『────さいね』
「───っ?!」
聴こえてるはずなのに、どこか字幕のように感じる夢の声。
そのもどかしい声が熟睡しきっていたはずの僕の意識を無理矢理に叩き起こした。
「はぁ、はぁ…」
跳ね起きた身体は全力疾走したみたいに疲労していて、息も絶え絶えになっていた。
「またこの夢…」
「本当、なんなのかなあれって…」
僕は昔からよく同じ夢を見る。
すごく大きな学校で好きな人と居る夢。
幸せで幸せでしょうがないのに、最後にはお別れしなきゃいけなくなる夢。
いつもその彼女の最後の台詞で目が覚める。
そして目が覚めると心臓が嫌な風にドクドク高鳴って落ち着かなくなる。
「悩み事ばっかりだよ…」
今朝の夢と先日の練習を思い浮かべ、そう漏らしてしまう。
入江さんの急激な不調。
体育祭でのライブを聞いてすぐに調子を崩したのだから、当然そういうことなんだろう。
岩沢さん達も特別何かしてあげるわけじゃなさそうだったし…多分、マネージャーの僕がどうにかしなきゃいけないってことなんだ。
でも、僕に出来ることが全くおもいつかない。
それがまた気分を落ち着かなくさせる。
こういう日はいつも早く学校に行くことにしてる。
夢での学校と現実の学校の違いを見ると、少しずつ落ち着いていけるから。
だから今日もまだまだ時間には余裕があるけど既に学校に着いている。
時計を見ればまだ授業が始まるまでに一時間近くある。
何か暇潰しをしたくて校内をふらふらと漂っていると、ふと思い付く。
「部室に行こうかな」
鍵はゆりっぺから部員全員に支給されてるから入れるし、あそこなら暇潰しになるものも置いてあるしね。
「あれ?」
部室に到着して鍵を開けようとすると、既に鍵が開いていた。
こんな時間に来てる人は居なさそうだし、昨日誰か閉め忘れたのかな?
「不用心だなもう…」
呆れてそう呟きながら扉を開けて中に入ると、ある物が視界に入る。
「あれ?」
それはこの学校指定の女子用の通学鞄だった。
さすがに人が多いこの部活で鞄だけで誰かは把握出来ないけど、とにかく誰かが僕よりも先に来ているみたいだ。
ここに居ないってことは、上の階かな?
そう思い、足を2階に運ぶ。
しかしそこにも誰もおらず、もう1つ上の上がる。
そこにも、誰も居ない。
ってことは4階か。
4階には防音室が…もしかして
わざわざ防音室に行く人は少ない。
それもわざわざこんな朝早くからだなんて、もっと絞られる。
僕は頭の中に彼女を思い浮かべ、4階へ向かう。
そして防音室の扉をゆっくりと開いた。
───やっぱり。
「さあ皆心の準備はいいかしら!」
体育祭当日、仲村の命令によりクラスごとに教室で集まるよりも先に部室で集まることになった。
なんでもライブの最終確認と、全員が集まることによっての一致団結を狙っているらしい。
恐らく直前にそんな時間を取る余裕がなかったときの予防でもあるのだろう。
「じゃあ今日のライブだけど、ドラムセットとかアンプとかの重いものは野田くん、TK、藤巻くん、あと日向くんと音無くんが手分けして運んで。足りなそうなら各自手助けしてもらって。それから…」
てきぱきと全員に指示を出していく仲村。
力仕事は野田を筆頭とした頭はあれだが力の強い奴らプラス音無が。
連絡係として遊佐と悠が。
そして残りの俺、直井、大山はギターやらベースやらを持ち、ガルデモの側に付き、さらには連絡が入れば手助けに向かうこととなった。
「以上、なんだけど…ガルデモの皆は体調万全かしら?」
「あたしはライブ出来るのなら風邪だろうがなんだろうが平気さ」
「あたしも、そんなやわじゃないしね」
「わたくしめもばっちりですよ!」
「あ、あたしも…大丈夫、です」
他の3人は言葉通りの面持ちだが、やはり入江だけはどこか元気がなかった。
「ふぅん…」
