ある日の夕方、午後五時二十五分。僕は沼のある公園に来ていた。
沼というか、池だろうか? 沼と池の違いを答えろと言われても黙るしかない僕にはわからない。でも、泥の色に汚く濁っている水は池というより沼と言った方がしっくりくる気がする。
沼には水鳥が数羽泳いでいた。詳しい種類は知らないが、大雑把に言えばカモだった。
この公園は森の中にあるような公園で、よく言えば緑が多いとかそんな風になるけれど、正直な感想を言えば暗くてジメジメしていて物騒な雰囲気がある。だからこの公園を訪れる人はほとんどいない。それと緑が多いなら当たり前だけど虫が多い。虫は苦手だ。
この公園はどちらかといえば苦手だし、虫も嫌いだというのになぜここに来たのか。
だけどそんな小さな願いも叶わなかった。沼には水鳥のほかにも生物がいた。
私服の若い女性の上半身が沼から地面へと出ていた。頬杖をついている。
こんな汚れた水にまさか望んで入る人はいないだろう。いや仮に澄んだ水でも私服で水に入ろうという人はいないはずだ。なにをしているんだろうこの人は。
「ねぇキミ」
目が合った。そして声をかけられた。混乱する。そりゃあそうさ、誰だって混乱するこんな状況。まだホームレスあたりに話しかけられた方が冷静でいられる。
「は、はいっ」
「……なにしに来たの?」
それはこっちが訊きたかった。
「特には、なにも」
「なにもないのにこんな薄暗いところへ?」
実を言えば一人になりたかったからだけど、それではまるでこの女性に文句を言うようじゃないか。
「えぇ、まぁ」
「ふーん。まぁいいや。ちょっとこっち来て」
思わず言われたとおりに近づこうとして、ふと思う。そうだ、なんだかこれは怖い話にありそうな展開だ。沼から女が出てくるなんて。泉なら女神が出てきただろうけども。沼ならば、もし近づいたらそのまま引きずり込まれるのでは? なんだかそんな気がする。
「……な、なんで?」
「いや、ちょっとお喋りしたいなーって。別にそこからでもいいけど」
いいのか。近づかなくても。となると怪談の類ではないのか。いやいや罠かもしれない。油断したところをこうなんかグワッと、みたいな。
「キミ、歳はいくつ?」
「え?」
沼から出てきている女性に歳を訊かれた。ある意味貴重すぎる体験だけど全然嬉しくない。
「見たところは中学生くらいかなって思ったんだけど、どう?」
「え、あ、中三です」
「へぇー。じゃあ14か15かな。私は17」
先輩だった。高校生だった。見た目としては大人な感じがしたけど、高校生ってこんな感じなのか。いや一人だけを見て全体を判断するのはよくないけど。
とか言っている場合じゃない。なんで自己紹介みたいになってるんだ。なんで初対面の人との会話みたいになってるんだ。確かに初対面だけどシチュエーションがおかしすぎるだろ。
「あの、なにしてるんですか?」
思い切って訊いてみた。
「なにって、うーん、半身浴?」
違う。まずそれは水だから、お湯じゃないから。仮にそれが温水だったとしてもそこは風呂でも温泉でもないから。
「……」
「やだな、冗談だよ」
「なら、なにを」
「……知りたい?」
そりゃ、まぁ。別に知っても知らなくてもなんてこの状況で言うやついるのか?
「まぁ、はい」
「本当に? 後悔しない?」
やっぱり怖い話なんじゃないかこれ? 怪奇沼女、みたいな。怪奇じゃなくても現状確実に沼女ではある。
「……いや、いいです」
後悔しないかと訊かれたらそんなことはないので訊かないでおく。できれば沼女には関わりたくないし。
「そう。じゃあ今度は私が訊きたいな。私のこと見てどう思った?」
「え」
どうって、驚きました。たぶん人生で一番驚いたし一瞬血の気が引いた。そして今なぜか若干わくわくしているような目の輝きを向けられていることにも混乱している。
この先輩は、本当になにをしているんだ。なにがしたいんだいったい。
「正直に言ってよ」
「え、と、……びっくりしました」
「いやそうじゃなくてさ。かわいいかかわいくないかとか、あるじゃん?」
正直に言ってというからそうしたのに。そして沼から出ている女性を見てかわいいかそうでないかを判断し始める人っている?
