TITLE:『北条加蓮』
ARTISTS:北条加蓮
LABEL:アプリコット・レコーズ
【LIST】
1.WHITE ROOM
2.MEMENTO MORI
3.恵まれないあの子に救いの手を
4.ノイズ
5.壁
6.トンネル
7.雨の降る夜に
8.スキ/キライ
9.LIGHT DANCE
10.0905
【REVIEW】
ミュージシャンが自分の名前やバンド名を付けたアルバム、いわゆる“セルフタイトル・アルバム”をリリースするとき、そこにはミュージシャンの強い想いが籠められている場合が多い。世間に自分達を認識させるためのデビュー作であったり、自分達にとっての傑作を集めたベスト集であったり、あるいは今の自分達を最も表現できたと豪語する自信作であったり。
“トライアドプリムス”のメンバーとしてデビューした北条加蓮にとって初のソロアルバムとなる今作も、全楽曲を自身で作詞したという力の入れ様から、そのような流れに乗ったものだと推察することは簡単だ。
しかし筆者はこのアルバムを聴いたとき、このアルバムが彼女の名を冠する“必然性”を自ずと理解した。
このアルバムは、まさしく“北条加蓮”自身なのである。幼い頃から病弱で入退院を繰り返し、周りに辛く当たっていたことで常に孤独感に苛まれ、様々な人々との出会いによって心境が変化していく少女の物語が、この1枚のアルバムに全て凝縮されているのである。
彼女の歩んできた今までの人生は、おそらく彼女自身にとっても辛い思い出の多いものだろう。しかし彼女は逃げることなく、この作品に収録された10曲に全てを詰め込んだ。“トライアドプリムス”では飄々としたクールな立ち振る舞いをしている彼女が、このアルバムでは痛々しいまでに自分をさらけ出し、静かながらもまるで叫んでいるかのような鬼気迫る歌声を響かせている。
しかし筆者が何より驚いたのは、それだけ重い題材を扱いながら、あくまで純粋に楽しめる良質なJ-POPエンターテインメントに昇華させるという離れ業をやってのけたことである。しっかりと練り込まれたサウンドの成せる業でもあるが、彼女が如何にリスナーのことを第一に考え、リスナーが置いてけぼりにならないよう細心の注意を払っていることが伺える。
断言する。このアルバムは間違いなく“傑作”である。
TITLE:『aNimAtiOn』
ARTISTS:神谷奈緒
LABEL:アプリコット・レコーズ
【LIST】
1.『おきのどくですが ぼうけんのしょ は きえてしまいました』
2.ゆけ! 魔法少女アグレッシブ☆アリサ!
3.謎の侵略者(feat.安部菜々)
4.突然ゾンビが蔓延る世界に転移したのでチェーンソーで無双することにした(feat.白坂小梅)
5.二次元と三次元の狭間
6.ネガティブ・ハッピー(feat.星輝子)
7.DEEP
8.Nのテーマ
9.機械人形ヴァロッサ(feat.神崎蘭子)
10.Extra Disc
【REVIEW】
前項の『北条加蓮』もそうだが、この作品は言うなれば“企画モノ”だ。346プロに所属するアイドルが、双葉杏率いる208プロに期間限定で移籍するという“祭り”を記念したアルバムである。よって208プロのアイドルとコラボした曲を収録するのも、当然といえば当然だ。
しかしながら、神谷奈緒にとって今回のアルバムは、単なるコラボ物とは一線を画す非常に大きな意味を持つと筆者は推測する。
このアルバムに収録されている10曲は、そのどれもが“トライアドプリムス”の神谷奈緒とはかけ離れたものばかりである。ユニット時の彼女が得意としたクールなダンスミュージックは1曲も無く、いわゆる電波曲や熱血溢れるアッパーソング、あるいは重厚なメタルサウンドなど、今までの彼女に馴染みのあるファンほどその変化に戸惑うラインナップとなっている。
