あなざー ~もしも夜見山北中学3年3組に「現象」がなかったら~ 作:天木武
◇
朝から降り続いていた大粒の雨だったが、午後に入ってようやくその雨足が弱まった。とはいえ、未だ傘をささないと濡れるレベルではある。
授業が終わった時、携帯電話に祖母から着信があった。「雨が降ってるから迎えに行くよ」という内容だった。確かに病み上がりではあったが、今日は体調がいいし傘も持ってきている。何より、送り迎えをしてもらうところを他の生徒に見られるのはあまり気分がいいものではなかったし、それ以上に祖母に気を遣わせてしまっているようで申し訳なく思ったから、という考えから、僕はその申し出を断り、歩いて帰ることを伝えた。
廊下での通話を終えてため息をこぼしつつ教室へ戻る。既に多くの人が下校するか部活動へと足を運んでいるようで、残っている人は少ない。定期試験が近づいてきたためにもう間もなく部活動が禁止になるらしく、そのために皆早々と教室を出た、というのもあるかもしれないなとも思う。
なお、言うまでもなく見崎鳴の姿はすぐに消えていた。授業終了後、かばんに荷物を詰めて窓際に目を移したときには、もう席は机と椅子だけになっていた。
やることが特にあるわけでもないし、このまま雨が止む気配もない。なら雨足の弱まっている今のうちに帰るが吉だろう。
そう判断し、僕はまとめた荷物を手にして教室の入り口に向かおうとする。
「あの……榊原君」
その時背後から聞こえてきた声に僕は思わず振り返る。そこに立っていたのは眼鏡が特徴的なクラス委員の桜木さんだった。
「帰り……1人ですか?」
「あ……。うん。おばあちゃんが迎えに来るって言ったけど断ったから」
「じゃあ、もしよかったら、一緒に帰りませんか?」
予想だにしなかった彼女の提案に僕は思わずたじろぐ。
「お家、古池町の方でしたよね? 私は飛井町だから、榊原君の家と帰る方向が途中まで一緒なんです。もし榊原君がよければ、ですけど……」
どういうつもりだろうか。まあ彼女はクラス委員だ、僕が転校してきたばかりだから、というだけかもあるかもしれない。
しかし下校を共にする男女、となれば下手をすれば噂になりかねない光景だろう。しかも「転校生がいきなり女子と一緒に帰ってた」なんてのは、どこぞの
そうでなくてもそんな噂が流れてしまったら確実にクラスで1人いい顔をしない人を知っている。ここから痴情のもつれに発展して嫉妬に狂った
「ありがとう。でもこの後三神先生に呼ばれていて帰るのは少し遅くなりそうだから……気持ちだけ受け取っておくよ」
咄嗟に出まかせの嘘を言う。嘘をつくのは得意ではないが、桜木さんは何かを察したか、別に怪しんだ様子はないようだった。
「そうなんですか、残念。……フラれちゃいましたね」
「あ……そんなつもりは……」
クスッと小さく彼女が笑った。
「わかってます、冗談ですよ。気にしないでくださいね」
どこまでが本気だったのだろうか。見るからに真面目な彼女の意外な一面を見た気がした。
「じゃあ私はお先に失礼します。さようなら、榊原君」
「さようなら」
桜木さんが教室を後にする。その背を見送りつつ、「裏に黒い物がある」と言った勅使河原情報をふと思い出した。
あながち間違ってはいないのだろうか……。冗談を言ってくる辺り、ただの真面目なクラス委員というだけではないのかなとも思う。
ああ、もしかしたら風見君は彼女のその辺りに惹かれたのかな、などと余計なことを考えつつ、やや時間差を置いた後、荷物を手に今度こそ教室の入り口へと向かった。
◇
雨が降る中を歩くとなれば傘をさす、まあ今の日本人なら至極当たり前のことだろう。殊に今日は朝から雨が降っていたのだ、傘を忘れる、ということはまず考えられない。
しかし僕のやや前を歩く
事の発端は少し時間をさかのぼる。
桜木さんが教室を出た後で僕も帰ろうとしたのだが、「三神先生に呼ばれている」などという嘘をついた手前、少し教室を出る時間を空けたとはいえそのまま真っ直ぐ昇降口へ、というのは気が引けた。ここはしばらくタイムラグを持って帰るのがいいだろうと適当に校舎をうろつき、時間をずらして帰ろうとしたところで――。