いや訊かれたからには答えよう。できる限り冷静になって見るとかわいいと思う。いや確実にかわいい。僕にどこからか湧き出る自信とかがあってこの人が同級生なら告白していたかもしれない。
いや仮に同級生でも沼から出てるのは嫌だけど。
「あー。か、かわいいと思います」
「正直に」
「いや本当に」
「そう? いやー、そっかそっか」
なぜか、彼女は僕の感想を喜んでいないようだった。どことなく気まずそうに視線をそらしていた。
「まぁそれはともかく。キミさ、好きな子とかいる?」
えーうそ、まさかの恋バナ? この状況で? 恋を語るにしても聞くにしても沼はないと思うんだけど。
「いないです」
いや、いるといえばいるけれど。別に告白とかする気もないし。眺めていられるだけで十分かなって思ってるし。
「えー、もう中三でしょ? 好きな子もいないとかどういうこと」
「どういうと言われましても」
あなたこそ高校生で沼に浸かってるとかどういうことなんですか。
「え、じゃあさ、タイプの子とかは?」
「……おとなしい感じの人、とか?」
「おぉおぉいいねぇ。見た目は?」
「えー……、特にない」
答えていて思った。今、僕はこれどういう状況なんだろう。近所のお姉さんとこういう話をしているとかならわかるけど、もうなんか意味不明だよこれ。
「髪は長い方がいいとか短い方がいいとか」
「どちらかといえば長い方が」
「胸は?」
「えっ、し、知りませんよそんなの」
そう言われると勝手に目の前の女性の胸に目線が行ってしまうもので。違う、これは、違う。僕はそういうあれではないしこれは仕方がないんだ。
……感想を言えば結構大きいと思った。
「ふーん……そっかそっかなるほどね。私とかどうよ」
「え」
どうよ、と言われても。沼だし。それとおとなしいタイプじゃなさそうだし。確かに髪は長いし胸も大き、いや僕は別に大きい方が好きとかそういうわけでは。
「どうよどうよ」
「えーと、えー、ちょっとよくわからない、かな」
「えーつまんなーい。まぁ脈なしってことでいいのかな」
脈ってなんだ、脈があるないの段階まできてないだろこれ。
「えー、まぁ、じゃあそれで」
「そっかー残念。私が好きと言うならやぶさかでもなかったのに」
なにが!? なにがやぶさかでもないの!? 沼から上がってくるのがとか!?
「やぶさかでもって、なにがですか」
「なにがって。……ふふん、秘密」
そうですか。まぁ秘密でもいいや。……いや別に変なこと考えてたりしないからね? ……あぁもうくそ! 思春期の脳みそはポンコツか! 沼女相手になにを考えることがあるんだ!
「秘密ですか」
「知りたい?」
「いえ別に」
意地の即答だった。
「そう。ところでそろそろ暗くなってきたけど帰らなくていいの?」
言われなくてもさすがにそれくらいわかっていた。日が沈んできている。時計を見ると六時を少し過ぎていた。
「そろそろ帰りますけど、あなたは?」
「私も帰るよ。でももうちょっとあとでね。あ、家に帰って通報とかしないでよ? 別に私怪しいものじゃないし」
「……わかりました」
わざわざ通報するほど危ない人ではなかったけど、どう考えてもあなたは不審者です。
「じゃあ、もう僕はこれで」
「うぃ、じゃねー」
軽く手を振る彼女を背に僕は公園を出た。日は沈み始めたらどんどん早く暗くなっていく。本能的に、真っ暗な沼で彼女は見たくなかった。そんなもの不気味そのものだろう。
けれども僕は家に帰るわけでもなかった。元々一人になりたくて公園に行ったのだ。まだ目的は果たせていない。
だからといってアテもなく、ぶらぶらと暗くなっていく町を歩く。さすがに補導される前には帰ろうと思っている。
道行く車のライトを幻想的だと思うのは僕だけだろうか? 暗くなってから車通りの多い道を眺めながら歩くのは好きだ。それだけなら立ち止まって見ていたいのだが、残念なことにどこにでも人はいる。歩いていて僕とすれ違う人には様々な人がいる。すれ違う、すれ違う人たちは僕のことを気にも留めないだろう。 もしかして、彼ら彼女らの正面に立つまで僕は見えていないんじゃないのか? そう思うほどに。きっとすれ違う人は僕が見えていない。僕もまた相手のことが見えていないのか? まさか、そんなことはないと思うけど。……いや確かに、道行く人の心までは見えないか。
一人になりたい理由は家に帰りたくない理由と同じだった。誰にもなにも言われたくないのだ。少し一人に、静かにしてほしいだけ。沼での彼女のようなことなら、まぁ聞きたくないというほどではないけれど。
「こんな点数取って、あんたこれからどうすんの」
前回のテストの答案を見せた時に母に言われた。その後すぐに父にも似たようなことを言われた。僕の知る限り、74という点数は悪くないはずだ。良い点数かと言われたらわからないけれど、間違いなく悪くはない。それでああ言われるなら僕はなにを目指せばいいんだ。
親の価値観がわからない。基準がわからない。あの人たちの言う「これから」ってなんだろう。良い高校ってなんだろう。将来のためって、僕のためって、どういうことなんだろう。
僕を家に帰りたくなくさせるのが僕のためなのか?
