平日には制服を着た学生やらスーツを着た会社員やらで真っ黒になる駅も、休日となるとカジュアルなファッションで着飾る若者や家族連れなどでカラフルな色合いになっている。とはいえ、どちらも人が多く行き交うことに変わりはなく、人混みを嫌う杏にとっては息苦しい空間でしかない。早朝に出掛ければもっと空いているのかもしれないが、いくら人混みを避けるためとはいえ早起きするなんて杏にとっては苦行以外の何物でもない。
「まぁ、そんなに急ぐ旅でもないし、のんびり電車旅行を楽しもっか」
4人掛けのボックス席、そこの窓際に座る杏がそう話し掛けるが、返事は無かった。杏は不思議そうに首をかしげて、珍しすぎる彼女の遠出に同行しているはずの菜々と輝子を見遣る。
小柄な彼女達なら新幹線の座席とはいえ充分なスペースがあるにも拘わらず、2人は緊張でガチガチに体を強張らせて縮こまっていた。せっかく買った駅弁や飲み物にも手をつけず、先程から思い詰めた表情でじっと床だけを見つめている。
「……もう2人共、いつまでそうしてるつもり? まだまだ目的地までは遠いんだから、今からそうしてたら身が持たないよ」
「わ、分かってはいるんですけどね……。やっぱり真剣にアイドルを目指していた身としては、今から“奇跡の10人”の1人に会うと思うとつい緊張してしまって……」
「フヒ……、しかもただ会うんじゃなくて、その人の“自宅”に押し掛けるっていうのは、ぼ、ぼっちの私にはレベルが高すぎるぜ……」
「大丈夫だって。“押し掛ける”って言ってもちゃんと事前に話は通してるし、それに今から会うのは李衣菜だよ? 本人には悪いけど、正直そこまで緊張するほどかというと……」
本人には絶対に聞かせられない杏の言葉に、菜々はズイッと杏に顔を近づけて、
「もう! 杏ちゃんにとってはそうかもしれませんけど、ナナにとって李衣菜ちゃんは憧れの存在なんですからね! ライブのときの李衣菜ちゃんは、それはそれは凄いんですから!」
「わ、私は生で観たことは無いけど、DVDは持ってるぞ……。あ、あんなに可愛いのに、曲が始まると凄く格好良くなるんだな……。思わず夢中になった……」
「おおっ! さすが輝子ちゃん、分かってくれますか! ちなみに輝子ちゃんはどの曲がお気に入りですか! やっぱりナナとしましては――」
にこにこと笑いながら話し続ける菜々に、話し掛けられることに慣れてないからか戸惑いながらも懸命に相槌を打つ輝子の姿を眺めつつ、杏はぼんやりと李衣菜のことを頭に思い浮かべた。
多田李衣菜は杏と同じ時期に346プロからデビューし、“奇跡の10人”と呼ばれるほどにブレイクしたアイドルである。デビュー当時から音楽方面の才覚が開花しており、自身の楽曲はもちろん他のアイドルの楽曲も手掛けるなど、その活躍振りは他の“奇跡の10人”の中でも一際異彩を放っていた。その可愛らしい見た目とライブのときの格好良さから、男性だけでなく女性にも熱狂的なファンが数多くいる。
ここまで聞くといかにも天才的なカリスマミュージシャンという印象を受けるが、彼女の評価を一筋縄ではいかなくしているのが、彼女自身の“言動”だった。
確かに彼女の才能は本物だし、ライブパフォーマンスは目を見張るものがある。しかし普段の言動はそのイメージとはかけ離れた、とても辛辣な言い方をしてしまうと“ポンコツ”だった。
本人は“自分はいかにも音楽に詳しいです”といった口振りだが、いざ好みの音楽を訊かれるとまったく答えることができない。自分はロックを目指していると常々言ってはいるが、何をもってして“ロック”なのかが非常に曖昧で、巷でロックと評される様々な言動を表面だけなぞらえて真似してみては周囲を困惑させる、といったエピソードが目立つのである。