それを見てちらっと仲村が大山の方を一瞥したが、大山は気づいていないのか、特になにか反応するわけでもなかった。
「なら良いわ!じゃあ皆、怪我のないように目一杯頑張りなさい!」
『それでは、体育祭を始めます』
部室を離れたあと、教室で集合したりグラウンドに出て体操をしたりなんなりと退屈な工程を終えてようやく体育祭が始まった。
「蒼、1種目100mだよ」
「分かってるって」
開始早々に自分の出る種目でテンションががた落ちしながら悠の後に続く。
「順番通りここで並んで下さーい」
待機場所に向かうと、委員であろう生徒が大きく手を振りながら指示を出していた。
俺は事前に確認していた通り、3番目の2レーンの位置に入る。
悠は一番目の5レーンという初っぱなからの出番となっていた。
まあアイツは早速出番だからといって緊張するようなタイプではないけど。
それに引き換え俺はというと、元来プレッシャーに弱い質で今も心臓がバクバクと鳴っている。
これなら俺も一番目の方が良かったかも…
等と考えている間に人数も揃ったようで、入場という運びになる。
軽快な音楽をバックに無駄に派手な紅白の門をくぐりトラックの中央に行進する。
それだけでこの場の視線がグッとこちらに集まってくるのを感じる。
いや、本当は多分皆誰かと話していたりしてるはずだから俺が勝手に思い込んでいるだけなんだろうが。
しかし思い込みというのは効果が絶大で、ただでさえ速かった鼓動がさらに速まっていく。
そうこうしている間に一番目の走者たちがレーンに並び始める。
悠は普段と変わらない自然なままそこに立っている。
むしろやる気が感じられない風だ。
ていうか絶対ない。
「位置についてー、よーい」
パァン
そしてついに始まった。
昔のような火薬の匂いのない電子音の銃が鳴り、一斉にスタートを切る。
途中までは拮抗していた走者たちはしだいに差が開いていく。
悠は7人いる走者の中で5位の位置についていた。
…アイツ足速いくせに。
明らかに手を抜いている幼馴染みに呆れながら見守る。
そのまま5位でゴールし、順位の旗が立っている場所に移動しようとした悠が、どこかを見ながらあからさまに狼狽していた。
しかしそれも一瞬で、すぐさま5と書かれた旗のところへ向かった。
どうしたんだ…?珍しい。
「位置についてー、よーい」
パァン
悠の方に気を取られていると、いつのまにか次の走者が走り出していて、ついに次が俺の出番となった。
バクバクと心臓が早鐘のように打つ。
あ~嫌だこの感じ…
2番目の走者たちも全員ゴールしたようで、いよいよ本当に俺の番が回ってくる。
「柴崎ー!頑張れー!」
嫌な風に早まる心臓を押さえつけていると、よく通る聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
声の方を見ると、ニィ、と歯を見せて笑う岩沢の姿があった。
「ちっ、リア充が」
「死ね」
あの馬鹿…
左右から恨みの籠った声が聞こえ、頭を抱える。
しかしふと気づく。
鼓動の速さがマシになっていることに。
「位置についてー」
しかしすぐさま委員の声が聞こえ、クラウチングスタートの体勢に入る。
「よーい」
パァン
音が鳴り、足を踏み出す。
徐々に上体を上げていき、加速する。
しかし俺は決して身体能力が高いわけではなく、数人から徐々に差をつけられていく。
「頑張れー!」
走りながらでも耳に入ってくる岩沢の声援。
うるさいな…またリア充死ねとか言われるだろ…と思いながら、足を必死に前に運ぶ。
しかし結果は4位、7人中4位という最も普通の成績だった。
「はぁ…」
「あれ?どうしたの?いつもと変わらない、至って普通の順位なのに」
「はぁ?…あ」
自分の順位のところまで行こうとした途中、悠にそう言われて自分が落ち込んでることに気づいた。
あれ?俺いつもこんなもんなのになんで凹んでんだ?