仮にそうだったとしたらその理屈は理解できるものじゃないし、そうでないとしてもそれならなおさら意味が分からない。
結局家に帰ろうと思えたのは十時をまわってからだった。それはそれはこっぴどく叱られたけど、叱られるのならテストの時にも同じことがあった。夜中家に帰るのとテストの点数、怒られる理由として同じなのかは僕にはわからない。わからないけど、今日も親のすることに納得できなかった。
「○○県○○市で昨日女性の遺体が発見されました」
次の日の朝ニュースを見ているといつものように物騒な報道が流れていた。いつもなら他人事で済むのだが、今回ばかりは違った。報道されている遺体が発見された市とは僕の住んでいるところじゃないか。物騒だなぁの一言ではちょっと済まない。うっかり犯人が捕まっていなかったりすると軽く恐怖だ。
「遺体は、この公園から発見されたようです」
背中に嫌な感覚が走った。その公園は、昨日僕が行った公園だ。沼で17歳だという女性に会った公園だ。
怖い話みたいだとか思っていた。いたけど、まさか本当に……? 昨日見たのが幽霊の類とかそういう話なのか?
「発見された遺体は、〇〇高校に通う
それ以降の話は耳に入ってこなかった。テレビに映し出された顔写真は僕が昨日見た顔だった。限りなく黒だ。僕が見たのは、結構な確率でこの世のものではなかった。
恐ろしいことだが、いや待てよと別の考えがよぎる。遺体が発見されたのは昨日、昨日のいつだ? もし六時以降だというなら、僕が見た女性とニュースに出ている被害者が同一人物だとしても幽霊の類ではないと言える。彼女は、僕が去った後に殺されたのでは? そうとも考えられる。
……仮にそうでもついさっきまで自分と話していた人間が死んだという状況も恐ろしいけど。
なんにせよ僕は、事実を確かめるのが自分の義務だと思った。いや、確かめずにはいられなかった。わからず終いというには後味が悪い。僕が見たのはなんだったのか、彼女はなんだったのか。もっと言えば、僕が見た時には彼女はれっきとした生きた人間だったと確かめたいのだ。
以降しばらくの間、公園には警察やその関係の人達がいて立ち入ることができなかった。だから僕が事実の確認に持ち込むことができたのはしばらく後のことだった。
ちなみに事件の犯人は捕まっているらしい。その点では僕を含むこの市の住民に心配することはなかった。
事実の確認方法だけど、たかだか中学生にできることはほぼなにもない。彼女がいつ死んでいたとしても僕にそれを確認する術はない。
だけど、事実は確かめられればいい。確かめたことが僕にとっての事実だ。真実を見たいというわけじゃない。僕はただ、あの日見たのは幽霊ではなかったと確信したいだけなんだ。
だから確かめる方法は簡単だ。幽霊なら、今一度沼を見ればまた現れるはずだ。現れなければ彼女は生きた人間だったということにする。それくらいでないと、そもそも幽霊というのは普通存在しないとされているものなのだから。また逆に言えば、幽霊でなければ今日彼女が現れるわけがないという当たり前のことを確認しに行くということでもある。
恐る恐るなんて感情微塵もなく、ただ当たり前のことを当たり前だと確認するために、ただの作業として僕は沼を見に行った。
「おーキミか、久しぶりじゃん」
彼女は気さくに僕に話しかけてきた。相変わらず下半身は沼に浸かっていて頬杖をついている。
不思議と逃げようとは思わなかったし悲鳴をあげもしなかった。実際見てもなぜかそれほど驚かなかった。彼女がこの世のものではないことはもちろんわかっているんだけど、それでもなぜか僕は冷静だった。
「その顔は気づいちゃったね?」
彼女が僕に問いかける。顔に出るくらいには驚いていたのか。それでも僕は冷静だったと思う。
「あなたは、なんなんですか?」
「幽霊だよ。それをわかってて来たんでしょ?」
僕が確かめたかった事実とは違う事実があった。僕は、あなたが生きた人間だったと確認したくてここへ来たんだ。幽霊だと分かっていて来たんじゃない。
……それなら、仮に確実に幽霊とわかっていたら来ていなかったか? そう考えると自信を持って答えられることはなかった。
「幽霊って、本当にいるんですね」
「そうだね、私もびっくりしたよ」
自分が幽霊になったことに驚いたりするのか。なら、幽霊とは望んでなるものではないのか?
