あなざー ~もしも夜見山北中学3年3組に「現象」がなかったら~   作:天木武

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 そして、期末テストは無事終わりを迎えた。見崎に頼まれたために数学と、あと数学のせいでほとんど時間が取れなかったが一応理科も少し見てあげた僕としては自分のテストの出来と同じぐらい見崎のテストも気になっていた。

 しかし余計な心配だったらしい。終わってから聞いてみたところ「まあ、多分大丈夫」という答えが返って来たのだった。どうやらまずい点数による補講、追試の類は免れられそうだ。

 かくいう僕も可も不可もない程度に手応えはあった。前回のようにクラス上位につけることは難しいだろうが、怜子さんに渋い顔をされることもないだろう。これで憂いは断てたというものだ。

 もっとも、勅使河原辺りはテストが終わった直後から青ざめていたから相当まずい出来なのだろうが。まあその辺りは冷たいようだが、僕の関係する範疇を超えている。いつか杉浦さんが言ったことではないが「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とでも考え、補講やら追試に励んでいただきたい。

 

 かくして夏休み前の最大の障害は無事終わりを迎え、あとは登校日も数える程度となって夏休みを待つだけとなったと言ってもいい、7月の土曜日。僕は市立病院に来ていた。定期検査である。今回はテストが近辺にあったということで、なんとか土曜日に予約をねじ込んでもらった。お陰で学校を休まずにすむ。

 長引くとか言われていたはずの梅雨はどこへやら、今日はジリジリと太陽が照りつけ、外を歩いているだけで汗が吹き出てくる。ああ、こんなことならおばあちゃんにちょっとお願いして送ってもらえばよかったかなと若干甘えた考えを抱きつつも、僕は市立病院に到着し、受付を済ませた。

 病院内はほどよくクーラーが効いてそこそこ快適だ。おかげでここまで歩いてきた時の汗は全部引いていた。

 それでも検査はやはり面倒なものだった。先月のように混んでいなかったことは救いだろう。結果は3日後、今回は少し無理を言って朝一の早い時間に予約を取ってもらった。これで遅刻で登校出来ることだろう。

 

 検査を全て終わらせて会計を済ませた後は、恒例になりつつあった、405号室への訪問である。だが、目的の部屋の主はそこにはいなかった。かかっている表札が違う人の物になっている。なんとなくは予想していたし、そこで間違えて入るのも恥ずかしいので、近くを歩いていた看護婦さんを呼び止めて聞いてみることにした。

 

「何かしら?」

「あの、405号室の藤岡さんに面会に来たんですけど……もう退院されました?」

「405……ああ、藤岡美咲さんね。先週末に退院されましたよ。経過も順調で、あとは自宅で様子を見ながら、という形になったみたいで」

「ああ、そうですか。それはよかったです」

 

 出来れば、連絡はほしかったけど。でもそう思うと同時、僕は彼女の連絡先を知らないことにようやく思い当たった。僕と彼女の接点は見崎であり、その見崎も何も言わなかった。というか、テスト対策で忙しかったからだろう。月曜日に会った時にでも聞けばいいか、と僕はお礼を言ってその場を立ち去ろうとした。

 が、その看護婦さんがまじまじと僕を見つめてくる。……なんですか、僕は不審者じゃないですよ。

 

「ねえ君、もしかして……水野さんが言ってた405号室だった子の彼氏君?」

 

 なるべく静かにするべき病院で、危うく盛大に抗議の声を上げるところだった。あのドジっ子ナース、またあることないこと言い回ったのか……!

