やはり俺のソロキャンプはまちがっている。   作:Grooki

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その45:ソロキャンプ#8

 まだ青みの残る空気に包まれた浜辺に、雪ノ下雪乃(ゆきのしたゆきの)はひとりで立っていた。

 

 白い長袖(ながそで)の柔らかそうな生地のワンピース姿で、肩には白の毛糸を粗く編み込んだショールを羽織(はお)っていた。

 

 その合わせ目から少し(のぞ)く肌もまた雪のように白く、ただ長い髪と大きな瞳だけが、夜の闇よりも黒くつややかに輝いていた。

 

 

 

 

 今世界が終わるなら、あと数分だけ待って欲しい。

 

 そう思わせるほどに、その光景は一つの名画だった。

 

 互いの目が合ったとき、俺はたぶん呼吸を忘れていた。

 

 ──その奇跡に見惚(みと)れてしまっていた。

 

 

 

 

 そのまま一言も発さず、また数回、波の音が聞こえた。

 

 「… … …。」

 

 「… … …、」

 

 雪ノ下がふと目線を外し、なにごとか逡巡(しゅんじゅん)しているかのようにショールの中でもごもごつぶやいた後、意を決したように顔を上げたが、俺は反射的に、雪ノ下に手をかざして制止した。

 

 雪ノ下は固まった。その目はすぅっと、切なそうに細められ、視線は地面に落とされた。

 

 俺はゆっくり、雪ノ下に歩み寄った。

 

 彼女に近づくほど、波の音は聞こえなくなっていった。

 

 身を切るような朝の寒さも、いつのまにか忘れていた。

 

 あと数歩のところで立ち止まった。

 

 彼女はわずかに(うつむ)いたまま、おずおずと上目遣いで俺に視線を向けてきた。

 

 

 「…なぜ、何も聞かないの?」

 

 

 沈黙の間の呼吸をうまく()って、雪ノ下が初めて問いかけてきた。

 

 

 なぜ。

 

 

 なぜだろう。

 

 

 じっくり考えればすぐ答えられるようでもあり、永遠に答えられないようでもあり。

 

 

 

 

 けれど今は。

 

 

 

 

 「…そんなの、どうでもいい…。」

 

 

 

 

 それが一番、しっくりきた。

 

 

 

 

 多分俺は…。

 

 

 目の前の奇跡を、もう少しだけ(とど)めておきたかったんだと思う。

 

 

 雪ノ下はそれを聞いて、瞳を再び大きく見開き…すぐ目を伏せて海の方へ顔を背けた。

 

 耳の先がきれいな桜色に染まっていた。

 

 と、海を見つめたまま、雪ノ下が息を()んだ。

 

 俺もつられてそちらに目をやり…同じく、息を呑んだ。

 

 

 

 

 左の岬の向こう、水平線の彼方に、白い山頂がはっきりと見えた。

 

 この国のどこよりも高いところから一番の朝日を浴びて、やや朱色に輝いていた。

 

 

 富士山。

 

 

 日本最高峰。美しい円錐形(えんすいけい)成層(せいそう)火山。

 

 他の山々と連なっていない、孤高の独立峰(どくりつほう)

 

 こんなところからも見えるのか…。昨日は見えなかったから、気づかなかった。

 

 高校近くの海岸からも、天気がいい日は見えることがある。

 

 俺にとっては、さして珍しい風景ではないはずだったが、いま目の前の富士は、これまで見たことがないほど神々しかった。

 

 いや…ほんとうに神さまだな、と俺は思った。高校近くの稲毛浅間神社(いなげせんげんじんじゃ)などは、富士山の神霊・浅 間 大 神(コノハナサクヤビメ)のための神社でもある。富士山を拝んできた古来の人たちの気持ちが、今日この瞬間、なんだか解った気がした。

 

 

 ふと、富士山がこちらを見ているような気がした。

 

 べつに理由はない。けれど、今俺は、富士山と目が合ったような気がしたのだ。

 

 

 (なぁ、なんか、俺らの方を見てる気がするな…。)

 

 そんなたわごとを、それでもなぜか言わずにいられなくて、つい、視線を雪ノ下の方へ戻すと、彼女も俺に何か言おうとしてて、同時に目が合った。

 

 「なぁ、」

 

 「あの、」

 

 カブったのが面映ゆくて、お互いにまたすぐ視線を外し、二人で富士山を見やった。

 

 

 「…綺麗(きれい)ね…。」

 

 ぽつりと、雪ノ下がつぶやいた。

 

 「…うん…。」

 

 ぽつりと、俺は返した。

 

 

 いまこの瞬間、世界にはたった三人しかいない。そんな錯覚を抱いた。

 

 

 富士山と、俺と、雪ノ下。

 

 

 そっと盗み見た彼女の横顔に、暖かな微笑(ほほえ)みを見た。

 