「もしかして、岩沢さんの声援に応えたかった、とか?」
「そんなわけあるか!!」
茶化すような口調で訊いてくる悠に反射的に否定する。
そしてそんなわけないそんなわけない…と心の中で自分に言い聞かせた。
「そういやさ」
「なに?」
全員のレースが終わり、悠と一緒にクラスの皆のところに戻る途中、さっきのことが気になったので切り出すことにした。
「お前どうしたんだ?ゴールした後なんか狼狽えてたけど」
「あー…」
するとふっと遠い目になる悠。
「いや、静流が来てたみたいでね…」
「ああ、なるほど」
静流というのは悠の彼女の名前だ。
和泉 静流
見た目は、これぞ大和撫子というような感じのお淑やかな美人さんで、性格も良く、悠には勿体ないほど出来た彼女だ。
しかしこの彼女も悠と同じように掴み所がない。
悠があまり多く俺と関わりを持たせようとしないことも少なくない原因ではあるのだが、それでも何度か話す機会があったのだが、常に笑顔で愛想が良く…まあそれが平たく言うと少し作り物くさいという印象だった。
そして、その作り物くささが悠に似ていた。
俺や遊佐と話す時じゃない悠に。
だからきっと、似た者同士なんだと思う。
そして似てるのなら、彼女もきっと良い娘なんだと思った。
なのに何故悠があんなに狼狽えてたのかと言うと、どうも怒ると怖いらしい。
意外と彼女には頭が上がらないようで、昔から隙のないコイツを見ていたから少しホッとした。
隙を見せられる相手がいたんだな、と。
「おつかれ柴崎」
クラスの所に帰ってみると、待っていたかのように俺を見つけて労いの言葉をかけてくる岩沢。
しかも日除け用のテントがあるのにわざわざそこから出てきょろきょろと俺が来ないか探していたみたいだ。
「ん、ああ…」
それに対して俺は上手く言葉を返せなかった。
『岩沢さんの声援に応えたかった、とか?』
あの悠の台詞がぐるぐる頭を巡っている。
いや…そんなわけないし…まあそりゃ、応援されるのはちょっと嬉しかった気もするけど、何よりコイツのせいで死ねとか言われたし…
「どうかした?」
「いや…別に。それよりもお前大丈夫なのか?」
「何が?」
「ライブだよライブ。お前が体調バッチリってのは疑わねえけど…入江はどうなんだ?」
結局、あの後何度集まって練習をしても入江の調子が戻ることはなかった。
大山にそれとなく入江のことを言ってみたりもしたが、何も変わらなかったところを見ると、何もしていないようだ。
つまり、入江は今もまだ調子を落としてる可能性が極めて高いのだ。
「わからない」
「わからないって…良いのかそれで?プロになりたいんじゃねえのかよ?」
「なりたいよ」
「じゃあもっと何か…」
「良いんだ」
淀みなく返してくる言葉とその行動の矛盾に少しずつ苛立ちが募り始め、いよいよ声を荒げそうになったところを俺の言葉をぶったぎる形で遮る。
「あたしは入江を信じてるから。それに、大山も」
そう言って笑う表情は、本当に一片足りとも疑っているようには見えなかった。
「…信じてるのは分かったけど、でもよ…もしそれで今回失敗したらどうするんだ?お前は後悔しないのかよ?自分がもっと何かしてればって、見ているだけだったことを後悔しないのかよ?」
「しない…って言うのは流石に格好つけすぎか」
あはは、と少し照れくさそうな笑みを漏らして頭を掻く。
「でもさ、もし失敗したら絶対後悔するに決まってる。だったらあたしはやらずに後悔よりやって後悔…ってのよりさ、信じて後悔するのと信じずに後悔するなら、信じて後悔したいんだよ」
「信じて後悔…」
「ああ、どう失敗するにしたってあたしは最後まで信じるのをやめたくない。だからあたしはあとはあの二人に任せる」
迷いなど微塵も感じさせない真っ直ぐ射抜くような目。
なんでコイツはここまで人を信用出来るんだ…?
