「…………」
小町は自分の茶碗に米飯をよそいながら、ぽかんとした顔で、もくもくと
さもあらん。これは比企谷家では相当珍しい風景である。
普段の俺は小町に叩き起こされ、うだうだしながら着替え、のろのろとリビングに入り、てきぱきと小町が
小町より早くテーブルにつき、自発的に自分の飯をよそって食っているなんてのは、ここ数年来なかったことだと思う。我ながら。
なんなら今日は、俺が
ちなみにこの味噌汁を作った我が母親は、早めに出勤する父親に合わせて飯を食ったらしく、父親を見送った後、再び泥のように眠っていた。偉い。なんだかんだで夫婦仲もいいようで何より。
しかしさすがに我が妹は、状況の異常さを(異常て)敏感に感じているようだ。
「……どしたの、お兄ちゃん……?」
などと
「今日はちょっと早く学校行くわ。自転車乗っけていけないから、遅刻しないように家出ろよ」
「う、うん……」
そう答えながら小町が味噌汁を
……ふぅ。
俺はお茶を味わうふりをして、深呼吸した。
よし。
「小町」
湯呑みをテーブルに
小町は味噌汁の
「その、……いろいろ迷惑かけた。すまなかったな。親父とケンカとかはしないから安心しろ。……平塚先生たちにも、ちゃんと
ううっ……、やはり言い慣れない言葉はスラスラとは出てこない……!
ま、まぁ、練習だ練習。
しかしこうかはばつぐんだったようだ。
それを聞いた小町の
「お、お兄ちゃんが、まっすぐにデレてる……! し……信じらんない!! なんで!?」
小町はアワアワとなりながら、俺の顔と窓の外の天気を交互に気にし始めた。大丈夫だ小町。
「ごっそさん……先出るぞ」
俺はまだちょっと
……第一ステージ、クリア。
珍しく玄関へ、飼い猫のカマクラが見送りに来ていた。
「行ってきます」
そう語りかけて頭を
それがなんだか、「まぁ、頑張ってこいや」と言ってるようで。
「おう」
苦笑いしながら答えた。
×××
普段、俺が登校するときは、高校に隣接する団地やサテライトキャンパスの横を通り、裏の通用門から入って直接
自転車をいつもの定位置に
「おはょざいます」
つとめていつもよりもはきはきと、しかし不自然に元気になりすぎず、シミュレーション通りに厚木に
「ん、おお……、
珍しい奴からいきなり挨拶されて面食らったのか、厚木は少しびっくりしていたが、ハッと思い直して俺に近づいてきた。
「聞いたぞ。……
少し周りを気にしながら、こっそり尋ねてくる。
「はい、おかげさまで……。いい経験ができました。あ、でも、帰り
つとめて、申し訳なさそうに返す。
「……そうか。良かったのぉ。まぁ、
厚木先生は、そうか、と再度言いながら
そしてそれ以上は何も言わず、ニコニコしながら校門へ向かって行った。俺はそれを、お
……第二ステージ、クリア。
俺は深く、
厚木先生関係は、これで大丈夫だろう。帰ったら早速、駐在さんに礼状を書いとこう。
しばらくは、体育の授業、真面目に受けないとな……。
×××
朝のHRギリギリまで平塚先生を
……逃げたか?