しかし、これこそが本来の神谷奈緒なのである。彼女は“トライアドプリムス”として活動しているとき、いわゆる“オタク”的な一面をひた隠しにしていた。自分の内面を見せることでユニットのイメージを損なうのを防ぐためでもあるが、今月号のインタビューでも分かる通り、周りの人間が自分から離れていくことを恐れていたからだろう。
しかし彼女は、そんな自分の内面を見せることを選んだ。それこそが、ソロとして自分を表現する最大の武器であると彼女自身が結論づけたからである。208プロのアイドルとのコラボは、新しい極地へ赴く不安を仲間と行くことで和らげる側面もあるが、自身の内面を相手と共有するための第1歩であることを考えれば、むしろ4曲のコラボ曲こそがこのアルバムの肝と言っても良い。
そんな彼女の“覚悟”を、しっかりと受け止めて聴いてほしい。
(月刊アイドルマスター『今月のPICK UP!』より抜粋)
* * *
奈緒と加蓮が初めてソロでステージに立つこの日、開演までまだまだ時間があるというのに、劇場前は既に大勢のファンが詰め掛けていた。その数も、普段の公演より断然多い。チケット自体は他のメンバーと同数の販売だったのだが、チケットを買えなかった熱心なファンが少しでも現場の空気を味わいたいと劇場まで足を運んだからである。
この説明だけでも察しがつくだろうが、チケット争奪戦もかなり熾烈を極めたものとなった。余計な混乱を避けるために抽選制とし、申込みの順番と当選確率は関係ないと明記したにも拘らず、受付開始と同時に一気にホームページにアクセスが集中し、結局サーバーがダウンしてしまったのである。
初日という記念すべきライブのチケットを買えなかったファンは残念だが、2人のライブは今日だけではないので我慢してもらうしかない。しかし2人のデビューに合わせて平日の午後にも劇場を開演することが決定したとはいえ、今後しばらくはこのような混雑が続くことが予想される。その辺りはやはり、さすがは346プロ期待の新人アイドルといったところだろう。
しかしここまで申込みが多くなったのは、“346プロ期待の新人アイドル”というネームバリューだけが理由ではない。アイドル専門雑誌でのレビューでも軒並み高評価だったアルバムがファンにも概ね受け入れられた結果でもあり、それはつまり今回の移籍が“第1段階”では成功したことを示している。
よって次は、“第2段階”でもあるライブで自分のできる最高のパフォーマンスをするのみだ。
「今のところ、定刻での開演を予定してまーす」
ドアから顔を出してそう呼び掛けたスタッフに、奈緒と加蓮は「分かりました」と口を揃えて頷いた。そのときの2人の表情は、明らかに緊張でガチガチに強張っていた。その姿は“トライアドプリムス”としてここよりも何十倍も大きなキャパでライブをしたことのあるアイドルには到底見えず、それこそ人生初のライブに挑もうとするド新人だとしても違和感が無いほどだ。
いつもならば取り止めの無い話で盛り上がっている楽屋も、今日は2人の体から迸る緊張が部屋中の空気をピリピリと震わせ、それが一緒の部屋にいる菜々達にも伝播しているため、しんと静まり返っている。
ちなみに今日の2人の公演は、208プロの先輩である菜々達4人の後に行われる。菜々と小梅の公演は既に終了し、輝子が今まさにライブの真っ最中であるため、部屋にいるのは私服姿の菜々と小梅、そして衣装に着替えている蘭子と飛鳥という面子でああった。
そんな4人は現在、部屋の隅に置かれたソファーに固まるように座っていた。
「……今日の奈緒さんと加蓮さん、凄く緊張してるね……」
小梅が小声でそう言うと、最初に反応したのは飛鳥だった。
