龍は暁に啼く   作:高嶺 蒼

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第6章~3~

 朝食の席で、今日は頼むから大人しくしていてくれと父に懇願された。後できっと雷砂に来てもらえる様に手配するからと。

 そう言われたからというわけではないが、今日のミルファーシカはいつにもまして大人しかった。

 自分の部屋の窓辺に椅子を寄せて、一人外を眺めている。

 いつもがそれ程お転婆というわけではないが、こんな静かな彼女も珍しかった。

 

 昨日の事は彼女なりに反省していた。

 怖かったし、巻き込んでしまった少年には悪いことをしたと思っている。

 気を失っていて、雷砂に助けてもらった事や背負ってもらった事を一切覚えていない事だけは何とも惜しい事をしたとは思っていたが。

 外をぼーっと眺めながら、ミルファーシカはキアルが来るのを待っていた。

 いつもなら、庭師の手伝いの合間に良く顔を出してくれるのに、今日はまだ来ない。

 

 怒ってるのかなーミルファーシカはしょんぼりそんな事を思う。

 いつも優しくて、彼女のわがままを聞いてくれるキアルの事は雷砂の次くらいに好きだったから、彼に嫌われたらと思うとなんだか切ない。

 

 「来ないかなぁ」

 

 ぽつんとつぶやく。

 くすんと鼻を鳴らして、潤みかけた目を遠くの方に向けてみると、屋敷の角を曲がってくる人影が見えた。

 まだ小さく、ひょろっとした体つき。濃い栗色の髪の毛が所々はねている。

 

 キアルだっーと少女は瞳を輝かせる。

 

 少年は俯いたまま歩いてくる。

 いつもならミルの部屋の窓を見上げて笑ってくれるのに、今日はちっとも顔を上げない。

 

 やっぱり怒っているのかなーそんな風に思いながら声をかけられないでいると、キアルは少し覚束ない足取りのまま、彼女の部屋の下を通り過ぎて行ってしまった。

 

 小さな背中が少しずつ遠くなっていく。

 慌てて彼の名前を呼ぼうとした時、少年の丸まった背中を追うようについて行く黒い影に気づき、少女は息を止めた。

 

 小さな影だった。

 小さな犬や猫くらいの大きさ。

 その影は、一定の距離を置いてキアルを追いかけていく。

 少女の視線にはまだ気が付いていないのだろう。こちらをみる気配はなかった。

 

 彼女は小さな生き物が大好きだった。

 だから、いつもであれば追いかけて抱き上げるくらいはしたかもしれない。

 だが今日は……否、その黒い小さな生き物は、何だか無性に恐ろしく感じられた。

 見つかってはいけないと本能が囁いている。

 だが、目が離せないのだ。震えるくらいに怖いと感じているのに。

 不意に、黒い獣が足を止めた。

 

 (気づかれた!?)

 

 そう思った瞬間に金縛りが解け、ミルは反射的に身を隠した。

 

 (見つかって、ないよね……)

 

 しばらくじっと隠れていたが、我慢できなくなってそうっと窓の外をうかがい見た。

 そこにはもう、獣の姿もキアルの姿も無かった。

 ほっと息をつき、椅子に座りこんだ。

 助かったーと思うと同時に、キアルの事が気にかかった。あの獣はなぜキアルの後ろをついて歩いていたのだろう。

 キアルの後を追って行ってその事を教えてあげなければと思うが、あの獣がいるかと思うと怖くて実行に移せなかった。

 誰か大人に相談しても笑われるだけだろう。

 

 ミルファーシカは震える手を、祈る様に組み合わせた。

 朝食の時の父の言葉に嘘が無ければ、今日はきっと雷砂が来てくれる。雷砂なら、きっとすべて良いようにしてくれるに違いない。少女はそう信じて疑わなかった。

 窓を閉め、カーテンをきっちり閉める。あの獣が万が一にも来ない様に。

 

 「ライ、早く来て」

 

 固く目を閉じ、己の体をきつく抱きしめ、祈る様に呟いた。

 

 

 

 彼女は自分が見られている事に気が付いていた。

 人に気づかれにくいように黒い体躯の周りに魔力を巡らせていたが、元々感が鋭い者には効かないこともある。

 ちらりと振り向くと、窓の影に隠れる小さな姿が見えた。確か、キアルが仲良くしている娘だ。この村の、村長の一人娘。

 

 殺すことはたやすかった。今の自分の力があれば、それは一瞬で済む。

 

 だが、まだ彼女には理性が残っていた。人の頃の愛情も。

 彼女が元気だった頃には、あの少女も良く遊びに来ていた。ころころと明るく笑う、金持ちの割には嫌みのない、良い少女だった。殺すには忍びない。

 それにーと彼女は前を歩く息子に目を向けた。

 

 (あの子を殺してしまったら、きっとキアルは悲しむわ)

 

 だから、殺してはいけないのよー自分の中の荒ぶる獣に話しかける。

 まだ、大丈夫。抑えておける。自分自身の黒い感情が、溢れ出してさえいなければ。

 まだ、理性を手放すわけにはいかない。目的を果たすまでは。

 息子が一人でも生きていけるだけのものを手に入れるまでは。

 

 しばらく、窓を見上げていた。

 少女が顔を出さないのを確認して、また気配を消して歩き出した。

 息子の、後を追う。

 

 昨日は危うく彼を失うところだった。ほんの少し、目を離したすきに。

 どうしても離れなければいけない時以外は彼のそばにいよう。危険がないように、辛いことがないように。

 こうして傍にいることも、息子を想う時間さえも、きっともう、あとわずかしか残されていないのだろうから。

 

 (キアル……)

 

 声に出さずに息子の名を呼ぶ。

 愛した男に捨てられ、家族にも見放されて、ただ一人で一生懸命考えてつけた名前だ。幸せに、幸せになるようにと。

 

 (ああ、キアル。お母さんを許してね)

 

 直接告げられない言葉とつぶやく。その言葉を息子に伝えるとき、それはきっと永遠の別れの瞬間だろう。

 彼女は気づかない。息子を一途に見つめる赤い瞳の片方から、一筋の血がまるで涙の様に流れ落ちた事に。

 黒い獣は瞬きすら忘れ、ただひたすらに前を行く少年の愛しい後姿を見つめ続けていた。

 

 


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