雨の中、傘もささずに正門へと向かう彼女――見崎鳴の姿を見つけたのだった。
最初は見間違いだと思った。まず、誰よりも早く教室を後にしたはずの彼女がなぜ今いるのかという疑問が浮かび、次にこの雨の中傘もささないということに対しての疑問が浮かんだ。
先に述べたとおり今朝から雨だったのだ、傘を忘れる、ということはまずありえない。なら考えられるのは傘を使わずにいい状況、例えば車での送迎があったという場合。あるいは、意図的に傘を持ってきていない場合、そのどちらかだろう。
が、僕の頭にありえないはずの第3の考えが浮かんだ。
彼女に傘は
人間なら当然のごとく傘はさす。だが以前に立てた仮説――3年3組に彷徨い続ける幽霊、だとしたら。それなら傘など必要ない。雨に濡れようが――いや、そもそも濡れるのかもわからないが、何も困ることはない。着替える必要もなければ風邪を引くなんてこともないだろうから。
そんな馬鹿げた考えが頭をよぎったせいで「彼女に駆け寄って自分の傘に入れる」という発想はすぐさま消え去ることとなった。そうでなくても彼女は僕にこう言ったのだ。「あんまり近寄らない方がいい」と。それを思うと声をかけよう、という気にもどうもなれずにいた。
だがせっかく彼女を見かけたのに何の行動も起こさず帰る、などというのもどうにも勿体無いというか、せっかくのチャンスを棒に振るようでできずにいた。
結果、僕が取った行動は声をかけるでもなく諦めるでもなく――つまり尾行、という非常に中途半端でよろしくないものとなってしまったのだった。
普通に考えれば迷惑な行為だろうと思う。だが、だから声をかける、という結論には至れなかった。雨の中を歩く彼女はよく言えば神秘的、悪く言えば不気味であり、とても声をかけられそうにない。
そもそも、クラスの人達にも結局ここまで聞けずじまいであることでもあった。確かに人付き合いがあまり得意でない僕はまずその場の対応をすることで頭が一杯になってしまい、そのせいで他の事、つまり見崎のことについて聞きそびれた、という面もある。実際今日の昼休み、赤沢さんが来た時はそうだった。
とはいえ、毎度毎度そういうわけでもない。昨日の昼休みに見崎を中庭で見かけ、その後体育の時間に話してから、誰かに聞こうと思えばそれは出来ないわけではなかった。勅使河原辺りに話を振ればおそらく1分とかからずに解決するような問題だろう。
だが、僕はそれをしたくなかった。「気になる」と思いながら、本心、あるいは心のどこかで今の奇怪とも思えるような状況を楽しんでいるのかもしれない。水野さんに話せば「さすがホラー少年」などとからかわれることだろう。そうなったら否定は出来ない。
ともかくこのことについては「本人の口から直接聞いてみたい」という強い思いに捕らわれたから、クラスの誰にも尋ねず、こうして尾行をしているのだった。
そうは思ったものの、既に家の方向から離れて久しい。このままだと病院のある夕見ヶ丘の方まで行ってしまう。家から完全に離れている。どこまでこんなことをするのか、自分でも悩みながら彼女の背を追いかけ続けた。
だがその追跡は突然終わりを迎えることになる。
角を曲がった彼女の姿を確認して僕もその角を曲がったのだが、そのときにはもう彼女の姿はなくなっていた。慌てて辺りを見渡すがどこにもその姿はない。
消えたのではないか、やはり幽霊なのだろうか。また非科学的な空想をめぐらせたところで体がぶるりと震える。悪寒だろうか、それともただ雨に濡れたからか。
ともかく、姿が見えなくなってしまったのでは仕方ない、帰ることにしようと来た道を引き返そうとしたところで、僕の目に物珍しい看板が入ってきた。
――夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。
