戦艦レ級、泊地強襲
「――――あ、ああ……」
海面に倒れた大和を中心に周りの海水に赤が混じっている。
少しずつ、しかし確実に沈んでいく大和の体を私は急いで引き上げ、彼女の艤装を全て外して海に捨てる。
「大和! 大和! しっかりしなさい!」
「――――あ……矢……矧」
「――っ! 意識が!」
まだ意識がある。まだ助かるかもしれない。
「なんで! なんで、そんな状態で!」
「……旗艦……守らなくちゃって…………」
大和の腹部からあふれ出す血が、いつまでも止まらない。
あまりに傷が深すぎる。
「あなたが死んだら意味ないでしょ!?」
「ああ……そっかぁ……そう、でした……ね」
「そうでしたね、じゃないわよ……!」
「あ、はは……すみません……私、バカなので……」
薄っすらと笑う大和の体から体温が、生気が、抜けていく。
傷口を抑える私の手から、流れ落ちていく。
「矢矧……お願いがあります」
「喋らないで!」
薄く朦朧とした目を開けて、大和が私の手を掴む。目の焦点が合っていないことからもう視力すら失っているのだろう。
しかし、それでも彼女の眼には強い力が宿っているように思えた。それがまるで最後の力を振り絞っているようで私はとても直視できない。
「矢矧……後は、頼みます……」
「いやよ」
「泊地と、提督を……どうか……」
「いやよッ!」
「矢矧……生きて……」
不意に、大和の手から力が抜け、海面に滑り落ちた。
大和の体の重みが急に増し、ゆっくりと海底に引っ張られていくかのように沈んでいく。
「ぐ……急に、重くッ!」
艦娘の殉職者の墓の中は空だと聞いたことがある。遺体がないからだ。
海上で戦死した艦娘のその遺体は海の底に沈み、二度と陸に還ることはない。それが『轟沈』と呼ばれる艦娘の死の形であり、逆らえぬ理。
だから、これには抗いようがない。私は知っていた。
「大和……!」
体を膝の辺りまで一緒に引きずり込まれながら、私の手はそれでも大和の体を決して離そうとはしなかった。無駄だとわかっているその行為を、私は全身全霊で続けた。
「ヒヒッ!」
聞こえてきたのは甲高い笑い声だった。
ゆっくりと声の方に顔を上げると、今まで私達の様子をただ傍観していたらしいレ級が悠長にしゃがんで頬杖を突きながら笑っていたのだ。
意外だった。今まで表情に笑みが見えることは多々あったが、レ級自身が声を発したことなど一度も聞いたことがなかったのだから。
レ級はゆっくりとその砲塔を今度は私に向ける。
私が逃げれば大和の体は海に沈み、二度と還ってこない。私は足を動かそうとはせず、ただ、大和の体を引き上げることに集中していた。
夢中になっていた。まだ大和は死んでいない、大和の体を引き寄せることでそんな夢の中に私は居座ろうとしていたのだ。
「――危ないッ!」
また、横から強い衝撃が私の体を揺らした。
「あ……!」
今度は突き飛ばされたのではなく、強引に引っ張られたのだ。その拍子に私は大和の体を手放してしまう。海の底へと離れていく大和の体に手を伸ばしたその直後、目の前を大きな水柱が遮った。
「あ…………」
水柱と共に大和の姿は消えた。
「しっかりしてください、矢矧さん! 死にたいんですか!?」
「霧島……?」
自分の襟首を引っ張って全速力で海を駆けているのは霧島であった。
「離して……大和が――――ぐっ!?」
僅かな抵抗を見せる私に霧島は襟首を引き寄せ、私の顔に左拳を入れた。脳が揺れ、一瞬視界が歪む。口の中を切ったのか、ひりつくような痛みがこみ上げてくる。
「しっかりしなさいッ、矢矧! あなたは、第一艦隊旗艦でしょう! 仲間を守れるのは、もうあなただけなんです! 情けないですけれど……あなただけが頼りなんです! だからどうか、指揮を執ってください! 大和さんの犠牲を無駄にしないでください!」
「…………!」
霧島の拳と言葉で、拳の痛みと心の痛みで、ようやく私は我に返った。
「ごめんなさい…………」
私は一言そう呟いた。この間もレ級の容赦のない砲撃は続いており、いつ私も霧島も轟沈するか予断を許さぬ状況である。
しかし、私はいやに落ち着いていた。大和の死、それを認識した時、私の中の何かが切れた。
「霧島、手を離して。私は逆方向に逃げて隙を作る。あなたはそのままレ級の攻撃を耐え抜いて、合図を出したら残りの全火力をレ級に叩き込んで」
