「…戻りませんよ」
過去を思い出しながら、ゆっくりと言葉を吐く。
「…だよな。ははっ、悪い変なこと言って」
空元気に愛想笑い。
…本当に分かりやすい人。
「…今の私は嫌いですか?」
我ながら馬鹿な質問だと思う。
彼がこんなことを訊かれて嫌いだと言うはずがないのに。
「そんなわけないだろ」
ほら、やっぱり。
私をどう思おうと彼はそんなこと言えない。
「確かに昔と変わったし、また思いっきり笑ってるのを見たいよ。でも俺は言っただろ!どんなお前でも嫌いになったりしない!」
ハッとした。
覚えていたのかと。
私にとってその言葉は宝箱に仕舞っている宝石のように大切なものだった。
けれど、彼にとっては私を勇気づけるための些細な一言だったのだと思っていた。
なのに…
「忘れたとは言わせねえぞ」
忘れた…?そんなわけない…そんなことあるわけない…だってそれは、これまでの人生で一番大事な言葉だから。
あの時からずっとこの胸に鮮やかに残っているものなのだから。
「…覚えてますよ」
動揺を隠すためいつもよりも更に抑揚と表情筋を殺す。
「だったらそんな分かりきってること訊くなっての」
「すみません。ちょっと訊いてみたくなっただけです」
「…まあ、元を正せば俺が変なこと訊いたからだからな。こっちこそ悪かった」
「気にしないで下さい…それでは、引き止めて申し訳ありませんでした。また明日」
「ん、あ、ああ」
これ以上話していると平静を保てる自信が無く、若干不審に思われながらもそこで話を切り上げて足早に家の中に入る。
ガチャッと玄関の扉を閉めてから、徐々に顔が熱くなる。
ずるずると扉にもたれながら腰を落とす。
思い出されるさっきの台詞。
『どんなお前でも嫌いになったりしない!』
「ああもう…」
あの世界のようにAngel Playerに頼っていない不完全な無表情にあの台詞は…
「本当に、ずるい…」
でも、彼は示してくれた。
そのまっすぐな言葉で、私がどうあろうと嫌いにはならないと。
なら、私ももうやめよう。
汚い手を使って彼の中に居場所を作るのは。
彼の言葉に応えられる私でいるために。
「――ちゃん、蒼ちゃん!」
翌日の朝、俺を眠りから引き上げたのは、そんな唐突な懐かしい呼び方だった。
「起きてよ蒼ちゃん!」
「…んん?」
「起きた?もう起きないと朝ごはん食べられないよ?」
目の前には昔懐かしい表情筋の死んでいない頃の遊佐がいた。
今も中々起きない俺に向けて不満そうに頬を膨らませている。
なるほど…
「夢だなこりゃ…」
「ちーがーうー!とりゃっ!」
「ぐえっ!」
「どう?痛いでしょ?だから夢じゃないよ!」
「はぁ?あー、確かに…」
遊佐の言う通り、上にのしかかられた痛みを感じているということはこれは夢じゃない。
なら、この遊佐は本物ということなのか?
昨日戻らないと言ったのは嘘だったということなのか?
