怠け者の魔法使い   作:ゆうと00

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第22話 『偏見』

 現在の鷺沢文香を一言で表すのは、非常に難しい。様々な分野でトップに立つ“奇跡の10人”の中でも、彼女の仕事内容は多岐に渡るからである。

 彼女は元々、叔父の経営する古書店を手伝う本好きの少女でしかなかった。大学でも物静かで特定の友人もおらず、本の世界に没頭することが唯一の楽しみであるような、少しきつい言い方をすると“自分には何も無い”少女だった。

 

 そんな彼女は、ある日偶然古書店にやって来た武内と名乗る男と出会ったことで、人生が一変した。

 膨大な本を読むことで得た確かな知識と、彼女の中に眠っていた才能が最初に発揮されたのは、アイドルデビューよりも前に取り組んだ、同期のアイドル達への詞の提供――つまり“作詞家”としての仕事だった。同期達が次々と売れていくことで文香の名前も広まっていき、“アイドル”としてデビューする頃には既に新人の枠を超えた知名度と人気を有していた。

 アイドルとして、そして作詞家としてのキャリアを着実に積んでいく中、文香は新たな分野の仕事にチャレンジしていった。“俳優”として幾つかのドラマや映画に出演することでそちらとの繋がりを構築し、それをきっかけにして単発ドラマの“脚本家”としての仕事を依頼された。

 そして彼女は、見事にそのチャンスを物にした。彼女のアイドルとしての人気とは別に、脚本そのものが素直に評価されたことによって、それから定期的にドラマや映画の脚本を書く仕事が舞い込むようになった。そしてその実績を引っ提げて、彼女は“小説家”としての活動を開始した。

 そしてその仕事でも、彼女は売れっ子作家の地位を確立した。彼女の作風は実に幅広く、『安楽椅子探偵・木戸愛絡シリーズ』のようにエンタメに特化した作品もあれば、『悪の懺悔』のような社会派ドラマもある。『慟哭』のように難解な純文学もあれば、『あさ、めがさめたら』といった児童小説も書く。

 

 アイドル。作詞家。俳優。脚本家。小説家。

 様々な顔を持つ彼女は、今日も自己流の方法でトップアイドル像を体現している。

 

 

 *         *         *

 

 

 土日と祝日を劇場の営業日と設定している208プロでは、それ以外の活動を行うのは必然的に平日となる。義務教育を終えていない子が大半なのでできるだけ学校は休ませたくないのだが、どうしても都合がつかないときは仕方がなかった。

 という訳で、現在ここにいるのは代表である杏、高校生ということで学校を休むハードルの低い奈緒と加蓮、17歳なのに学校に通わずに平日も劇場のカフェで働く菜々。

 そして本日の“主役”である蘭子と、現在彼女と共にパフォーマンスを行う飛鳥だった。

 

「はえぇ……。何というか、さすが“奇跡の10人”って感じのお宅ですね……」

 

 首が痛くなるほどに見上げている菜々が、呆然とした表情でそう呟いた。その言葉に、杏とこずえ以外の面々が無言で頷く。

 彼女達は現在、都心から程近い場所にある高級住宅街にいた。普通の住宅街に建つ家よりも数段大きい家が建ち並び、そのデザインも他の場所ではなかなか見られない凝ったものとなっているそこは、当然ながらそれなりに収入のある人でなければ住むことができない。

 そして彼女達の前に建つそれは、そんな住宅街の中でもランドマーク的な立ち位置にいる、地上数十階のタワーマンションだ。渋谷凛もタワーマンションを自宅としているが、彼女の場合はシンプルで洗練されたデザインであるのに対し、こちらは暖色系で構成されているためにどこか温もりを感じる印象を抱く。

 

