エクストラダンガンロンパZ 希望の蔓に絶望の華を 作:江藤えそら
ベッドの上、混濁した意識が少しづつはっきりとしてくる。
寝ているような寝ていないような、微妙な感覚の中を一晩中さまよっていたような気がする。
目が覚めたらここは家の中で、何事もなく俺は家族と顔を合わせ、朝食を摂る……。
そうなってくれればどんなにありがたかったことか。
だが、俺がその朝最初に見たのは、見慣れぬ天井だった。
そして最初に聞いたのは、あの耳障りなヌイグルミの声。
「おはよう、オメーラ! 7時だぞ! 起床時間だ! 今日も頑張れよな!」
ああ……。
これは、本当に現実なのか。
昨日さんざん確認したのに、まだそれが信じられなかった。
他のみんなは何も思わずこの生活を受け入れられているのだろうか?
考えても仕方がない。
腹も減ったし、食堂にでも行こう。
食堂に着くと、早速「おはようございます!」という丹沢君の挨拶の洗礼を受けた。
彼が読んでいるのは休憩室に置いてあった漫画雑誌のようだ。
「あ、ああ。おはよう」
「葛西君、おはよう!」
丹沢君に続いて、優しい笑みを浮かべた小清水さんが声をかけてきた。
「大丈夫? よく眠れなかった?」
逆に元気そうにしている小清水さんはよく眠れたのだろうか?
この状況下で不安を抱かずにゆっくりできたのだろうか?
昨日の彼女の言葉通り、本当に学者とは自由奔放な人たちなんだな。
「おはよう。俺は大丈夫だよ」
小清水さんに心配をかけるわけにもいかず、とりあえずの返事を返して席に着いた。
「俺も昨晩は不安で眠れねーかと思ってたんだけどよ、いつの間にか爆睡してたわ!」
土門君がそう言って高らかに笑った。
「土門君ったらね、私より起きるの早かったのよ。最初が彼で、次が私で、次が丹沢君で……あとはほとんどみんな同時かなー」
小清水さんがテーブルの周りの面子を一瞥しながらそう言った。
ここには相変わらず療養中のリュウ君と来る気がないであろう御堂さん、それと前木君と安藤さんと津川さん、山村さん、釜利谷君、入間君がいない。
…って結構いないじゃないか。
「あ、巴ちゃんと入間君とリャンちゃんは今朝食作ってくれてるのよ。入間君がフレンチの腕前を披露したいんだって」
入間君のフレンチ……。
極上級の味を作り出してくれる可能性もあるが、その一方でゲテモノを携えてくる姿も容易に想像できるから恐ろしい。
「あー、ねむ……。土門さー、早起きの秘訣とかあるー?」
机に突っ伏した体制のまま亞桐さんが低い声で尋ねる。
「んあ? 秘訣なんて特にねーよ。体が勝手に五時には起きるようになってんだ。ま、流石に11時過ぎて起きてるときついけどな」
なんて規則正しい生活だ。
俺なんて小五の頃には既に日付を超えて起きることを覚えてしまったというのに。
「うわー、うらやま…。やっぱ仕事柄早く起きなきゃダメな感じ?」
「まあ、大工ってのは早朝から仕事することもあるからな。でも、そこまで仕事に影響されたわけじゃねえよ。親父が元々早起きだったから……」
そこまで言って土門君は不意に言葉を止めた。
「……いや、まあ、そういうこった」
今の間はなんだったのだろうか。
気になるが、好き好んで尋ねる話題でないことだけは確かだ。
「お…おはふぉー……ごふぁいまひゅ……」
ふらふらとした足取りで遅れて食堂を訪れたのは安藤さんだった。
髪はボサボサで目にはクマができており、徹夜していたのが一目でわかる。
「安藤殿! あれだけ徹夜で描いてはいけないと注意いたしましたのに!」
丹沢君が語調を強めて安藤さんを叱りつける。
「いやあ…しかし……あいであ…とは……その時らけの…もの…でふから……思いついたときに…描かねば…いかんと…思いまふぃて……」
たわごとのように呟きながら、亞桐さんのアシストを受けて安藤さんはやっと席に着いた。
「ご飯食べたら一旦部屋に帰って寝た方がいいと思うけど……」
困惑した表情で小清水さんが告げると、安藤さんは「そうさせてもらうでござるでありますだぴょーん」と敬礼しながら答えた。
漫画家って普段から徹夜しまくってるんだと思っていたけど、意外と安藤さんは慣れていないんだな…。
この壊れっぷりを見ると慣れてないのがよく分かる。
「しっかし、まえなつと三ちゃんも遅いな」
土門君が腕を組みながら不機嫌そうにつぶやく。
”まえなつ”は前木君でいいとして……”三ちゃん”は釜利谷君のことだろうか?