 

「違います。……あの、確かに僕はここに入院してたこともあって水野さんは顔見知りですけど、あの人の言うことを信用しないでください。こっちとしてもあることないこと言われて困ってるんです」

「ああ、やっぱり。まああんまり本気にはしてなかったけど。でももてそうでうらやましいぞ、少年」

 

 ……そうですか。この病院の看護婦さんって皆こんなノリなんですか。意地でも気胸を再発させないようにしよう。この人たちのおもちゃにされるのが目に見えてる。

 

「じゃあ僕はこれで失礼します。ありがとうございました」

 

 あれこれ言われる前に逃げるに限る。まだ何か言いたそうな看護婦さんを尻目に、僕は早足でエレベーターのところへと退散し、丁度降りてきたエレベーターに飛び乗った。

 

 

 

 

 

 帰りは昼時ということもあって容赦ない暑さに拍車がかかっていた。どこかで昼食とかもいいかと思ったが、この暑さではどこかで食べるよりもさっさと帰って涼みたい衝動の方が勝ってしまう。とりあえず真っ直ぐ帰ろうかと家への道を進み、この辺りで割と賑わっている紅月町の辺りまで来た時だっただろうか。

 

「おや? こういっちゃんじゃないかい?」

 

 聞こえてきた独特の呼ばれ方に、僕は声の方へと振り返る。こんな呼び方をする人は1人しかいない。そしてその僕の予想に違わず、そこに立っていたのは私服姿の綾野さんだった。普段制服しか見ないからとても新鮮……というか、ファッションに疎い僕でもかなりのお洒落さんだとわかる格好である。

 黒っぽい帽子を被り、いくつかチェーンで繋がったチョーカーというものだろうか、首元を寂しくないように飾って、上は半袖Tシャツに下はキュロットのスカート、そこに本来上着のデニムのシャツを巻いて、荷物と思しきリュックを片方の肩にだけかけていた。

 女の子にとってはこのぐらい普通なのかもしれないが、僕からすると随分と気合が入ってるなと思ってしまう。「いやあこれからアイドルグループのオーディションがあってね」とか言われても信じてしまいそうなぐらいの格好であった。

 

「ああ、綾野さん。こんにちは。どこかにお出かけ?」

 

 そんなわけでそれだけめかしこんでどこに行くのか気になり、僕は尋ねてみる。

 

「んー。まあ特に目的とかないんだけどね。せっかくの休みでいい天気だし、家でゴロゴロしてるのも勿体無いなーと思って、ちょっと出かけてみようかなってとこ。中心部行けばそれなりに時間潰せそうなところはあるしね」

 

 この暑い日によくもまあ「勿体無い」という考えだけで出かけようと気持ちになれるなと、素直に感心してしまった。しかも「ちょっと出かけるだけ」でそれだけお洒落するのか……。女子ってすごいな……。

 

「そういうこういっちゃんは?」

「僕は病院の帰り。ほら、胸の検査の……」

「ああ。そういえば。こっち来て最初入院してたんだっけ。普段元気そうだからすっかり忘れてたよ」

 

 そう言うと綾野さんは屈託のない笑みを僕に向けてきた。本当に明るい人だ。そして活発的。さっき思ったことだが、こんな暑い日に進んで外に出ようというだけで、十分そう言えるだろう。……でも確か運動はてんでダメだったはずだけど。

 

「時にこういっちゃん、これから用事何かある?」

「えーと……ないよ。暑いから家に帰って涼もうと思ってたぐらい」

「それはよろしくないなー。……最近の若いもんはすぐそうやって軟弱なことを言い出すんじゃのう」

 

 わざわざ声を低くしての、ステレオタイプの塊ともいえるその物の言い方に僕は思わず苦笑を浮かべる。言ってる本人だって僕と同級生だ、「最近の若いもん」とか言われても困る。

 

「とにかく、じゃあこの後暇なんだ?」

 

 今の作った声がまるで嘘であったかのように、今度は普段通りに声を戻して彼女はそう尋ねてきた。

 

「まあね」

「そろそろ昼時だけど、お昼って食べた?」

「ううん。まだ。それも帰って食べようかと思ってた」

「じゃあさ、こういっちゃんがよければでいいけど、一緒にどっかで食べない?」

 