「杏ちゃん……。確か文香ちゃんの自宅って……」

「うん、ここの最上階だよ。1フロア丸々使ってるんだって」

「マジかよ……。やばいな……」

「加蓮さんと奈緒さんは、文香さんの家に行ったことは無いのかい?」

「私達も初めて来たよ。というか、文香さん自身にあまり会ったことが無いんだよね。文香さんは物書きの仕事が多いから、事務所に来たりスタジオで一緒になることが少ないんだよ」

「そうなのか……。やっぱり杏さんに誘われたとはいえ、所詮素人でしかないボクが一緒に来て良かったんだろうか……」

「…………、…………」

 

 皆がそれぞれで会話をしている中で、1人だけ口を開かずに無言を貫いている者がいた。

 蘭子だった。

 

「えっと、蘭子ちゃん……。大丈夫……?」

「うん、大丈夫。心配してくれてありがとう」

「あ、駄目だこれ。標準語になってる」

 

 言葉遣いが普通になっているだけでなく、今の彼女は見るからに表情が引き攣っているし、血の気が引いて青ざめていた。元々色白な彼女の場合、そういった変化も顕著に表れる。今回のインタビュー記事はツーショットでの撮影も含まれているのだが、はたして大丈夫だろうか。

 と、そんな彼女の心配をしていると、

 

「やぁ。みんなおはよう」

 

 カメラや照明といった機材を抱える善澤が、軽く右手を挙げてやってきた。菜々・奈緒・加蓮は即座に「おはようございます!」と挨拶を返し、飛鳥がそれに一拍遅れて遠慮気味に挨拶をし、杏は「おはよー」と気の抜けた挨拶をした。

 

「えぇっと……、蘭子くんは大丈夫かい?」

「はい、問題ありません。文香さんに会えるのが楽しみです」

「……うん、いざとなったら少し休憩を取れば良いし、早く文香くんの家に向かおうか」

 

 苦笑いを浮かべる善澤の提案に、蘭子以外の面々が一斉に頷いた。

 

 

 *         *         *

 

 

 文香の自宅はタワーマンションの最上階にあり、地下駐車場から繋がる専用の入口を通り、これまた専用のエレベーターを使って進んでいく。専用の入口には普通の玄関と同じ最新のセキュリティシステムが備わっており、そこにあるチャイムを鳴らして中からロックを解除してもらって初めて中に入ることができる。

 総勢7人となった杏一行を代表して、善澤がそのチャイムを鳴らした。

 

『はい、鷺沢です』

「お世話になっております、“月刊アイドルマスター”の善澤と申します」

『お話は伺っております。どうぞお上がりください』

 

 そんな応答と共に、入口の自動ドアが独りでに開かれた。これ自体は杏の住むマンションでも見られる光景だが、装飾品の豪華さでは圧倒的にこちらが勝っている。

 と、そのとき、奈緒が訝しげに首をかしげた。

 

「なぁ、さっき出たのって文香さんか? スピーカーから聞いたからかな、前に聞いてたのとは違う声だった気がするんだけど」

 

 その疑問に答えたのは、杏だった。

 

「あぁ、今のは家政婦の米倉さんだよ」

「家政婦! 文香さんって、家政婦雇ってんの?」

「でも、有り得ない話ではないね。脚本家に小説家に作詞家と、とにかく彼女は物書きに時間を取られている。特に締切前ともなれば、家事をする時間も惜しいだろう」

 

 驚きの表情を浮かべる加蓮だったが、飛鳥が横から説明を加えると納得したように頷いていた。

 

「あぁ、確かに菜々も聞いたことがあります。アシスタントっていうと今は漫画家とかのイメージですけど、明治の頃は著名な小説家には“書生”っていうお弟子さんみたいな人がいて、身の回りのお世話もしていたらしいですね」

「さすが菜々さん、やっぱり当時のことには詳しいんだね」

「ちょっと杏ちゃん! そこまで行くと、ナナはどれだけお婆ちゃんなんですか!」

 