確かに看板にそう書いてある。何かのお店だろうか。だが店の名前にしてはなんだか奇妙にも見える。
もっとよく見るとこうも書いてあった。「どうぞお立ち寄りください。――工房m」。
一体どういうところなのだろう。その店と思しきところにある、暗めで中がよく見えないショーウィンドウを覗き込み――。
「うわっ!?」
予想もしていなかった陳列物に思わず驚いて僕は数歩後ずさった。心を落ち着けてもう1度その中を見てみる。
「人形……?」
そう、そこに陳列されていたのは人形だった。
それも女の子向け、というようなファンシーな人形ではない。どちらかといえばドール、という言葉の方がふさわしいだろう。美しく精巧な、しかしそれでいてどこか物悲しい表情の、少女の姿をした球体関節人形がそこに飾られていた。
しばらくの間その人形に目を奪われていたが、先ほどの「どうぞお立ち寄りください」という文字を思い出す。そこでじゃあここはそういう人形を置いているお店かもしれない、という考えに思い当たった。少なくともわざわざそう書いてあるのだから、入ってもいいということになるはずだ。
未だ降り続ける雨を避けるように軒先に体を寄せて傘の水滴を振り落とす。ドアを開けるのを一瞬躊躇ったが、好奇心が勝り、結局そのドアをゆっくりと開けた。
◇
中は薄暗く、意図的に照明を落としているように思えた。加えて肌寒い空気が満ちていた。雨、加えてまだ5月の頭だと言うのに冷房がついているようにも感じる。
「いらっしゃい」
その時聞こえた声に、僕は驚いて声のほうへと顔を向ける。元々暗い室内のさらに暗がりの一角。そこにひっそりと、それこそ人形か、あるいは置物か何かのように老婆が座っていた。どうやら店番らしい。
「あ……あの、こんにちは……」
「おや、若い男の子とは珍しいねえ。お客さんかい? それとも……」
「えっと……。たまたまここの前を通りかかって、それで気になったので……。ここ、人形屋さんか何かですか?」
僕の質問に老婆の口元が一瞬緩んだ気がした。
「人形屋……。そうだねえ、半分はそんなところ、もう半分は展示館ってところかねえ」
老婆が腰掛けているところはカウンターのようになっており、そこに「入館料500円」と書かれたボードがあった。なるほど、展示館とはそういう意味かと思いつつ財布を取り出す。
「中学生かい? なら半額でいいよ。よかったらお茶でも出そうかい?」
「ありがとうございます。でもお茶は結構です」
半額にしてもらったことに対してお礼を述べてお金を支払った。だがここで落ち着いてお茶を飲もうという気分にはなれそうにない。後半の申し出は断ることにした。
「ゆっくりして見ていきなさいな。他にお客さんもいないしねえ……」
老婆の声を聞き流しつつ、僕は店内、いや館内のほうがいいか。ともかく奥へと足を進める。
展示してある球体関節人形はショーウィンドウに飾られていたもの同様、どれも美しく精巧で、しかしどこか物悲しいものばかりだった。
その美しさは見事だった。さながら人のようにも見えるそれらはまるで今にも動き出しそうな、身体という入れ物だけを残して魂だけを奪われたような……。しかしそんな
まさに精巧な魂の抜け殻。今にこの人形達は自分にとって足りないパーツ――すなわち魂を求めて動き出し、僕に襲い掛かり、魂を奪い去っていくのではないか。ああ、我ながらホラー小説なんて読んでいたせいでそんな発想にいきついてしまうか、とも呆れつつそう思う。
それでも食い入るように僕は人形を1つずつ眺めていく。立っている者、座っている者、互いに寄りかかりあっている者……。様々な人形があったが、そこで僕はなぜ不安に思ったかに気づく。確かに精巧すぎるが故に、という面もあった。だがそれ以上の原因として思い当たったのが、そのどれもが共通して
奥の方まで来たところで張り紙を見つけた。「こちらにもどうぞ」と書いてある。見れば地下への階段のようであった。
降りてもいいものかと入り口付近の老婆の様子を窺う。が、ここからではよく見えない。しかし張り紙があるのだから別にいいだろうと、僕はその階段を降りることにした。