自分の夢が、人生がかかっているのに。
「お前がプロになりたいって思ったのはいつなんだ?」
そう考えていると口をつくようにそんな質問をしていた。
「いつ…か…強いて言うなら、生まれる前からだろうね」
「俺は冗談が聞きたいわけじゃねんだよ」
「冗談なんかじゃないよ。本気だ」
またしてもその揺るぎない言葉で、目で、黙らざるを得なくなる。
「…じゃあ仮に、その生まれる前からの夢を、今放置していて本当に後悔しねえのかよ?」
「いやだから後悔はするってば。ただ、後悔するならこれがベストってだけ」
笑ってそう言ってのける岩沢に、俺はきっと逆立ちしようが生まれ変わろうが勝てないだろうと思った。
ならもう信じよう。
大山や入江も当然だが、なによりここまで言い切る岩沢のことを信じよう。
「ひさ子ー!頑張れー!」
体育祭は着実に進み、もう今ひさ子が出場しているクラス対抗リレーの予選(午前に予選、午後に決勝がある)を合わせても午前の競技は残り3つだけとなった。
これが終わればもう後の2種目にはSSS部のメンバーが出る競技はない。
つまりこれが終われば、もうライブに向けての準備を始めることになる。
「おぉぉぉ!ひさ子すげぇ!」
そうこう考えている間にひさ子が5位から一気に追い上げまさかのトップでのゴールを飾っていた。
バトンを受け取りぐんぐんと追い抜く様は、これこそがごぼう抜きと言うのだと言わんばかりの走りだった。
「さすがひさ子さんね。じゃあ皆、行くわよ」
ひさ子の奮闘を見届け、ゆりが満足そうに頷きながら立ち上がる。
それに続き、皆も立ち上がって移動を始める。
「段取りはさっき確認した通り。誰かもう忘れちゃったなんていうおマヌケさんはいるかしら?」
歩きながらのその問いには誰も答えない。
それを見てよろしい、と一言呟く。
「じゃあ、ガルデモの皆も大丈夫?」
「ああ」
「バッチリバッチコイですよ!」
「…はい」
岩沢、関根、入江と答えていくが…
やっぱり入江はまだ…
「…じゃあガルデモと柴崎くん、直井くん、大山くんは先に部室に行って楽器の準備よろしく」
「?ゆりっぺ、皆で行ってはダメなのか?」
「あなたは黙ってなさい!…ほら、早く行く!」
「あ、ああ」
何も察さずに問いかけた野田を一蹴して俺たちを急かす。
これはその間に入江をどうにかしろってことか…
とは言っても…俺に出来ることなんてないぞ…
「ごめん柴崎くん、ちょっとトイレ行ってきてもいい?」
どうする?と頭を悩ませながら部室に向かっていると、横から大山がそう訊いてきた。
「そりゃまあ、すぐに戻ってくるならいいけど…」
「ありがと、じゃあ入江さん、ちょっとついてきて」
「え、ええ?!」
グイッと少し強引に入江の手を引いて校舎の方に向かっていく二人。
そういうことか…
「あんまり遅くなるなよー」
「うん、分かってる!」
なら言うことはない。
あとは任せだぞ、大山。
「ちょ、ちょっと大山さん…?」
「あ、ごめんね。いきなり引っ張って来ちゃって」
とにかく人の少ない場所に移動し、少し強引に引っ張っていた腕を離す。
「い、いえ、それは良いんですけど…どうしたんですか?わ、私トイレのお手伝いは出来ませんよ?!」
「ちょ、ちょちょちょちょっと!変なこと大声で言わないで!」
いきなりギョッとするようなことを言われ慌てて口を手で塞ぐ。
「ん、ん~!ん~!」
「あ、ご、ごめんね」
口を塞がれたことに驚いたのか、すごい勢いで暴れられ慌てて手を離す。
そんなに強く塞いだつもりはなかったのだけど、入江さんの顔は真っ赤になっていた。
そんなに苦しかったのか…女の子相手なんだから気を付けないと…
「で…あの、トイレじゃないのならどうしたんですか?」
「うん、あのね入江さんが思い詰めてるみたいだったから、ちょっとお話でもして気を紛らわそうかなって」
「…やっぱり分かりますか?」
なるべく深刻そうな雰囲気にならないよう努めたが、僕がそう切り出すとたちまち入江さんの顔は暗くなってしまった。