このままじゃ俺も”ゆっきー”とか呼ばれかねないな。
というかむしろ呼ばれたいと思っている自分がいる…。
と、噂をしていると。
「うぃ~、おっはよーでーす…」
あか抜けた声で前木君が入ってきた。
見ると、なんと彼は眠りこけた釜利谷君の肩を持っているではないか。
肩を組んだ状態ながら、釜利谷君はしっかりこうべを垂れて熟睡していた。
この睡眠根性、凄すぎである。
「か、釜利谷君! この期に及んで寝ているのですか!?」
丹沢君が慌てて前木君が持っている腕とは反対側の腕を持ち、釜利谷君を席に座らせた。
「ふう、さんきゅー。三ちゃんったらよー、まともに運動したの半年ぶりとかだったらしくて、疲れて全く起きねえのな。二十分くらいチャイム鳴らしまくったら鍵だけ開けてくれたんだけどよ。扉開けたら扉の前で倒れてやんの。だから仕方なく俺が運んできてやったんだよ」
まさか、俺の知らないところでそんな激闘が繰り広げていたとは。
「あぁ、ごめんな。せっかく早起きしてたんだから、俺が気づけばよかったな」
土門君が頭をかきながら言ったが、「いや、別に大丈夫だよ」と前木君は席に着いた。
「はあ、朝から体力使っちまったな。飯まだかー?」
はっはっは、と高らかな笑いが厨房からこだまする。
見ると、エプロンに身を包んだ入間君が料理の並んだ皿を両手に持って厨房から出てきていた。
「いやあ、皆さんおはようございます! Good morning!! よい朝は良い朝食からはじまります。わたくしのスペシャルフレンチで生気を養いまshow time!!」
相変わらずよく分からないテンションで料理を運ぶ入間君。
「おはようございます、皆さん! 本日もよろしくお願いします!」
後に続いて出てきた山村さんはそう言って律儀にお辞儀をした。
「お、おはよう……なり…。…えへへ……」
愛想笑いのように引きつった笑いを浮かべる津川さんも厨房から出てきた。
まだ昨日伊丹さんに言われたことを引きずっているのだろうか…?
でも、語尾が戻っているということは一応の仲直りはしたのだろう。
早く元気な姿を取り戻してほしいものだ。
◆◆◆
結論から言うと、入間君のフレンチの味は悪くなかった。
逆にリアクションに困るぐらい普通においしかった。
ただ…どんな焼き方をしたのか知らないが鋼鉄のように固いフランスパンにだけは各々苦戦しているようだった。
「…さて、今日はどうしようかな」
何気なく食堂を後にした俺は、早速前木君に目をつけられた。
「おおっ、葛西じゃねーか! お前も来いよ! バドしようぜバド!」
「えぇ? 運動はあまり…」
後ずさろうとする俺の腕は前木君の横に立つ土門君にがっしりと掴まれていた。
「よぉし、決まりだ! ホール行くぞっ!」
横を見ると、釜利谷君も土門君に捉えられているではないか。
「やめろやめろクソ野郎が!! なんで寝かせてくれねえんだよっ!!」
流石に腕を引っ張られても寝ている余裕はなかったのか、そう叫んで必死に抵抗している。
俺も同じ運命のようだ…。
無駄に抵抗するのはやめておこう。
そしてこの後、俺は限界までバドミントンをさせられたのだった……。
「はぁ……はぁ……」
俺は息をついてホールの床に寝っ転がっていた。
前方では依然として前木君と土門君がラケットを振るっている。
もう、へとへとだ。
思えば、中学でも文化部に所属していた俺にとってこんな本格的な運動なんて縁がなかったのだ。
下手すぎて三人のうちの誰にも勝てないし。
何しに来たんだ俺は。わざわざ負けに来たのか?