その姿はいかにもロックに目覚めたばかりの中学生のような“にわか”っぷりで、一時期は『実はゴーストライターが曲を作っているんじゃないか』といった噂まで流れるほどだった。しかしだからこそ、多田李衣菜は“カリスマミュージシャン”とは一味違う、“才能もあってパフォーマンスも本格的なのに、まったくカリスマに見られない親しみやすいアイドル”としてお茶の間に浸透していった。
ちなみに現在は346プロ内に設立した自主レーベル“リヰナレコーズ”を活動拠点とし、ソロ活動と楽曲提供の傍ら、346プロからデビューした後輩アイドルと一緒にバンド活動も行っている。しかも彼女は現在、そのバンドメンバーと一緒に共同生活をしているのだという。
そして今回杏達が彼女の家に向かっているのは、早い話が彼女とそのバンドメンバーに自分達の曲を作ってもらうためである。いくら輝子が曲を作れるからといって、菜々の曲まで彼女に作ってもらうわけにはいかない。ウサミン星人にメタルは似合わないのである。
――それにしても、“あの”李衣菜が共同生活かぁ……。
そんなことを考えてる杏を乗せた新幹線は、空気を切り裂きながら海へと向かっていった。
* * *
李衣菜の家は地元では有名な高級住宅地にあり、海から程近い小高い丘の頂上に建てられている。ただでさえ普通の家よりも広くて大きい家が建ち並ぶそこで、白を基調とした開放的でおしゃれな外観をしている彼女の家は、はっきり言ってそれらのどれよりも広くて大きかった。
「おおっ! いかにも“成功者の家”って感じの家ですねぇ! ……ますます緊張してきましたよ」
「はいはい、良いから深呼吸してー」
杏に言われて菜々が律儀に深呼吸をしている間に、輝子が門扉の脇にあるインターホンを押した。彼女達の背丈の何倍も大きい門扉は細い鉄柱で作られており、鉄柱の間から中を覗き込むと、全力で駆け回れるほどに広い芝生の庭を突っ切るように、石畳のアプローチが玄関まで続いていくのが見えた。
『はーい、どなた――双葉杏さん達ですね。話は伺っております、中へどうぞ』
インターホンから聞こえてきたのは、女性にしては低くて凛々しい低い声だった。普段テレビやライブなどで耳にする李衣菜の声はもっと高いので、おそらく彼女と一緒に暮らしているというバンドメンバーの誰かだろう。
そんなことを考えていると、門扉が自動でゆっくりと開いて杏達を出迎えた。菜々と輝子はそのセレブっぷりにますます圧倒され、そして杏は平然とした表情で門を潜った。
長いアプローチを歩いて玄関へと辿り着いたそのときを見計らったかのように、玄関のドアが開けられた。しかし今回は人の手によるものであり、中から顔を出したのはリーゼントのように前髪を上げた、一昔前のヤンキーのような見た目をした女性だった。
「えっと……、ようこそ双葉さん。他のお2人も、遠慮せずに中へどうぞ」
しかしその見た目とは反して、彼女は真面目な口調で杏達を出迎えた。そして菜々や輝子と同じように緊張しているその様子から、こちらが李衣菜に会うことに緊張していたように、向こうも杏を迎え入れることに緊張していたことが分かる。
「あ、もしかして木村夏樹ちゃん? いつも曲聴いてるよー」
「え、本当か! ……ですか! ありがとうございます!」
「ははは、そんな無理して敬語とか使わなくて大丈夫だよ。杏、そういうの全然気にしないし」
「……わ、分かった」
その少女――夏樹は未だに緊張が抜けきらないながらも、先程よりはリラックスした様子で頭を下げた。
「うわぁ、本物の夏樹ちゃんです! 初めまして、安部菜々です!」
「ほ……星輝子です。よ、よろしく……」
菜々は満面の笑みで、輝子はおどおどしながら、夏樹に向かって手を差し出した。夏樹は「おう、よろしく」と完全に素の言葉遣いでまずは菜々の手を力強く握りしめる。そして隣の輝子の手に触れた途端、夏樹が驚いたように少しだけ目を大きくした。
