そっちですかー!
「それじゃ、今日もビッグスプーンでバイ――お手伝いしに行ってくる」
「バイ――お手伝い頑張ってくださいね!」
「バイ――お手伝い行ってらっしゃい!」
「今日もバイ――お手伝いとか頑張るわねー」
「おう、バイト――じゃねぇ、お手伝い頑張れよ」
磯風は食堂で揃ってテレビを見ている大和、プリンツ、瑞鳳、天龍に声をかけると意気揚々と扉を開けて駆けて行った。
その背中を大和達はそれぞれ笑顔で見送った。
「磯風、ほとんど毎日店長のとこ行ってますね」
「今週のシフトは月曜から金曜まで毎日だとよ」
「シフトとか言わない」
「先週は月、水、金で行ってたし、このままだといずれ向こうに泊まり込みそうな勢いだねぇ」
「大丈夫ですかねぇ、無理してないといいんですけど……」
大和の心配そうな声に天龍が笑って答える。
「大丈夫だろ! 楽しそうじゃねぇか!」
「でも、今日とかは少し風強かったり天気も不安定らしいですし……あ、磯風傘持っていきましたっけ!?」
「お姉さま、お母さんみたいだね!」
「あ、今日午後からずっと雨ね。そんでもって深夜に台風直撃するみたいよ」
テレビを見ながら煎餅を齧る瑞鳳が唐突にそう呟いたのを聞いて大和が立ち上がった。
「私、ちょっと傘渡してきます!」
「大丈夫だって、お母さん」
「お母さんじゃないです!」
「お姉さま、過保護すぎない?」
「だって、磯風が風邪ひいちゃったらどうするんですか!」
「大丈夫よー、子供は風の子っていうじゃない。少し雨に濡れるくらいなんともないわよ」
「それ以前に私達艦娘だけどねぇ」
艦娘は基本的には体が丈夫なので滅多に風邪はひかない。
「ていうか妙に風強いと思ったら台風が近づいてんのか」
「意外と久々だよね! わくわくしてきた!」
「なんでわくわくしてんのよ」
「台風ですか……流石に明日は磯風をビッグスプーンにお手伝いは行かせられませんね」
「そうだな、お母さん」
「お母さんじゃないです!」
その後しばらく七丈島鎮守府内で大和をお母さん呼びするいじりが流行っていたという。
☆
「今日、午後から雨らしいけれど、磯風は傘とか持ってきたのかしら? あ、そこの胡椒の瓶取ってくれる?」
「これか? ああ、そういえば傘持ってきてないな」
「そう、じゃあ裏口のとこ刺さってる奴一本持ってっていいからそれ差して帰んなさい。はい、挽肉カレー中辛大盛二人前、四番テーブルに持ってってちょうだい」
「了解した! ありがとう、店長!」
「美海、三番テーブルの食器、下げてきて!」
「はーい!」
七丈島の港のすぐ近くに店を構える人気カレー専門店ビッグスプーン。今日も昼時はたくさんの客で賑わっており、美海と磯風も忙しく店内を駆け回っていた。
そして、お昼時が過ぎて店内の客もいなくなった頃。
「開いとるかいのー」
「げっ、やはり今日も来たか……」
店内に杖を突きながら入って来たのは小柄なお爺さん。その姿を見た磯風は酷く警戒するような声をあげた。
「あら、今日も来てくれたの? 最近は毎日顔出してくれて嬉しいわー、
「海原さん、こんにちは!」
「おう、店長に美海ちゃん、今日も来たぞい」
店長と美海は営業スマイルで老人を席へ案内するが、磯風だけは彼に対し、一定の距離を取っていた。
「ほら、磯風、あんたが注文とってきなさい!」
「ええ、美海が取った方が早いじゃないか……」
「回数積み重ねてくしかないのよ! 海原の爺さんは!」
店長に言われて渋々椅子に腰かける老人に歩み寄る磯風。そんな彼女を見て老人はカッと目を見開いて叫ぶ。
「誰じゃ君は!?」
「磯風だ! もう何度目だ、このやり取り!」
磯風がうんざりした口調で叫ぶ。