 そんな話をしている内に、エレベーターが最上階に到着した。

 ドアが開くと、真っ先に目に飛び込んできたのは別のドアだった。最上階は文香の部屋が全てを占めるため、ちょっとしたスペースを挟んですぐさま玄関となっている。そこにもチャイムがあり、再び善澤がそれを押した。

 中から聞こえてくる足音が徐々に大きくなり、がちゃり、とドアが開かれた。

 

「皆様、ようこそお越しくださいました。狭い所ですが、どうぞお上がりください」

 

 そう言いながら姿を現したのは、柔らかなグレーの髪を携えた優しい雰囲気の老女だった。先程杏の話を聞いた一同は、皆が心の中で『この人が米倉さんか……』と納得していた。

 とりあえず案内されたので中に入るとしよう、と皆が一斉に靴を脱ぎ始めた。普通ならば7人分の靴を並べるだけで結構スペースを取られるが、白を基調とした玄関アプローチはちょっとしたワンルームがすっぽり収まる広さなので、全部並べてもまったく気にならない。

 

「――――ん?」

 

 むしろ杏が気になったのは、玄関の隅に置かれた、燃えるように真っ赤なスニーカーの方だった。そのド派手な色合いは、どう考えても文香の趣味ではない。というより、元来運動を苦手とする彼女がスニーカーを履くとは思えない。

 文香の知り合いの中でそのような靴を履く人物といえば――

 

「……何だ、帰ってきてたのか」

 

 ぽつりと呟いた杏の言葉は、誰の耳にも届くことはなかった。

 そして米倉に案内されながら、杏達は広い部屋へと案内された。革張りのソファーが2脚、一枚張りのテーブルを挟んで向かい合わせに設置されたその部屋は、豪華な造りでありながらケバケバしさとは無縁の落ち着いたデザインとなっている。テレビなどの娯楽が一切無いことから、リビングではなく客間の役割を果たす部屋だろう。

 しかしこの部屋に案内された面々は、そんな部屋よりも“ある一点”に意識を奪われていた。

 そこには、

 

「あっ、杏ちゃん! それに皆さんも! おはようございます! お先にお邪魔してます!」

「久し振りだね。――茜」

 

 元気いっぱいに、聞いているこちらの耳が痛くなるほどの大声で挨拶するその女性・日野茜に、きちんと挨拶を返したのは杏だけだった。奈緒達は突然の大物に言葉を失っているし、善澤ですら「おやおや」と軽い驚きの声をあげている。

 

 日野茜。

 彼女は杏と同じ346プロ設立時におけるメンバーであり、当然ながら“奇跡の10人”の1人に数えられる。身長は148センチと小柄ながら、スポーツマンにも引けを取らないズバ抜けた身体能力を持ち、“猪突猛進”という言葉がピッタリなパワフルで熱い性格をしている。

 そんな彼女は“奇跡の10人”の中でも断トツでダンスが上手かった。なので武内も諸星きらりとのユニット“HAPPY & BURNY”など、彼女の力強さを前面に押し出したパワフルな路線でプロデュースを行った。それが功を奏し、トップアイドルの階段を駆け上がっていく中で、アクション映画など身体能力を要求される仕事で声が掛かるようになっていった。

 するとそこでの活躍が耳に入ったのか、アクション映画の本場であるハリウッドから映画出演のオファーが舞い込んできた。小柄で可愛らしくも力強い彼女のキャラクターが話題を呼び、彼女の出演した映画は見事に大ヒット。現在では日本と海外を行き来する“国際派女優”として多忙な日々を送っている。

 

「日本に帰ってきてたんだね、茜」

「はい! さっき空港に着いて、プロデューサーの車で346プロに顔を出して、その後ここに来ました! もしかして後ろにいる子達が、杏ちゃんの立ち上げた事務所のアイドルですか!」

