「キアル」
名を、呼ばれた。ひび割れ、かすれた声だ。
それでも分かる。
それが、大好きな人の声だと。もう二度と、聞くことが出来ないと、諦めていた声だと。
キアルの、足が止まる。
彼の手を引いて逃げていたセイラは、そんなキアルをいぶかしげに見つめた。
キアルは、2人で逃げてきた方向を、じっと見つめていた。何かを待つように。焦がれるように。
「キアル、早く逃げましょう?」
声をかけてもキアルは動こうとしない。ただ、首を横に振って、
「あなたは、逃げて下さい」
そう答えるだけ。
セイラは困り果てたように少年の頑なな横顔を見つめた。一体、どうしてしまったというのか。
「キアルぅぅ」
その時、再び声が聞こえた。さっきより近い場所で。
その声はセイラの耳にも届き、人のものとは思えない声の響きに、皮膚を粟立たせる。
セイラは、キアルが見つめる視線の先を見た。
林の方から何かがやってくる。
最初は小さな点。
しかし、それはみるみる内に大きくなって、髪を振り乱し駆けてくる女の姿となる。
「母さん・・・・・・」
キアルは微笑み、足を踏み出した。
母が迎えに来てくれたのだ。早く行かなければならない。
その手を、誰かがつかんだ。緩慢な動作で、その手の主を振り仰ぐ。
「キアル、だめよ!あれは、違うものよ」
必死に言い募り、震える手を伸ばして少年の細い手首を掴む。
だが、彼はそれを振り払い、母と信じるモノに向かって再び歩き出す。
ソレは、もうすぐ近くまで来ていた。
「キアル・・・・・・イトシイ、キアル」
腕を広げ、ソレはキアルを抱きしめた。
「母さん、帰ってきたんだね・・・・・・」
キアルも嬉しそうに、その抱擁を受ける。すがりつくように、母親の体を抱きしめながら。
「アイシテルワ、キアル・・・・・・ズット、イッショ、ニ」
「うん。母さんと、ずっと一緒にいるよ。ずっと」
幸せそうに、キアルが笑う。
ソレは、愛おしそうに少年の頭を撫で、そして、
「アナタハ、ワタシガ、タベテアゲル。ズット、ズット、イッショニ、イラレル、ヨ、ウニ」
彼女は笑った。狂った笑顔で。
「キアル、逃げて!!」
セイラは叫ぶ。だが、少年は動かない。
喰われても、いいような気がしたのだ。母親と、ずっと一緒にいられるなら。母が、そんなに望むのなら。
キアルは、そっと目を閉じた。
その時。
ぞぶり・・・・・・
そんな音がした。肉に、何かがのめり込んだような音。
だが、不思議と痛みもなく、なぜだろうと思った瞬間、声がした。
「キアル、そんなに簡単に自分の命を諦めるな」
涼やかな、声。キアルの良く知る声が。
「ア、ア、ナ・・・・・・ゼ?」
そんな声と共に、母親の体から力が抜けた。彼女の体がキアルから離れていく。
「シェンナ、あなたの本当の望みは、キアルを喰う事なんかじゃ無いはずだ」
優しい、優しい雷砂の声。諭すように、労るように。
恐る恐る、目を開ける。
そこには母親と、雷砂が居た。
「シェンナ、あなたの望みは?」
優しく、優しく、雷砂が問う。
戸惑うように、シェンナの瞳が揺れた。欲望に、染まりきっていたはずの瞳が。
「ノ、ゾミ?ワタシノ・・・・・・」
呟くようにそう言って、彼女の瞳がキアルに向けられた。欲望の消えた、清らかな眼差しで。
呆然と、自分を見つめる息子の顔を、じっと見つめる。
愛しい子。
自分の命より何より、彼女が愛した宝物。そんな大切なものを、たべてしまう事なんて出来やしない。
彼女は優しく瞳を細め、微笑んだ。
「望みは一つだわ、雷砂」
なめらかな声が、唇を滑り出た。以前と同じ、優しく暖かな声。
キアルは凍り付いたように、母親の姿を見つめている。
正確には、彼女の胸から不自然に突きだした血塗れの腕を。
その手は、どくん、どくんと動く、小さな肉の塊を掴んでいた。
シェンナは、動きの制限された体で出来る限り腕を伸ばし、指先で息子の頬に触れた。
その指先の感触に、はじかれたようにキアルが顔を上げ、母を見上げる。
彼女はしっかりと、息子の今にも泣き出しそうな瞳を見つめ、愛おしそうにその目を細めた。
「私の望みは、キアルの幸せ。キアルが生きて、幸せになってくれること。それだけだわ」
微笑み、息子の頬に伸ばしていた手を、己の胸を貫き、心臓を握る手へと移し、両手で包み込んだ。
「もう、いいわ。雷砂、私を終わらせて」
「分かった。助けられなくてすまない、シェンナ」
「謝らないで。あなたのお陰で、私は愛する息子を、傷つけないで済んだわ。それだけで十分。・・・・・・ありがとう。そして、ごめんなさい」
辛い役目を押しつけてごめんなさい、とそんな彼女の心が伝わってきた。
雷砂は一瞬目を閉じ、それからキアルの顔を見る。
殺さないでくれ、とその瞳が訴えていた。母さんを、殺さないで、と。
「ごめんな、キアル・・・・・・」
そう言うことしか、出来なかった。どんな手を使ったとしても、彼の母親を助けることは出来ない。
彼女を救う手段はただ一つ。
その命を終わりにしてあげることだけだ。
「いやだ、ライ。やめて・・・・・・」
いやいやするように、キアルが首を振る。
「キアル」
そんな息子を諭すように名前を呼んで、シェンナは柔らかく微笑みかけた。
そして、目を閉じる。
「さあ、お願い」
そう言いながら、雷砂の拳を包んだ両手にそっと力を込めた。
それを合図に、雷砂はぐっと拳を握る。彼女の心臓を掴んだままの、その拳を。
手の中の、小さな肉の塊を握りつぶした瞬間、彼女の体がびくりと震えたのが分かった。
腕を引き抜き、みるみる内に力を失うその体を後ろから抱き留め、地面に横たえる。
彼女はじっと、息子の顔を見上げていた。
その唇が、小さく動く。愛しているわ、キアルーと。
そして。
彼女は少しずつ存在を薄くし、黒い塵となり、跡形もなく消えた。
その身に纏っていた、服さえ残すことなく。
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