「……輝子、もしかしてギター弾くのか?」
「フヒ……、わ、分かるのか……?」
「ああ。指の皮膚が硬いからな。しかも相当やり込んでるな」
「おお……さすが」
手を握られながら真正面から褒められたせいか、輝子の頬が紅く染まっていた。
「なぁ、後でセッションしようぜ。どんな曲が好きなのかも気になるしな」
「おっ、さっそく輝子に目をつけたねぇ? その子は逸材だよー」
「まじか! こりゃますます期待だな!」
「良かったですね、輝子ちゃん」
「フ、フヒ……」
夏樹から期待の目で見られ、杏から褒められ、菜々から優しい言葉を掛けられ、輝子の顔はすっかり紅くなってしまった。普段から無口なのに、さらに顔を俯かせて口を閉ざしてしまう。
と、そのとき、杏がふと思い出したように夏樹へ顔を向ける。
「そういえば、李衣菜は奥にいるの?」
「ああ、今はリビングにいるよ。ちょうど他のメンバーも――」
「いい加減にしろよ! みんながおまえみたいにできるわけじゃねぇんだよ!」
その瞬間、ドア1枚隔てたリビングの向こうから、若い少女の怒号が聞こえてきた。それを聞いた菜々と輝子はビクッ! と体を震わせ、夏樹は呆れたように大きな溜息をついて、そして杏は面白そうににやにやと笑みを浮かべた。
夏樹がそのドアを開けると、開放的なリビングが目に入った。外観と同じく白を基調としたそのリビングは、広さにして50畳を優に超え、吹き抜けとなった高い天井にはくるくるとファンが回っている。部屋に並べられた家具も白で取り揃えられており、まるでモデルルームのようなオシャレな空間となっている。
そしてそのリビングの中心に置かれたテーブルとソファーに、3人の少女と1人の女性が集まっていた。とはいえ、今は少し剣呑とした雰囲気となっている。
その雰囲気を作り出している張本人は、黒く長い髪を持つ胸のかなり大きな少女。その立ち振る舞いや鋭く睨みつけるその目つきから、昔はかなりやんちゃしていたことが伺える。
そしてそんな少女を心配そうな表情で眺めているのが、長い茶髪に少しだけ小麦色に焼けた肌が特徴の少女(先程の少女に隠れがちだが、この少女も結構胸が大きい)に、左の側頭部のみを刈り上げた長い金髪という奇抜なヘアスタイルをしたいかにもギャルっぽい少女。
そして、最初の少女に真正面から睨みつけられながらも、不思議そうに首をかしげて飄々としているのが、薄い色素のショートヘアに他の少女と比べても幼い顔立ちをした女性だった。ともすればこの中で一番年下に見られそうな彼女だが、彼女がこの中で一番の年上である。
この女性こそが、今回杏達が目的としてここに訪れた多田李衣菜である。
「やっほー、李衣菜。もしかして取り込み中?」
「あぁ、杏じゃん! 久し振りー!」
杏が声を掛けると、李衣菜はパァッと晴れやかな笑みを浮かべてソファーから立ち上がり、彼女の下へと駆けていった。彼女を睨みつけていた黒髪の少女が「あっ、おい!」と声を荒げるが、杏達の姿に気づくとばつが悪そうに勢いをすぼめていった。
「拓海、お客さんの前でみっともないぞ」
「……おう。騒がしくして、すみませんでした」
「ああ、良いって良いって。それに言葉遣いも無理しなくて良いからね」
丁寧に頭を下げる少女・拓海に、杏は手を横に振りながら先程の夏樹と同じ言葉を掛けた。それを聞いた拓海は、明らかにほっとしたように胸を撫で下ろした。
ちなみに杏の後ろにいる菜々と輝子の2人は、
「わぁ! 本物の李衣菜ちゃんに、“ROCKIN' GIRLS 18”のメンバー全員揃ってますよ……! 凄い……、本当に李衣菜ちゃんの自宅に来たんですね……!」