「そっか、茜は初めて見るんだっけ。――全員いる訳じゃないし、エクステの子は一緒に仕事してるけど所属はしてないよ」

「そうですか! 皆さん、日野茜といいます! よろしくお願いします! ――あれっ! そこにいるのは、奈緒ちゃんと加蓮ちゃんじゃないですか! もしかして346プロを辞めて、杏ちゃんの事務所に移籍しちゃったんですか!」

「あぁ、そこから説明しないといけないんだっけ……」

 

 少し面倒臭そうに、しかし丁寧に茜へ説明していく杏の後ろで、菜々達は未だに呆然とその光景を眺めていた。

 

「まさか文香ちゃんだけじゃなくて、茜ちゃんまでいるとは思いませんでした……。心の準備ができてなかったから、かなり驚きましたよ……」

「確かに、生で見ると凄い迫力だね……。思わず圧倒されてしまったよ……」

 

 いきなり出くわした茜に、菜々と飛鳥はとても驚いているようだった。

 しかしここで興味深いのは、少し前まで346プロに所属していた奈緒と加蓮でさえ、茜を前に緊張した様子を見せていることである。

 

「あれ? 2人共、茜ちゃんに会ったこと無いんですか?」

「いや、さすがに何回かは会ったことあるけど……。正直、文香さんと同じくらいレアっていうか……」

「茜さんは1年の半分以上を海外で過ごしてるから、事務所に顔を出すことが珍しいの。――それより私が驚いたのは、茜さんが文香さんの家にお邪魔するほど2人の仲が良かったことなんだけど……」

「あれっ、知らないのかい? 結構前から2人は仲が良いんだよ」

 

 加蓮の疑問に答えたのは、善澤だった。

 

「世間では文香くんと李衣菜くんのコンビの方が浸透してるけど、むしろ2人はプライベートではあまり一緒になることが無いみたいだよ。むしろそういうプライベートな付き合いは、茜くんとの方が多いみたいだ」

「へぇ、そうなんですか……。何だか意外かも……」

「確かに文香くんと茜くんは、まさに対極に位置する組み合わせだからね。しかしだからこそ、互いのことを認め合っているのかもしれないよ。――それに対照的な組み合わせといったら、杏くんときらりくんがまさにそうじゃないか」

 

 善澤の言葉に、加蓮達は「あぁ……」と納得したように頷いた。

 と、そのとき、

 

「お待たせしました、皆さん」

「――――!」

 

 その瞬間、あれだけ黙り込んだまま何の反応も見せなかった蘭子が、突然勢いよく顔を上げて部屋の入口へと向き直った。あまりの素早さに、すぐ隣にいた飛鳥がビクッ! と肩を震わせていた。

 1冊の本をその手に持って部屋に入ってきたのは、ゆったりとした厚手のセーターにカーディガン、そして頭にバンダナを巻いた鷺沢文香だった。デビュー当時の19歳から地味な格好をしている彼女だが、そんな地味な格好では隠し切れないオーラが彼女にはあり、そしてそれは26歳になった今でも衰えるどころか研ぎ澄まされていた。

 

「おっ、おはようございます文香さん! きょ、今日はよろしくお願いします!」

「はい、よろしくお願いします。あまり緊張せず、いつも通りの蘭子さんを見せてくださいね」

 

 大声で叫ぶように挨拶して頭を下げる蘭子に、文香は口元に手を当ててクスリと微笑んだ。そんな姿でさえ優雅で美しい、と蘭子はますます顔を紅く染める。本当に大丈夫かな、と横で見ていた杏は心配になった。

 

「よろしく、文香くん。さっそくで悪いんだけど、インタビューする場所を決めたいんだ。できれば背景に本棚とかがあると助かるんだけど、良い場所は無いかな?」

 

 善澤の要望に、文香は少しだけ考え込むと、

 

「……それならば、書斎はどうでしょうか? 座るスペースもありますし、ちょうど良いと思うのですが」

「良いね。案内してくれる?」

「はい。――それでは茜さん、私はしばらく席を外しますので、その間にこちらを」

「はい! ありがとうございます! さっそく読ませていただきますね!」

 