「いくらライブの経験があるとはいえ、それはあくまでユニットとしてだ。1人でステージに立つのは実質初めてな2人にしてみたら、紛れもなく今日が“デビューライブ”なんだと思うよ」
「それに2人の場合、実は純粋な意味での“ライブの経験”も他の新人アイドルより少ないんですよ。2人はかなり早い段階から凛ちゃんと一緒にユニットを結成することが決まってたから、他の新人アイドルみたいにバックダンサーとかで経験を積むってことをほとんどしてこなかったみたいなんです」
アイドル業界に(ファン的な意味で)詳しい菜々の言葉に、他の3人も納得したように小さく頷いた。なまじ実力があっただけに破竹の勢いでデビューした2人だからこその“弱点”と言えるかもしれない。
「“恥じらい乙女”と“薄荷の姫君”の姿は、かつての我々を彷彿とさせるものだ。なればこそ、我々が2人の重荷を共に背負うことが望ましくないか?」
「いや、蘭子ちゃん。そうは言いますけど、下手にナナ達が話し掛けて変にこじれたら、そっちの方が危なくないですか?」
「そうだな。それに2人共、芸歴のみで言えばここにいる誰よりも長い。自分のメンタルケアくらい、むしろボク達よりも心得ているだろう。――それにもしもそれが叶わなかったとしても、最悪杏さんがここに来て2人のフォローをしてくれるに違いない」
「そ、そうだよね……。いつも杏さん、大事なときには色々と私達のことを励ましたりしてくれたし……」
小梅の言う通り、今までも杏はメンバーが様々なことで悩んでたりしていたときにフッと現れ、そして的確な言葉を掛けることでその悩みを解決へと導いてきた。個々の能力や希望を尊重し、基本的に放任主義のような態度を取っている彼女ではあるが、むしろ自分達に関しては細心の注意を払っていると言っても良い。
だからこそ4人は、彼女が楽屋にやって来て奈緒達を励ましてくれると信じていた。
そして、
こんこん――。
「――――!」
楽屋のドアがノックされた瞬間、菜々達4人は一斉にそちらへと顔を向けた。輝子のライブ終了まではまだ時間があり、次の出番である蘭子や飛鳥が呼ばれる時間にもまだ余裕がある。
菜々は喜びの表情を隠すこともせずに「入っても大丈夫ですよー」とドアに呼び掛けた。
その声を受けてドアが開かれ、1人の人物が楽屋へと足を踏み入れた。
「久し振りだね、奈緒、加蓮」
「――凛さんっ! どうしてここに!」
「えぇっ! なんで!」
そこにいたのは、“奇跡の10人”の1人であり、奈緒と加蓮が346プロでユニットを組んでいた渋谷凛だった。思いもしなかった大物の登場により、奈緒と加蓮だけでなく、菜々達も驚愕の表情を浮かべて思わず立ち上がっていた。
「せっかくの2人の晴れ舞台だからね。本当はこっそり観るつもりだったんだけど、杏から電話があって、楽屋に入って2人を励ましてこいって言われてさ」
「杏さんが? そういえば、杏さんはどこにいるんだろ?」
「確かに。たまに席を外すことはあっても、基本的にはこずえと一緒に楽屋にいるんだけど」
久し振りに顔を並べた“トライアドプリムス”が会話を交わす中、菜々が遠慮がちに身を乗り出して「あのー……」と声を掛けた。
「もし良かったら、ナナ達は席を外しましょうか?」
「ううん、大丈夫。私が勝手に押し掛けただけだから、みんなはゆっくりしてて」
凛は軽くそう言ってのけるが、今もなお伝説のアイドルとして名を馳せる彼女と同じ部屋にいて、アイドルオタクである菜々がゆっくりできるはずもなかった。そしてそれは蘭子や飛鳥なども同じようで、そわそわと落ち着かない様子で何度もソファーに座り直していた。
しかし凛はそれを気に留める様子も無く、表情を強張らせてソファーに腰を下ろす奈緒と加蓮を見つめ、ホッと胸を撫で下ろすように顔を綻ばせた。
「良かった。2人共、ちゃんと緊張してるみたいで。346プロでのライブ会場よりも小さいからって、全然緊張しないでいたらどうしようって思ってた」
