赤いスポーツカーというとイタリアの某高級車を思い浮かべる人が多いけど、わたしのはアメリカのそこそこお高いスポーツカーである。これでも1000万を超えるから高級車にはかわりがないけど。
先日納車したばかりの車で、比企谷君をのせるのは今日が初めてでもある。今までは家にある世界売上首位を争う国産高級セダンだったわけだけど、こうしてわたし専用の車を手に入れたのにはわけがある。
わけといっても、わたしが初めて両親に我儘をいっただけだけど。
比企谷君は勘違いしているみたいだが、わたしは両親に忠実だ。こればっかりは雪乃ちゃんのほうが我儘だといっても過言ではない。
案外好き勝手生きているし、あの母にもはむかったりしてもいる。けどわたしは、一度もはむかったりしたことはなかった。
色々理由をつけてわたし好みに変更してもらう事はあるが、その変更も母の意向にそったものを逸脱しない。
わたしはいつだって母の言いなりだった。
「この車ってZ06ですよね?」
「意外ね。比企谷君って車は乗れれば何でもいいと思っていたわ。車好きなの?」
「別に嫌いではないですよ。ただ買う事が出来ない車を見たって意味がないと思っているだけです。俺が将来買えるとしても、そこらじゅうを走りまくっている大衆車が精々ですよ」
「なるほど。でも、そんなリアリストの比企谷君は、なんで買えもしないこの車の事を知っていたのかな?」
「この前家で勉強見てもらった時、カタログ見ていましたよね?」
「なるほど、盲点だったわ」
別に車を買ってもらえる事になって浮かれていたわけでもないんだけどな。ただ比企谷君が問題解いている間ちょっと暇だったから、鞄に入っていたカタログを見ていただけだし。
でも、比企谷君って人をよく観察しているわね。ほんと、侮れないくらいに。
「すみません」
「別に謝らなくてもいいわ。怒ってないし、隠してもいなかったわけだし」
「でも、今日いきなりこの車で来た時には驚きましたよ。俺の前に止まったし、最初平塚先生の車かと思いましたけど、でも色も車種も違うから戸惑いましたよ」
「ようやく納車して、早く比企谷君に見せびらかしてやろうと思ってね」
「庶民を虐めないでくださいよ」
「こうしてのせてあげているじゃない」
「たしかに」
「でしょ? ……静ちゃんの車もスポーツタイプだったわね」
「お二人ともこういうの趣味なんですか?」
「静ちゃんの理由のほぼ全てはそうかもしれないわね」
「ほぼ全てって事は、他の理由もあるわけですよね?」
「よく聞いているわね」
「ありがとうございます」
「誉めてはいないから。いや誉めているのかな?」
比企谷君と話をしていると楽しい。充実しているってわかるし、わたしを恐れたり、尊敬したりしない。雪乃ちゃんの姉として見てくれているだけど、それでも雪ノ下陽乃として見てくれていて、わたしを否定しない。
いつもニュートラルに、そして警戒心を忘れずに、わたしをしっかりと見てくれている。
「まあいっか。で、ね。静ちゃんのもう一つの理由っていうのが…………」
「笑ってないで前見て運転してくださいよ」
「ごめんごめん。……ほんっとごめん。安全運転だよね」
でも、いつのもように渋滞しているし、車動いてはいないんだけど、比企谷君をのせて事故になんてあわせたら雪乃ちゃんにいくら謝っても許してもらえなくなるから油断大敵かな。
「お願いしますよ」
「はいはい。……で、静ちゃんの理由っていうのはね、男にもてたいから、なのよ」
「はいっ?」
「いい顔しているわ。そういう顔を見たくて教えてあげたのよ。ほんと、教えたかいがあったわ」
「嫌な性格していますね」
「うん、誉め言葉ことして受け取っておくわ」
「それでいいですよ」
「こんな車乗っていても、もてやしないのにね。でも趣味でもあるわけだし、それでも、ほんのちょっとだけ下心もあるってわけ。あわよくばってかんじかしら?」
「たしかにかっこいいとは思いましたよ」
「まあそんなかんじよね。でも、それど止まりよね。……なんか趣味を通して男を車に連れ込もうと考えていたみたいよ」
「その発想はありませんでした」
「だよね。今までも男に車の話をして食いつきはしてきたみたいだけど、車に連れ込めたことはないみたいよ」
「でしょうね」
「たいていは静ちゃんが熱く車の事を語っちゃって、男がドン引きしちゃうみたいよ」
「想像したくないけど想像できてしまいます」
「運よく車に連れ込めたとしても、さらに運が良くて意気投合できたとしても、同じ趣味を持つ趣味友達っていうせんが精々かしらね。趣味友達が恋人に発展しないわけではないとは思うけど、静ちゃんのことだから無理そうね」
「ご愁傷様です」
「今度静ちゃんに会ったら、比企谷君がご愁傷様ですって言ってたって伝えておくね」
「やめてくださいっ。俺を殺すつもりですか? 俺が責任とって平塚先生と結婚しないといけないんですか?」
「そこまでは思ってはいないけど……」
「すみません。取り乱しました」
「いや……、いいのよ」
この子ったら、静ちゃんのことをどう見ているのかしら? 案外比企谷君と静ちゃんって趣味があうのかもしれないわね。
そうなると、趣味友達からの恋人……。あながち間違いではないのかな?