などとふてくされながらちらりと隣にいる釜利谷君を見た。
寝ているのかと思ったが、意外と真剣に二人の試合を見つめていた。
食事の前ですら寝ていたのに、スイッチの切り替え場所がよく分からない。
「…なんだよ」
見つめられたのが不快だったのか、釜利谷君がそう言ってきたので慌てて俺は視線を試合の方に戻した。
「い、いやあ。眠くないのかなって」
「フン、いつも眠くて悪かったな」
しまった。完全に失言だった。
「面白いことしてると眠くなくなるんだよ。お前だってゲームしてるときは眠くならないだろ? 脳はそういう風にできてんだよ」
…まあ、理屈はわかるが、釜利谷君の場合はいささか極端すぎはしないだろうか?
「じゃあ、バドミントンが面白いってこと?」
「…フン。ちょっとだけな。体動かすのはあまり好きじゃなかったけど、やってみたら意外と悪くなかった。それだけだ」
確かに、釜利谷君はインドア派に見えるがなかなかバドミントンは上手かった。
前木君とほとんど互角、体格のいい土門君ともそこそこ戦えていた。
……だからこそ、俺の下手くそっぷりが余計に浮いたのだが。
「俺は自分が楽しいと思うことしか極力しないことにしてんの。楽しくないことをしたって時間の無駄だろ? 俺は人生っつー限られた時間を最大限に使いたいワケよ」
自分の楽しいことだけをする…。
簡単なことのようだが、人生はいいことだけで構成されてるわけじゃない。
俺にとって脚本を書くのは楽しいことなのだろうか?
少なくとも苦ではない。
楽しいと思う瞬間はたくさんあるしお客様の反応を見るのもとても幸せな気分にはなる。
だが、それが義務になってはいないだろうか?
お客様に何かを訴えかけること、それがいつの間にか義務になってしまっているのではないか?
本当に俺は、心から脚本制作を楽しめているのだろうか?
「義務で仕事するようになったらおしまいだぜ。俺の親父みてーにな」
俺の胸中を察するかのように釜利谷君は呟いた。
「俺の親父は…はっきり言やあ、凄腕だったよ。脳手術の神様って呼ばれるくらいにはな。だが、その凄すぎる技術が親父をダメにした。…いや、もっと言えばその凄すぎる技術への向き合い方だな。自分の技術に誇りを持っていた親父はできる限り多くの人を救おうとした。寝る間も食べる間も惜しんで、だ。当然過労でぶっ倒れた。今も入院中だよ」
タブーと思い触れてはこなかったが、彼の父……釜利谷医師は先月ほど、突然過労で倒れ、大きな話題となった。
息子である彼の心中はいかばかりだろうか。
「結局自分が医者の世話になって病院にも患者にも迷惑かけてやがる。だからダメなんだ。仕事を義務だと思ってやるからそんなことになる。人間なんてのは、楽しめることだけしてりゃいい。俺は脳の研究は興味深いと思う。だから続けてる。でも、自分が苦しみそうになったらそれ以上手は出さねえ。そう生きるのがベストだって親父から学んだんだよ」
自らの思いを切実に独白する釜利谷君の口調は、心なしか少し怒気のような、しかし寂しさのようなものも含まれているように感じた。
「…葛西。お前にとって脚本を書くのは楽しいか? それが、ちゃんとした”天職”になってるのか?」
「…分からない。この仕事を楽しめているのか、俺にはよく分からないんだ。でも…それでも俺は脚本を書きたい。これは義務じゃなくて…たぶん意欲だと思う」
俺は自分の思っていることを率直に述べた。
楽しめているかは分からないが、今も俺の心のうちに湧き上がる”脚本を書きたい”という意欲は本物だ。
ならば俺はその意欲に率直でいたい。
「そーか。なら続けりゃいいんじゃねーか?」
釜利谷君はそれだけ言って床に寝っ転がり、いびきをかいて眠り始めた。
彼のこのだらけた態度にもちゃんとした理由があるのだと分かり、少し彼への見方が変わったような気がした。
「ふぅー! 疲れた疲れたー!」
ちょうどその時、土門君と前木君の二人がバドミントンを終えてこちらに歩み寄ってきた。
「いやー、やっぱ体を動かすって楽しいな!」
土門君が背伸びをして床に座り込みながら言った。