「フヒ……、凄い……、DVDで観た人が目の前にいる……」
完全にそこら辺のファンと一緒の反応をしていた。
「あ、そうだ。李衣菜達に紹介しとかないとね。――ここにいるのが、杏がこれから立ち上げる劇場で働くアイドル候補生の、安部菜々に星輝子ね」
「あ、安部菜々といいます! どうぞよろしくお願いします!」
「ど、どうも……! 星輝子です……!」
「あはは! そんなに固くならなくて大丈夫だってー! 多田李衣菜だよ、よろしくね! バンドではギターをやってます! ――んじゃ他のみんなも、1人1人自己紹介よろしくね!」
李衣菜に言われて、他の4人がぞろぞろと動いて横に並んだ。
「さっきも自己紹介したけど、改めて。アタシは木村夏樹。だりーと同じく、バンドではギターをやってるぜ!」
次に口を開いたのは、小麦色の肌をもつ少女。
「アタシは松永涼。バンドではベースをやってます。よろしく」
そして、先程李衣菜を睨みつけていた黒髪の少女・拓海。
「アタシは向井拓海。バンドではドラムをやってる。よろしくな」
そして最後に、奇抜なヘアスタイルをしたギャルっぽい少女。
「やほやほー、藤本里奈だよー。バンドではキーボードやってるんで、よろぽよー」
最後の挨拶にはさすがのバンドメンバーも里奈のことを睨みつけていたが、杏はまったく気にしてない様子で「よろぽよー」と返していた。
この5人が、現在李衣菜が組んでいるバンド“多田李衣菜 vs. ROCKIN' GIRLS 18”である。
「んでんで、さっきは何を揉めてたの?」
「え? いや、それはちょっと――」
「そうそう、聞いてよ杏ー。拓海ったら、私がちょっとお願いしただけですぐに怒るんだよー」
「全然“ちょっと”じゃねぇだろ! さっきも言ったけど、りーなはもう少し人のことを考えろ!」
再び喧嘩が勃発しそうな雰囲気になったところで、杏はこの中では冷静に話してくれるであろう夏樹や涼に話を振った。
「杏さん達がここに来るちょっと前まで、アタシ達は新しいアルバムの打合せをしてたんだよ」
「新しいアルバムが出るんですか! やった、凄い情報ゲットしちゃいましたよ!」
「菜々さーん、興奮する気持ちは分かるけど、今はちょっと静かにねー」
杏の注意に、菜々は「あっ、すみません!」と慌てたように頭を下げる。
「……で、そのアルバムに収録する曲をメンバーそれぞれで作ってて、さっき何曲出来たかみたいな進捗状況とかを話してたんだよ。そこでちょっと問題になって……」
「問題?」
菜々と輝子が首をかしげる中、杏だけは何かを察したような表情を浮かべ、それでも何も言わずに続きを促した。
「アタシ達が作った曲をチェックしてただりーが、アタシ達に『もっと曲作りのペースを上げろ』って」
「あぁ……」
それを聞いた杏の反応は“やっぱり”といった感じだった。
そして李衣菜が、横から口を挟む。
「だってみんな、私が曲を作るペースの“1割”くらいなんだよ! こんなペースじゃ間に合わないって!」
「アタシ達が遅いんじゃなくて、りーなのペースが異常なんだよ! そもそもりーなが設定した締切までの時間が短すぎるのが悪いんだろ!」
「そんなことないって! 別に普通だよ! このままじゃ、せっかくのバンドなのに私が作った曲ばかりになっちゃうよ! それじゃ意味が無いんだって!」
「だったら、もっとアタシ達のペースを考えて仕事のスケジュールを組めって言ってんだよ! アタシ達だってしっかり曲を作りたいんだよ!」
「だったら作れば良いじゃない! 拓海達がペースを上げれば、それで済むでしょ! そっちは4人なんだよ! それなのに、なんでたった1人の私よりも曲作りのペースが遅いの!」
「だーかーらー! みんながりーなみたいにできるわけじゃねぇんだよ! いい加減分かれよ! どんだけ一緒に仕事したと思ってんだよ!」