でも、そうなるとなぁ~。
わたしが静ちゃんの事を考えている間、助手席の比企谷君も静かであった。
本気で嫌がっているのかしら? というよりも、静ちゃん。生徒にも手を出そうとしているの? たしかに静ちゃんと仲がいい生徒っていうと比企谷君が一番最初に思い浮かぶし、実際静ちゃんと話をしていると話題に上がるのは比企谷君よね。……となると、静ちゃん、本気?
「あの……」
「なにかな?」
「陽乃さんも、平塚先生みたいにこういうタイプの車が趣味だったりするんですか?」
あら? お優しいこと。それとも、わたしったらちょっと顔をしかめでもしていたかな?
ん~、静ちゃんったらちょっとばかし結婚の話だけは本気すぎるのよね。最近笑い話にさえできないし。
まっ、いっか。静ちゃんが本当に比企谷君がお気に入りならば、あとは比企谷君に任せちゃえばいい事だしね。
「ん、わたし? ぜんっぜん車には興味はないわ。別にスポーツタイプの車に乗りたかったわけでもないし、げんに今まで乗っていたのは家にあったセダンよ」
「そうだったんですか?」
「あっ、そうか。わたしが運転しているところ見るの初めてだっけ?」
「ええ、まあ。いつもは運転手付きの車に乗って来ていましたから」
「たしかに出かけるときはのせていってもらうわね。でも、たまには気分転換したいじゃない? そういうときは家にある車を勝手にのさせてもらっているわ。それに、母がとりあえず買っただけの車を放置しておくのももったいないしね」
「どういう意味ですか?」
「えっと、24時間運転手がうちに待機してもらえるわけでもないでしょ? だからもし急用があった時には父が自分で運転して出かけられるようにと用意したのよ。でも実際そういう急用なんてないから、事実上わたしの車って事になっていたわね」
「まあ、準備をしておく事は間違ってはいませんよ」
「そうかしら? 乗りもしないのに、ただ高いだけの車をよ? 維持費もかかるし、買った時の費用だって馬鹿にならないわよ?」
「まあ、そうですけど」
「なにかしら? 何か不満があるっている顔をしているわよ?」
「気のせいです」
「だったら、わたしのこの車はなんだって言いたいのかしら?」
「人の心を勝手に読まないでください」
「読みやすい方が悪いのよ」
「そですか……」
あっ、拗ねちゃって。ちょっと傷ついたっていう顔しているわね。
そういう顔をしてくれるから可愛がってしまうのよね。雪乃ちゃんなんてわたしの顔さえまっすぐ見てくれなかったのに。表面ばっかり見ちゃって、ほんと…………。
「それで、どうしてこの車を買ったんですか?」
「打たれ強いわね」
「誰かさんのせいで鍛えられていますから」
「その人に感謝しておきなさい」
「…………」
「今、すっごく嫌そうな顔しなかった?」
「い、いえ。雪乃下によく腐っている目をしているって言われてもいますし、普通とは少々表情の表現方法がちがうといいますか、なんですか。個性ですっ」
「…………そういうことにしてあげるわ」
「ありがとうございます」
「さてと、この車を買った理由だっけ?」
「ええ。なんでこんなに派手な車を買ったか気になったので。……しかも車には興味ないんですよね?」
「うん、車には興味ないわ。移動手段だし、それなりに乗り心地が良ければ問題ないわね。でも、この車も乗り始めたらそれなりには愛着はあるわよ」
「でもそれって、この車を手に入れてからの理由であって、買う前の理由ではない、ですよね?」
「母への反抗かな……。こんなに派手な車。どう見ても母が嫌いそうでしょ?」
「でしょうね」
「比企谷君だったら、どんな車にする? ……あぁ、母が嫌いそうな車限定で。あと、実際母が買う許可をくれる車でお願いね」
「何度か会っただけですから、想像からの判断でもいいのでしたら」
「もちろんっ」
「でしたら、ブリウズですかね?」
「無難な車ね。別に母が嫌がるとは思えないのだけど? まあ、平凡な車ではあるか」