地下は、上の階以上に冷気が篭ったような、更に肌寒い空気が満ちていた。置いてあったのはやはり上の階同様の人形達である。
しかし上の階の人形達と違うのは――こちらはより僕を不安にさせる、ということだった。
要するにさっき抱いた「身体という入れ物だけを残して魂だけを奪われた」という感想をよりそのまま濃くしたような、言ってしまえば僕たちが普段触れることの出来ない「死の世界」から、入れ物の身体だけをこちらの「生の世界」へと返されたような、そんな人形達。
再び喉を鳴らし、生唾を飲み込む。このままここにいたのでは僕までそちらの世界に連れられていってしまうのではないか、などという幻覚を抱きそうだ。でも同時にこの人形達が醸し出す悲愴的で破滅的な美しさにも惹かれ、戻るに戻れなくなってしまっていた。
そういえば今日、望月君とムンクの叫びについての話をしたと思い出す。彼は「不安を抉り出してくれるような絵だから好きだ」ということを言っていた。なるほど、今ならそれが少しはわかる気がする。「美」とは「陽」、すなわち明るく華々しいものの中だけに存在するものではなく、「陰」、すなわちその逆で暗く陰鬱としたものの中にも存在するのではないか。いや、「陰」の中に存在するからこそより美しくその「美」が際立つのではないか。白鳥の鳴き声は死の際が最も美しいと聞いたことがある。光の下での蝋燭はただの火であっても、暗闇の中であれば眩い焔とも見える。それもそういうことなのだろうか。
そんな考えが頭を巡る中、物言わぬ人形達に魅入られたように、僕は地下を歩いた。そしてその最奥、棺に入った人形を目にした時、思わず目を見開き、足が止まった。
「なんで……」
無意識に言葉が口をついて出る。「なんで」、おそらくその続きの言葉は「似てるのか」といったところか。多分そう思ったから、その言葉を口走ったのだろう。
棺に入った少女の姿をした人形はある少女――そう、他ならぬ見崎鳴に似ていたのだ。
身長、髪型、雰囲気……。その彼女に似た人形を前にして、先ほど抱いた入れ物や魂といった感覚を思い出す。ではもしや見崎鳴という「入れ物」はこの人形であり、その「心」だけが一人歩きして今の彼女という存在を生み出しているのではないか――。
馬鹿げている。有り得るはずがない。考えをかき消すように頭を横に振る。
――その時だった。
「……似てる、って思った?」
と、その人形の棺の
「見崎……鳴……」
心のどこかにあった信じられないという気持ちと共に、僕は彼女の名を呼んだ。先ほどまで雨の中を傘もささずに歩いていた、制服姿のままの彼女。しかし、その髪は濡れている様子はなく、制服も同様だった。まるで雨の中を歩いてなどいない、と言わんばかりのその様子……。
「似てる……よね」
と、自分の分身にも見えるその人形を、愛おしそうに撫でながら彼女はそう呟いた。
「でもね、これは私であって私でない……。強いて言うなら、私の半分……。ううん、それ以下かも」
半分――。ではもしかしたら本当にこの人形は彼女の……。
「なぜ、あなたがここにいるの?」
僕がその疑問を口にするより早く、彼女が僕に問いかける。
「え、えっと……。たまたま、この辺を通りかかって、それでここを見つけたから……」
まさか「君の後をつけてきた」と言うわけにもいかない。苦しい言い訳だが、僕はそう言ってごまかすことにした。
「い、いや、それよりどうして君こそここに?」
「……たまに
降りてくる――。その一言に背筋がゾワリと粟立った。それでは、まるで――。
「榊原君は、嫌いじゃないの? こういうところ」
続けて僕は質問のタイミングを失う。こうなってしまうと相手に合わせてしまうのが僕の悪い癖であり、受け答えでいっぱいになってしまうというのがいつものパターンだった。
「あ……。う、うん。なんだか、ちょっと不安に感じるところもあるけど、綺麗っていうか、なんていうか……」