「ふぅ、俺はヘトヘトだわ……」
一方で前木君は喋る余裕もないようでゴロンと釜利谷君に並んで床に寝っ転がってしまった。
前木君が体力限界で土門君がまだ余裕そうという様子は昨晩とは逆の構図だ。
「二人とも、俺の部屋に来ねえか? 休みがてら適当にダベろうや」
そういう土門君の誘いで、俺と前木君は土門君の部屋を訪れることとなった。
爆睡する釜利谷君を置いてきぼりにしたのは少し気になるが……。
◆◆◆
「おじゃましまーす」
土門君の部屋にはビニールシートや作業着の替えなどが整然と並べられていた。
大ざっぱそうで意外とまめな彼の性格をよく反映している小奇麗な部屋だった。
俺と前木君は部屋に置いてある椅子に腰を下ろす。
「俺の私物は大体ここに届いてたんだがな、工具だけが見当たらねえ。大方、あの鉄板を外されるのが嫌であのヌイグルミが盗みやがったんだろうな」
土門君が不機嫌そうに監視カメラを睨みながら呟く。
「まあいいや。俺のオススメの麦茶があるからよ、遠慮せず飲め」
そう言って彼は部屋に備え付けの小さい冷蔵庫からペットボトルに入った麦茶を取り出し、コップに注いでくれた。
「んぐっ…ぷはーっ! いやあー、汗かいた後のキンキンに冷えた麦茶はサイコーだな!」
前木君が麦茶を一口で飲み干すと気持ちよさそうにそう言った。
俺も後に続いて麦茶を飲んでみると、まるで山奥の渓流の水を飲んでいるかのような冷たさと心地よさが喉の奥を通り抜けていった。
「あぁ……おいしい…」
思わず声が漏れていた。
「へへっ、だろ? ま、俺が作ったんだけどな」
土門君はお茶目に笑いながらベッドに腰掛けた。
「へえー、お前麦茶作るの上手いんだな!」
前木君が褒めると、土門君は「慣れだよ慣れ」と頭をかきながら答えた。
「下積み時代は結構パシリ的な仕事ばっかやらされてたからなぁ。親父の手伝いすらやらせてくれなかった」
「じゃあさ、設計とか始めたのも結構最近なのか?」
「いや、建築業の勉強はガキの頃からしてたな。大工仕事は体の訓練だけどそっちは頭の訓練だからさ。並行してやってたんだ」
昼は肉体労働をさせられて、夜は建築業の勉強……。
想像したくもないほどハードなスケジュールだ。
あんなに規則正しい生活ができるようになるわけだ。
「まあ、どっちも楽しいから俺は大好きだけどなっ! 体動かすスポーツは好きだけど、俺が一番好きなスポーツは間違いなく大工仕事だな! 豪快な作業も繊細な作業もできて、その場にいる全員と協力できるし、何より完成した時の爽快感ったらサイコーだからな!」
大工仕事をスポーツに含めてよいのかどうかは別として、そう語る土門君の表情は生き生きとしていた。
「あ、そーだ! 俺が今温めてる”最高傑作”の設計図を見せてやろーか?」
…最高傑作?
「なんだそれ! 見たいぞ!」
前木君の声に答えるように土門君は机の上に一枚の紙切れを広げた。
机の上の紙面には、見たこともない世界が広がっていた。
きめ細かい方眼紙の上に刻まれた細い細い線の数々……。
そこに重ねられた注意書きや記号の数々。
そう言ったもの一つ一つは到底俺に理解できるものではなかったが……。
全体像をぼんやりと見てみると。
「これ……タワーか?」
前木君が呟く。
「その通り。こいつは全高1000m以上の世界最大級のタワーになる。こいつを希望ヶ峰のすぐ近く、都会のど真ん中に建てるって計画が今現在進んでるんだ」
「マ…マジでか……?」
前木君が言葉を失うのも無理はない。
そんな夢みたいな話が現実に存在するなんて。
「やーれやれ、こんなところに閉じ込められたせいで建設がちょっと遅れちまうかもな?」
土門君は冗談めいた笑いを飛ばしたが、話のスケールが大きすぎて俺と前木君にはついていけない。
「ま、こいつを完成させるのがとりあえず俺の今後のノルマだな。親父が引退したら本格的に海外の建物も手掛けよっかなーって思ってる」
本当に、次から次へと別次元の言葉が飛び出してくる。
いずれ彼は凱旋門やサグラダ・ファミリアのようなものも平気で建ててしまうのではないだろうか?