「平凡だからこそ選んだんですよ。なんたって見た目パッとしないザ・大衆車ですよ」
「なるほど。母のプライドが許さない、か」
「ええ、まあ。そんな感じです」
「だったら、母が買う許可をしてくれないのではないかしら? 一応この車を買う時も最初は却下されたわ。色々ごねて、ようやく買えたのよ。とりあえず価格面だけは満足してくれたから買えたけどね」
「いくらしたんですか?」
「聞きたい?」
「いや、やめておきます」
「そう言うと思ったわ。では、ブリウズを母が許可する理由を聞こうかな」
「たぶんブリウズは許可されないでしょうね」
「じゃあ、だめじゃない。わたしの設問聞いていたのかしら?」
意外ね。……比企谷君が設問の条件を忘れるだなんて。
ちょっと買い被りすぎだったのかしら?
「聞いていましたよ。……って、睨まないでください。というよりも、運転中ですので前を見ていてください」
「わかったわよ」
やっぱり比企谷君か。こうでなきゃいけないわ。だからこそ可愛いがっちゃうのよね。
「最初に無理な提案をして、あとに要求をのみやすい提案をするっていう常とう手段ですよ」
「なるほど。で、本命の車は?」
「ブリウズのワンランク下のアグアにします」
「それだったら、ますます駄目なんじゃないかしら?」
「いえ、アグアは一回り小さいですし、ちょこっと街中を運転するには使いやすいと思うんですよ。駐車場とかもいれやすいですよ。それに、陽乃さん達は普段は運転手付きの車をのっていますよね。だからこそ運転しやすい車にすべきです」
「なるほど。でも、それだけじゃ決め手に欠けるわね」
「だったら、運転が下手だってことも伝えますよ。普段運転していませんから、それほど運転がうまいとはいえないでしょうし」
「まあ、そうね……」
それってわたしの運転に不安があるってことかしら? 今も助手席にのってはくれているけど、ほんとうは乗りたくない、とか?
「陽乃さんの運転技術は疑っていませんよ。ほら……、今も快適にのさせてもらっていますし」
よく見ているわね。またわたしったら、しかめっ面だったのかしら?
「とってつけたようにフォローされても」
「すみません」
「まあ、いいわ。罰として、わたしの運転がうまくなるまで助手席にのってもらうわよ」
「だったらもう乗らなくてもいいですね。十分うまいですから」
「あっ、わたしが満足するレベルってことでお願いね」
「それって達成するんですか?」
「どうかしらね?」
「はぁ……、もういいです。先ほどの理由の続きですけど、車って高いじゃないですか。だから値段が安ければぶつけても諦めがつくかなと。もちろん他の人に迷惑をかけないという条件が前提ですが」
「その辺の条件は別にいいわよ。高級車であっても人にぶつけていいわけではないし」
「はい。……それと、高級車をぶつけると、車のへこみいじょうに精選的にへこみそうじゃないですか。庶民的感覚で悪いですけど」
「面白いわね」
「そうですか?」
「だって、父と同じ事を言っているわよ」
「はい?」
「だから、父の車ってアグアなのよ。めったに乗らないのに、プライベート用にって買ったの。その時の理由が今比企谷君が言った理由そのものなの」
「でもさっき緊急用の車があるって?」
「それは仕事用よ。いくらなんでも父ぐらいの立場の人間が、しかも急用のときにアグアってわけにはいかないでしょう?」
「たしかに……」
「だから、父がプライベートで乗るときはアグアなの。……これはもしかしたら比企谷君は笑っちゃうかもしれないけど、母は文句も言わずにニコニコしながらその車の助手席に乗っているわ」
「えっ……」
やっぱり絶句している。予想通りだけど、その顔が見たかったのよね。
「まっ、母も女って事だったのよ」
「そうですか」
「比企谷君が免許を取ったら、練習がてらこの車を使わせてあげるわね。色々な車に乗ったほうがいい勉強になるでしょうし」