「――! はい、了解です!」
霧島が返事と共に襟首を掴む手を離すと同時に、私は全速力で霧島とは逆方向に走り始める。
幸い、燃料はまだ十分にある。逆行する私にいぶかしげな視線を送るレ級と睨み合い、私は戦闘を再開した。
「翔鶴、聞こえる?」
「は、はい! なんとか大丈夫です、戦えます!」
無線機越しに翔鶴の返事が返ってきた。声色は大分辛そうだが、彼女も歴戦の古兵。戦えると一度言ったならば、意地でも戦ってみせるだろう。
私は遠慮なく彼女に指示を出した。
「すぐに艦載機を発艦。霧島の援護と、私に向けて放たれるであろうレ級の艦載機を奇襲して撃墜して頂戴」
「はい、お任せください!」
すぐさま翔鶴が艦戦を発艦する。
同時に、私の動きに業を煮やしたレ級は予想通り私に向けて艦載機を飛ばしてきた。
現在、レ級の主砲は霧島を終始狙い続けている。そこに私が加われば、レ級は手数を増やして対応するしかない。艦載機を発艦してくるのは火を見るより明らかである。
あとは、発艦のタイミングで艦戦が敵艦載機を奇襲する形で撃ち落としてくれればいい。ましてや相手側は発艦直後の不安定な状態の艦載機、まず相手にならないだろう。
「ガッ!?」
「――! 敵艦載機、全機撃破です!」
「流石ね。霧島の援護も引き続き頼むわ」
発艦した艦載機が突如後ろから飛んできた艦載機に全機撃墜され、レ級の表情に大きな動揺が浮かんだ。
この機を逃すつもりはない。
私は全速力でレ級の懐めがけて突撃した。
「な!? 無茶です、矢矧さん!」
霧島の悲鳴のような声が聞こえてくるが、私は速度を落とさない。
次にレ級がとる手段はわかりきっている。どうせ、魚雷の滅多打ちだろう。
「ガァ!」
獣のような咆哮と共に、予想通りレ級の足元から魚雷が発射される。しかし、その数は想定外だった。
「ちっ、十二本か。思ったより多かったわね」
私の逃げ場を塞ぐかのように扇状に放たれた魚雷の射線を見て、今更どう避けようが一発は直撃せざるを得ない事実を確認する。
焦ることはない。ならば、一発耐えればいいだけだ。
私は魚雷の一本に突っ込むかの如く、さらに速度を上げた。
「矢矧さん!」
迎撃用の魚雷もださなかった。私に残された唯一の武装である魚雷一本。私はそれを発射管から取り外して右手に持った。
これを使うのは今ではない。そして――――
「ダメ! 耐えきれる筈がないわ!」
「矢矧さん!」
――私が死ぬ時も、今じゃない。
「――っああああああああああッ!」
魚雷直撃。艤装は大破し、服は破け、全身から出血し、意識は朦朧。その中で、私は自分を鼓舞するかのように雄たけびを上げてレ級に怯むことなく突撃した。
全身血まみれで指でつつけば倒れてしまう程の重症、あらかたの武装は使用できず、気力だけで立っているだけの敵にすらなりえない存在。
そんな私に目の前に立たれただけで、レ級の表情には恐怖の色が濃く浮かんでいた。
「そんな顔もできるのね……あなた達……」
「ガアアッ!」
レ級が息を荒くして私に主砲を向けようとする。
酷く滑稽だった。この互いの息遣いすら聞こえる間合いで主砲を撃てる筈もないのに。
「駄目よ」
私はこの程度では沈めない。
「私を沈めたいのなら、魚雷五、六本くらい撃ち込まないと……駄目よ!」
右手に持っていた最後の魚雷。それを私はレ級の顔面に叩きつけた。
「ギャアアアアアアアアアアッ!?」
レ級の顔面で大きな爆発が起こり、レ級は身をよじりながら両手で顔を押さえて悲鳴を上げる。
「今よッ! 霧島!」
「距離、速度、良し! 全門斉射ああああああっ!」
☆
「――以上が、作戦報告よ」
私は書類の束を目の前の机に置き、それまでの戦闘の経緯を全て提督に報告し終えた。いわゆる、事後報告というやつである。
あの凄惨な戦いからもう、一週間が過ぎた。
私を含む第一艦隊の生き残りは治療を受けてからほとんど休みもせず、泊地の復興作業に入ることになった。私達以上に重傷を負った者が多すぎた。
幸い、近くの泊地や鎮守府から多くの助っ人が駆けつけて来てくれたので、作業は順調に進んでいる。私達の泊地は取り敢えずの落ち着きを取り戻しつつあった。
提督は椅子に座って挙動不審に私と書類を交互に見ている。平静を装ったつもりなのだろうが、その手は小刻みに震え、貧乏ゆすりは机越しからでもわかるくらい激しい。