 文香は手に持っていた本を茜に渡すと、そのまま部屋の入口へと歩いていく。

 

「文香ちゃんの書斎とか、きっともの凄いんでしょうね」

 

 そしてワクワクしている菜々を筆頭に、茜を除く皆がその後をついていった。

 

 

 *         *         *

 

「こちらが、書斎になります」

 

 文香自身に案内されてその部屋に足を踏み入れた瞬間、目の前に広がるその光景に、誰からともなく溜息が漏れた。

 そこは書斎というよりも、もはや図書館1つが丸々入ったような空間だった。

 普通の家よりも圧倒的に高い天井を活かし、中央が吹き抜けの2層構造になっているその空間には、びっしりと本の詰め込まれた棚が幾十にもわたって整然と並んでいた。最上段に手が届かないほどに高いその本棚には、棚に直接取り付けられたスライド式の梯子が本棚分設置されていた。それによって、部屋中に本独特の紙の匂いが充満している。

 

 できるだけ本棚を詰め込んだ結果、通路は人1人が通るのがやっとという幅となっていた。普段は文香が1人で利用するので困らないが、今は杏を始めとして大勢が押し掛けているため非常に息苦しい。それでも部屋の持ち主である文香がズンズン奥へと進んでいくため、杏達は素直にその後に続いていった。

 すると、部屋の中央辺りで本棚の無い開けた空間へと躍り出た。そこには長時間座っても疲れない丁度良い硬さのソファーや、本を置くことのできる小さなテーブル、さらには読書のお供に飲むと思われる本格的なコーヒーメーカーまで置かれていた。余分な物を一切排除したその空間は、まさに本を読むために作られたものと言っても過言ではない。

 やっと開けた場所に出られたことで皆が一息を吐く中、最初に口を開いたのは杏だった。

 

「何というか、凄い空間だね。何とも文香らしいというか」

「そうですか? えっと……、ありがとうございます」

「確かに文香くんらしいね。色彩も落ち着いたものだし、ここにいると何だかホッとした気分になるよ。――もしかしてこの部屋は、君の叔父が経営している古本屋をイメージしているのかな?」

 

 善澤の質問に頷く文香を見て、皆が納得した。文香がこの部屋に引っ越してからまだ数年しか経っていないはずなのに、妙に使い古されたような印象を受けたのは、おそらくそう見えるように加工を施したからだろう。

 

「昔からこのような空間に憧れておりまして、せっかくだからと結構こだわって造りました。――唯一不満を挙げるとするならば、仕事が忙しくてなかなかこの部屋でゆっくりできないことでしょうか」

 

 文香のその言葉に、何人かが「ん?」と首をかしげて周りを見渡した。

 そしてこの部屋には、執筆活動に欠かせないであろうパソコンやワープロの類がどこにも無いことに気がついた。

 

「あれっ? 文香さんって、ここで小説を書いてるんじゃないんですか?」

 

 加蓮の問い掛けに、文香はこくりと頷いた。

 

「はい、小説を書くときは別の部屋を使っています。本当はここで仕事をするつもりだったのですが、仕事を放り出して本ばかり読んでしまうことが多々ありまして……」

「成程。その部屋って、どんな感じなんですか? やっぱりここみたいに、本がたくさん置いてあるとか?」

「えっとですね――」

「あぁ、その部屋には1冊も本は無いよ」

 

 文香の代わりに菜々の質問に答えたのは、まるで自分の部屋のような気軽さで棚から本を取り出している杏だった。ちなみにその本は、今や大人気シリーズの1つである『安楽椅子探偵・木戸愛絡』の記念すべき第1作『爆弾魔は路地裏で嗤う』だった。

 