 ……なんと、予想外のお誘いだった。確かに今言ったとおり僕は家で食べようと思っていたし、断る理由も特にない。

 

「僕は構わないけど……。綾野さんこそいいの? どこかに行くんじゃ……」

「だから適当に歩こうとしてただけだって。ノープランのぶらり1人歩きの旅。そして旅は道連れっていうじゃない。そういうわけで、お昼一緒に、いい?」

「いいよ。あ、場所はお任せするよ。僕はこの辺りお世辞にも詳しいとは言えないから」

 

 一応お金はそれなりにある。学生のランチなら十分足りるだろう。……コース料理が出てくるようなすごいところに連れて行かれた挙句に「奢って」とか言われなければ、だが。

 

「よしよし。これでこういっちゃんとデートってわけだ」

 

 勝手にそんなことを言って、綾野さんは満足そうに頷く。いや、デートって……。

 

「あの、綾野さん……」

「あー冗談だって、冗談。そんなの泉美にばれたら何されるかわかったもんじゃないし。それにもう1人(・・・・)の方にも、ね。あくまで私とこういっちゃんはたまたまここで会って2人ともお昼がまだだったから一緒に食べる、ただそれだけなのだ」

 

 そう言って勝手に納得した様子で彼女はうんうんと頷いた。……まあそれでも見ようによってはデートとか取られてしまうかもしれないが。しかし同級生と昼食を食べるぐらいよくあることだろう。……多分。

 

「ま、仮にデートとしてもこの辺りじゃ適当にぶらつくか、遊ぶところとしては遊園地は……あるにはあるけどあそこは朝見台の方でかなり遠いもんなあ。なによりあんま立派じゃないし。やっぱり食事が妥当ってことになっちゃうか。……でも繰り返すけど、これはデートじゃありませんからね」

「はいはい、わかったよ。それで、どこに案内してくれるの?」

「そうだなあ……昼食……。うん、チェーン店よりはちょっと値が張っちゃうけど『イノヤ』にしよっか。喫茶店だけど、おいしいよ。ここからならそこまで遠くないし、中心部の方に行けるし、何より面白いものも見せられそうだし」

「面白いもの……?」

 

 イノヤ、という名前だけは聞いたことがあった。確か望月の家の方だったはず。

 

「それは行ってからのお楽しみ、ということで。……それでは参ろうか!」

 

 元気に綾野さんが僕の前を歩き始める。全く明るい人だなあと思いつつ、僕はそれに続いた。

 

「綾野さん、テストどうだった?」

 

 一緒に歩くのに無言と言うのも寂しいので、僕はまず無難な質問をぶつけてみる。期末テストは丁度昨日で終わったところだ。話題として一番適当だと思ったのだ。

 

「んもーこういっちゃん、今日と明日ぐらいはそのこと忘れさせてよー。こういっちゃんはいいかもしれないけど、私そんな成績よくないんだし」

 

 が、これは裏目だったらしい。つまらなそうに口を尖らせ、彼女に小言をぶつけられてしまった。

 

「ご、ごめん……」

「はい、違う話題。どうぞ」

 

 いや、あの、どうぞと言われましても……。

 僕が本当に困り顔でどうしたものか戸惑っていたからだろう。ややあって、彼女はため息と共に助け舟、というか話題を出してきた。

 

「……じゃイノヤの話でも。私は時々行くぐらいなんだけど、泉美があそこのお店に結構足を運ぶらしくてね。なんでもあそこのコーヒー……なんだっけ……ハワイ何とか……ハワイコナ? ハワイアンココナッツ? とにかく、それがお気に入りなんだってさ」

「へえ……」

 

 そう言われてもコーヒーのことはよくわからない。苦くて飲めないのだ。カフェオレならなんとか、というレベルである。

 

「はい、じゃあ次は君の番だよ」

「え、僕の番って……」

「私が一巡先延ばしにしてあげたんだから、何か話題出来たでしょ?」

 