この海原という老人、実は磯風がこのバイ――お手伝いを始めた頃から昼時を外れた時間を見計らったかのようにやってくる常連さんなのだが、かなりボケており、もう数十回は顔を合わせた磯風のことを未だに従業員として覚えられていない状態である。
「初めて見るんじゃが!」
「もう三十回は顔合わせたぞ!」
「嘘じゃろ!」
「本当だよ! まぁ、いい! それよりご注文はお決まりですか!」
「何の?」
「カレーだろ、どう考えても!」
「カレーか! ちょい待て」
「…………」
「…………」
「…………ん? 誰じゃ君は!?」
「磯風だって言ってるだろうが!」
以下、無限ループである。
こんなやり取りを、顔を合わせるたびに繰り返しているうちに磯風の中でこの老人に対して苦手意識のようなものが芽生えてしまっているのである。
磯風と彼のいつも通りのやり取りを見て美海と店長は苦笑を浮かべている。
「それで、そろそろ注文を言ってもらえないか……」
メニュー表を睨んでいる老人に磯風は疲れた様子で注文を催促する。そこに最早普段の接客の心得は欠片も見えない。
老人はメニュー表から顔を上げるとゆっくりと口を開いた。
「磯谷」
「磯風だ」
「ここ、メニューは何あるんじゃ?」
「手に持ってるメニュー表を見ろッ!」
「じゃあ、きつねうどん」
「ないッ!」
「なんでじゃ!?」
「ウチはカレー屋だからだよ!」
「ところで、誰じゃ君は!?」
「磯風なんだよ!」
この後、牛煮込みカレー甘口並盛という注文を彼の口から引き出すまでに十分弱かかった。
「んまい!」
「良かったな……」
「磯風ちゃん、お疲れ様。はい、お水」
「ありがとう、美海……凄い疲れた」
美海から渡されたコップを受け取ると中の水を一気に飲み干して大きくため息を吐いた。
「まぁ、海原の爺さんは本当に積み重ねよ。アタシだって覚えてもらうのに半年はかかったもの」
「私も海原さんがここの常連になってから三か月間来るたびにお話ししてやっと覚えてもらえたからね……そう、落ち込まないで、磯風ちゃん!」
「もう、私は疲れたよ……」
「ご馳走さん! うまかったぞい!」
「ほら、磯風、食器下げてきなさいな」
「うう……」
嫌な予感を感じながらも磯風は老人の座るテーブルに歩いていく。
「海原さん、食器、お下げしてもよろしいですか?」
「誰じゃ君は!?」
「そう来ると思ったよ! 磯風だ!」
「磯谷!」
「もう違う!」
「注文したやつまだか!?」
「今食べたじゃないか!?」
「きつねうどん!」
「だから、ないんだよ!」
「誰じゃ君は!?」
「うわああああああ!」
この時ばかりは流石の磯風も取り乱しが激しい。
「――麦茶、んまい!」
「あら、ありがと。でもそれ番茶なんだけど」
この時間は客も来ないからと店長の提案で昼休憩に入った。私達はテーブルの一つを借りてまかないのカレーを食べることにした。
海原のお爺さんはカレーを食べ終わっても帰る気配がないので店長が茶を淹れたのを美味しそうに飲んでいる。だが、感想を聞く限り味がわかっているかどうかは非常に怪しい。
「そういえば、海原の爺さんはまだあの海沿いの家住んでるの?」
「ん? そうじゃ」
「いい加減、引っ越しなさいな。あそこ津波とか危ないでしょ」
「断る!」
「役場の人達困ってるってぼやいてたわよ」
「知らん!」
「でも、あんな町からも遠いところ不便でしょ? 海原の爺さんはもう若くないんだから、何かあった時に周りに助けてもらえる方がいいじゃないの」
「別に助けなんていらん! 体だってどこも悪くないぞい!」
「頭には大分ガタがきてるがな」
「磯風ちゃん!」
店長の引っ越しの提案に磯風が横から毒づく。