「あ、ああ、ご苦労だった、矢矧…………それで、レ級は、し、沈めたのか?」
「……いいえ、残念ながら、あと一歩及びませんでした」
霧島の全火力をぶつけた砲撃。それでもレ級は辛うじて生き残っていた。満身創痍のレ級が狂ったように悲鳴をあげて逃げていく様を燃料も弾薬も尽きて何もできなくなった私達はただ見ていることしかできなかった。
私の手はいつの間にか握り拳を作っていた。
「……提督」
「ひっ」
レ級を仕留め損ねた。その言葉に目の前の提督は異常に怯えている様子であった。私は大きくため息をつく。
戦闘後、提督が発見されたのは執務室であった。無様にも部屋の隅で体を縮こませて震えていたらしい。レ級に泊地が蹂躙されゆく様を見て強いトラウマを植え付けられてしまったのだろう。最早、以前の彼の面影など欠片も残ってはいなかった。
いや、これがこの男の本来の姿なのかもしれない。
「や、矢矧……お前は、残ってくれるんだよな?」
「…………」
提督のように心に深い傷を負ってしまった者は生き残った艦娘にも多かった。あの時の惨状がフラッシュバックされては暴れだし、鎮静剤で落ち着かせる。泊地内の病棟は一日中その作業の繰り返しである。そして、精神は壊れなかった艦娘達も、網膜に焼き付いて離れない恐怖と絶望の情景に多くが解体願を出願してきた。
轟沈、戦闘不能、戦意喪失。あまりに多くの艦娘達がこの泊地から消えた。
私は提督の言葉に冷ややかな視線で返した。
「た、頼む! 残って、傍にいてくれ! そうでないと……不安に押しつぶされそうになるんだ……気が狂いそうなんだ……一人は嫌だ、置いていかないでくれ!」
提督に肩を掴まれ、後退した私の体はそのまま後ろの壁に押し付けられる。
なんだ、この男は。
私は今にも泣きそうな顔をする提督を軽蔑的に見つめた。
提督は、艦娘を管理し、行使する存在。そんな立場の人間が、艦娘に泣きながら媚びるなど、許されていいのか。
『あの人は、そんな人じゃないですもん。矢矧の思う提督とは正反対ですよ。提督はむしろ一人じゃ何もできない寂しがり屋さんなんですよ?』
大和の台詞が脳裏をよぎる。これが、こんな情けない姿がこの男の本質だというのか。
私達はこんな男を守るために、戦ったのか。こんな男のために大和は――――
「――ッ!」
「矢矧! お願いだ!」
「寄るなッ!」
「がっ!」
こいつは、もう提督じゃない。
私は力の限り提督だった男を突き飛ばした。人間離れした艦娘の力は大の男すら敵わない。男は後ろによろめいて尻餅をつき、唖然とした表情で私を見つめている。
仮にも上官である提督への暴行。軍事裁判ものだが知ったことではない。私は先刻机の上に乗せた書類の束から一枚を抜き取って突き付けた。
「こ、これは……?」
「あなたの退役願よ。一人が嫌ならさっさと本土で家族とでも暮らせばいいわ。安心しなさい、これまでの功労を労って十分過ぎる額の退職金があなたには支払われることになっている」
「し、しかし……私の泊地は……!」
私は眉をしかめた。その自分の泊地が強襲され、皆が戦っている時に指揮もとらずに一人部屋の隅で怯えていたのは誰だ。
ここは私達の泊地だ。お前のじゃない。
しかし、言葉にはしなかった。そもそも泊地が強襲される原因を作ったのは私だ。この惨状は私の責任でもあるのだ。だから、私に彼を責める資格はない。
「泊地の引継ぎに関してはもう済ませてあるわ。もう何も後ろ髪を引かれることはない筈、後はあなたの好きにすればいい」
「ま、待て! どこへ行くんだ!?」
「……私はこの泊地を出ていくわ」
「な、なにを言っているんだ!? 艦娘の移籍の話なんて承認した覚えは……!」
「移籍じゃないわ」
私は提督だった男に背を向けて扉へと歩きながら言った。
「私はどこにも属さない、これからは適当に鎮守府や泊地を渡り歩いて生きていく」
「な……そ、そんなこと、できる訳がない! これから、ずっとたった一人で生きていくというのか!?」
「そうよ」
あなたとは違う。私は決別の意を籠めて断言した。
「提督にはやれる限り有情に対処した、泊地も落ち着いてきたし大丈夫でしょう。もう十分約束は果たしたでしょ?」
「だ、誰とのだ……?」
「大和との、よ」
もっとも、私は了承した覚えなどないあまりに一方的な約束だが。