「当たり前だろ、凛さん。アタシは他のみんなとコラボしてるから分かりにくいけど、これでも“トライアドプリムス”以外でのメインは初めてなんだよ」
「私なんて、最初から最後までステージに立つのは私1人だけだからね。会場の大きさなんて全然関係無いし、むしろお客さんとの距離が近いから、こっちの方が緊張してるくらいだよ」
「うん。2人共、それで良いと思う」
凛の言葉に、奈緒も加蓮もハッとした表情で顔を上げた。
「緊張してるってことは、それだけ今日のライブを大事に想ってるってことだからね。それさえ分かっていれば、致命的な間違いは犯さないから大丈夫だよ」
「……でもさ、緊張のせいで上手くいかなかったりするんじゃないの?」
「最初のライブで全部上手くいくはずがないよ。私だって初ライブは全然納得できないものだったんだから、2人が上手くいっちゃったら私の立つ瀬が無いよ」
おどけたようにそう言う凛に、奈緒も加蓮も思わずプッと吹き出した。
「アルバム、聴いたよ。凄く良いと思う。だから大丈夫。――それじゃ、私はこれで」
「えぇっ、もう帰っちゃうんですか! もっとゆっくりしていけば――」
「本番前だから、あまり集中切らしちゃうのもアレでしょ? それじゃ2人共、私もフロアから見守ってるね」
凛はそう言って軽く手を振ると、そのまま楽屋を静かに出ていった。部屋から1人姿を消しただけだというのに、それだけで部屋の空気がガラリと変わったような心地になる。
「……まったく、“奇跡の10人”が見守ってるとか、そっちの方がプレッシャーだっつーの」
「本当、その通りだよね」
そしてそれは、奈緒と加蓮の雰囲気にも言えることだった。先程までは今にも押し潰されそうだったのに、今は弱々しいながらも笑顔を浮かべて軽口を叩けるまでになっていた。そんな2人の様子に、端っこのソファーに座る菜々達もホッと息を吐いた。
「それにしても、こんなときだっていうのに杏ちゃんはどこにいるんでしょうね?」
「せっかくの2人の晴れ舞台をすっぽかしてどこかに行く、って性格ではないんだ。おそらく劇場のどこかにはいるだろう」
「“怠惰の妖精”は神出鬼没だからな!」
そんな風に会話を交わす菜々達の中で、
「…………」
ただ1人小梅だけがその輪に加わることなく、明後日の方を向いて黙り込んでいた。
* * *
「星輝子さん、ライブ終了でーす!」
「お、お疲れ様でした……」
熱狂的な叫び声が響き渡るフロアを背後に、輝子とバックバンドのメンバーがステージから舞台袖へと戻ってきた。全身から吹き出す汗をタオルで拭いながら、若いスタッフに先導されるように楽屋へ続く廊下へと歩いていった。
そして輝子が舞台袖から姿を消した瞬間、スタッフ達が一斉に動き始めた。ステージの幕を下ろし、先程まで使われていたバンドセットや機材を慎重に、かつ素早い動きで片づけていく。
それとほぼ同時進行で、次に行われる蘭子のライブの準備も始まった。彼女のライブでは簡易的ながらセットが組まれ、通常のライブではまず見られない機材を数多く使用する。なので必然的に他のライブよりも段取りが多くなり、けっして広くはないステージや舞台袖では数多くのスタッフが入り乱れて慌ただしく動き回っていた。
しかしそこは、既に何度も同じことを繰り返してきた熟練のスタッフ達だ。彼らの頭の中には次のライブまでの作業行程が全てインプットされており、互いに声を掛け合いながらの作業なので体がぶつかったりすることも無く、作業が滞ったりすることも無かった。
ステージ上ではみるみるセットが組まれていき、蘭子がライブで使用する晶葉特製の楽器類が所定の位置に置かれていく。舞台袖でも数々の仕掛けを動かすパソコンが立ち上げられ、チーフらしき中年の男が慣れた手つきで簡単な起動テストを行っていく。