「ふうん……。こういうの、嫌いじゃないんだ。榊原君……」
そう言いつつ、彼女は人形の顔を撫でるように、髪を掻き揚げた。それまで隠れていた髪の下、碧の眼が見える。彼女と――見崎と違い、その人形は眼帯などはなく、碧の両眼が虚空を見つめていた。
その人形から見崎へと目を移す。僕の視線に、いや、僕が何を見ていたのかに気づいたのだろうか、彼女は自身の左目を覆う眼帯に触れた。
「気になる? 私のこの眼帯の下……」
心を見透かされたかのようなその言葉に、思わず返事を返すことを忘れ、その無機質な白い医療用の布を見つめる。
「見せてあげようか?」
「えっ……?」
「……見せてあげようか?」
2度繰り返された言葉は、2度目は少し声のトーンが低くなり、彼女の口元が僅かに緩んでいた。思わず喉を鳴らす。
見たい。だが、それは越えてはいけない一歩のように感じ、一瞬返答に戸惑う。が、それでも僕はゆっくりと頷いていた。
見崎が左手の人差し指と中指の間に眼帯の紐部分を挟み、耳にかかるそれをゆっくりとそれを外していく。そして、見えた瞳は――。
――夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。
そう、ここの入り口にあった看板に書いてあった、まさにうつろなる蒼き瞳、であった。いや、厳密には蒼というよりは碧――つまり棺の中の人形と同じ色をしていた。
吸い込まれるような、美しい碧。その瞳に僕の心の中全てが見透かされそうに感じつつ、美しさのあまり僕はしばらくその瞳に釘付けになっていた。
「それ……義眼……?」
「そう。私の左目は『人形の目』なの。見えなくてもいいものが見えてしまう、だから普段はこうやって隠してる」
見えなくても、いいもの……。一体どういうことだろうか……。
もう何が何だかわからなくなり、思わず僕は右手で頭を抱えた。
「……ここはあんまりよくないかも。なんだか、『向こう側』へ引きずり込まれそうな感覚がするかもしれないから」
「ああ……」
思わず相槌を打っていた。一度僕が思ったこと、そしてそれを裏付けるかのような彼女の言葉――。頭が混乱している。とにかく少し落ち着きたかった。
「上に行きましょ。そこの方が、ここよりは少しはマシだから」
左目に眼帯を戻した見崎が先導して階段を上っていく。それに続いて僕も地下を後にした。
1階に戻ると、ソファーがある場所まで僕を案内してくれた。そして彼女が座ったのを見て僕も腰を下ろす。
「落ち着いた?」
「……少しは」
大きく深呼吸し、心を落ち着けなおす。その後で、何から質問するべきか思案する。だが聞きたいことが多すぎて何を聞くべきか、と悩む僕の気持ちなどお構いなしに、彼女はゆっくり口を開いた。
「ここにある人形……これはね、霧果が作ったものなの」
「霧果?」
「ここの2階が工房になってて、そこで人形を作ってる人ね」
工房……。そうか、入り口に書いてあった「工房m」の主、それが霧果という人なわけか。
「地下の人形もその人が?」
「多分、ね」
「じゃあ1番奥にあった人形。なんであれは君にあんなに……似てるわけ?」
一瞬の間を置き、
「……さあ?」
短く、彼女はそう答えを返す。とぼけているのだろうか。だがそれを確かめる術はない。
「他に聞きたいこと、あるんじゃないの?」
要するに質問を変えろ、という意味だろう。確かに人形の件は気になるが、それ以上に気になることがある。いや、人形の件も突き詰めればそこに行きつくわけだ。
「……体育の時間、屋上で話したことを覚えてる? 『あんまり近寄らない方がいい』って。あれ……どういう意味?」
本音を言うと「君は幽霊とかでなく、本当に人間なの?」と聞きたかったが、甚だおかしい質問だろう。だからあの時言われたことで気になっていることを聞くことにしたのだ。
「……相変わらず榊原君は何も知らないまま、か」
が、彼女の答えは僕が期待したような明確なものではなかった。
「それってどういう……」
「……ねえ、ある昔話をしてあげようか」