「いやいやいやいや、無理ですって。心臓に悪すぎですよ、こんな高級車」
「そう? 別にぶつけてもいいわよ」
「辞退させていただきます」
「本当にぶつけても文句言わないわよ?」
「ぶつけるぶつけないじゃないんですよ。免許取りたての練習だったらなおさらです。父親に免許をとっても半年は大切な人をのせて運転するなって言われているんですよ。免許取りたてのペーペーが一番事故る可能性が高いっていうのに、それなのに大切な人を助手席に乗せるなんて無責任ですよ。だから俺は陽乃さんを半年はのせません」
あっ…………。
「俺、なんか変な事いいましたか?」
「ううん、別に何も言っていないわ」
「そうですか?」
わたしはもう何も言わずにまっすぐ前だけを見て運転を続ける。
しばらくは比企谷君をいじるのは無理ね。
……だってね。だって、大切な人って。
そっか、大切なのか。大切に思ってくれていたんだ。
「もうすぐつきますね。家まで送ってくださってありがとうございます」
ようやくわたしが冷静さを取り戻した頃、楽しいドライブも終わりを迎えようとしていた。
夏の潮風は木々に遮られ、車の上空を通りすぎてしまう。
夏を感じさせてくれるとものといえば、昼間太陽が残した残暑くらいだろうか。夜であっても車を降りればじわっとした空気が体にまとわりつき、不快感に襲われるだろう。
「どこか寄っていく?」
「別にいいですよ。今日は陽乃さんにとことん付き合う予定でしたから」
「嬉しい事を言ってくれるわね」
「誕生日プレゼントの一つだと思って下さればいいですよ」
「そう? じゃあ、朝まで付き合ってもらおうかしら」
「それがお望みなら」
あれ? ここで突っ込みが入るんじゃないの? うん? あっ、どうせ口ばっかりだって思っているのね。
「だったらこのままラブホ行く?」
「行きませんからっ」
あまりにもいつもの比企谷君の声とはかけ離れていて、わたしはびくりと体を硬直させてしまう。
今が信号待ちで助かった。こんなに怖々次の発言を気にするなんて、母を前にするときぐらいじゃないかしら。
……わたし、緊張してるんだ。でも、ラブホくらい、いつもの調子で聞き流してくれるんじゃないの?
けれど比企谷君は何も言ってきてくれはしない。助手席側の窓の方に顔を向け、興味もないのに遠くに見えるマンション街を眺めていた。
いつまでたっても心地よいはずだった二人の間の沈黙は訪れない。いつもだったら何もなくても楽しかったのに、今は時がたつほど沈黙がわたしを苦しめた。
そして、最初にこの沈黙に耐えきれなくなったのもわたしの方だった。
「比企谷君?」
あいかわらず面白くもないマンション街を見て、わたしの方には顔を向けてはくれない。でも、声だけは聞かせてくれるようであった。
「そんな冗談言わないでくださいよ。カフェでいつもみたいに寝たふりして、俺をからかってくる程度でしたらいいんですよ。一種のコミュニケーションですし、さっきみたいに脚でちょっかいかけてくるのも、……ちょっと過激でしたけど、いつものコミュニケーションだと思えます。……まあ、俺も嫌じゃないですから」
……そっか。寝たふりしているの気が付いていたんだ。それでもわたしが満足するまで、いつも相手してくれていたのね。
……そっか、そうなんだ。優しすぎるよ、比企谷君。
「今は夜なんですよ。しかも二人っきりの密室で。そりゃあラノベ大好きのラブコメ展開ならホテルっていう展開もありですよ。どうせホテル行ってもなにもないっていう落ちが待っているでしょうし。でも、俺の隣にいる人は雪ノ下陽乃なんですよ。俺の為に何冊も参考書を読みこんでふるいにかけて、使えるのだけを俺に紹介してくれる、あの陽乃さんなんです。しかも壊滅的な数学までも人並み以上にまで押し上げてくれた恩人なんですよ。そんな世話好きで、お人よしで、自分一人責任をしょいこんでしまうような我儘な人を、ほっとけるわけないじゃないですか」