「僕の方が驚いたと思います」
「ははっ、そりゃそうだね。ごめんね」
人を驚かせて謝る幽霊なんて聞いたことなかった。なにより、こんな人間らしい幽霊も聞いたことがなかった。
「……怖かったですか?」
「うん? なにが?」
「殺されたんでしょう?」
悪趣味なことを訊いている自覚はある。
「そりゃ怖いよ」
「まぁ、そうですよね」
悪趣味だと分かっていてもどうしようもなかった。今自分がどうすればいいのかがわからない。なにを話せばいいのか、なにを聞けばいいのか、立ち去るべきかここにいるべきか。思ったことをなにも考えず口に出すしかなかった。
「キミは、この前なんでここに来てたの?」
「この前、あなたと初めて会った時ですか?」
「そう。まぁ初めてと言っても今がまだ二回目だけどね」
二回目。たったの二回。それだけしか会っていないのに、今の僕には彼女がとても近くに思えた。彼女には、なにか僕と通じる部分があるような、そんな気がした。
「なんとなく、って言ったじゃないですか」
「そう。そっか。……ちょっと私の考えたことを話してもいい?」
どちらかといえば年上ということを自覚したような、先輩風というやつか? そんな話し方だった彼女が下手にでた。そういう時はたいてい重要な話がある。
「どうぞ」
「私はね、今のところキミにしか見えていないと思うんだ。何人かこの公園を、沼の前を通ったけど誰もなんの反応もしなかったからね。あまりのことに見ないフリをした、って言うには皆演技が上手すぎると思うくらいだったし。それで、私がキミにしか見えてないんなら、なんでキミにだけ見えるのかなって考えたの」
「はぁ」
「私と同じ思いでここに来た人だけ私が見える、なんてありそうな話じゃない?」
「……はぁ、まぁ」
確かにありそうな話ではある。創作物にありがちな展開だ。
そしてもしも、僕に彼女が見えるのはそれが理由なのだとしたら。彼女が生前ここに来た理由は。
「私ね、虐待されてたの。わけもないのに殴られたりとか、そういうやつ。お父さんもお母さんも、私のことが嫌いだったみたい。……だからね、お互いのためによく私はここへ来たの。ここで夜遅くまでいた。家に帰るのが遅いほど二人は邪魔者が消えている時間が増えて嬉しいだろうし、私も殴られる心配をしなくてよかったから。一人になれるのって落ちつくよね」
同意を求めるように彼女は言った。
虐待。さすがにそんなものは僕には想像もつかなかった。だけど、彼女と僕に共通するものがあるとすれば、それは家に帰りたくないことだったと思う。
「でもね、やっぱり暗くなってからこんな人通りの少ない所にいちゃだめだよ。それで私は殺されちゃったんだから」
サラりと言い放たれた「殺されちゃった」という言葉も、僕に想像できるものじゃなかった。それに彼女は軽く流すように言ったけれど、その前にちゃんとこうも言っていた。殺されるのはそりゃ怖いと。
「それは、まぁ、お気の毒に」
「ははっ、そうだね。それはどうも。お気の毒かぁ、うん、そうだね。どんな風に気の毒だったか聞きたい? キミは今思春期真っ盛りだもんね」
「思春期なのがなにか?」
「私がどんなことをされてから殺されたか聞きたいかなって。わかるでしょ? こんな人通りの少ない公園で夜中に若い女が殺されたんだよ? ねぇ?」
彼女が言おうとしていることはわかった。わかって、聞く気はなかった。そんなことは聞きたくもない。
「いいです。聞きたくない」
「なんだ、そう。まぁ私もどちらかといえば話したくないかな」
「だったらなんで」
「サービス精神?」
ふざけているのか本気で言っているのか。死んだ人間がなにをどう思ってるのかなんてわからない。さっきから僕にはわからないことだらけだ。
