龍は暁に啼く   作:高嶺 蒼

79 / 102
第7章~8~

 「キアル」

 

 名を、呼ばれた。ひび割れ、かすれた声だ。

 それでも分かる。

 それが、大好きな人の声だと。もう二度と、聞くことが出来ないと、諦めていた声だと。

 

 キアルの、足が止まる。

 彼の手を引いて逃げていたセイラは、そんなキアルをいぶかしげに見つめた。

 キアルは、2人で逃げてきた方向を、じっと見つめていた。何かを待つように。焦がれるように。

 

 「キアル、早く逃げましょう?」

 

 声をかけてもキアルは動こうとしない。ただ、首を横に振って、

 

 「あなたは、逃げて下さい」

 

 そう答えるだけ。

 セイラは困り果てたように少年の頑なな横顔を見つめた。一体、どうしてしまったというのか。

 

 「キアルぅぅ」

 

 その時、再び声が聞こえた。さっきより近い場所で。

 その声はセイラの耳にも届き、人のものとは思えない声の響きに、皮膚を粟立たせる。

 セイラは、キアルが見つめる視線の先を見た。

 

 林の方から何かがやってくる。

 最初は小さな点。

 しかし、それはみるみる内に大きくなって、髪を振り乱し駆けてくる女の姿となる。

 

 「母さん・・・・・・」

 

 キアルは微笑み、足を踏み出した。

 母が迎えに来てくれたのだ。早く行かなければならない。

 その手を、誰かがつかんだ。緩慢な動作で、その手の主を振り仰ぐ。

 

 「キアル、だめよ!あれは、違うものよ」

 

 必死に言い募り、震える手を伸ばして少年の細い手首を掴む。

 だが、彼はそれを振り払い、母と信じるモノに向かって再び歩き出す。

 ソレは、もうすぐ近くまで来ていた。

 

 「キアル・・・・・・イトシイ、キアル」

 

 腕を広げ、ソレはキアルを抱きしめた。

 

 「母さん、帰ってきたんだね・・・・・・」

 

 キアルも嬉しそうに、その抱擁を受ける。すがりつくように、母親の体を抱きしめながら。

 

 

 「アイシテルワ、キアル・・・・・・ズット、イッショ、ニ」

 

 「うん。母さんと、ずっと一緒にいるよ。ずっと」 

 

 

 幸せそうに、キアルが笑う。

 ソレは、愛おしそうに少年の頭を撫で、そして、

 

 「アナタハ、ワタシガ、タベテアゲル。ズット、ズット、イッショニ、イラレル、ヨ、ウニ」

 

 彼女は笑った。狂った笑顔で。

 

 「キアル、逃げて!!」

 

 セイラは叫ぶ。だが、少年は動かない。

 喰われても、いいような気がしたのだ。母親と、ずっと一緒にいられるなら。母が、そんなに望むのなら。

 キアルは、そっと目を閉じた。

 その時。

 

 ぞぶり・・・・・・

 

 そんな音がした。肉に、何かがのめり込んだような音。

 だが、不思議と痛みもなく、なぜだろうと思った瞬間、声がした。

 

 「キアル、そんなに簡単に自分の命を諦めるな」

 

 涼やかな、声。キアルの良く知る声が。

 

 「ア、ア、ナ・・・・・・ゼ?」

 

 そんな声と共に、母親の体から力が抜けた。彼女の体がキアルから離れていく。

 

 「シェンナ、あなたの本当の望みは、キアルを喰う事なんかじゃ無いはずだ」

 

 優しい、優しい雷砂の声。諭すように、労るように。

 恐る恐る、目を開ける。

 そこには母親と、雷砂が居た。

 

 「シェンナ、あなたの望みは?」

 

 優しく、優しく、雷砂が問う。

 戸惑うように、シェンナの瞳が揺れた。欲望に、染まりきっていたはずの瞳が。

 

 「ノ、ゾミ?ワタシノ・・・・・・」

 

 呟くようにそう言って、彼女の瞳がキアルに向けられた。欲望の消えた、清らかな眼差しで。

 呆然と、自分を見つめる息子の顔を、じっと見つめる。

 

 愛しい子。

 自分の命より何より、彼女が愛した宝物。そんな大切なものを、たべてしまう事なんて出来やしない。

 彼女は優しく瞳を細め、微笑んだ。

 

 「望みは一つだわ、雷砂」

 

 なめらかな声が、唇を滑り出た。以前と同じ、優しく暖かな声。

 キアルは凍り付いたように、母親の姿を見つめている。

 正確には、彼女の胸から不自然に突きだした血塗れの腕を。

 その手は、どくん、どくんと動く、小さな肉の塊を掴んでいた。

 

 シェンナは、動きの制限された体で出来る限り腕を伸ばし、指先で息子の頬に触れた。

 その指先の感触に、はじかれたようにキアルが顔を上げ、母を見上げる。

 彼女はしっかりと、息子の今にも泣き出しそうな瞳を見つめ、愛おしそうにその目を細めた。

 

 「私の望みは、キアルの幸せ。キアルが生きて、幸せになってくれること。それだけだわ」

 

 微笑み、息子の頬に伸ばしていた手を、己の胸を貫き、心臓を握る手へと移し、両手で包み込んだ。

 

 

 「もう、いいわ。雷砂、私を終わらせて」

 

 「分かった。助けられなくてすまない、シェンナ」

 

 「謝らないで。あなたのお陰で、私は愛する息子を、傷つけないで済んだわ。それだけで十分。・・・・・・ありがとう。そして、ごめんなさい」

 

 辛い役目を押しつけてごめんなさい、とそんな彼女の心が伝わってきた。

 雷砂は一瞬目を閉じ、それからキアルの顔を見る。

 殺さないでくれ、とその瞳が訴えていた。母さんを、殺さないで、と。

 

 「ごめんな、キアル・・・・・・」

 

 そう言うことしか、出来なかった。どんな手を使ったとしても、彼の母親を助けることは出来ない。

 彼女を救う手段はただ一つ。

 その命を終わりにしてあげることだけだ。

 

 「いやだ、ライ。やめて・・・・・・」

 

 いやいやするように、キアルが首を振る。

 

 「キアル」

 

 そんな息子を諭すように名前を呼んで、シェンナは柔らかく微笑みかけた。

 そして、目を閉じる。

 

 「さあ、お願い」

 

 そう言いながら、雷砂の拳を包んだ両手にそっと力を込めた。

 それを合図に、雷砂はぐっと拳を握る。彼女の心臓を掴んだままの、その拳を。

 手の中の、小さな肉の塊を握りつぶした瞬間、彼女の体がびくりと震えたのが分かった。

 腕を引き抜き、みるみる内に力を失うその体を後ろから抱き留め、地面に横たえる。

 彼女はじっと、息子の顔を見上げていた。

 その唇が、小さく動く。愛しているわ、キアルーと。

 そして。

 彼女は少しずつ存在を薄くし、黒い塵となり、跡形もなく消えた。

 その身に纏っていた、服さえ残すことなく。

 

 

 




読んで頂いてありがとうございました。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。