「とにかく、今日の夜にも台風が来るって言うじゃない? 今日と明日だけでも別のとこで過ごしましょう? 役場の人が町営住宅すぐ貸せるって――――」
「うっさいわい! 儂は絶対にあの家は離れん!」
ついに怒って海原の爺さんは席を立った。
テーブルに財布から抜き出した千円札を置くとそのまま何も言わず店を出て行ってしまった。
「……追って来る」
「磯風ちゃん!」
「美海。いいのよ、行かせてやんなさい」
☆
「海原さん!」
「ん?」
店を出てすぐに杖をついて歩く老人の背中を見つけると、彼の名前を呼んで磯風は駆け寄った。
「誰じゃ君は!?」
「磯風!」
「なんて!?」
「磯風だ!」
「誰じゃ君は!?」
「くそが!」
感情を爆発させる磯風に老人は向き直って尋ねた。
「それで、何の用じゃ」
「あなたに言いたいことがあってな」
「なんじゃ、儂は何と言われようとあの家から――――」
「お釣りだッ!」
「ああ、そっちかい。忘れとった」
拍子抜けしたような反応を見せてから老人は磯風の手から小銭を受け取り、財布にしまう。
「それじゃ、帰るぞい」
「いや、待て。あなた一人じゃ心配だ。家まで送っていこう」
「なんじゃと、儂がボケてるとでも言うのか!?」
「ボケてるだろ!?」
こうして曇り空の下、少女と老人はゆっくりと歩き始めた。
「磯辺」
「磯風だ」
「お前は儂に引っ越せとは言わんのじゃな」
「正直、できれば台風の時くらいはどこかに避難して欲しいんだがな」
そう言ってから、磯風は老人の方に視線を向けた。
「何かあるんだろう? あの家を離れたくない理由が」
「そうじゃ、磯野」
「磯風だ」
「あれは、今から二十年は前の話になるかのう。その頃はこの七丈島にも鎮守府があったんじゃ」
「今もあるが」
「嘘じゃろ?」
「本当に知らないのかボケてるのかどっちだ」
「見えるかの、あの七丈小島ってとこに鎮守府があったんじゃ」
老人が指さす先には現在、瑞鳳と妖精さんで運営されている七丈小島が見える。そういえば、確かあそこの建物は旧七丈島鎮守府を改築したものだったと磯風は今更になって思い出した。
「その時、儂は一度だけじゃが、偶然艦娘を見た」
「ほう」
旧七丈島鎮守府ではあまり出撃はしていなかったのだろうかと磯風は一瞬疑問を浮かべたが、よく考えれば七丈島小島の方から出撃しているならわざわざ七丈島の方へ近づく機会などなかったのだろうとすぐに納得した。
「美しかった。あの時、海の上を縦横無尽に駆ける彼女らの姿は、儂には本当に女神様か何かのように見えた」
「…………」
「それ以来、もう一度だけ海を駆ける艦娘の姿を見てみたいと海沿いに家を建てたんじゃ」
「見えたのか?」
「いや、金を貯めて家を建てた頃にはもう鎮守府自体がなくなっておった。なんか、このあたりはあれじゃろ? どっかの強い艦隊が敵を全滅させたとかで、滅多に敵が来ないんで必要なくなったんじゃろ?」
おそらく横須賀鎮守府の話をしているのだろうと磯風は瞬時に察した。
ここはそういう平和な地域だから。だからこそ、磯風達のような罪艦が遠島させられる地として機能しているのだ。
「だから、儂があの家に住む頃にはもう、艦娘もいなくなっておった。ほれ、ここが儂の家じゃ」
「……本当に海沿いギリギリだな」
海原のお爺さんの家は店長が言っていた通り大分町外れの方の一本道の行き止まりに建っている日本家屋で、杖つきの彼が生活するにはあまりに不便な僻地と言わざるを得ない。
一番近場の飲食店であるビッグスプーンまで歩いてくるのにも随分苦労しただろう。
何よりも、海沿いギリギリすぎて、この位置では堤防があるとはいえ、少し大きな津波がくればすぐに浸水してしまうことは明らかだ。