「――よし、オッケーだ。定刻通り始めるぞ」
やがて全ての作業が終わり、チーフらしき男がそう呼び掛けると、周りのスタッフ達は一斉に安堵の溜息を漏らした。
そしてそれを見計らったかのように、1人の青年が舞台袖へと入ってきた。スタッフ達と同じデザインのTシャツを着ていることから、彼らと同じ会社の人間であることが分かる。
「皆さーん、お弁当をスタッフルームに用意しましたー!」
青年の言葉に、スタッフ達から一斉に歓喜の声を漏らした。劇場の公演は朝から夜までの長丁場となるので、当然ながら彼らにも弁当が用意される。ちなみにそれを作っているのは劇場内にあるカフェなので、弁当とはいっても湯気が立つほどにホカホカの作りたてである。
「うーし、蘭子ちゃんのライブの時間までにさっさと食うぞー。――それじゃおまえ、ちゃんと機材を見張っておけよ」
チーフらしき男性はその青年にそう言い残して、他のスタッフを引き連れて廊下へと出ていった。青年も「はい!」と元気よく返事をして頭を下げて、他のスタッフ達が舞台袖から出て行くのを見送った。
そうして、先程まで声が飛び交い大勢の人間が動き回る騒がしい空間だった舞台袖は、幕の向こうから微かに客の声が聞こえるのみでほとんど静かな空間へと変貌を遂げた。青年が見渡してみても、舞台袖には彼以外の姿がどこにも見られない。
「…………」
すると彼は、まるで足音をたてないようにするかのように、ゆっくりと機材に近づいていった。普通のアイドルライブではあまり見掛けないであろう、3台のコンピューターやその他様々な機械が並んだそれらを、彼は感情の籠もっていない目で見つめていた。
やがて彼はその機材に大きく1歩近づき、ポケットに手を突っ込んで中の物を取り出すと、それを待機状態になっているコンピューターに向け――
「何してるの、君?」
「――――!」
後ろから突如投げ掛けられたその声に、ビクッ! と青年は肩を震わせて後ろを振り返った。
そこにいたのは彼もよく知っている、今まさに自分が足を踏み入れているこの劇場の代表――双葉杏だった。
「……あ、え、えっと、お疲れ様です双葉さん! 自分は今、コレの警備をしてるんですよ!」
青年は多少口をどもらせながらも、自分の後ろに置かれている機材を指差してそう答えた。爽やかな笑顔のオマケ付きである。
「あぁ、そっかそっか。誰か不審な奴が、その機材にイタズラして壊されたら困るもんね」
「そうですよ! この前だって危うくライブが中止になりかけましたし、用心するに越したことはありませんからね!」
「うんうん、用心するのは良いことだよ。――そのポケットの中にある“スタンガン”も、怪しい奴を撃退するために用意してるものだもんね?」
「――――! そ、その通りですよ!」
目を丸くして少し膨らんでいるポケットを上から押さえる青年だったが、すぐに爽やかな笑顔に戻って明るい声でそう答えた。
そんな青年に対し、杏も笑顔で「そっかそっか」と何度も小さく頷いていた。
そして、こう言った。
「でもまぁ、さっきその機械にスタンガンを押し付けようとしてるところはバッチリ見てたから、ちょっと色々と話を聞かせてもらえる?」
「えっ! ま、待って――」
「あぁ、ちなみにスマホでちゃんと動画にしてあるから、今更言い訳してももう遅いからね。というか、結構前からアンタのことは目に付けてて、今日アンタをこうして1人にしたのも化けの皮を剥がすための囮だったりね。――ということで、素直に降参してくれると嬉しいんだけど」
「…………」
唖然とした表情ですっかり黙り込んでしまった青年は、視線だけを動かしてこの場の状況を確認した。