とにかく、土門君もまたしっかりとした夢や目標を持つ”希望”の一員であることは分かった。
「すっげえよなぁ、超高校級のうんたらって連中は。俺なんかこの学園に来たはいいけど、なんも目標とかないんだよなー」
前木君がつまらなそうに呟く。
「…俺は別にそれでいいと思うけど。何かに縛られて生きなくても、自分の楽しめることだけをやって生きててもいいと思う」
釜利谷君にさっき教わったことの受け売りだが、俺のアドバイスに前木君は「そうかねえ……」と頭をかく。
「ぶっちゃけ、俺って生まれつき幸運ってわけでもねーし。ホントにたまったま希望ヶ峰に抽選で選ばれちゃったってだけでさ。なんかみんなみたいな才能の塊と一緒にいんのが申し訳なくなるっつーか」
ため息とともに前木君は薄暗い表情でつぶやいた。
あれだけ明るくて、能天気な彼がこんなことを思っていたなんて……。
いや、だからこそ明るく振る舞っていたのかもしれないな。
「まえなつ、何言ってんだ! 俺だって建築業なら自信はあるが、それ以外のことはてんで常人並みだ! 他の連中だって自分の分野以外じゃあみんな凡人なんだぜ? 丹沢なんて”ふぃぎゅあ”? だかなんだか知らねーけど、才能からしてよく分かんねーし! 気にすることねーよ!」
いやあ、流石にその言い方は丹沢君に失礼だと思うけど…。
「うーん、そうだな! 申し訳ねえ! 俺としたことが変なことで落ち込んでたわ! 俺は幸運で希望ヶ峰に選ばれたんだもんな! 幸運なら誰にも負けねえつもりでいねえと!」
ともあれ、前木君が元気になってくれたようでよかった。
そこで、俺はポケットに入っていた”あるもの”の存在を思い出した。
「…あ、そうだ。これ、君にあげるよ」
俺のポケットに入っていたのは、折りたたまれた一枚の札だった。
「この階の隅っこの売店にあるモノモノマシーンってので当てたんだ。持ってると自分の運勢が増幅するらしいよ」
確か同封の説明書にはそんなことが書いてあった気が。
もともと運勢の強い前木君にはぴったしのアイテムだろう。
「おおーー!! すげーじゃん!! これ俺にくれんのか!? マジサンキュー!!」
前木君は子供のようにおおはしゃぎである。
ここまで喜んでもらえるとあげたこっちも嬉しくなるな……!
「ははっ、よかったじゃねえか! 葛西、俺にも今度何かくれよ!」
土門君のお願いに、俺は「もちろん」と答えた。
こうして俺たちは有意義な日中を過ごしたのだった。
◆◆◆
忌々しい鉄板のせいで外の様子は分からないが、時計によれば今は夕方の五時ごろ。
正直、いつ脱出できるかもわからない場所でこんなにのんびりしていていいのかという思いはぬぐいきれなかったが。
”みんながのんびりしているからいいや”という思いの方が今では強い。
この空間でこうして過ごすことに、俺は早くも慣れてしまったのかもしれない。
「ん? あれは……」
俺は保健室に入っていく人影を追いかけた。
「こんちには。具合は大丈夫?」
保健室には、ベッドに寝ているリュウ君とその横に座る山村さん、その隣に座る小清水さんがいた。
「…葛西か。大事ない。この通りだ」
リュウ君は俺を見るとゆっくり起き上がり、その言葉とともに右腕をぶんぶんと振り回し始めた。
「ちょっと、やめてください! 傷が開いたらどうするんですか!!」
それを山村さんが慌てて引き留める。
「心配ないと言っているだろう。たかが腕だ」
その”たかが腕”という言葉の意味が全く分からない…。
「山村よ、俺はもう看病など必要としていない。なぜそこまで俺に執着するのだ?」
ちょ、そんな聞き方していいのか?
