龍は暁に啼く   作:高嶺 蒼

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本日、2回目の投稿です。


第5章~13~

 家の中はガランとしていた。

 以前であれば、母が必ずキアルの帰宅を待ち、食事の準備をしていてくれた。

 だが最近の母は、家を留守にしていることが多い。

 体調が良くなり、頻繁に外出しても大丈夫になった事は喜ばしいが、母の姿が家に無いことが何とも言えず、寂しかった。

 

 特に今日は……あんな事があった今日だけは、母の腕の中に何も考えずに飛び込みたかった。

 

 一歩間違えれば、今日、あの時、キアルは死んでいた。

 運が良かったから、今もこうして生きていられるだけだ。ただ、運が良かっただけ。

 目を閉じれば、まるで脳裏にこびりついてしまったかのように、赤に染め上げられた草原の光景が瞼の裏に浮かぶ。

 鼻の奥には今もまだ、鉄臭い血の匂いが残っていた。

 

 母さん、まだかな-ベッドの上で膝を抱えたまま、閉まったままの戸口に目を向ける。

 

 近頃、母の帰りは遅いことも多く、待ちきれず眠ってしまう事も多々あった。

 だけど今日だけは、母の顔を見てから眠りにつきたかった。

 今日の事を話し、危ない事をしてはいけないと叱られ、大変だったわねと優しく抱きしめて欲しかった。

 

 まだかなと、もう一度思う。

 

 最近の母親は少しおかしいのだ。

 本当はその事を雷砂に相談したかった。

 だがそれと同時に、雷砂に相談してはいけないと、心のどこかで警鐘がなってもいた。

 

 だから、なんでもないと……母親の事は心配ないのだと、雷砂に嘘をついた。

 自分の笑顔に不自然さはなかっただろうか?嘘をついたことはばれなかったか?

 

 綺麗な彼の友人は、ほんの少しだけ、不審そうな顔をした。

 探るようにじっと見つめられた時間はほんの数秒のことだったはずだが、ずいぶんと長く感じられた。

 追及されたら、もしかしたら話してしまったかもしれない。

 母親の異変の事を。

 

 いや、それでもやはり話さなかっただろう。

 母の身に起きた変化は、決していいことばかりではなかった。

 それを誰かに話すのは、たとえそれが雷砂であろうとも怖かった。

 だが、雷砂はそれ以上しつこく問い詰める事をせず、微笑んでただ救いの手を差し伸べてくれた。

 

 胸の辺りを、服の上からそっと抑える。

 そこには小さく固い感触。雷砂と彼女のオオカミにしか聞こえない笛だという。

 

 キアルは微笑み、ベッドに寝転がる。

 ほんのり胸が温かく、今だったら一人でも眠れそうな気がした。

 横になったまま、ドアを見る。母親が帰ってくる気配はない。

 少し眠ろう-そう思う。

 まだ寝てしまうには早い時間だが、今日はとにかく疲れてしまった。少し眠って、それからまた起きればいい。

 その頃には母も帰ってきていることだろう。

 段々重くなってくる瞼に逆らうことなく、キアルはゆっくりと眠りの淵に落ちていった。

 

 

 

 

 

 日は西へと傾き、ゆっくりと夜の帳が降りはじめた、そんな薄暗がりの中。

 村外れの林の中の小さな小川のほとりに人影が一つあった。

 

 一糸まとわぬその姿は、男の劣情を誘うように滑らかな曲線を描いている。

 右手に脱いだ衣類を持ち、彼女はそのまま川の中へと入ると、無造作に水の中へと右手を沈め、川の流れに衣類を泳がせた。

 

 その服はひどく汚れていたのだろう。

 衣類を沈めた辺りの水が汚れで濁っていた。

 だがそれもほんの束の間。汚れた水は川の流れですぐに清らかな色を取り戻していく。

 

 衣類の汚れが落ち、川の水が濁らなくなったのを確かめた彼女は、今度は川に向かって張り出した木の枝に向かう。

 そしてそのまま、川から引き出した衣類を枝に干すようにかけていった。

 絞っていない服からは水滴が激しく落ちていたが、まるで構うことなく。

 

 服が干し終わると、今度は自分の体の番とばかりに、ざぶざぶと川の深い所を目指す。

 川の流れは結構速いのだが、気にする素振りもなく、また流れに足を取られることもなく進んでいく。

 

 女が肩まで水につかり長い髪を洗い始めると、たちまち彼女の周りの水が濁った。

 服だけでなく、彼女自身もだいぶ汚れていたようだった。

 彼女の周りを薄赤く囲む濁った水は、激しい流れに押し流されてあっという間に透明に。

 すっかり汚れを落とした女の口角が上がり、赤い唇が妖しくも美しい笑みを刻む。

 濡れたままの髪をかき上げ、川岸へと向かった彼女は、干してある服の前で足を止めた。

 

 服はもちろん乾いていない。まだ盛大に水滴を垂らしている。

 彼女は服を着る必要性を感じていなかったが、頭のどこかで裸で歩き回る事の異常性は理解していた。

 女がしばし動きを止めたその時、ふいに草をかき分け、人の歩く音が聞こえてきた。

 