「比企谷、くん?」
「そんな冗談言わないでください。脚をからませてきてセクハラまがいの行為をするのなら冗談でも済みますよ。いつもの辛辣な助言も受け止められますよ。でも、……でも今は違うじゃないですか」
彼は止まらない。止まれなかった。理性が彼を引き止めない。
剥き出しの本性が雪崩れてしまった。理性を普段抑え込んでいるからこそ一度決壊してしまえば、彼はそれを抑え込む手段を持ち合わせてはいなかった。
わたしは車の速度を減速させていくと車のウインカーをつけ、路肩に車を止めた。
「ごめんなさい」
「……えっ?」
「だから、その……、ごめんなさいって言ってるのよ」
「いや、その、それは聞こえています」
「じゃあ、聞き返さないでよ」
「すみません。……でも」
「さすがは比企谷君っていうお答えね。茶化しているわけではないのよ」
「わかっていますよ」
「ありがと……。ねえ、比企谷君?」
「なんでしょうか?」
わたしは冷房が付いているのに汗ばんだ手を冷たくなるほど握りしめ、彼の方を向く。
彼はわたしを見てくれていた。いつもみたいにわたしの事を見てくれていた。
彼はまだ、わたしを見捨てはしていなかった。
「冗談では言ってほしくなかったのよね?」
「ええ、まあ」
「だったら、そうね……。一緒にホテルに行ってください。そしてわたしを、比企谷君の彼女にしてください」
あっ、やっぱ比企谷君でも驚くわよね。
…………でも、わたしの方がもっと驚いているのよ、知ってる?
「本気、ですか?」
「本気よ。だって比企谷君。冗談で言ってほしくはなかったのよね?」
「そうですけど……、でも」
「でもも、冗談も、なにもないわ。ストレートにセックスしてって言ってるのっ」
きれちゃった……。
あまりにも恥ずかしい発言の連発で、さすがのわたしも駄目ね。
でもこれも、比企谷君が悪いのよ。わかっているのかしら?
「ストレートに言わないでください。こっちは多感なお年頃の高校生なんですよ。まじで抑え込んでいる欲望を解放するところですよ」
「だから、その欲望を解放してほしいっていってるだけよ?」
「そうかもしれないですけど、ちょっとどころかだいぶ論点がずれている気もしますけど、今は違いますと言わせてください」
なかなか陥落しないわね。さすがは比企谷君って誉めるべきかしら?
「だったらどう言えばいいのかしら?」
「それは、そのですね。ちょっと待っててください。今考えますから」
「そうねぇ、比企谷君の事だから、ホテルじゃなくてカフェで昼間の続きでもしましょうって言ってくるのかしら?」
「たしかにそれは問題ないっていいましたけど…………、いえ、なんでもありません」
わたしの中の怒りは時間と共にしぼんでいく。その一方で、しぼんだ怒り以上の恥ずかしさがわたしを襲い、煮え切れない彼に焦りを感じてしまっていた。
「どうせまたその場しのぎの出まかせをいってくるのよね? そういう人だものね。少しは進歩したって雪乃ちゃんが言っていたけど、やっぱり比企谷君は比企谷君のままね」
「すみません。……あの、その」
「ん?」
自分でもわかるくらいに不機嫌な声をしていたのだろう。
だって比企谷君の表情を見ていればわかるもの。
「さっきのセックスって、本気だったんですか?」
「本気に決まっているじゃない。わたしの処女をあげるって言ってるのに、どこかの馬鹿がいらないって言ってきたけどね」
「違いますって。陽乃さんの事だから、いつもの調子で俺をからかっているんだろうと」
わたしのせいだって言うの?
こんなにも恥ずかしい思いをして告白してあげたのに、それなのにこの仕打ちって。
「そう? だったらもう一度言ってあげましょうか?」
なにも言ってくれないのね。やっぱり雪乃ちゃん、か。
……仕方ないわね。だってわたしは、雪乃ちゃんの、お姉ちゃん、だもの。
………………でも、最後にもう一度だけ夢を見ても、いいよね?