「皆、凄いです…」
「確かに皆上手だよね」
「そうなんですけど、そうじゃなくて…技術よりも精神的なものが凄いです」
「ああ…そうだね」
「私だけなんです…!」
グッと唇を噛み締めて声に怒りの色が乗り始める。
それは自分への怒り。
情けない自分を痛めつけるように更に噛み締める。
「私だけが、弱いんです…!皆これで失敗したらマズイって聞いても平然としてるのに、私だけ焦って…ミスして…!」
そして1度堰を切るとそれは止まらない。
「今日まで沢山時間があったのに、まだ怖くて震えて…こんな私がすごく惨めです…!」
ついにはその目から1滴、2滴と涙が浮かんでは落ちていく。
それを見られたくないからか、しゃがみこんで自分の膝に顔を埋める。
「もう、嫌です…」
きっとライブを告げられたあの日から今日まで、ずっと自分を責めていたんだと思うと、胸がぎゅっと締めつけられるような感覚が襲ってくる。
気づいた時にはそっと入江さんの頭に手を置いていた。
そして腫れ物を触るように優しく撫でる。
「入江さんは…頑張ってるよ」
「それは…皆そうです。私だけじゃないんです」
「ううん、人一倍頑張ってるのを僕は知ってるよ」
そう言って、思い浮かべるあの光景。
「誰もいない朝早くから練習してたもん」
「───っ」
夢のせいで早くに学校に着いたあの日。
扉を開けたそこには鬼気迫る表情でドラムを鳴らす入江さんがいた。
あの日だけじゃない。
それから毎日僕は朝早くに学校に行ったが、入江さんは毎日一心不乱にドラムを叩いていた。
あれが頑張ってると言えず、何を頑張ってると言えるのか。
「邪魔しちゃ悪いと思って声はかけなかったけど、見てたよ」
本当はすぐにでも声をかけたかった。
あまりにも真剣なその面持ちは、どこか辛そうに見えたから。
ドラムが好きだと、ドラムを叩いてる時だけは自分を晒け出せると言っていた入江さんにはもっと楽しそうにしていて欲しいと思ったから。
でも、これはきっと自分で乗り越えなきゃいけないことだと思った。
そしてギリギリまで待とう、そう思った。
だから柴崎くんにそれとなく入江さんのことを言われた時も、知らないふりをした。
だけど、今日まで入江さんが笑いながらドラムを叩くことはなかった。
もうギリギリまで我慢した。
だから僕は手を差し伸べる。
「入江さんは何が怖い?失敗?」
僕の問いに顔を埋めていて分かりにくいが、コクリと頷いた。
「確かに怖いと思う。自分のミスで何かが壊れるかもしれないプレッシャーは怖いよね」
そんな経験はないけど、想像に難くない。
「でも入江さん、入江さんは今日まですごく頑張ってたよね。真剣に真剣に、本当怖いくらい真剣に…その練習だけは信じても良いんじゃないかな?失敗するかもしれないプレッシャーを乗り越えるくらいには、信じても良いんじゃないかな?」
「でも…」
顔を上げることなく、少し掠れた声で口を開く。
「結局上手くいかなくて…」
「自分を信じられない?」
またコクリと頷く。
「じゃあ、僕を信じて」
「え…?」
ようやく顔を上げてくれた。
「前に言ったの覚えてないかな?入江さんが何か言われても、僕が何とかするって言ったの」
「…覚えてます」
「だからもし、今日入江さんが失敗して、誰かに何かを言われたら、僕が守るよ。絶対に入江さんの努力を否定させないから…ちょっと怖いけどね」
格好つけ過ぎたと思って最後に本音をつけ足す。
ああでも背中を押すためなら格好つけ過ぎくらいの方が良かったかな…
「ふふ…あははは」
そう不安になりかけた時に入江さんの口から笑い声が漏れる。
「ありがとうございます…なんだか気持ちが軽くなっちゃいました」
まだ目尻には雫が残ってはいたが、にっこりと柔らかい笑顔を浮かべた。
トクン
それを見た瞬間、今まで感じたことのない、だけどよく知っているような感覚が胸に走った。
なんだろうこれ…?