「や、大和…………っ!」
提督はそれ以上何も言わなかった。
「さようなら」
私は執務室を後にした。
ドックへ行き、数日分の生活用品の詰まったリュックを背負い、艤装の準備を進める。そういえば、霧島や翔鶴達が大和の墓を作ってくれていたらしいが結局私は一度も手を合わせていなかった。
手を合わせる気にはなれなかったのだ。だって、あそこに大和はいないのだ。彼女は今も暗い海の底に眠っている。
『私がどうなろうとも、大和は必ず守ってみせる』
『ふふ、それなら私は絶対に沈めませんね』
作戦前日、あの日交わした会話を思い出し、私は自嘲気味に笑った。私は、何も守れていないではないか。むしろ、守られたのは、私だ。
「……もう、夕暮れね」
私は艤装を装着し終え、夕焼けが反射して橙色に輝く海面に足を下ろした。少し前の自分なら綺麗だと感じていただろうが、今の私には恐ろしく感じる。
これから夜が来るから。何も見えない真っ暗の世界の中を、これから私は歩かなければならないからだ。
『それにしても、矢矧にとって提督って一人で皆を守る強さと覚悟を持った人でしたっけ? ふふ、なんというか』
『何よ、理想が高すぎるって言いたいの?』
『いや、その理論で行くと私達にとっての提督は矢矧になりますねって!』
『はぁ!? どこがよ!?』
そういえば、あの日もこんな夕日が見えていた。だからだろうか、こんなに作戦前日の大和との他愛の無い会話を思い出してしまうのは。
私は海の上で手を合わせ、黙祷した。
そうだ、提督に理想を求める必要なんかない。大和が答えをくれていたではないか。
他の誰でもない、私がなればいい。
「大和、約束するわ。もう、私の前では二度と誰も死なせない。私は一人でも皆を守れるだけの強い艦娘になる」
大和の眠る海底に向けてそう呟き、私は泊地を去った。
☆
「――流浪の艦娘、ねぇ? 随分と無茶をするじゃないか」
「無茶は承知の上です」
煙草をふかしながら、中年男性のその提督は私を懐疑的な目でじろじろと見まわす。
「それで、私の鎮守府を訪ねて来たと言っていたが?」
「はい、一カ月で構いません。私をこの鎮守府に置いて戴けないでしょうか。勿論、置いて戴ければそれに見合った働きはします」
「……別に置くのは構わないが、君は軽巡洋艦だろう。一体、何ができる? 悪いが遠征要員は足りているぞ?」
「では、どんな艦隊でも結構ですので、一艦隊を私に任せは戴けないでしょうか?」
「ふむ?」
「それで、私の力量は理解していただけるかと」
泊地を出て、鎮守府と泊地を転々としながら流浪の艦娘として生活を始め、早一年が経った。
私は武者修行でもするかのように鎮守府や泊地を訪れては、そこでがむしゃらに艦隊を指揮した。
元々、艦隊戦術に関しては熟知しているし、泊地時代の経験もある。何か一つ艦隊を指揮して見せれば、一様に提督達は揃って舌を巻いた。
大和も言っていたが、やはり第一線で戦える軽巡洋艦というのは相当珍しいらしく、私の能力は並みの軽巡洋艦のそれを遥かに超えていた。
戦力になると見なされれば、後は好きなだけ艦隊を指揮できる。
おかげで多くの艦隊、戦闘を指揮することができ、最近は以前より強くなっている自分を実感していた。
しかし、まだ足りない。私の理想にはまだ程遠い。
「自信があるのは結構だが、慢心して轟沈など許さんぞ?」
「大丈夫ですよ。私の前では誰一人沈ませません。これは慢心ではなく、覚悟です」
それからしばらくして、私に『軍神』などという大仰なあだ名が付いた。私が許される限り延々と出撃を繰り返しているせいで私がいた時だけその鎮守府の戦果が通常の二倍以上に跳ね上がるために付いたあだ名らしい。本当に大げさ過ぎて笑いが止まらない。
何が『軍神』だろう。まだ足りない。まだ、この程度の強さでは、あの絶望は乗り越えられない。
私は、もっと強く。人の何倍努力しようが足りない。もっと、強くならなければならないのだ。
――――あの絶望の中で、大和を救える程に、強く
☆
「――――ん……あれ、私いつの間にか寝ていたみたいね」
「ええ、おはようございます、矢矧」
「――!」
私は驚いて顔を上げた。
そこには、赤いから傘を差して、雨の中私を見下ろす大和の姿があった。
「……大和」
気が付けば、傍に居た黒猫の姿はどこにも見当たらなかった。