目に見える範囲には杏以外の人の姿は無く、出入口に目を凝らしても誰かが応援に駆けつける様子は無い。そして目の前にいる杏は自分よりもかなり小柄な女性であり、抑え込もうと思えば簡単にできるほどに力の差は歴然だ。
それにこちらには、機械を狂わせるために用意したスタンガンがある。
「てめ――」
青年がポケットからスタンガンを取り出して、杏に向けて大きく1歩足を踏み出した。
「ま、だろうね」
「――――!」
そして次の瞬間、青年の体は彼女に襲い掛かろうとする姿勢のまま動かなくなった。まるで頑丈なロープで何重にも縛られているかのように、彼の体は不自然な姿勢のままピクリともしない。
そんな彼を目の前にした杏は、呆れるような表情を明後日の方へ向けていた。
「助けるのがちょっと遅かったんじゃないの? さすがの杏も少しヒヤッとしたんだけど。――いやいや、ギリギリの演出とか、そういうのいらないから」
「お、おい! おまえ、俺に何をしたっ!」
「さぁ、何をしたでしょうか? これ以上何かされたくなかったら、大人しく杏達の言うことを聞いてよね。とりあえず警察には突き出すけど、その前にこっちでも色々と聞かせてね」
「……お、俺に何を訊いたって無駄だぞ!」
「それはこっちが判断することだから。それじゃ、杏について来てねー」
杏の言葉に青年は素直に従うつもりは無かったが、その意思に反して彼の体は素直に彼女の背中をついていった。自分の体が自分のものでなくなったかのような感覚に驚愕の表情を浮かべる青年と共に、杏はそのまま舞台袖を出ていった。
元々静かだった舞台袖は、誰の姿も見えなくなったことでさらに静かになった。
「…………」
すると舞台袖の壁際に置かれた機材の陰から、1人の少女が顔を出した。ボサボサの長いミルク色の髪を緩く纏め、エメラルドグリーンの澄んだ瞳は眠そうに半分閉じられている。
そんな少女――遊佐こずえは、まるで足音をたてないようにするかのように、ゆっくりと機材に近づいていった。普通のアイドルライブではあまり見掛けないであろう、3台のコンピューターやその他様々な機械が並んだそれらを、彼女は感情の籠もっていない目で見つめていた。
やがて彼女はその機材に大きく1歩近づき――
「駄目だよこずえちゃん、勝手に舞台袖に入っちゃ。怪我したら大変だよ」
「…………」
「ほら、早く杏と一緒に戻ろ」
「……うん、わかったー」
杏の差し出した手をじっと見つめていたこずえは、やがてその小さな手を彼女のそれに重ね、引っ張られるように舞台袖を出ていった。
元々静かだった舞台袖は、誰の姿も見えなくなったことでさらに静かになった。
* * *
都心から少し離れた場所にある3階建ての雑居ビルの2階が、その男の職場だった。太陽が沈み切ってすっかり空も暗くなった頃に帰ってきた彼は、エレベーターが故障しているために仕方なく階段をドカドカと上り、乱暴にドアを開け放って中へと入る。
典型的な事務机が幾つか並び、ドアから一番遠い窓際に一際大きな机が鎮座する。隅にはパーテーションで仕切られた簡易的な空間があり、そこにはソファー2脚とテーブル1脚の応接セットが置かれている。ぐるりと見渡せば全て見通せるほどに狭いその空間が、彼がプロデューサーとして務めるプロダクションの事務所だった。
「ちっ! あいつら、どこまでもふざけやがって!」
そして男は自分の席に座るや否や、内側に溜め込んだ負の感情を全て吐き出す勢いで怒鳴り散らした。普通ならば誰かに白い目で見られたり苦言を呈されるところだが、幾つも並んでいる事務机には誰も座っておらず、彼の同僚や上司が現在この場にいないことは織り込み済みだ。だからこそ彼も、遠慮無く不満を露わにしているのである。
男は椅子の背もたれに体重を預けて、天井を見上げた。煌々と明るい蛍光灯の人工的な光と、長年に渡って蓄積された汚れが目立つ化粧ボードが目に入り、彼はさらに苛立ちを募らせるように顔をしかめた。