拓海に怒られてなお、李衣菜はなぜ彼女が怒っているのか本気で理解していないような表情をしていた。杏はそれを見て何だか懐かしい気分に浸りながら、このままではさすがにまずいと思ったのか、そっと李衣菜に近づいていく。
「李衣菜、このバンドのリーダーは誰?」
「……私」
杏の優しく語り掛けるような声に、李衣菜は少し不満そうに唇を尖らせながら答えた。
「リーダーの役目は、チームを引っ張っていくことでしょ? そのためには、自分のことだけじゃなくて、メンバーのことも考えなくちゃいけないの。――李衣菜は、みんなにどうしてほしい?」
「……もっとみんなに、曲を作ってほしい。最低でも、アルバムの半分くらいはみんなの曲を使いたい」
「だったら、みんなが無理なく曲作りができるように考えてスケジュールを組むべきでしょ? 一定期間仕事を全部キャンセルするとか、今までの曲作りのペースから目標までの期間を逆算するとか。李衣菜は或る意味、このバンドのプロデューサー的な立ち位置にいるんだから、みんなの能力を最大限発揮するためにどうすれば良いか考えなきゃ駄目でしょ?」
「……分かってるけど、私は“今”アルバムを作りたいんだよぉ……」
「李衣菜がソロアルバムを作るときはそれで良いけど、チームとして活動するには自分の都合だけ考えちゃ駄目だよ。――それに李衣菜がバンドを結成したのは、自分でも予測がつかない“化学反応”を起こしたかったからでしょ? だったら、その“思い通りにいかない”っていう状況すらも楽しまなきゃ」
「……うん、そうだよね。――みんな、我が儘言ってごめん」
「お、おう。こっちこそ、怒鳴って悪かったな」
「大丈夫だよ、いつものことなんだから」
「そうそう! だりなさんが我が儘言うのなんて、いつものことなんだからー!」
李衣菜が申し訳なさそうに頭を下げて謝ると、拓海は若干恥ずかしそうに、涼は優しい目で見守るように、里奈は明るい笑顔を浮かべてそれを受け入れた。そんな彼女達を杏の隣で眺めていた夏樹は、杏のことを尊敬の眼差しで見つめていた。
「……杏さん、やっぱすげーな」
「別に大したことは言ってないよ、外部の人間が言った方が伝わりやすいってだけ。――まぁ、李衣菜は今までソロしかやってないから、ユニットでの活動がどういうものか分からないんだよ」
李衣菜はデビュー前のときから他の同期と衝突が絶えず、他のメンバーが多かれ少なかれユニットを経験している中、李衣菜だけはずっとソロのみで活動してきた。それは彼女が集団行動に向いていない性格だということを武内が見抜いていたからであり、彼女がバンド活動をやりたいと彼に打診したときも、彼は最後まで悩んだのだという。
とはいえ、李衣菜としてもただ我が儘に振る舞っていたわけではない。彼女も思うところがあったらしく、彼女なりに他のメンバーと仲良くなろうと色々模索していた。その内の1つが“自分は音楽の知識が無く、誰かにフォローしてもらわなければいけない人間である”とアピールをするというものだった。
実際彼女は音楽そのものにしか興味が無く、それを歌うミュージシャンや音楽の辿ってきた歴史などには一切関心が無かった。なので彼女の演じていたキャラはあながち間違いではなく、結果的にこれが現在の彼女のイメージを作り上げ、そして人気アイドルへと成長する要因となった。そしてこのイメージが浸透するにつれて、李衣菜は次第に同期の輪の中に溶け込んでいったのである。
だが、彼女の“本質”は何も変わっていない。ふとした瞬間に先程のような“感覚のずれ”が表面化し、その度に周囲の人間とトラブルになってしまう。