何故か顔も熱くなってきて、トクントクンと胸の高鳴りは大きくなる。
分からないのに、すごく心地良い。
「大山先輩」
「は、はい?!」
感じたことのない胸の高鳴りに気を取られ、声をかけられると素っ頓狂な声を上げてしまう。
「私は頑張りましたか…?」
もう既にその答えは口にしていたけど、今この時に言ってもらうことが彼女にとって大切なんだと直感で思った。
「頑張ったよ」
だから迷わずその言葉を口にする。
「すごく頑張ったよ」
さらに念を押すため、もう一度繰り返す。
すると胸に手を当て、数瞬目を閉じる。
「…もう、大丈夫です」
そしてゆっくりと目を開けてそう僕に告げた。
「もう怖くないです」
「そっか!良かった!じゃあ…」
皆のところに戻ろう、と言おうとした時、グラウンドの方からざわざわと声が聞こえてきた。
時計を確認するともうライブの予定時刻に差し迫っていた。
「や、やばい!入江さん!」
なりふり構っていられず、ぐっと入江さんの手を握って走り出す。
「はっ、はっ、はっ」
私の手を引く大山さんの手は男の人の手にしては少し小さくて、それでも私の手よりは大きくて、安心する。
そしてそれ以上にドキドキする。
このドキドキはきっと走っているからじゃない。
もちろんライブ前の緊張でもない。
これは…
「入江さん!あとちょっとだから!」
体力の無さそうな私に気を使ってか、スピードを緩めずこちらを振り返って声をかけてくれる。
「は、はい!」
その笑顔を見てより確信する。
私は…大山先輩が好きなんだ。
思えばこの前何を言われてもなんとかすると言ってくれた時には、もう意識していた。
その優しい言葉と、笑顔を。
「あ、いた!」
大山先輩が指差す方向を見ると、グラウンドの中心にもう岩沢先輩たちが集まっていた。
その周りにはこの昼休みにご飯を食べようとしていた生徒の家族たちや、ざわめきを聞きつけた生徒たちの人だかりが出来ていた。
「うわ、すごい人の量だね」
「そうですね」
その量はただでさえ多い全校生徒の数よりもさらに多く見える。
「緊張してる?」
「いいえ…全然」
訊かれて胸に手を当てても、緊張の類いのドキドキは感じられなかった。
もう怖さはなくて、ただ大山先輩に引かれている手の温もりが私を満たしていた。
「じゃあ、もう大丈夫だね」
そう言っておもむろに走っていた足を止める。
そしてぱっと繋いでいた手も離す。
大好きなその手の離れる感覚に寂しさを覚える。
「もうすぐそこだから」
言われて見てみれば確かに岩沢先輩たちのところまでそう距離は無かった。
「…はい」
そうだ。私はここから一人で行かなきゃダメなんだ。
大山先輩からもらった勇気を証明しなきゃいけないんだ。
ぐっと目を瞑り、ゆっくり目を開ける。
「行ってきます」
「うん。いってらっしゃい」
最後に大山先輩はぽん、と優しく背中を押してくれた。
「お、おまたせしました!」
「入江!遅いぞ!」
「みゆきちぃ~!このまま来なくてライブ出来なかったらどうしようかと思ったぞ!」
「ごめんなさい…」
見物の人混みを掻き分けて皆の下に駆け寄ると、案の定どやされてしまう。
申し訳無さすぎてただただ頭を下げるしか出来ない。
「入江」
「は、はい!」
すると不意に岩沢先輩に名前を呼ばれて顔を上げる。
「もう大丈夫なのか?」
「え、あ…はい。もう大丈夫そうです」
怒られるかと身構えていたらそういう風でもなく拍子抜けする。
「なら良い」
そう言って立て掛けていたギターを肩に掛ける。
「さあ、お客さんもお待ちかねだ。そろそろ始めようか」
「はいよ」
「了解でーっす」
「は、はい!」
皆岩沢先輩の言葉を聞いて自分の立ち位置に戻っていく。
私もそれに続いてドラムを前にして座る。
そこで初めて見物の人達を正面から見据える。
すごい人…だけど、大丈夫。
すぅ~っと深く息を吸う。
大山さんに押された背中から血液が流れ出していくような感覚。
目を開けると、周りが輝いてみえる。
まるで翼でも生えたみたいに視界が広がって見えた。
「あ、入江」
「はい?」
唐突になにかを思い出したように声をかけられ岩沢さんの方を見る。
「皆で1つの音を作るのがバンドだぜ」
「…ですね!」
そうだ。私は一人なんかじゃないんだから。
「さあ、派手にやろうぜ!」
さっきまでの浮かない顔が嘘のようにイキイキとしている入江の姿があった。
大山がうまくやってくれたんだろう。
結局、信じていた岩沢が正しかったってことか…
『いつまでこんな────』
そして、途方もない数の人の群れの中心でアイツは歌っていた。
初めはその全員がなんだこれは?と疑心の目で見ていたはずなのに、今はもれなく熱狂の渦の中にいる。
こんな光景見たことがない。
そのはずなのに…何でだ…?