質問をかき消し、何が嬉しいのか、彼女は口元を僅かに緩めつつそう話し始める。昔話なんかより質問に答えてほしかった。が、もしかしたらその昔話が答えになのかもしれない。何より、微笑を浮かべた彼女に、僕は完全に魅入ってしまっていた。聞こうとした質問をやめ、僕は彼女の話を聞くことにする。
「昔ね、夜見北にある生徒がいたの。その生徒は勉強も運動も出来て、その上性格もよくて、クラスの人気者だったの。ところが、3年になって、クラス替えで
その時、誰かがその子の机を指差してこう言ったの。『あいつは死んでなんかいない。ほら、今もあそこに座ってるじゃないか』って。……皆、人気者の死を信じられなかったのね。だから、そうやってその子がまだいるフリをし続けた……。学校側も協力して、卒業までそのフリは続き、卒業式にはその子のための椅子も用意されたらしいの」
なんだろう、特に何かおかしい話じゃない。むしろ美談の類にも思える。一体見崎は何を言いたいんだろうか……。
「ところがね、卒業式が終わった後の集合写真で、おかしなことが起こったの。その集合写真の端に、いないはずのその子が確かに写っていた……」
ゾクリ、と思わず何かが背中を走った。それまで伏せ気味だった視線を上げ、はっきりと僕を見つめつつ、彼女は続ける。
「それでね、その生徒……」
思わず生唾を飲み込む。まさか……。
「……『ミサキ』っていうの」
再び、僕の背中を何か冷たいものが駆け下りる。もしかしたら、と思いつつも、そんなはずはないと心では必死に叫んでいる。そんな非科学的、非現実的なことが起こるはずがない。
では……目の前にいる「見崎」は何者なのだろうか。
「……それ……本当の話なの……?」
僕の口から出たのは思っていた以上に乾いた声だった。その問いに彼女は答えない。ただ、小さく、クスリと笑っただけだった。
事ここに至って、僕は非科学的だの非現実的だの、そんなことを言って先延ばしにするのをやめにすることにした。今僕の目の前に彼女は、見崎鳴は本当にいるのかいないのか。まずそれだけでも知りたい。本人の口からはっきりと聞きたい。
そう思った時だった。僕の荷物の中から電子音が鳴り響く。
「ちょっとごめん……。……はい、恒一です。うん、大丈夫。遅くなってごめんなさい、ちょっと用事があって……。うん、もう少ししたら帰るから。……はい、それじゃあ……」
祖母との通話を終え、僕が終了のボタンを押すとほぼ同時、座っていた見崎が立ち上がった。
「……嫌な機械」
ポツリと彼女はそう呟き、僕に背を向けてさっき上がってきた階段を下りようとしている。
「あ……! ちょっと……!」
僕の声を無視し、彼女の姿が次第に見えなくなっていった。
追いかけようと僕は立ち上がるが――。
「閉店の時間だよ」
入り口の方から聞こえた声に驚いて顔を向ける。さっきまで座っていたことにさえ気づかない、というか忘れていたのだが、店番をしていた老婆が僕に声をかけてきたのだった。いや、それにしては存在感がまったくなかった、と言ってもいい。
「今日はもうお帰り」
顔を戻す。もう見崎の姿は見えなく、ため息をこぼして僕は入り口へと足を進めた。
「またおいで。興味があるならね」
いかにもその後に「ヒッヒッヒ」などと西洋ファンタジーの魔女が付け足しそうな口調で言った老婆の言葉に、僕は頭を一つ下げてから、忘れずに傘を持って外へと出た。
雨は上がっていた。雨上がりで冷えた空気を感じながら、僕は家路に着つく。
さっきあそこで聞いてわかったことをまとめるために頭を働かそうとするが、どうにもうまくまとまらない。僕の頭は完全に混乱していた。
と、そこであそこに入ったときに老婆が言った言葉を思い出した。
『ゆっくりして見ていきなさいな。
三度、僕の背筋を冷たいものがゾクリと駆け下りる。
それじゃあ……見崎鳴……。君はまさか、本当に……。
やだなー狂気に歪んだ風見君がナイフを片手に追い掛け回す展開なんてあるわけないじゃないですかー。