なるべく朝イチで済ませたかったが……。
……しょうがねえ。昼休みで勝負をつけよう。
教室に入ると、いつものクラスの
教室の後ろ、もっともにぎやかしいところからたまにチクチクとこちらに発せられる気配を感じつつ、俺は今は、
チャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。
起立、礼、着席。無視。
担任はちろりとこちらを見たが、特に何も言わず、連絡事項だけ伝え終わるとそそくさと教室を出た。
……第三ステージ、クリア。担任には、これでいい。むしろこれ以上は危険だ。
これ以上、面倒事を目の前で起こされない方が、担任にとっても好都合のはずだ。
……さて、残るは三人。
これからの行動計画を頭の中でおさらいしているうちに、一限目のチャイムが鳴った。
×××
三限目までは
授業の合間の短い休み時間は毎回トイレに行き、教室で
ま、そんなことしなくても、文化祭・体育祭ですっかり悪評の着いた俺に、不自然に話しかけるようなマネはしてこなかったかもしれないが。
あいつには部室で、
で、今はこっちの方を先に片付けたい。
四限目は平塚先生の現代文だ。そしてそれが終わると昼休み。
平塚先生を捕まえるなら、ここしかない。
チャイムが鳴り始めると、教室扉の向こうにゆらりと人影が見えた。
たっぷり間を置いて扉が開かれ、平塚先生が入ってきた。つかつかとピンヒールを鳴らして教壇に立つ。
見事に体型に合わせて
いつものクールな平塚先生だ。昨日の朝に見たクールーキットクルーな平塚先生は幻だったのか……?
俺がじーっと視線を送っているのに気付いたのか、平塚先生は一瞬こちらを見て、うっ、と顔をこわばらせた。だがすぐみんなに向き直る。
「え、えー、今週から『山月記』に入るぞ。この作品には漢文の要素も多く含まれている。難解な単語も出てくるが、読み込んでいくと、作者が込めたメッセージが比較的見えてきやすい反面、そのメッセージはなかなかに奥深い。高校現代文の題材としてはメジャー級ともいえるほど有名な作品だ」
教科書を開き、板書をしようとして、平塚先生は一瞬ハッと固まると、溜め息をついて、黒板に備え付けの短くチビたチョークを拾ってカリカリ題名を書きだした。
どうやらマイチョーク入れを忘れたらしい。らしくねぇな……。
今日の授業では、指名された生徒たちが、この短編小説を通しで音読し、出てくる漢文チックな単語を平塚先生が解説するところまでで終わった。
簡単に言えば、非凡な才能がありながら人と交わることを嫌い師にもつかず才能を磨くことが出来ないまま夢見ていた詩家としてデビューできずに
それナニ
ほんの一ミリだけ、こいつはむしろ、虎になったことは幸運だったんじゃねえの、と思った。俺が言うのも何だけど、人間のまま生きていくにはなかなかに辛い性格だ。
俺なんかはもうちょっと控えめに猫とかでいいんで変身させてくれねぇかな。できれば血統書付きの座敷猫がいい。それナニクラくんだよ。
授業中、平塚先生は、俺の方を一度も見なかった。
生徒指導室。
授業後ようやく廊下で平塚先生を捕まえ、落ち着いて話が出来る所を、と申し出て、イマココ。
ちなみに少し時間を置き、昼飯を済ませてきた。平塚先生が出前でラーメンを頼んでいたためだ。
ラーメンなら仕方がない。出前の人に代金も払わなきゃだし、のびたラーメンを食わせてしまうことは俺のラーメン(ラーメン好きメンズ。発音に注意)としての
ていうか思うんだが、学校でうどんや
…………。
目の前には平塚先生が神妙に、覚悟を決めたように座っていた。
悪いな。いまからその覚悟を打ち砕く。
「
意を決して再度謝ろうとする平塚先生を止めるために、俺はさらに勢いよく、振り抜くように頭を下げた。
「先生、土日のキャンプの件、ありがとうございました。それと、ご迷惑おかけしました」
自分にしてはよく通った声で、そう言った。
目線の先には床しか見えず、平塚先生の表情はうかがい知れなかったが、先生の呼吸が止まっていることは耳で感じた。
立て続けに言葉を
「ここまで
と。
ほっそりした腕が視界に入って来、下を向いている俺の
「……比企谷、そんな上っ面だけの謝罪などやめろ! 今回は君が謝る必要なんて何一つない、分かっているはずだ! 君は私を怒っていいんだ! 邪魔しやがってと
えー朝とか絶対逃げてたよね……? あとこれ厳密に言えば逆ギレじゃね……?