「え、笑美…?」
「駄目」
「え…?」
「駄目」
さっきまで昔のような柔和な雰囲気だった遊佐が一変して鋭い口調になる。
「駄目って…なんでだよ?今のお前なら昔みたいに笑うんだろ?なら、もう自分に似合わないとか、そんなの気にする必要ねえだろ?」
「…これは確認なんです」
「確、認…?」
真意の分からない言葉。
そして突如として戻った無表情と口調。
分からないことだらけだ。
「私なりに努力をしてみたのです。昔のように振る舞えるかどうかを…ですが、やはり駄目です」
「駄目なんてことねえだろ?本当に俺は昔に戻ったかと思ったんだぜ?」
遊佐の言う努力をした結果、俺が夢かと錯覚するほどに昔と遜色のない笑美そのものだった。
それのなにがいけなかったというのか。
そう問う俺に対し、遊佐は表情こそ変わらないがどこか居心地の悪そうにこう答えた。
「恥ずかしいんですよ…今考えると子供過ぎるというか、この無表情を通している間に精神的にも大人になったので…蒼ちゃんなんて呼び方も幼すぎますし…」
「………………」
「…なんですか?」
「い、いや…」
予想もしていなかった答えに言葉を発せずにいると、そんな俺を訝しそうに見つめながらそう訊いてくる遊佐に、俺は少し言うのを躊躇いながらも口を開く。
「バカだなぁって思ってな…」
笑いを堪えようとすることによって若干語尾が震えてしまっていた。
「……柴崎さんに言われたくはないですね」
そんな俺の態度が気にくわなかったようで、キッとこちらを睨んでくる。
その鋭い眼光に思わず身が縮む。
「勝手に…責任なんて感じないで下さいよ」
怒らせたかと思ったが、どうやら違うようだ。
少し俯き、言葉尻が萎んでいく遊佐からは怒りなどは微塵もなく、どちらかというと申し訳なさを感じているように思える。
「私はこうしたいからこうしているんです。あの時のことなんてもうどうでも良いんですよ。今はもうこんな私を受け入れてくれる人達も沢山います」
そう言われて思い浮かんでくるのは、仲村を筆頭としたSSS部の皆。
確かに、遊佐を取り巻く環境は昔から随分と変化している。
アイツらは遊佐の言動にこそ呆気を取られはするが、奇異の視線を送ることはない。
それは確かに居心地の良いものだと思う。
「それに笑美と呼ばれたくないのは、似合わないというのも嘘では無いですけど、それ以上にいつか大事な人にだけ呼ばれたいと…そう思うからなんですよ」
「そうだったのか…」
その大事な人っていうのが、どんな奴なのか今はまるで見当もつかないけど、そう呼ばれて嬉しそうにしている遊佐を見てみたいと純粋に思った。
「なのでもう忘れて下さい。元々柴崎さんのせいではないのですから。私はこれでも感謝しています。今までずっと気にかけてくれていたことも、あの時どんな私でも嫌いにならないと言ってくださったことも」
「そっか…」
俺は、少しくらいは役に立ててたんだな。
感謝もしてくれてたんだ…ちょっと分かりづらいけど…
「なので、もう私に負い目を感じないで下さい」
「…ああ、分かったよ。これからはお前が今のお前を気に入ってるんだってちゃんと思っておく」
「ありがとうございます…それと、1つお願いしてもよろしいですか?」
「そりゃ良いけど、どうしたんだ?」
「直井さんには、私のことと無関係に普通に接して下さい。直井さんは直井さんなのですから」
そう言われてハッとする。
次いで苦笑が洩れる。
まったく、お前には敵わねえよ。
「…だな。アイツはアイツだ」
直井を変えてやりたいという思いはただ純粋に俺の中にあったものなのは確かだ。
だけど、遊佐のことがあったこともどうしたって否定なんて出来やしない。
本当に敵わない。
もしかしたら自分のことよりも直井のことを言うために今回のことをしたんじゃないかとも思えてくる。
「ありがとな」
「何がです?」
絶対分かってるな…
まあいい。コイツがこういう奴なのは分かってる。
中学のあの時から、そしてこれから先も。
「なんでもねえよ…さ、支度するから外で待っとけ」
「了解しました」
簡潔に返事をして、素早く部屋を立ち去る遊佐。
それを確認してからゆっくりと着替えを始める。
今日は心なしかいつもより気持ちが楽だ。
アイツは前に進んだ。
なら、いつか俺も少しずつでも前に進もう。
「よし」
着替えを終え、気合いを入れるため一言吐く。
そして玄関まで降り、扉を開ける。
そこには変わらない表情の遊佐が居る。
「悪い、待たせたな」
「いいえ、構いませんよ。さあ、行きましょう」
「おう」
もうそれを見ても心は痛まない。
遊佐の進んだ証を眼に焼き付けて、俺も1歩踏み出そう。
感想、評価などお待ちしております。