あの熱の中心で歌う姿に既視感を覚える。
誰か他の歌手のライブなんかと被って見えてるのか…?
つってもライブに行ったことなんかねえし…
「あ、柴崎くん、直井くん!」
「おー、大山」
「貴様!よくおめおめと顔を出せたな!貴様が遅れたせいで…ふがふが」
「はいはいすぐにそうやって責めるな」
つい考え事に耽っていると、大山が駆け寄りながら声をかけてきて、そこで我に帰る。
そして恐らく入江などのことに関して一切気づいてない(気にしてない)であろう直井が早々に噛みつき始めたので口を塞いで止める。
「あはは、ごめんね。準備さぼっちゃって」
「良いんだよ。準備なんかより入江の方が大事だろ」
「へ?!あ、ああ~そうだね!そりゃそうだよね!」
「貴様、何を一人で慌ててるんだ…?」
こればっかりは直井の言う通りだった。
何故か分からないけどやたらとそわそわしている。
ぶっちゃけかなり挙動不審だ。
「ま、まあとにかく、ライブも上手くいってるみたいでよかったよね」
「ああ、そうだな」
少し話の切り換え方が強引な気もするが、確かに大山の言う通りライブは既に成功といっても良いくらいに盛り上がっている。
ちらほらスマホやカメラで動画を撮っている人もいる。
これはまさに仲村が意図していた通りの光景だろう。
「あとはこれがどう広まるか、だな」
「そうだね」
「まあ中々上手くはいかないでしょう。こういうものは生で観ないと伝わりにくいものがありますから………なんですか?」
「いや…やけにまともなことを言うなと思って」
いつも人を貶すような口調が多い中、今のはあくまで客観的な視点での意見だったため思わず無言になってしまったのだ。
「ちょっとどういう意味ですかぁ?!」
もういいです、と不貞腐れて片側の頬を膨らませている直井にすまんすまんと片手で拝む。
きっとコイツも岩沢たちの音楽を認めていたんだろう。
じゃなきゃ客観的な物言いなんてせずにばっさりと上手くいくわけがないと切り捨てていたはずだ。
これだけ周りに関心のない直井でも認めざるを得ない岩沢たちの音楽。
そりゃ大抵の人達は虜になるか。
「なんだか遠くなっていくような気がするね」
「なにがだ?」
「ガルデモの皆だよ。今までは同じ部活の仲間だとしか思わなかったけど、多分これからは学校でもかなりの有名人になるだろうし、そうなるとなんだか遠くの人みたいに感じない?」
「ああ…そう、だな…」
あれ?なんだこの感じ…?
大山の言葉を聞いた途端、胸の奥に嫌な感覚が走った。
遠くなっていく…?
いやいや、そんなのもっと先の話だろ。学校で有名になったくらいでそんな急に離れなきゃいけなくなるわけでもあるまいし。
それに、遠くなろうがどうしようが俺の知ったこっちゃねえし。
そう頭のなかで否定して気を取り直す。
その頃にはもう歌は終わっていて、岩沢が最後に聴いてくれた人たちに向かって言葉をかけていた。
『今日はこれで終わりだけど、また何度かこういう風に歌う機会があるだろうから、その時はまた聴いてほしい。最後まで聴いてくれてありがとう!』
そう岩沢が言うと、ウォォォ、と耳をつんざく程の量と大きさの声と拍手の音が学校中に響き渡った。
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