「比企谷八幡くん。あなたのことが好きです。だからラブホテルに行きましょう」
「…………」
「これでいいかしら?」
ぴんっと張りつめた空気がわたしの頬を撫でる。
身震いが止まらなくなり、冷たくなっていた手も熱くなり、今すぐこの場から逃げ出したかった。
「比企谷君? せめて返事だけはくれないかしら?」
「あっ、はい。すみません。予想通り予想を大きく飛び越えた告白だったので、頭がフリーズしていました」
「それで、返事は?」
「すみません。俺は陽乃さんのご要望にはお応えできません」
「そう……」
返事を貰うと、自分でも信じられないくらい冷静さを取り戻していく。
全てがひんやりと凍りつき、夏の景色が白く染まっていった。
「そっか。悪いけど歩いて帰ってくれないかしら? ここからなら歩いて帰れるわよね。もう家まですぐだし、問題ないわよね?」
「陽乃さん?」
「ごめんなさい。ほんとうに悪いとは思っているのよ。今日も散々ひっぱりまわしたし。あっ、参考書が重たいのだったら、雪乃ちゃんに渡しておくから大丈夫よ。明日にでも貰ってね」
「陽乃、さん。……陽乃さんっ」
「もうっ、一人にしてよっ」
今すぐにも逃げ出したかった。比企谷君に、わたしが傷ついている姿を見せるのが辛かった。
いっそのこと、車をこのまま放置して逃げだ去りたかった。比企谷君の前から消え去りたかった。
でも、そんなことはできない。そんなことをすれば、比企谷君に迷惑をかけてしまう。
彼の事だから、この車をわたしの家まで運ぼうとするだろう。もしかしたら比企谷君の親にでも頼んで家まで運んでくれるかもしれない。
しかも、わたしが身勝手に車を放棄したのではなく、わたしの体調が悪くなったとか、わたしに責任が及ばないようにして。
だから私は逃げ出せない。
彼への想いが、わたしが逃げるのを押しとどめてしまう。
「あの、陽乃さん。せっかく晴れて恋人同士になったのに、どうして俺はここで車から降ろされてしまうのでしょうか?」
「は…い?」
わからなかった。比企谷君が何をいっているのかなんて、まったくわからなかった。
学校の勉強でわからないことなんてなかった。家でも母の言いたい事は、納得できなくても理解できた。
でも、彼は違う。比企谷君はいつもわたしの予想を裏切ってくれる。
「だから、陽乃さんが俺に告白してくれたじゃないですか。ちょっとストレートすぎでしたけど。でも、いくら捻くれていて普通とは違う俺であっても、せっかく恋人同士になったのなら、一緒にいたいです。……一緒にいさせてください。というか、ここで車を下ろされるのって、別れ話みたいじゃないですか」
「……比企谷君」
「はい」
「まずはその腐った目を正しなさい」
「すみません。これで正常です」
「じゃあ、背筋を伸ばす」
「はいっ」
「では、これから質問していくわね」
「わかりました」
「まず、比企谷君はわたしの彼氏になってくれるのよね?」
「はい、光栄にも」
「だとすれば、わたし雪ノ下陽乃は比企谷八幡と恋人になったのよね?」
「はい、そうですね」
「わかったわ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、この先にあるラブホテルでいいわよね?」
心が軽くなったわたしは、熱くほてる体を持て余すようにさっそくウインカーをあげ、車を発進する準備を進める。
わたしはシートベルトをつけているし、比企谷君はどうだったかしら?