「……僕にはよくわからないけど、嫌なら話さなくていい。僕は、もう帰ります」
彼女は幽霊だった。それがわかった時点でもう用はなかった。ここへはもう来ない。
「待って」
呼び止められて思わず振り返ってしまった。怪談ではこの手の行動を取った者はたいていロクな目に合わない。
「私、ずっとここにいるの。地縛霊ってやつ。ここで死んだからここから動けないの。一人は落ちつくなんて言ったけど、だからってずっとここで一人なんていうのは、わがままなこと言うけど寂しいよ。それに私は幽霊だよ? 一人が寂しい幽霊がなにをするかわかるでしょ」
「……道連れにしますか?」
「そう、そうね。でもできればそんなことしたくない。だからお願い、これからもここへ来て。たまにでいいから、お願い」
できればそんなことしたくない。道連れにすることを渋る幽霊なんてものがあったのか。やっぱりわからないことだらけだ。
だけど、一人にしないでと頼む彼女を見て、見捨てる気にはなれなかった。見捨てるなんて言っても拒否すればどうせ僕は道連れになるんだろうけど。
「……わかりました。じゃあまた今度」
「ありがとう……。またね」
僕と彼女の奇妙な関係はこうして始まった。
それから僕は毎日公園に行った。どうせ他に行く場所もなかったから。そんな僕を彼女は、
「たまにでいいって言ったのに。なに? 私のこと好きなの?」
と茶化してきた。そう言うなら別に来る日数を減らしてもいいと伝えると、
「ごめん、冗談だから。ごめんね? ……いつも来てくれて嬉しいよ、ありがとう」
と言われた。不覚にもかわいいと思ってしまった。それでも、それでも彼女は幽霊。この世の者ではないのだけど。
ほかにもいろんなことを話した、いろんなことを聞いた。高校では友達が多い方で好きな人もいたらしいとか、バイトでミスをしてしばらく落ち込んでいた話とか。僕も中学での出来事を話した。親とのことでの相談も聞いてもらったし愚痴も聞いてもらった。彼女はそのうちずっと沼に浸かっている理由も話してくれた。地縛霊でもその気になれば沼から出ることくらいできるらしいが彼女はそうしないようだ。彼女がなにをされて殺されたのか、それを考えた結果が沼に浸かっている理由らしい。曰く、
「ほら私穢れてるから。つけ置き洗いよ」
だそうだ。その時、なるほどだから下半身だけなのかと言い返せるくらいの仲ではあった。仲というか、そう、話せないことはなかったと思う。その後に、
「上半身も大概だけどね」
と言われたときはなにも言い返せなかったけど。しかし上半身うんぬんを言いだすともはや全身を水中に沈めないとならないし、幽霊だから酸素の問題はないのだがそれでも水中に沈むのは本能的に嫌なんだそうだ。
僕が彼女に初めて会ったときに胸を見たこともバレていたらしい。男はそんなんばっかなのかと落胆された。いや、落胆もといおちょくられた。ひとしきりおちょくったあとにボソっと、生前高校で好きだった人のことを考えて、
「あの人もそうなのかな」
とか言っていた。好きな人にならそういう目で見られてもいいんじゃないの? と言うと、「まぁね」と軽く返された。
毎日学校から帰って彼女に会う。そんな生活を送るうちに時は流れ僕はいつの間にか成長していた。高校生になり、大学生になり、親と離れて暮らして、そんな風に自分が変わっていく中でも彼女に会うという日課は変わらなかった。
僕は変わっていったけれど彼女は変わらなかった。そりゃあそうだ、死んでるんだもの。いつの間にか僕は彼女よりも先輩になっていたのだ。
「キミももう大学生かー、私越されちゃったなぁ」
「いや確かに身分としては越したけど。生きていた時間、違うか、この世界にいた時間は相変わらず怜の方が多いじゃん」
「そうだけど、いくらここにいたところで私にはなんの成長もないからね」