 その瞳は、その(ほほ)は、その唇は、その微笑みは、

 

 手を少し伸ばせば、すぐに()れられるほど近いところにあった。

 

 

 

 

 だめだ。限界だった。

 

 

 もう俺の本能がもたない。

 

 

 「雪ノ下(ゆきのした)。」

 

 

 自分が求めていたくせに、俺はその静謐(せいひつ)な美しい光景を、奇跡の(とき)を、自分の声で打ち破った。

 

 

 雪ノ下の身体がぴくり、と震えた。

 

 

 ゆっくりと、長いまつげにふちどられた、濡れたように輝く瞳を、(おく)せずにまっすぐ、こちらへ向けてきた。

 

 

 「…はい…。」

 

 

 ショールをかき寄せた両の手を胸元で重ねながら、雪ノ下は俺の次の言葉をじっと待っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「… … …ちょっとトイレ行ってくる… …!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 「… … …はい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪ノ下の微笑みが、そのまま固まった。

 

 

×××

 

 

 先に謝っておく。すまない。

 

 本能というか生理現象だけは如何(いかん)ともしようがなかった。まことに遺憾(いかん)

 

 いや、けっこうがんばったんだよ!?しかし正味(しょうみ)十時間くらいトイレに行ってなくて、あんな寒い中で起き上がって身体が急に冷えたら、そりゃ誰でもギュンギュンもよおしてくるって!!

 

 ところで、めいっぱいギリギリまで我慢した後の大開放(暗喩的表現)って、なんか真の力を出すために気を全開にした時みたいな感じにならない?(スーパー)サイヤ人になる瞬間とか絶対ああいう感覚になるんじゃないのかなと俺はつねづね思っている。思わないか。そうか。そんな貧相な感受性じゃ…アンタ…人生損してるぜ…!!(妙な確信)

 

 

 …さて。

 

 (スーパー)外野人(ぼっち)たる俺の頭脳は、気を全開にした(暗喩的表現)ところで急速に回り始めた。

 

 

 

 

 な ん で ゆ き の ん い る の ん ?

 

 

 

 

 …とはいえ、大体のところはすぐに想像がついた。

 

 どうせ小町あたりが秘密をバラしたから、俺がソロキャンプで四苦八苦(しっくはっく)してる場面でも期待して、見物しにきたんだろう。

 

 小町め…アイス代返せ…!!

 

 …とはいえ、こんなトコまで見物に来るとは…。

 

 …っていうか、え、アイツどうやって来たの…?始発電車?それともまさか、昨日から前乗り(前日入り)してホテルにでも泊まってたの?もしや別荘…!?

 

 ひ、ヒマすぎるだろ…!?友達作って遊びに行けよ…!!

 

 いや、しかし…なんか、最初に出くわした時のことが妙に気になった。

 

 それこそあの時にでも、「あら、凍死はなんとか(まぬが)れたようね、おめでとう。残念ながら目だけは助からなかったようだけれど。」位のことは言いそうだがな。

 

 なんというか…俺に(おび)えていたような様子にも見えた。

 

 …まぁいい。戻ったら問い()めよう。小一時間問い詰めよう。あ、その間に朝飯用の米を浸水させよう。

 

 想定外の事態にもスマートに対応を段取りつつ、俺がトイレを出ようとしたその時だった。

 

 

 「おぇ…っぷ…ううぅ…だめ…死ぬぅ…死んだ…!」

 

 隣の女子トイレから、ガラガラに枯れた女のうめき声が聞こえてきた。

 

 「もー、あんな飲み方するからですよー…!はいタオル。」

 

 「うぅ…面目ない…。」

 

 

 

 

 ん?

 

 

 

 

 今の声…。

 

 俺がトイレの入り口で固まっていると、やがて隣の女子用出入口から、血の気の引いた真っ青な顔で、口元をタオルで抑えた黒い長髪の女性が、肩までの桃色がかった茶髪の若い女の子に半ば抱えられて出てきた。

 

 「早く回復してくれないと、お昼までにはヒッキー帰っちゃい…ま…!!??」

 

 

 

 

 目の前に居る俺に気づくと、由比ヶ浜結衣(ゆいがはまゆい)はそのまま、驚いたような顔で俺を見つめていた。

 

 「…?、!ひ、比企谷(ひきがや)…!?」

 

 由比ヶ浜に抱えられていた平塚先生も、目を見開いて固まった。

 

 

 

 

 いや、おい、ちょっと待て。

 

 

 ど う な っ て ん の こ れ ????

 




このシーンを書きたくて、ソロキャンプの舞台をこのキャンプ場にしました。

大事なシーンなので、ひょっとしたら後日、ちょこちょこ修正するかもです。

今回調べてて、たまたま知ったんですが、「浅間神社」と名のつく神社は、富士山と強い縁がある神社なんですね。知らなかった…。

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