せっかく恋人になれたのだし、シートベルトつけていないせいでいきなり未亡人はいやよね。
と、比企谷君の方を確認しようとすると、あわてふためいている比企谷君がそこにはいた。
「ちょっと待ってください。どうしてそうなるんですか? 告白してくれたんですよね? 愛の告白だったんですよね?」
「そうね」
「だったらどうしていきなりラブホなんですか。普通は告白のあとはデートじゃないんですか?」
「それは、男と女だからかしら? 太古の昔より人はセックスをして子供を作ってきたわけじゃない。いくらオブラードに包んだ表現をしようと、セックスはセックスよ。いつも涼しい顔をしているうちの母だって、いまだに喜んで父と……」
「やめてくださいっ。人んちの、しかも顔がすぐ浮かんでくる人の夜の営みを想像させないでくださいっ」
「わかったわよ。でも、うちの母って、外での顔と家での顔は全く違うのよ? 家といっても父に対してだけだけど」
「わかりましたから。わかってしまってどう記憶を消去しようか半年くらいうなされそうですけど、もういいですから」
「はいはい。じゃあさっき比企谷君がわたしの告白を拒否して、泣かせて、地獄の底にまで叩き落として、鬼畜で、サディストで、もし他の女に走ったらその女を刺殺してやりたいと思わせたのは、ホテルに行くのはまだ早いということのみを拒絶してというわけね?」
「ええ、まあ、色々と怖い発言のオンパレードでしたけど、おおむね最後のほうの言葉が俺の心情と一致します」
「でも、比企谷君も性欲はあるのよね?」
「そりゃあありますけど、でも初めての場所がラブホって味気ないじゃないですか」
「いかにも童貞臭が漂ってくる意見ね」
「悪いですか?」
「悪くはないわよ。わたしも冷静に考えてみれば、隣の部屋から聞きたくもない男女の卑猥な声なんて聞きながら処女を捧げたくはないもの」
そうね。神聖な夜だもの。いくら現実を冷めた目で見ている比企谷君でもロマンチストになるわよね。
「ねえ比企谷君」
「はい?」
「今の発言はくいつくところよね? 処女を告白したのよ。リアリストで、現実を悲観してる比企谷君が、実際には目にする事ができない綺麗なお姉さんの処女を目の前にしているのよ。比企谷君だったらよだれをたらしながらくいついてくるところよね?」
「なんだかひどい言われようだった気がしましたけど、処女に反応したら陽乃さんが照れるかなと思いまして、あえてスルーしておいただけですよ」
「じゃあ、うれしい? おもいっきり叫びたいほど嬉しい?」
「叫びはしませんけど、嬉しいと思います」
「思います?」
わたしのピクリと反応した眉に、彼は全力の謝罪を込めて訂正に走った。
「嬉しいです。すっごくうれしいです。叫びはしませんけど嬉しいです」
「ならよろしい。では、ラブホじゃなけれなOKってことね」
「え?」
今度こそ訂正なんてさせなかった。
だって気持ちを抑えられないんだもの。
スポーツタイプの車の性能をフルに発揮してホテルに直行…………はないか。
だってこれから幸せになるんだもの。安全運転よね。
わたしが彼を連れ込んだホテル、もとい、よだれが止まらないわね。なんだか静ちゃんの気持ちをちょっとだけ理解してしまった気がしたのは、大切なものを一つ失ってしまった気がするわね。
でもね、静ちゃん。わたしは幸せになるの。今度、今夜の事を詳細に自慢してあげるねっ。
わたしたちはアールデコ調で統一されたロビーを通り抜け、このホテルで一番上等の部屋へ早足で向かう。ちょっとばかしわたしが比企谷君の手をとって引きずるようになっていたことは見なかった事にしよう。
きっと彼、照れているのよね。
部屋の前までつくと、無言のまま部屋のドアを開け、寝室まで直行する。
寝室のドアを開けると、キングサイズのベッドがわたしたちを出迎え、これから起こるだろう事を思うとさすがのわたしも唾をのんだ。
「さあ比企谷君。いえ、八幡くん。八幡? やっぱり八幡ね。最高のシチュエーションを整えたわ。これで朝までわたしと一緒に盛り上がって、わたしをたくさん泣かせてちょうだい」
「いや、待ってくさいよ。まじて待って。お願いします。いやぁ~、襲いかからないでくださいって」
「だって、感情が抑えきれなくて」
「それででもです。お願いしますから」
「もういいじゃない。デートをして、告白して、そして最高の部屋を用意したわ」
「順番が違くないですか?」
「愛さえあれば些細な事よ。……もうこれで心おきなく「やれる」わよ」
「もう、いや……。ほら、そのですね。せっかくだから夜景とか見ませんか?」
比企谷君はわたしの腕をやんわりとほどいて逃げようとする。