 出来ません。そんなすぐ何か話題を思いつけといわれても……。元々喋り好きというわけではないのだ、はっきり言って無理である。

 そしてやはりそれを見るに見かねてか、先に口を開いたのはまたしても綾野さんだった。

 

「……こういっちゃんアドリブ弱いって言われるでしょ?」

「弱いって言うか……。え、その前にこれアドリブなの?」

「んー……。違うかな? でも提示された話題に咄嗟に反応するのは重要なことらしいよ。部活でたまにやってるし」

「ああ……。そういえば綾野さん演劇部だっけ」

 

 そこでようやくそのことを思い出し、同時に話題が出来たことに少し安心した。

 

「うん、そ。……生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」

 

 急に始まった彼女の1人芝居に一瞬虚を突かれる。だがここまで彼女のペースに振り回されたおかげか、なんとかすぐに我に返ることが出来た。

 

「上手だね」

「……本当にそう思ってる?」

「思ってるよ。……元は詳しくは知らないけど」

「じゃあうまいかどうかなんてわかんないじゃない」

 

 彼女は頬を膨らませる。それがまたどことなくかわいらしい。

 

「でもこの間の久保寺先生の真似はうまかったよ」

「先生の? ……ああ、クーラー云々の時のあれね。まあ先生真似しやすいからね。……真似をしやすいからと言って、そうやって人を馬鹿にするような態度はいただけませんよ、榊原君。よろしいですか?」

 

 再び披露された先生のモノマネに僕は思わず声を殺して笑った。文句なくうまい。知ってる人なら大方笑うことだろう。

 

「うまいうまい。さすが演劇部」

「……こういっちゃん、うちの部を根本から勘違いしてるでしょ。うちはモノマネ部じゃないの、演劇部だよ? それに演技については私より泉美の方がすごいわよ。普段あんなきつそうだから、高飛車な役とか男装の麗人みたいなのは元から完全にハマり役だけど、おしとやかな役からいかにもヒロインな役まで、なんでもやっちゃうんだから」

「ああ……。そういえば赤沢さん、部長だっけ。そうなんだ……」

 

 あの赤沢さんが、ねえ……。あまり想像できない。

 

「文化祭が演劇部3年生の最後のステージになるから、その時に泉美の演技見るといいわよ。……ってその時は私もステージの上か。私のことはあんま見なくていいから。あとうちのクラスだと由美だね。由美はわかるよね? 小椋由美。その2人だけ見とけばいいよ」

 

 そうはいかないだろう。うちのクラスの女子3人、その時はちゃんと見ようと思う。

 

「あ、そういえば」

 

 その演劇部云々の話で思い出した。僕と見崎がしばしば世話になるあの部屋の「主」は、確かその部の顧問だったはず。

 

「ん? どうかした?」

「千曳先生。演劇部の顧問なんだよね?」

「へえ。こういっちゃん、千曳先生のこと知ってるんだ。うん、そうだよ。うちの顧問。……こういっちゃんから見て先生ってどういうイメージ?」

「どういう、って……」

「堅物で、口数少なくて、なんか気難しい、みたいな?」

 

 お見事。適確すぎる評価にもう何も付け加えられなかった。

 

「私も最初はそうだと思ったんだけどね。あれでいて演技指導すごく上手なんだよ。指導するときの演技とかすごいかな。普段の雰囲気はまるで嘘みたいに役に入り込むっていうか、言うなれば何かが乗り移ったみたいな感じ」

「乗り移る?」

「そ。私達は『憑依した』とか例えてるけどね。初めて見たとき鳥肌が収まらなかった記憶があるよ」

 

 やはりなかなかに熱い人だ、千曳先生……。そんな演技を見てみたい気もするが……演劇部に入るのはためらわれる。普段「やってください」って頼んでも多分やってはくれないだろうしなあ……。