「でも最近の李衣菜は、ちゃんと線引きが分かってきたのか知らないけど、そんなトラブルはほとんど無かったんだよ? だから夏樹達と時々ああやって喧嘩になるのは、李衣菜自身がみんなに対して心を許しているからじゃないかな、なんて杏は勝手に思ってるんだけど」
さすがにそれは都合の良い解釈かな、と杏はどこか照れ臭そうに笑みを零した。
夏樹はそんな杏の姿を見て、そして他のメンバーに頭をわしゃわしゃと撫でられている李衣菜の姿を見て、「そう思ってくれてんなら、嬉しいんだけどな」と杏にしか聞こえない音量で呟いた。
* * *
設立から7年が経った346プロでは、これまで数々のユニットがデビューをした。一定の成功を収めたものから、実験的なものにより僅か1ヶ月足らずで解散するようなものまで、様々なユニットが世間を賑わせている。
しかし、その中で最も成功したユニットは何かと尋ねられたら、全員が迷うことなく“New Generations”と答えるだろう。
それは346プロ設立時のメンバーであり、後に“奇跡の10人”に数えられるアイドルである島村卯月、渋谷凛、本田未央の3人によって構成されたユニットである。
その最大の特徴は何といっても多彩なイメージ戦略であり、アイドルとしてまさに完璧だった卯月、クールな性格で近寄りがたいカリスマ性を持つ凛、皆から親しまれる明るい性格の未央という3人のまったく違うイメージを駆使し、楽曲の度にセンターを入れ替えることで、まるで違うユニットであるかのようにがらりとイメージを変える方法を採った。これにより彼女達は、瞬く間にアイドルシーンのトップへと駆け上がっていったのである。
こういったまるで個性の違うメンバーによるユニットというのは、ともすれば目指している方向性の違いにより空中分解してしまう危険性も孕んでいる。しかし3人はプライベートでも仲の良いユニットとして業界では有名であり、3人はこれからもずっと“New Generations”として活動していくと誰もが思っていた。
しかし結成から何年か経ったある日、突如“New Generations”の活動休止というニュースが日本中を駆け巡った。その衝撃は双葉杏の電撃引退に迫る勢いであり、『実は3人共もの凄く仲が悪かった』だの『1人の男を巡って骨肉の争いが繰り広げられた』だの、何とも身勝手な噂が生まれては消えていった。
それからというもの、卯月はソロでのアイドル活動、凛はソロ歌手の傍らセルフプロデュースでのユニット活動、そして未央はバラエティ番組を中心としたタレント活動と、それぞれの道を歩んでいくこととなった。そしてこのソロ活動もまた大成功を収め、それにより“New Generations”として3人揃うことは絶望的との見方が主流である。
だが勘違いしないでほしいのは、仕事で一緒になることが無くなったからといって、3人の仲が悪くなったわけではないということである。3人の友情は今でも、ユニット結成時のまま変わることなく続いている。
いったいどれだけ仲が良いかというと、
「やっほー、凛ちゃん来たよー」
「お邪魔しまーす、しぶりーん!」
「2人共、ようこそ」
どれだけ忙しくても必ず月に1度、メンバーの誰かの家で飲み会をするほどである。
杏達が李衣菜の家にお邪魔していたその日の夜、卯月と未央が凛の家にやって来た。凛の家は都心にあるタワーマンションの最上階付近であり、黒を基調としたその部屋は生活感がほとんど無いほど綺麗に片づけられていた。それはまるでモデルルームのようであり、本当に女性の部屋なのかと疑ってしまうほどにスタイリッシュだ。
「見て、未央ちゃん! いつ見ても綺麗な夜景だね!」
「おぉ! 東京の街を一望ですなぁ! いやぁ、しぶりんはいつもこの部屋を眺めて、『もう日本は私のものだ……』とか浸ってるわけですねぇ! 羨ましいですなぁ!」