「杏は前にもここに来たことがあるから知ってるけど、パソコンとデスクくらいしか置いていないよ。広さも普通のワンルームくらいだし」

「そうなんですか? それじゃ何か調べ物をしようと思ったら、わざわざここまで来てるってことですか?」

 

 菜々が文香を見遣りながらそう言うと、彼女は小さく首を横に振った。

 

「いいえ、大丈夫です。――資料用の書物は、全て電子書籍化してますので」

「えっ――――!」

 

 その答えに最も衝撃を受けていたのは、間違いなくこの中で一番の文香ファンである蘭子だった。その声の大きさは、思わず全員が振り向いてしまうほどだった。

 

「ふ、文香さん……。電子書籍を使ってるんですか……? 文香さんっててっきり、紙の本以外は認めないのかと思ってました……」

「最初はそうだったんですが、後輩の子から『タブレット1つあれば、いちいち本を取りに本棚へ向かう必要は無いですし、スペースの節約にもなりますよ』とアドバイスを頂きまして……。使ってみたら存外便利でしたので、仕事用の書物は全部スキャンして電子書籍にしています」

 

 紙の本はもっぱら趣味ですね、と言って柔らかく笑う文香に、蘭子は「スキャン……? あの文香さんが……?」と尚もショックを受けていた。

 

「紙の本をスキャンして電子書籍化なんて、機械オンチの文香がよくできたね」

「……その後輩にやり方を教えてもらっても全然できなかったので、今は米倉さんにやってもらっています」

 

 恥ずかしそうに目を伏せてそう言った文香に、杏は納得したように頷き、蘭子はなぜかホッと胸を撫で下ろしていた。

 

「どちらにしても、この部屋の方がインタビュー記事の写真としては相応しそうだね。――それじゃ早速インタビューの準備を始めたいんだけど、セッティングしちゃって大丈夫かな?」

 

 文香が頷くのを確認すると、善澤は機材を取り出して作業を開始した。普段は文香が読書に使うソファーの付近に撮影用のライトを設置し、カメラをときどき覗き込みながらインテリアの微調整を行っていく。

 そんな作業を、蘭子は苦しそうに眉を寄せて眺めていた。

 そしてそんな彼女に歩み寄るのは、飛鳥だった。

 

「大丈夫かい、蘭子?」

「あっ……、飛鳥ちゃん……」

「尊敬している人を目の前にして緊張する気持ちは、ボクにも少しくらいは理解(わか)っているつもりだ。でもせっかくの機会なんだし、むしろこの場を楽しむくらいの気持ちの方が――」

「ち、違うの……」

 

 飛鳥の言葉を遮って、蘭子が小さく首を横に振った。

 

「最初に話を貰ったときは凄く嬉しかったけど、今になって急に不安になったんだ……。だって文香さんって、本当に凄い人でしょ? それなのに私みたいな、ちょっと最近出てきたばかりの新人が対談なんて……。もっと他に良い人なんていっぱいいるのに……」

 

 絞り出すようにして紡がれたその言葉に、飛鳥は口元に微笑を携えて小さく溜息を吐いた。

 

「蘭子。今回の対談企画は、文香さんの方から提案してきたものなんだろう?」

「……確かにそうだけど、文香さんのファンの人達が何て思うか……」

「こんなことを言うのは本当は駄目なのかもしれないが、たとえファンであっても所詮は外野の人間だ。言いたい奴には言わせておけば良い。――君は、他ならぬ“文香さん自身”に選ばれたんだ。もっと堂々とするべきだ」

「……そう、なのかな?」

 

 尚も不安そうに顔を俯かせる蘭子に、飛鳥はそっと彼女の耳元に口を近づけた。

 

「それにボクにとっては、文香さんよりも君の方がずっと魅力的に見える」

「――――!」

 

 その瞬間、蘭子は顔を真っ赤にして飛鳥から離れ、頬を膨らませて彼女を睨みつけた。当然そんなことをしても迫力は一切無いので、飛鳥も手で口を押さえて笑いを堪えている。

 