という感想を一瞬持ったが、ようするに、ほんとに悪かった、と言いたいんだろうと思うことにした。生徒の俺なんかに対しても、
熱くて、いい人だな。本当にそう思う。
だが。
「 い や だ ね 」
けっこう決死の覚悟だったが、そう、静かにぶちかましてやった。
平塚先生は俺の返答に心底驚いたのか、
俺は続けた。
「分かったんですよ。親父もあんたも、俺の怒りや恨みが自分に向くなら、それで済むなら、それでいいと考えてる。そうなるように、動いてる。……誰かさんにそっくりだ」
「……俺に、俺のやり方は通用しない。だから、恨んでなんかやらない」
そういうことだ。
これが俺の結論だった。
まぁ、実際はもちろん、じくじくとした感情はまだ残ってる。簡単に消えてくれるようなものじゃない。俺が今言ってることなんて、単なるハッタリ、強がりだ。
でも、それでも。
誰かの
従ったら、すなわち負けだ。それがかつて、自分が用いたことのある策なら、なおさらだ。それは策士として最も屈辱的な負け方だ。
そんなのは、嫌だった。
けれど。
「……ていうふうに思ったんですが、そうすると論理的に考えて、あとは感謝と申し訳無さしか残ってなかったわけで……。だから、別に殊勝とか、そんなんじゃないです」
全部本心だ。
怒りも恨みも、感謝も罪悪感も。全部ちゃんと胸の中にある。
そして怒ることを、恨むことを自ら否定したのなら。
残りの感情を、彼と彼女らに示さずにいられるのか。
何も示さないのは理屈として間違っている。それを妨げる感情は捨てると、俺は宣言してしまった。
ならば俺が、自らの結論で正しく
……悔しいが、このやり方しかない。
平塚先生の表情から、
俺の襟元はまだ掴んだままだが、かろうじて指先が引っかかっているようなものだった。
「……い、一応言っときますが、割と本気で感謝してますよ! 俺の立場を救ってもらってたのは事実なんだし、キャンプだって、別に邪魔されたわけじゃないし……!」
ちょっとどぎまぎして目をそらし、余計な付け加えをしてしまった。
「……はぁ……」
平塚先生は苦笑交じりに
「……君って奴は……本当に……」
自分でも分かってる。なんかひどい
しかし、悔しいけど、嫌いじゃない。実に俺らしい結論だと思った。
……よし、第四ステージ、クr
襟元が再び強く引き寄せられ、先生の顔面が俺の右の
先生の空いていた腕が俺の首を回って後頭部を掴まれると同時に、襟元から手が離れ、反対側から俺の背中を押さえつけた。
俺の眼前には、先生の髪が黒い大河のように広がって流れていた。絹糸かと思うほど細い髪がいく
俺は平塚先生に抱きしめられていた。
n
な ぇ お
ちょ
平塚先生はすっと俺から離れた。おそらく時間としては数秒ほどだったろう。
顔は真っ赤で、怒っているような笑っているような表情で歯を食いしばって、
「……十年早い……!!」
そう言うとつかつかと指導室の窓を開けに行き、俺に背中を向けながら
「……な、何……を……!!??」
金縛りにあったみたいに、身体が動かない。心臓の中で革命でも起きたかというほど耳の奥までバクンバクンと
「光栄に思え……『抹殺のラストブリット』を発動した相手は君が初めてだ」
背中を向けたまま、平塚先生はそう言って腕時計を見た。
「……まもなく五限だ。もう行きたまえ」
「は……はい……」
俺は
……だ、第四ステージ…………クリア………………?
なんか……、
なんかよくわからないが……、
たしかになんか、十年早かった……のかも知れない……。
「スクライド」は観たことないのですが、ぐぐってみた限り、「衝撃」「撃滅」「抹殺」は、パワーとしては並列的な技なんですかね。
ので、多分実際の平塚先生的には、普通に三発目に殴るのがラストブリットなんでしょうが、ここではあえてこんな行動をブリットとしてみました。
こんなラストブリットなら毎日でも喰らいたい……。
なお「山月記」は、実際に高校2年の現代文教科書によく出てくる作品です。私も習いました。
リアル世界ではひょっとしたら、一学期で習うのかも知れませんが…そこはまぁ、華麗にスルーしてください……(汗)