いらぬ誤解を生みそうなのだが……。
「執着なんかじゃないです! 私の責任でこんな大怪我をしちゃったんだから……当然の義務なんです」
山村さんはうつむきながらそう呟く。
そんな二人の様子をただ眺めていた俺だったが、突然小清水さんに腕を引かれて手繰り寄せられた。
「結構アツアツじゃない? あの二人」
小清水さんは満面の笑みで俺にそう囁いてきた。
「え、あぁー…そうかな……?」
俺はそんな曖昧な返事を返すことしかできなかった。
「何を言っている。お前は同胞たちを守ろうとしてあのようなことをしたのだろう? なにも責められるようなことはない」
リュウ君は平然と述べるが、山村さんは「そんなことない!」と強く首を横に振った。
「私が……私がもっと強ければよかったんです。少なくともあなたと同じぐらい強ければ…あなたは怪我を負うこともなかったのに……」
正直言って山村さんの実力も十分人間のレベルではないと思うのだが……。
「なぜそこまで強さにこだわる? 強すぎる力は絶望しか生み出さないと俺は思っている。強さが全てではないのだぞ」
「すべてに決まっているじゃないですか!! 私は空手家なんですよ!?」
山村さんは大きな叫び声をあげた。
さっきまで二人をからかっていた小清水さんも俺も、このシリアスな流れには黙っているほかなかった。
「…すいません。一つ、身の上話をしてもよろしいでしょうか?」
「…ああ。言ってみろ」
一息ついてから、山村さんは話し始めた。
「ご存じのとおり、私は幼いころから空手の道を志してきました。血の滲むような訓練と努力、その果てに栄光を何度も掴むことができました。それでも私は傲慢にならないよう、常に自分を戒めてきました。まだ足りない、これで満足してはいけないと。
……そんな中。ついに現れたんです。私の意地とプライドを粉々に踏み砕いた女性が。
”大神さくら”というお方をご存知でしょう? あの人が私の生涯にわたる宿敵だと思っています。彼女の本領は総合格闘技。空手は彼女が学んだ武道の一つに過ぎなかったのです。それなのに……。私は彼女に叩きのめされました。完膚なきまでに。私は彼女の忙しいスケジュールの合間を縫って何度も彼女と戦いました。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も…!!! なのに!!! 年も下であるはずの彼女に!! 私は何度でも叩き潰されたんです!! こんな……こんな屈辱がほかにありますか!?」
興奮する彼女の周りには、いつの間にかあの赤いオーラが立ち込めていた。
「勝ちたい……。勝ちたい勝ちたい勝ちたい勝ちたい勝ちたい勝ちたい!! 勝ってやる……!! たとえこの身が裂けて血反吐ブッ吐いても……ぜってーに…ぜってーに勝ってやらぁああああぁぁぁぁぁ!!!」
闘士の雄叫びが空間を震わせる。
「うわああああぁぁぁ!!?」
この時の山村さんは完全に昨日、モノパンダに戦いを挑んだ時の彼女だった。
「ちょ…巴ちゃん落ち着いて!」
小清水さんの制止も聞かず、山村さんはリュウ君の襟に掴みかかった。
「テメーに何が分かる!! 死ぬ気で訓練して、死ぬ気で戦ってきたオレの辛さが、テメーに分かるってのか、あぁ!!?? クソがぁ!!! なんで勝てねえんだ!! なんで勝てねえんだよオレはああぁぁぁ!!!」
そう叫ぶ山村さんの目には涙すら浮かんでいた。
一生懸命練習してきたのに勝てない辛さともどかしさが俺にもひしひしと伝わってくる。
「そんなだから負けるのだ」
そんな彼女の胸を、リュウ君の言葉の弾丸が貫いた。
山村さんの表情が固まった。
「そんなことを思っているのはお前だけじゃない。お前が倒してきた人間の中には、お前よりも年上で、凄絶な訓練を積んできた人間だっていたはずだ。そう言った連中は潔く自分の負けを認めて、その上でさらなる高みを目指しているはずだ。なぜお前にはそれしきのことができない?」