「もっとも、身内贔屓と言われると否定できないけどね。――緊張も解れたみたいだし、頑張ってきなよ」

「…………、分かった」

 

 若干拗ねたような声色で、蘭子がそう返した。

 

 

 

「ふふっ、何とも初々しいですね……」

 

 そんな2人の遣り取りを遠くから眺めていた文香が、パラパラと本を捲って立ち読みしている杏へと近づいてそう言った。

 

「あの飛鳥ちゃんって子は、アイドルではないのですか……?」

「あの子は蘭子ちゃん専属のパフォーマーだから、デビューの予定は今のところ無いよ」

「……今のところ?」

「今のところ」

 

 大事なことなのか繰り返して言った杏に、文香はフフッと含み笑いを漏らした。それに釣られて、杏もニカッと笑ってみせる。

 その笑顔を見て、文香は嬉しそうに目を細めた。

 

「良かった……。どうやら杏さんは、本当に夢中になれるものを見つけたようですね」

「……どういう意味?」

「いえ、特に深い意味はありません。ただ私の目から見て、アイドル活動を引退した後も杏さんは、どうにも空元気だったように思えましたから」

「…………」

 

 不機嫌そうに口を尖らせて睨みつける杏に、文香は「あくまで私個人の感想ですので」と微笑交じりに付け加えた。

 

「文香くん、蘭子くん、準備が整ったよ。そろそろ良いかな?」

 

 ちょうどそのとき、セッティングを終えたらしい善澤が2人に呼び掛けた。

 蘭子に目を遣ると、彼女の周囲には菜々達が集まっており、懸命に蘭子に激励を飛ばしていた。そして蘭子は、これから戦いにでも赴くような凛々しい顔つきをしていた。

 

「まぁ、せいぜいお手柔らかに頼むよ、文香」

「フフッ。それは彼女次第ですね」

 

 控えめな笑顔を浮かべてソファーへと向かう文香の後ろ姿を、杏はじっと見つめていた。

 そして、ぽつりと呟いた。

 

「……本当に夢中になれるもの、とは少し違うんだよなぁ……」

 

 

 *         *         *

 

 

 文香と蘭子の対談が行われていたとき、茜は杏達が来たときと変わらず客間にいた。彼女は行儀良く背筋を伸ばしてソファーに座り、辞書ほどの厚さはあろうかという本を読んでいる。

 と、そのとき、客間のドアが開かれ、奈緒と加蓮の2人が中に入ってきた。

 

「あれっ! 加蓮ちゃんに奈緒ちゃん、どうしたんですか! もうインタビューは終わったんですか!」

「いや、あまり人が多いのもアレかと思って、抜け出してきたんです」

「……茜さん、本を読んでるんですか?」

 

 自分で口にしながら意外そうな声になってしまったことを『しまった』と思う加蓮だったが、それでも意外感を拭い去ることはできなかった。日野茜といえば、世間では良く言えば“まっすぐな熱血漢”、悪く言えば“単純なお馬鹿さん”というイメージで通っており、おおよそ読書とは縁遠い存在だと思われている。

 

「はい! 文香ちゃんから借りました!」

 

 茜はそう言って、先程まで自分が読んでいたその本を2人に見せた。

 それは文香が書いた小説であり、世間では“鷺沢文香屈指の問題作”として有名なものだった。

 大まかな粗筋はこうだ。ごく一般的だった少女が、ふとした人間トラブルをきっかけにストレス発散として小動物の殺害をするようになる。少女は大人へと成長した後も小動物殺害を止めることができず、その異常性を心の奥底で育てながらも日常生活を営んでいた。しかしついにそのタガが外れたことで、最悪のシリアルキラーへと変貌を遂げる、というものだ。