でも、ここまですっごく大変だったのに、ここで離すわけないじゃない。
「さ、八幡。今夜は冷酷すぎる現実なんて忘れて、夢に溺れましょう」
「いや、それ。男の台詞ですよね? ね、陽乃さん……」
7月7日
人生で最高の誕生日の朝だった。
これから蒸し暑くなるであろう朝日も、すがすがしく思えてしまう。
寝室に満ちた甘ったるい空気も悪くはない。むしろ肺いっぱいに吸い込んで、記憶に残しておきたいほどね。
胸の中でもぞもぞ動く彼は、昨夜さんざんわたしの体を知り尽くしたというのに、今朝もわたしを求めて抱きしめてくる。
嬉しくないわけではない。ただ、恥ずかしいだけ。
今以上の、絶対に静ちゃんにも教えられないような事を昨夜させられてきたのに、今は羞恥心で自滅しそう……。
でも、わたしの本能が彼を求め、彼の臭いを体に染み込ませていく。
「八幡おはよう」
「おはようございます」
「これが朝チュンってやつかしら?」
「スズメはあまり高くまで飛ばないんじゃないですかね? ここの階だと無理だと思いますよ」
「そう現実的な返事をされてしまうと、意地悪な事をしたくなってしまうわね」
「もうしているじゃないですかっ」
「なにをかしら?」
「もういいです……」
まあわたしも、冷静に解説されると照れちゃうからやばいのよね。
ほんと余裕がない。いっぱいいっぱいね。あの雪ノ下陽乃があわてふためいてるって知ったら、みんなどう思うかしら。
「そんな意地悪を言う八幡には、ここのホテル代の半分、いえ理想の初夜を演出したわけだし、男の八幡が全額支払って下さるのでしょうね?」
「え? ここって陽乃さんが無理やり……なんでもありません」
「よろしい。まっ、いいわ。今回は貸しにしておくわ。八幡の事だから、今度何らかの形で返してくれるのでしょうし」
「そうして頂けると助かります。いつか必ず返します」
「そうね、期待しているわ。……でも、お返しではないけど、一言ほしいわね」
「あっ……、誕生日、おめでとうございます」
「それだけ?」
わたしの甘えた声を聞くと、八幡はこれ以上わたしに喋らせないように唇を覆った。
当然ながらわたしがフロントで支払いをすます。といっても、カードは父から貰ったものだから、わたしのお金ってわけでもないのよね。
八幡は一緒にいるのが恥ずかしいのか、逃げようとする。……逃がさなかったけどさ。実際二人して朝から腕を組んでいたら、いくらラブホテルじゃなくても昨夜なにがあったかなんて想像できるわね。
恥ずかしがっても離してあげないんだから。
「こちらが領収書とカードの明細になります」
「来年の予約はできるかしら?」
「可能でございます」
「そう……、だったら来年の7月6日。今日と同じ部屋を予約するわ」
「かしこまりました。2名様でよろしいでしょうか?」
「ええ、2名で」
「少々お待ち下さい。…………ご予約承りました」
「ありがとう。じゃあ、八幡行きましょうか」
「すみません。同じ部屋で、他の日の予約もしたいのですが」
「お日にちはいつになりますでしょうか?」
「八幡?」
八幡の突然の行動にわたしはついていけない。そもそも予約を取るのだったら、まずわたしに相談すべきよね。それなのに独断専行? いやではないけど……。
「来月の花火大会の日がいいのですが」
「少々お待ち下さい」
「八幡?」
「なんか、このホテルからも見えるそうですよ。だから、今回の借り。これでちゃらでいいですか?」
やるじゃない……。やっぱわたしが選んだ人ってことだけはあるわね。
お母さんがお父さんにいまだにのぼせあがっている気持ち、今ならわかるかな。
「2名様。今日と同じお部屋をご予約いたしました」
「ほんとですか? いや、一カ月前ですし、無理かなと思ってたんですよね」
「他のお部屋はわりと埋まっておりますが、こちらのタイプのお部屋ですと、まだ若干余裕があります。それでも直前となると御予約できる保証はありませんが」
「いや、来年からはもっと早く予約しますから大丈夫ですよ」
「来年もお待ちしております」
わたしは彼にからめる腕に力を加え、喜びを表現する。そして、彼もわたしの希望にこたえてくれる。
「行きましょうか。車の運転ができないので最後がきまりませんけど」
「今でもかっこよすぎるからちょうどいいわよ」
「誉めすぎですよ」
「そうかしら? だったら朝食まだだし、雪乃ちゃんのところで食べる? 車じゃなくても歩いて行けるわよ?」
ちょっと意地悪に、すっごく不安を抱えて、最愛なる彼に問いかける。
そして彼は…………。
「いいですよ。でも、ご両親への挨拶はいいんですか?」
終劇