山村さんの顎から涙がポタポタと零れ落ちる。
「”頑張ったのに勝てない”。それしきの不条理は世の中に五万とある。そんなことにいちいち駄々をこねていてどうする? 本当に勝ちたければ、まずは自分を見つめなおすことだな。俺が思うに、大神さくらはそれができる人間だ」
場に沈黙が走る。
リュウ君の言うことはすべて正論で、そこに反論の余地はなかった。
オーラを消し去った山村さんは、ふぅーっとため息をついて。
ドン、と。
まるで段ボールを一気に潰すかのような音が響いた。
「えっ……!」
俺は唖然として言葉を失った。
山村さんは自分の右拳を自分の頬に叩きこんだのだ。
「ちょ、巴ちゃん…!」
小清水さんはガクリと頭を落とす山村さんに歩み寄る。
しかし、山村さんはすぐに顔を上げ、満面の笑みを浮かべてリュウ君の手を取った。
「ありがとうございます!! 心に染みわたりました!! 本当にありがとうございます!!」
「…自分を痛めつけろと言ったつもりはないのだが」
「いえ、おかげで心機一転できました!! これで私は…また強くなれます!!」
真っ赤に腫れた頬が痛々しいが、それだけ彼女が自分を殴ることに迷いがなかったという表れなのだろう。
そこで俺は思い知った。
彼女は強い。
あまりにも強すぎるんだ。
自分を鍛えるためなら、本気で自分を痛めつけることも全く辞さないほど、彼女は向上心に溢れているんだと。
もう一度「ありがとうございました!!」と言うと、山村さんは慌ただしく保健室を駆け出した。
「ちょ、ちょっと巴ちゃん!! どこ行くの!?」
小清水さんが廊下に顔を突き出して尋ねると、「稽古ですーー!!」と廊下中に響きそうな大声が返ってきた。
そのひた向きさには憧れてしまうな。
「………巴ちゃん、無理しないといいんだけど」
小清水さんは心配そうに保健室の扉の方を見つめていた。
「難儀な女だな…。強いことに間違いはないが」
リュウ君はため息とともに呟いた。
山村さん以上の実力を匂わせ、彼女に強さの何たるかを説いたリュウ君。
彼は一体、何者なのだろうか?
今の彼に聞いたところで、答えてはくれないだろう。
ただ一つ分かるのは――――。
『強すぎる力は絶望しか生み出さないと俺は思っている』
彼が並大抵の人生を歩んでいるわけではないらしいということだ。
「葛西君」と呼ばれ、俺は小清水さんの方へ振り返った。
「今日は仲良くなれた? いろんな人と」
その口調はまるで、高校初日の出来事を尋ねる母のようだった。
「ええと……まあ…それなりには、ね」
「そう。よかった」
クスリと小清水さんは笑った。
「殺し合いなんてさせられるわけにはいかないもんね。みんなで仲良くしなきゃ」
その言葉で俺は自分が置かれている奇怪な状況を思い出した。
俺たちは殺し合いを強要されているんだ。
それは、今日一日の楽しい思い出が消し飛んでしまいそうな、辛く厳しい現実だ。
「どうしたの? そんな怖い顔しないで」
小清水さんはそう言って俺の顔を覗き込んできた。
「うわわっ!」
彼女の顔が至近距離に近づいてきたので俺は思わず後ずさってしまった。
「ウフフ。さあ、夕食に行きましょ? 巴ちゃんも呼んでこなきゃ!」
「あ、うん!」
保健室を飛び出していく小清水さんに続いて俺も廊下へ駆け出した。
ふと振り向くと、リュウ君が小さく笑みを浮かべてこちらに向けて軽く手を振っていた。
ああ……
もし俺たちが、この学園で普通に出会って普通に仲良くなっていたなら。
この楽しい時間が永遠に続いてくれたなら。
どんなによかっただろうか。
そんな儚い願いを抱きつつ、二日目の生活は終わったのだった。