確かに、これは役場の人や店長が引っ越しを促すのも頷ける。
「あがってくか?」
「いいのか? じゃあ、お邪魔します」
「誰じゃ君は!?」
「このタイミングで!?」
その後も何度かボケていたものの、海原のお爺さんは磯風を一階の縁側に連れて行った。
「凄い……!」
縁側から外を見て、磯風は思わず息を飲んだ。
そこから見えたのは視界一杯の海。その迫力たるは、まるで一瞬自分が艤装をつけて海に立っているのではないかと磯風が錯覚しかけるほどであった。
波音と潮風をすぐ近くで感じるほど海沿いに迫ったこの日本家屋だからこそ見ることができる景色。
「ここからな、艦娘を眺めようって思ってたんじゃ」
「ああ、ここからなら、良く見えるだろうな」
「偶然でもいいから、見えたりせんかなと長年ずっと狙ってるわけじゃ」
「それが、ここを離れない理由か」
「もしかしたら、それは明日かもしれん。ならば、儂は何が起ころうとここで海を見続けなけりゃならん」
磯風に、この老人にもっと島の内側の安全な場所へ引っ越せとはとても言えなかった。
「ま、そもそも今この島に艦娘、おらんがな!」
「いや、いるぞ」
「嘘じゃろ?」
「ていうか私だ」
「誰じゃ君は!?」
「磯風だよ!」
「磯兵衛!?」
「磯風だッ! それ聞き間違いってレベル超えてるからな!?」
そこまで聞くと、海原は笑い始めて磯風の頭を撫でた。
「まぁ、儂を元気づかせようとしてくれたのは嬉しいがな! 流石にそれくらいの嘘がわからんほど儂もボケてないぞ?」
「いや、本当だ! あとあなたは間違いなくボケてる!」
「む、もうこんな時間か。そろそろ帰れ。これだけ長居してたら店長も心配しておろう」
「……わかったよ。海原さん、明日は危険を感じたならすぐに家を離れてなるべく高いところに避難してくれ」
「わかっとる。これまでも同じようなことは何度かあったんじゃ。大丈夫じゃて」
結局、磯風はそのまま海原の家を後にし、ビッグスプーンに帰った。
☆
「へぇ、海原の爺さん、そんなロマンチックな理由であんなところ住んでたのね」
「素敵だね!」
ビッグスプーンに帰ってから事のいきさつを話すと店長と美海は納得がいったように頷いていたが、店長の方はすぐに顔を曇らせた。
「でも、それとこれとは話が別なのよねぇ。危険なことには変わりない」
「だが、私にはあの人を説得させる言葉は浮かばなかった」
「ん? 磯風ちゃん今から艤装つけて海原さんのところ行けばいいんじゃない?」
美海の提案に磯風は苦笑いを浮かべた。
「まぁ、それができればいいんだがな」
「できないの?」
「あのね、美海。この子達はちょっと特殊な事情を持ってる艦娘で、よっぽどの事情がない限りは艤装を付けることは許されてないのよ」
「なんで知ってるんだ、店長」
「おたくの提督、酒入ると口軽くなる癖直した方がいいわよ」
一応機密扱いの情報が一般人に流出しているという事実に流石に磯風の表情も凍った。あるいは矢矧なら気を失っていたかもしれない。
「で、でも……」
「すまない美海……私達の艤装は装着した時点で大本営にも知らせが入るようになっている。その場合、責任を取るのは提督なんだ。私は提督には極力迷惑をかけたくない」
「爺さん一人喜ばせるためなんて理由は当然通らないでしょうね。仕方ないわ、いつでも救助向かう準備だけ整えて、後は何事もないよう祈るくらいしかないわね!」
そして、その夜。台風がこの島を直撃した。
磯風とボケ老人回
本当は1話で終わらす予定だったんですけどなんか長くなったので2話構成にしました。
続きはなるはやであげます!