 どこにでもいるような少女がシリアルキラーへと変貌し、日常生活を営みながら殺人行為を繰り返す様子を、緻密で冷静な文章で描ききったその小説は、人気アイドルの作品であることも相まって社会現象と呼ばれるほどの反響を呼んだ。賛否入り混じった議論があちこちで行われ、一部の教育機関では“有害図書”に指定されたりもした。

 そんな本を見て、奈緒と加蓮はますます首をかしげた。底抜けに明るくて純粋な彼女には、その本はどこまでも似つかわしくない内容だった。

 

「……意外ですね。茜さんが、そういう本を読むなんて」

 

 戸惑いを隠すように乾いた笑い声をあげてそう言った奈緒だったが、

 

「確かに普段は読みませんけど、今は頑張って読んでいます! ――この小説の主人公を、私が演じることになりましたからね!」

 

 茜の口から飛び出したその言葉に、奈緒だけでなく加蓮も大きく目を見開いた。

 

「……えっ? 茜さんがっ?」

「嘘でしょ? だってその小説の主人公って――」

「はい! 今まで私が演じたことの無い役柄です! だからこそ、もの凄くやり甲斐があってワクワクしています! とにかく今は少しでも主人公の気持ちになれるように、こうして本を読んでいるところです!」

 

 茜は叫ぶようにそう言って、燃えるようにギラギラした目で再び読書に熱中し始めた。シリアルキラーに変貌する少女が主人公の小説を、である。

 

「その小説が映像化するってこともかなりの驚きだけど、それを茜さんが演じるってことが輪を掛けて驚きだよな……」

「武内プロデューサーも、よくそれを許可したよね……。――というか、茜さんはそれで良いんですか?」

 

 加蓮の問い掛けに、茜は本から視線を上げて彼女へと向けた。そのときの表情は純粋な疑問であり、何も言わずとも「何がですか?」と聞こえてきそうなほどだった。

 

「だって、茜さんにも“イメージ”ってものがあるじゃないですか。茜さんはいつも明るくて、何事にも真正面から突き進んでいくような、汚いことなんて何も知らない純真無垢なイメージっていうか……。せっかく今までその路線で上手くいってきたのに、その仕事でそのイメージが一気に崩れ去ったら――って思うと怖くないですか?」

 

「……私って、いつもそんな感じですか?」

 

 キョトンとした表情を浮かべる茜に、加蓮は深々と頷いた。

 

「はい。私からしたら、茜さんはまるで“太陽”なんです。それなのにその小説の主人公みたいな役を演じるなんて、全然茜さんらしくありません」

「――加蓮ちゃん」

 

 茜に呼び掛けられ、加蓮は「はい」と返事をして彼女に向き直った。

 そんな加蓮に、茜はまっすぐな視線でこう言った。

 

「どんな“私”であっても、それは私ですよ」

 

「――――!」

「――――!」

 

 あまりにもまっすぐな目で放たれた茜のその言葉に、面と向かって言われた加蓮だけでなく、それを横で聞いていた奈緒までもが目を丸くした。

 

「もしかしたらこの役を演じることで、ファンの人達から色々と言われるかもしれません。――ですが! 正直私には、そういう難しいことは分かりません! “迷うくらいなら即行動”が私のモットーです!」

 

 力強く握り拳を作ってそう力説する茜の姿は、普段から見慣れた彼女そのものだった。

 

「それだけは、アイドルでも俳優でも変わりません! だからこそ私は、今までも色々なことに挑戦できたのかもしれません! そしてこれからも、今までやったことのないことに挑戦し続けるんです! ――だって、その方が楽しいじゃないですか!」

 

 満面の笑みを浮かべてそう言い切った茜は、燃えるようにギラギラした目で再び読書に熱中し始めた。シリアルキラーに変貌する少女が主人公の小説を、である。

 

「…………」

 

 そんな彼女の姿を、加蓮と奈緒の2人はじっと見つめていた。

 その目に宿る感情は、先程までと違っていた。


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