自嘲気味にそう言う彼女は発言と裏腹に先輩面をやめる気はないように見えた。僕の方も彼女より年上なり先輩なりになったつもりはない。
僕の一番の親友は彼女、夜明怜だと言い切れる。今までの人生で圧倒的に多くの時間話していたのは彼女とだ。彼女がいなければどんな人生を送っていたか想像もつかない。
「そうだなぁ確かに成長はないね。高校だって後半は僕の方が勉強できたし」
「しょっちゅう私に勉強教えてくれとすがりついてきた奴がよく言うよ。成績は私の方が良かったし、高ニで死んじゃったんだから三年の内容は知らなくて当然でしょ」
「おぉーこんなことなら死に物狂いで一年と二年の成績で越しておけばよかった。怜が完全敗北した時の表情なんてきっと見物だろうに」
「不可能なことを出来なかったと嘆くなんて無駄なこと極まりないね」
もうずっとこんな風にお互いがお互いをおちょくりながら話す関係が続いている。それを続けて大丈夫だと信用できる相手との会話ほど楽しいものはない。
「不可能かどうかなんてわからないじゃないか」
「そう。でも逃がした魚は大きいというのは結果を出せなかった人の言い訳を嘲笑うための言葉よ?」
「そんな話聞いたことないよ」
苦笑いで彼女の言葉に対応する。長い付き合いのうちにわかってきたことだが、彼女は少し特殊な負けず嫌いのようだ。
「あぁ高校といえば、薄暗い公園でキミが一人楽しそうに話しているなんて噂が広まった時はさすがにあせったね」
「噂って、事実なんだけどね」
クラスメイトに彼女と話しているところを目撃されたことがあったのだ。他の人から見れば僕は一人で沼に話す変質者だ。
「事実だから隠すこともないって、そんなこと言いだした時はキミも強くなったなぁと思ったよ。正しい対応だったかは疑う余地しかないけど」
「まぁまぁ、高校卒業して人間関係もほぼリセットされたから大丈夫だよ」
「同じことになったら?」
「僕は別に変質者でも構わないよ。怜と話せるならそれでいい」
「……よくそんな恥ずかしいことを涼しい顔で」
恥ずかしいことかな? 僕にとっては本当にそれが全てなんだけど。まぁ欲を言えば変質者扱いされないことに越したことはないけど。
「ところで、ずっと心配していることがあるんだけど」
「うん? なに、どしたの」
「怜は幽霊なんだよね」
「なに? 嫌味? そんなことずっと前から私が一番キミが二番目に知っているでしょ」
「……急にいなくなったりしないよね。成仏とか」
「ははっ、しないよ。それとキミがそのことを訊いたのはこれでもう十四回目だ。認知症なの?」
「そうだけどさ……」
もう何回も同じことを訊いているのはわかっている。だけど、心配なんだ。ある日突然、ここへ来た時に彼女が姿を消していたらと思うと。
僕は彼女無しではもう生きていけない。
「心配しないの。幽霊っていうのはこの世に未練がなくなった時に成仏するのよ? 私はキミとまだまだ話たりないわ。立派な未練よこれは」
「なら、僕に飽きたら」
「それももう何回も聞いた。飽きないよ、絶対に」
「……同じことを何回も訊くのに?」
「ははっ。それはちょっと飽きたかなぁ」
彼女は冗談で言っているんだろうけど、僕にはその言葉がとても重い。
「なら常に新しい話題を仕入れないと」
「そう、頼むよ」
大丈夫だとは思う。これまでの数年に話題が尽きたことはなかったし。これからだって。
「じゃあ今日はそろそろ帰るね」
「りょーかい。じゃあまた明日。面白い話を期待してるよ」
「はいはい」
僕は彼女に背を向けて家へと帰る。明日もここに来る。その次の日も、次の次もずっと。そして彼女と話す。ずっとずっと。この生活を、彼女との関係を終わらせるなんて何人たりとも許さない。絶対に、僕は死ぬまでこの生活を続けるのだ。