 

 僕がそんなことを少し考え込みながら歩いていた時だった。不意に腕が掴まれる。そのまま路地の曲がり角の方へと引っ張られた。引っ張った主は隣を歩いていた綾野さんに他ならなかったわけだが、だったら事前にそういうことは言ってほしい。正直ちょっと痛かった。肩が外れたりでもしたらどうしてくれるのだろうか。

 

「痛っ……! 綾野さん、どうし……」

「しーっ! ……見て、こういっちゃん」

 

 右手の人差し指を口の前に立てながら、空いてる左手の人差し指で彼女は何かを指差す。僕も物陰からその先へと視線を移した。

 そこにいたのは1組の男女だった。背の高い高校生ぐらいの男の人と、その隣にそれより年下そうな、女性にしても小柄と言っていい、おそらく見崎と同じぐらいの身長の女子が並んで仲良さそうに歩いていた。綾野さんほどではないにしろ、女子の方もなかなかおしゃれをしている。だがなぜ綾野さんが僕に静かにするように言ってあの男女を指差しているのかわからない。

 

「……あのカップルがどうしたの?」

「こういっちゃん気づかない? よく見てよ。多分あいつ(・・・)が横向けば気づくと思うし」

 

 あいつ? ということは彼女はあの人達を知っているのだろうか。

 ……などと思っていた矢先、少女の方が横を向いた。そしてその横顔に思わず「あっ!」と声を上げそうになり、慌てて口を塞ぐ。

 

「ね? わかった?」

 

 口を塞いだまま数度頭を縦に振り、ようやく落ち着きを取り戻した僕は口に当てた手をどかした。そう、あの横顔は間違いなく同じクラスの……。

 

「あれ……小椋さん?」

 

 綾野さんと仲が良く、同じく演劇部所属の小椋さんだ。僕と直接話したことはあまりないが、赤沢さんの招きで昼食会の時はよく顔を出していた。

 

「そ。……由美め、やっぱりいたか。もしかしたらこの辺歩いてるかなーとか思ってたら、ビンゴね」

 

 ……ということは綾野さん。「目的がない」とか言いながら小椋さんが行きそうな場所を把握しておいて、見かけたら茶々入れようとしてたわけか……。

 

「……でもこの状態でからかいに行くとこっちがやぶへびになりそうだし、声はかけないでおこうかな」

「やぶへびって……。いや、その前に隣の人……彼氏? 少し年離れてそうだけど……」

「彼氏……。まあ彼氏っちゃ彼氏か。……あれ、あいつの兄貴よ。名前は小椋敦志」

 

 驚きの声を上げかけて、そこでかつて勅使河原が言っていたことを思い出して僕は納得の声を上げた。確か「結構なブラコン」とか言ってた気がする。パッと見、それなりに年が離れているように見えるのにあれだけ仲良さそうに歩いていたら……そりゃそう言われても仕方ないかもしれない。

 

「あいつの兄貴ってひきこ……フリーターでさ。結構ネットで怪しげなサイト覗いてたり匿名掲示板に張り付いたりしてるらしいの。私もよくわかんないんだけど。で、そんな兄貴にあいつはべったりくっついてるのよ。おかげで色々普通の女子中学生が知らないようなマニアックな情報まで知ってたりするわけで。……ほら、以前見崎さんのことを『ジャキガン系』とか言ってなかった? 多分あれもそう。兄から仕入れた情報なんだと思う」

 

 なるほど……。普段のあまりいい表情を僕に向けない小椋さんからは想像できない。だが現に今、横顔で見える彼女は物凄く楽しそうに笑っていた。……はっきり言ってあんな表情は初めて見た。杉浦さん程ではないにしろ、僕は彼女の笑顔をあまり見たことがなかっただけに非常に意外だった。

 