 「結構、汗かいちまったな。このまま帰ると聖良がうるせーから、川で水浴びしてくか。……たしかこっちの方に……」

 

 ブツブツ独り言を言いながら歩いてきたのは一人の青年。旅芸人の一座の軽業師・ジェドだ。

 彼は林の中で独り、芸事の練習をしていたようだった。

 

 無造作に木々の間から飛び出してきた彼の姿を認めて、女の目が妖しく光る。

 だが、その手が鋭くひらめくその前に、ジェドの目が女の姿を視認した。

 いきなり目の前に現れた全裸の女の姿に、目を丸くする。が、すぐに慌てて目を反らし、

 

 「す、すまねぇ。こんな時間のこんな場所に他の奴がいるとは思わなくて!あ、あんたも水浴びか」

 

 そう謝罪した。

 女は注意深く青年を見つめた後、普通の人間の女であればそうするように、両方の手で最低限自らの体を覆った。

 

 「……ええ。不注意で汚してしまって。危ないとは思ったのだけど、そのままで帰るにはあまりにひどい汚れだったものだから」

 

 平坦な声で言い訳めいたことを口にして、横目で枝にかかっている自らの服を見上げる。

 早く服を着てこの場を離れようとは思うが、水が滴る服を再び身にまとうのは、やはり常識的にみておかしいだろう。

 目の前の男を始末することも考えたが、折角体を洗ったのに再び汚れることは出来れば避けたかった。

 

 

 「うっかりして服も濡らしてしまって。困っていたところだったんです」

 

 「服?」

 

 

 ジェドは女の姿を見てしまわない様に気を付けながら後ろをうかがった。

 川岸の木の枝に、確かに彼女の服らしきものがかかっているのが見えた。

 服がぬれてしまってはさぞ困っているだろうと思いながら、手に持っている自分のシャツを見た。

 技の鍛錬の前に脱いでいるから汗臭くはなっていないはずだ。

 彼は一つ頷き、

 

 「良かったらコイツを着て行けよ。そんな汚れてないはずだから」

 

 そう言って、彼女の方にシャツを放った。

 背後で彼女がそれを受け取り、広げる気配。次いでシャツを羽織る衣擦れの音が聞こえてきた。

 

 「親切にありがとう」

 

 その言葉を合図に、彼女の方を振り向いた。女は微笑みを浮かべ、こちらを見ていた。

 若くはないが、美しい女だった。スタイルもいい。

 若い女にはないしっとりとした色香に、美人を見慣れているはずのジェドでも思わず生唾を飲み込んでしまう。

 

 「困ったときはお互い様だ。気にしなさんな」

 

 誤魔化すようにそう言って笑い、半ば以上むき出しの形の良い足から目を引きはがすと改めて枝にかかった彼女の服を見た。

 水を多分に含んだ服は、水滴を垂らしている。

 あれでは着て帰ることはもちろん出来ないし、腕に抱えて持って帰ることも難しいだろう。

 

 絞ってやりゃあ、ちっとはましかな?-そんな事を考え、女の許可を取ってから近付くと、無造作に服をつかんで生地を傷めない程度に絞ってやった。

 下着やらも一緒だったが、そういう事は考えないように気を付けながら。

 

 「これで少しは持ち運びやすいと思うけどな」

 

 そう言って手渡した。

 

 「ありがとう。助かるわ」

 

 感情の感じられない声でそう言い、女は妖しく微笑んだ。

 それじゃあと森の中に消えていこうとする女の背に、

 

 「一人じゃ危ないだろ。送ろうか?」

 

 下心が無いとは言い切れないが80%くらいは純粋な親切心から、そんな風に声をかけた。

 女は肩越しにちらりとこちらを見た。その瞳に危険な光を浮かべ、

 

 「大丈夫よ。私、強いから」

 

 そんな言葉を残し、木々の中へ消えていった。

 残された青年は、しばしその場に立って見送っていたが、女の残像を頭の中から追い出すように、がしがしと頭をかき、

 

 「……俺も帰るか」

 

 ぽつりと呟いた。水を浴びずに帰ったら口うるさい舞姫に怒られるだろうが、水浴びをする気が失せてしまったのだから仕方ない。

 宿に戻ったらたらいに湯をもらって体を拭こう-そんな事を思いながら歩き出す。

 

 一座の女連中は今頃交代で風呂に入る頃だろう。

 容姿を磨くのも仕事のうちという座長の方針で、女達は可能な限り風呂を使う権利と義務が課せられているのだ。

 男連中にはその義務も権利も無く、普段は気楽でいいと思うが、たまに羨ましいと思う事もある。

 特に冬場は女連中が羨ましい。男達に湯が許されるのはごくたまに。

 せめて残り湯を分けてもらおうとすれば、これまたエッチだスケベだとののしられる。

 

 「男女差別だよなぁ……」

 

 溜め息交じりに呟いて、背中を丸めて足早に歩くその後姿は、妙に哀愁に満ちていた。

 

 

 

 


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