と、そのとき、男のズボンのポケットに突っ込んでいたスマートフォンが鳴った。電話の着信を知らせるその音に、彼は一瞬だけ無視を決め込もうとするような仕草を見せたが、渋々といった感じでそれを手に取った。
そして画面に表示された文字列を見て、男は怪訝な表情を浮かべて通話ボタンを押した。
「もしもし、どうしたんですか阿久徳さん」
『……あなた、随分と勝手に動き回ってるみたいじゃないですかい』
たったその一言だけで相手が何を言いたいのか悟った男は、面倒臭そうに顔を歪めた。
「そっちには迷惑を掛けていないつもりですよ。より早く双葉杏を追い詰められるんなら、それに越したことは無いでしょう?」
『ええ、確かにそうですねぇ。――んで、成果は挙げられたんですかい?』
阿久徳の質問に、男はチッと舌打ちを隠そうともしなかった。
「それを言うなら、そっちだってまだ何の成果も挙げられていないでしょう。第一、阿久徳さんは周りくどいんですよ。いったいいつになったら、双葉杏は事務所を畳むんですか?」
『“辛抱強く待て”と、何度言えば分かるんですかねぇ? それにあっしはあっしなりに、色々とやってるんですよ。できるだけ自然に見えるように208プロの悪評を流したおかげで、一部の過激なファンが劇場に押し掛けるまでにはなったんですから』
「これだけ待って、結局成果はその程度じゃないですか。それだと何年待てば良いのか、分かったもんじゃない」
『だから金で人を雇って、直接公演の邪魔をしようってんですかい? 失敗しただけならまだしも、現行犯で見つかったそうじゃないですかい』
「ふん、あれはたまたまですよ。それに奴には偽の情報しか与えていない。いくらあいつを調べようと、そこから僕に辿り着くことは不可能です」
自信満々にそう言ってのける男だが、電話口の向こうからの反応はいまいち芳しくない。そのことに、男は再び機嫌を悪くした。
「とにかく阿久徳さんに迷惑を掛けるつもりは無いですし、むしろ僕は阿久徳さんをサポートしてるんですよ。今回はたまたま上手くいきませんでしたが、既に“次の手”は考えています。阿久徳さんが心配する必要はありませんよ」
『あっしをサポートするってんでしたら、余計なことはしないでもらえると一番助かるんですがねぇ』
阿久徳の申し出を、男は鼻で笑って切り捨てた。そして「もう良いですか? 僕は明日も早いんですよ」と言って一方的に電話を切った。
「まったく、所詮は時代に取り残された遺物か……。全盛期の頃がどんなもんだったのかは知らないが、この程度の働きしかできないんだから程度が知れるってもんだな」
ブツブツとそんなことを呟きながらスマートフォンをしまう男は、自分の座っている席にうっすらと影が差していることに気がついた。どうやら自分のすぐ後ろに、誰かが立っているらしい。
ひょっとしたら先程の会話が聞かれていたかもしれないという状況にも拘らず、男は慌てる様子を見せるどころか、面倒臭いと言わんばかりの表情を浮かべて後ろを振り返った。
「何の用だ、――白菊」
そこにいたのは、肩に掛かるほどの長さをした黒髪の少女・白菊ほたるだった。眉をハの字にした気弱な表情と赤味がかった瞳によって、どことなくウサギのような小動物を連想させる印象をしている。
「え、えっと……、今日は自分が家まで送ってくから事務所で待ってろ、ってプロデューサーさんが……」
「あん? 言ったっけか、そんなこと? ――まぁ、ちょうど良いところに来たな」
男の言葉にほたるは少しだけ悲しそうな表情を浮かべるが、男はそんなことを気にすることもなく彼女にこう言った。
「――おまえ、同じ学校に通ってる208プロの奴らと接触しろ」
「…………へっ?」
突然の命令に、ほたるは不思議そうな表情で首をかしげた。