「あ、角曲がる。……ほら行くよこういっちゃん!」

「行くって……。どうせ声かけないんでしょ?」

「かけられないけど、どこに行くかは気になるでしょ!」

 

 綾野さんは尾行をやめる気はないらしい。なんだか物凄くやる気の彼女を見ては、止めるに止められなかった。ため息をこぼしつつ僕は彼女についていく。

 しかし、それはすぐ終わることとなった。2人が行きついた先はある喫茶店だった。仲良くその店の中へと入っていったところまでを確認して「あちゃー」と綾野さんが困ったような声を上げる。

 

「どうしたの?」

「……こういっちゃん。店名」

 

 そう言われて店の看板を見て僕は彼女が言いたいことを把握した。店の看板にはこう書いてある。「喫茶店・イノヤ」。つまり、僕達の目的地に先に入られてしまった、と言うことになる。そしてさっき彼女が「やぶへび」と言ったのは、彼女と僕が一緒に歩いているのを見られては勘違いされる可能性があるから、ということだろう。

 まとめるなら、イノヤでの昼食がなくなった、と言い換えてもいい。既に小椋兄妹がいる以上、ここで僕達が入って行ってはあらぬ誤解が発生する可能性がある。そうでなくても向こうもこっちに見られるのはあまりいい心地はしないだろう。どこか違うところを提案しようと僕は綾野さんに声をかけようとするが、

 

「……もうちょっと待ってみよう。出てくるかもしれないし」

 

 何に期待してか、綾野さんはそう言った。だったら、と暑い中、日陰でしばらく待つ。だが数分しても2人が出てくる様子はなかった。

 

「……いや、まあよく考えたら出てきたら出て来たで、てっしーかもっちーがいてまずいと思って出てきたって辺りだろうから、どの道無理だったか」

 

 そう言うと彼女は大きくため息をこぼす。

 

「どういうこと?」

 

 その発言の意図を図りかね、僕はそう尋ねた。

 

「ここね、結構来る人多いのよ。さっき言った泉美でしょ。あとてっしーも来るし、風見もたまにあいつに連れられてくるかな。ちょいと値段は張るけどたむろ(・・・)するにはもってこいの場所だし、雰囲気いいしね。まあもっちーの場合はそういう事情抜いて来るんだけど」

 

 そういう事情を抜いて? なぜ望月だけそうなのだろう? 僕が首を傾げているのがわかったのだろう。綾野さんは「ちょっと待ってて」と言い残し、潜んでいた場所から歩き出す。そのまま、何気ない様子で店の前を素通りした。そして陰の方に入ると僕を手招きして呼ぶ。その招きに応じて僕は彼女の元へと駆け寄った。

 

「由美の奴、丁度奥の方に入ったみたい。助かったわ。……あのウェイトレスさん、見える?」

 

 そう言って彼女はガラス越しに1人の店員と思しき女性を指差した。美人なお姉さんがオーダーを取っている様子が見える。年の頃20代半ば、といったところだろうか。

 

「うん。あの女の人がどうかしたの?」

「……あの人の名前、望月知香さんっていうの」

 

 望月。それで僕は彼女が言いたいことを察した。

 

「じゃああの女の人って……」

「そ。もっちーのお姉さん。ただし、異母姉……『腹違い』ってやつね」

「腹違い……」

「さて、こういっちゃんもここまで言えばなんとなく次に私が何て言いたいかわかるでしょ?」

 

 次に何て言いたいか? ……なんだ? あの人は望月の異母姉で年が大分離れている。そして望月はたむろとかいう事情抜きに来る――。

 

「あっ……。もしかして……」

「さて、思い当たる節があるようだね。では君の推理を聞こうかな、名探偵こういっちゃん」

 

 演劇部特有の雰囲気を出した声で綾野さんはそう語りかけてくる。しかし誰がいつから名探偵に……。まあいいや。

 