「ちょ、そんなわけないでしょ! それに羨ましいなら、未央も同じような部屋に住めば良いじゃない!」
「いやいや、私にこんなオシャレな部屋似合わないって! 私はもっとこう、下町みたいな賑やかな場所が好きかな!」
「2人共、一人暮らしなんて凄いです! 私なんて未だに実家暮らしで、自分の部屋もこんなに綺麗には片づけられなくて……」
「そ、そんなことないよ卯月。この部屋だって、2人が来るから急いで片づけただけで……」
「おやおや! それじゃ普段のしぶりんの部屋がどんな感じか、これは抜き打ち検査をする必要がありますな!」
「ちょっと、未央! ――もう良いよ……、何か簡単なものでも用意するね」
「あ、そうだ! 凛ちゃん、これお土産ね!」
「おっと、忘れるところだった! はい、どうぞ!」
「ありがとう、2人共」
そう言って2人が渡したのは、ここに来るときから手に持っていた紙袋だった。卯月は町のお菓子屋さんで買ったスイーツにスパークリングワイン、未央は商店街で買った魚介系おつまみに日本酒と、これまた個性がよく分かるお土産だった。
凛はその紙袋を持って一旦キッチンの方へ下がると、3人分のワインと生ハムメロンを持って戻ってきた。
「ちょうどメロンと生ハムがあったからこれにしたけど、卯月は好きだったよね?」
「はい! ありがとうございます!」
「あぁ、しまむー良いなぁ! ねぇねぇしぶりん、私にはフライドチキン無いの?」
「いや、そんなの家で作るようなものじゃないし……」
「まぁ確かに、こんなオシャレな部屋でフライドチキンなんて合わないよね!」
「いや、別に部屋のイメージで料理を決めてるわけじゃないんだけど――」
「うーん! 凛ちゃん、これ凄く美味しいです!」
「……本当、卯月ってマイペースだよね」
「そこがしまむーの良いところなんだよね!」
「?」
微笑ましそうに卯月を見つめる凛と未央に、卯月は不思議そうに首をかしげていた。
それからしばらくの間、3人はお酒を交えながらの近況報告を兼ねた雑談を楽しんだ。近況報告とはいっても、3人共仕事に没頭する(アイドルとしては嬉しい、しかし女性としては少し寂しい)生活を送っているため、話題となるのはもっぱら仕事のことである。
そして仕事の話題になれば、当然の流れで話題に挙がる人物がいる。
「そういえば2人共、杏のことは何か聞いてる?」
「杏ちゃんですか? そういえば、この前事務所で見掛けました! 何か用事があったのかな?」
「えっ、杏ちゃんが事務所に? ということは、まさかのアイドル電撃復帰とか! いやぁ、口では不労生活を満喫してるとか言って、本当は未練たらたらだったんだねぇ!」
「いや、アイドルに戻る気は無いみたいだよ。プロデューサーの話だと、アイドル事務所を立ち上げてプロデューサーになるみたい」
「えぇっ! 杏ちゃんがプロデューサー?」
「でも杏ちゃんって、プロデューサーに向いてると思います。杏ちゃんがアイドルだったときも、私達を1歩離れた所で見てて、的確にアドバイスしてくれたときが何回もあったし」
「あー、そういえば『有能な怠け者は指揮官に向いている』って聞いたことがあるし、杏ちゃんにとってはアイドルよりもプロデューサーの方が天職かもしれないね」
「ってことは、杏ちゃんがプロデュースしたアイドルと一緒に仕事をするかもしれないってことですね! それもそれで楽しみだなぁ!」
卯月が心の底からの笑顔を浮かべてそう言うのを、凛が首を横に振って否定する。
「……いや、多分それもあまり無いと思う。この前きらりから聞いた話だけど、都内の繁華街に劇場を立ち上げて、そこでライブをやる“地下アイドル”路線で行くみたい」
「へぇ、地下アイドルかぁ……。――まさか杏ちゃん、“自分が動きたくないから”なんて理由で決めたわけじゃないよね?」
