お止めくださいエスデス様! 作:絶対特権
ハクの配下にチェルシーと言う女性がいる。
童顔メガネな彼女は、ハク直属の侍女長であった。
少なくとも、表向きは。
橙色の髪といつも舐めている飴が特徴的な彼女は実は化粧箱の帝具『変幻自在』ガイアファンデーションの使い手であり、超一流の間諜である。
「買い物かぁ……」
彼女の故郷での女官の制服に、首から掛けたホイッスル。適当に突っ込んだ化粧用具と奥の手用の手鏡が、彼女の専らの携帯物であった。
ホイッスルは、呼ばれて飛び出て正義執行な同僚を呼び出して盾にする為。
化粧用具は変装用で、手鏡は戦闘用と言った分類であろう。
「……まあ、仕事なんだけどねぇ」
別に自分じゃなくても、例えばエアとかファルとかでも良いではないかというのが彼女の考えであった。そもそも彼女は基本的に潜入捜査が主な為、休みが殆ど無かったのである。
もっとも、最近一ヶ月間は完全に主が休眠態に入っていたからひたすらヨガをしたり紅茶を飲んでリラックスしたりの毎日だったのだから、別にブラックというわけではないが。
「あー……林檎林檎」
「んぁ?」
黒髪オカッパ、腰にカトラス。
カトラスの柄に刻まれた印と文字、纏う雰囲気からして、それは明らかに帝具だった。
「よお」
「は―――ったぁ!?」
挨拶がてらに刃をどうぞと言わんばかりに、カトラスが鞘走る。
辛くもヨガで鍛えられた柔軟さで鳩尾から上下両半身泣き別れコースを回避したものの、チェルシーは正にギリギリだった。
そもそも、何故こうなったかがわからない。自分はただ、林檎を買おうとしただけではないか。
「何、林檎!?林檎が悪いの!?」
「悪いのはお前の存在だ!」
取り敢えず顔面目掛けて投擲した林檎がカトラスで両断されたのを見て、チェルシーは懐から林檎一個分の代金を店主に向かって投げ、逃走する。
初対面のチンピラに人格どころか存在そのものを否定されるという中々に稀有な経験を体験したチェルシーの思考は、一つだった。
逃げる。それだけである。
「待て、眼からビーム女!」
「はぁ!?眼からビームだすのはハクさんだけで充分だって―――」
迫る足音に立ち向かうように振り向き、チェルシーはかっ飛んできた真空の刃を屈んで避けた。
言葉を途中で切ってまでやる行動は、ただ一つ。
「―――言ってんでしょ!」
足払いである。もとよりまともに勝負する気もなければまともな勝負になる実力もないのだ。
ならば、意表をつくにしても時間稼ぎが第一であろう。
「うおっ!?」
「ださっ」
ぽろっ、と。思わず漏れたかのような一言に残心の状態で足を払われ、尻餅をついた男の頭の中の何かか切れた。
「…………殺す」
「やば、つい本音が……というか元から生かす気など微塵もない太刀捌きだったから今更感がすご―――」
いんだけど。
おそらくはそう続くであろう言葉が真空の刃によって物理的に斬られる。
正にその言葉を切られた形のチェルシーはひらひらと落ち行く自分のリボンを見て、思った。
死ぬかも、と。
「次は耳だ……」
「お断りします」
熊に相対した時の人間の如く、チェルシーは背中を見せずにジリジリとさがっていく。
真空の刃は、喰らえば即死。追いつかれたらもれなく即死。背中を見せたら避けることは困難だし、先ほどのように偶然という名を冠した女神が彼女に微笑んでくれるとは限らない。
ならば。
「……なんの真似だ」
「笛を吹く真似、かな」
天を切り裂くような笛の音が帝都を駆け、残響を残して消えた。
別に帝具でも何でもない、文字通りなんの変哲もない笛。貴重な一瞬を使ってまで唐突に鳴らしたそれは、黒髪オカッパ腰カトラスな不審者の僅かばかり残った警戒心に触れる。
見るからに戦闘力がない。鼠みたいに脚が速いだけだが、それも彼の友であるシュラには劣るだろう。
「なるほど、仲間でもいんのか」
「……逆に言うけどさ。この状況でその結論に行き着くまでに三分かかるってのは、どうなの?
ほら、知能的に―――」
真空の刃が、再びチェルシーの計算された挑発を切った。
彼女からすれば、いきなり斬りかかってきた黒髪オカッパ腰カトラスはただのキレやすい近頃の若者でしかない。つまり、先の無意識に出てしまった挑発で充分に警戒心を殺げていると思っていたのである。
だが、まだ考える頭脳があった。そもそも彼女からすれば黒髪オカッパ腰カトラスは初対面でしかないが、彼からすれば怨根渦巻く仇敵であり、先ほど出たシュラという男に着いて帝都に行く原因の一つでもある。
「テメェはシュラにプレゼントしてから、殺す」
「うわぁ……本人の前でそれを言いますか……」
女として凌辱してから殺します、と明言した黒髪オカッパ腰カトラスに、チェルシーは少し頭を抱えた。
繰り返すが、彼女には何故林檎を買いに行くだけで不審者に襲われたかがわからない。そもそも遺恨の元がわからない。
「私、君に何かした?」
「西の海で光る舟に乗ってたのはお前だろうが!」
光る舟、西の海。
その二つのキーワードで探してみれば、チェルシーの頭の中には光るものがある。
「海賊かぁ……」
チェルシー若かりし頃、彼女は休暇をとってはハクに舟を借りて空を翔け、海に浮かべて釣りを楽しんでいた。ヨガ・紅茶に続いてまたしても年寄り臭い趣味だが、それはこの際どうでもいい。
問題は、その時に海賊に襲われている商船を見つけたことである。
本質的に善人であり、怜悧になりきれない甘さを人格の内に含んでいる彼女は、容赦なく『護身用に』と言われて積まれていた45センチ主砲をぶっ放した。
砲弾ではなく光線の束を集束させて飛ばすそれは、見る者すべてが頷く正しきビームであったろう。
「あの所為で部下は全滅、船は轟沈。海賊を廃業せざるを得なくなった……この恨み、晴らさせてもらう」
「……なんだ、逆恨みじゃん」
チェルシーは安堵した。海賊かぁと言ってみたものの、あの時商船ごと消し去ってしまっている可能性も無きにしもあらずだったからである。
助けようとしての間違いだとは言っても、罪は償うべきだった。
もっとも、罪など犯していなかったのだが。
「問答無用、だ!」
「……あー、めんど」
頭を一、二度掻き、チェルシーは迫りくる斬撃をまたしても避けて、言った。
「ここならいっか……」
「何?」
場所は路地裏、人気もない。人目に関しては人一倍敏感な自分がそれを感じないのだから、それもない。
建物と建物の隙間。日は閉ざされ、暗い空間。
パチリ、と。風の吹きとおるしかない暗がりに、鳴らした指の音が鮮やかに響く。
「奥の手」
――――変身。
手鏡から漏れた光がチェルシーの爪先から頭までを包み、隠す。
黒髪オカッパ腰カトラスことエンシンは、その強い光に思わず身構えた。
そして。
「……?」
特に何も起こらない。起こった変化を強いて言うならばチェルシーの姿が消えているくらいであろう。
騙された、と気づいた時にはもう遅い。
「帝都警備隊隊長、セリュー・ユビキタスです!」
件の笛で呼び出された、執行者の姿がそこにはあった。