「もしかして望月の年上趣味って……。あの人が原因ってこと?」

「素晴らしい! ……まあ確証はないけどね。でもまことしやかにそう言われてるよ。もっちーの年上趣味は、あのお姉さんが原因じゃないか、って。ついでに言うと、さっき言った『面白いもの』って、まあこれのことなんだけどね」

 

 へえ、と思う。兄が大好きな小椋さんに異母姉に憧れを抱く望月。うーむ、やはり3年3組は変わり者が多い。

 

「とにかく……。イノヤは今日は諦めるしかないか……。まあそのうち泉美に誘われるんじゃないかな? その時にでも来るといいよ。ただ、コーヒーを強制的に飲まされると思うけど。私もそうだったし」

 

 あははと困ったように綾野さんは笑いを浮かべた。

 

「しかしそれはさておくとして……。お昼どうしよう?」

「確かこの辺りにファミレスあったよね? そこでいいんじゃない?」

「ファミレス……ああ、あった! こういっちゃんよく知ってるね!」

「まあね。この間水……入院中に仲良くなった看護婦さんに連れてきてもらったから」

「ああ、なるほどね」

 

 そう言うと綾野さんは道がわかるのだろう、先頭を切って歩き始めた。が、少し歩いたところでよくない(・・・・)笑みと共にこちらを振り返る。

 

「……こういっちゃん」

「何?」

「その看護婦さん……うちのクラスの水野猛の姉でしょ?」

「え……? どうしてそれを……?」

「あ、本当にそうなの? いやさ、苗字言いかけてやめたから、私も知ってる人の身内とかかなーと思ってカマ(・・)かけてみたの。確かあいつの姉看護婦だったって聞いてたし。……それにしてもこういっちゃん、この程度でひっかかっちゃうなんて、わかりやすすぎ」

 

 ニマニマと笑顔を浮かべながらそう言われても、もはや返す言葉もない。同時に、綾野彩恐るべしとも思うのだった。

 

「別に僕と水野さんは……」

「大丈夫、わかってるって。今日の私と同じみたいなもんでしょ? たまたまご飯食べに行っただけ、と。……だってこれはデートでもなんでもないんだし、ね」

 

 そう言いつつ、綾野さんは今度は普段通りの笑顔を僕に向けてきたのだった。「喜怒哀楽」でいうなら「喜」と「楽」しかないんじゃないか、と思わせるような明るい彼女の表情。なんだか、それが少し眩しかった。

 

「だから今日のことは2人だけの秘密だからね? ……特に泉美には絶対言わないでよ。さっきの水野の姉のことも含めて」

「うん、わかったよ。そうする」

「よろしい。……じゃあさっさと行こうか。由美尾行してたらお腹減っちゃったしさ。それに何より暑いもんね」

 

 そう、彼女の言うとおり暑い。いい加減涼みたい。そんな風に思いつつ、僕達は昼食を取る予定のファミレス目指して歩き始めた。

 




綾野さん当番回。
割と下の名前で呼ぶことが多いみたいなので(赤沢さんのことは泉美、杉浦さんのことは多佳子って呼んでたはず)仲のいい小椋さんも多分下の名前で呼ぶだろうと想像して書いています。劇中では互いに呼び合うシーンはなかった……はず。
彼女の格好はアニメの4話の私服ということで描いてますので、それをイメージしていただければ。なお、その分のおかげでか、彼女は設定資料集で見開き分で2ページという、アニメオリジナルの実質モブとしては破格の待遇を受けています。これは風見や千曳さんというそこそこ重要キャラと同じページ数ですので、かなりの好待遇になると思います。
自分にとっても綾野さんは結構好きなキャラで出来れば生き残って欲しかったので、明確に死亡シーンが描かれなかったことに一路の希望を抱いてもいました。
が、公式の座席表でその思いは無残に打ち砕かれました……。
そんなことを思い出しつつ、この話を書いた次第であります。やっぱり彼女には笑顔が1番似合うと思うんですよね。

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