「未央ちゃん! 杏ちゃんだって、色々と考えたうえで決めたことですよ! ……多分」
「あっはっはっ! しまむーだって自信無いんじゃない! ――それにしてもしぶりん、随分と杏ちゃんのことを気にしてるね」
「……うん、まぁね。やっと杏と“戦える”機会が巡ってくるかもしれないんだから」
「凛ちゃん……」
「……まったく、しぶりんは変わってないねぇ」
表情は冷静ながら目の奥に闘志を燃やす凛に、卯月も未央も微笑ましそうな表情を見せる。
凛はデビューをしたときから、常に何かに挑戦し続けていくことを信条としてきた。そして常に、強敵と戦いたいという願望を胸に抱いてきた。たとえそれが仲間であろうとも、自分が強敵と認めた相手には躊躇うことなくぶつかっていくことを選択する。
そして凛が最も戦いたいと渇望していた相手こそが、双葉杏だったのだ。どれだけ自分達がアイドルとしてレベルアップをしても、常に彼女がその先を行っている。そして本人はそのことに対する自覚がまったく無く、やっと凛がアイドルとして一人前になった(と本人が思えるようになった)途端に、杏は一欠片の未練も無くあっさりとアイドルを引退してしまったのだ。
「……ようやく、杏と戦える機会が巡ってくるかもしれないんだ。だからこそ、杏がどんなプロデュースを目指しているのか、そしてどんな子をアイドルに育てるのか、凄く興味があるんだ。だからこそ、誰か杏のことを何か聞いてないかなって思ったんだけど……」
「きらりんは杏ちゃんに会ったんでしょ? アイドル候補生とか紹介されなかったのかな?」
「紹介されたみたいだけど、どんな子かは教えてくれなかったの。杏が内緒にしておきたいかもしれないから、って」
「うーん、相変わらずきらりんは“気遣いの子”って感じだねぇ」
凛と未央がそんな会話を交わしている間、卯月は真剣な表情で何かを考え込んでいた。
「お、しまむー、どうしたの? そんな真剣になって」
「えっと、凛ちゃん。きらりちゃんに話を聞いたとき、きらりちゃんが杏ちゃんに何か協力するとか言ってなかった?」
「協力? ……そういえば、ライブの衣装を用意するって言ってたかな」
「おおっ! きらりんの衣装は業界でも人気だからねぇ! 『おかげで稼がせてもらってます!』って、ちひろさんが嬉しそうに言ってたよ!」
「……ってことは、杏ちゃんは他のみんなにも色々と用意してもらおうとしてるんじゃないでしょうか? 例えば、曲とか」
「そうか! そっち方面から色々と話を聞けば、杏ちゃんの企みも分かるかもしれないって寸法だね! さすがしまむー!」
「えへへ……」
「ということは、とりあえず李衣菜に話を聞いてみれば良いのかな? 杏が現役のときも色々と頼りにしてたみたいだし」
凛はそう言って、おもむろにスマートフォンを取り出した。そしてそこに登録されている李衣菜の番号に電話を掛けてみるが、何回コール音が流れても相手が出る気配が無い。
20回ほど流れたところで、凛は溜息と共に電話を切った。
「あれ? りーなは?」
「出なかった。まぁ、李衣菜がちゃんと電話に出る方が珍しいし……。――夏樹に掛けてみるか」
凛はそう言って、再びスマートフォンをいじり出す。そして電話を掛けると、今度は数回のコール音で相手が出た。
「もしもし、夏樹? 突然ごめんね、李衣菜に変わって――」
『り、凛さん! 悪いけど、今ちょっと取り込んでるから! じゃ!』
電話の相手――夏樹はひどく慌てた様子でそう言うと、凛の返事も待たずに電話を切ってしまった。プープー、と気の抜けた電子音が鳴るスマートフォンを耳に当てたまま、凛は困惑の表情を浮かべた。
「どうしたの、凛ちゃん?」
「……さぁ」
卯月のその問い掛けは、凛こそが訊きたいことだった。