怠け者の魔法使い   作:ゆうと00

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第10話 『思惑』

 アイドルにとって最も重要なものを1つだけ挙げるとしたら、一体何になるだろうか?

 例えば、ビジュアル。確かにアイドルたる者、普通の人よりも容姿が優れていなければいけないだろう。しかし人の好みなど千差万別であるし、それほど優れているとは言い難い人が残っていたりするので、絶対的な条件とは言えないだろう。

 例えば、歌唱力。確かに歌うことを仕事とするからには、歌唱力が優れている方が有利だろう。しかし音痴なのに人気のアイドルが存在するのもまた事実である以上、これも絶対的とはいえないだろう。

 例えば、ダンス。アイドルといえば歌いながら踊る姿が一般的なので、これも1つの重要な要素と言えるだろう。しかしながら、まったくの棒立ちでありながら観る人を惹きつける力を持つアイドルも存在するので、これまた絶対的な要素たりえない。

 ならばアイドルにとって最も重要なものとは、一体何なのであろうか?

 

「おまえらぁ! もっと腹から声を出せぇ!」

「フヒッ! ぜぇ――ぜぇ――」

「ちょ――ちょっと――洒落に――ならないですよ――これ――」

「…………、だ、大丈夫だから、トレーナーさんを祟ろうとか言わないで……」

「……魔力が腹の底から込み上げてきそうだ」

 

 346プロ内にあるスポーツジムにて、腕を組んで仁王立ちする妙齢の女性の前で、少女4人(若干1名ほど“少女”と呼ぶには疑問が残るが)がまさに死屍累々といった感じで倒れていた。全員体中の水分が抜けるのではという勢いで汗を掻き、全身で酸素を取り込むように大きく体を上下させている。

 菜々が自らの“設定”を固めたあの日から、およそ1ヶ月ほどが経過した。杏の家に小梅が合流し、本格的にアイドルに向けて動き始めた彼女達に待ち受けていたのは、杏によって用意されたこのトレーニングだった。しかも今日は、数あるトレーナーの中でも最高のランクと評される“マスタートレーナー”のライセンスを持つ青木麗というこの女性が監督しているため、トレーニングは熾烈を極めていた。

 

 杏曰く、「体力が無ければどんなアイドルも見られたものじゃなくなる」だそうだ。どれほど実力や才能のあるアイドルだろうと、体力が無ければその実力を全て出し切ることは不可能だ。歌や踊りを交えて数時間ものライブを乗り切るためには、少なくとも一般女子レベルの体力では話にならないのである。だからこそ346プロでは、どこかのアスリートが紛れ込んでもおかしくないほどに充実したスポーツジムが造られているし、ライブを控えたアイドルがここでトレーニングを行う姿もよく見られる。

 ちなみに杏はご存知の通りの性格なので、同期の中でも一番体力が無かった。しかし彼女は“上手い力の抜き方”を見事に身につけており、クオリティを下げないギリギリのラインまで手を抜く、あるいは手を抜くその姿すら演出として昇華させる方法を完璧に心得ていた。しかしそれは杏だからこそできたことであり、普通の人間ならそんなことを必死に憶えるくらいなら素直に体力をつけた方が簡単だ。“楽をするための努力を惜しまない”というのが、双葉杏という人間のポリシーなのである。

 と、そのとき、まさにその双葉杏がジムに顔を出した。菜々達のトレーニングの様子を見に来たのだろう。

 

「やっほー、みんな。生きてる?」

「あ――杏ちゃん――これ――本当に――まずい――ですよ――」

 

 あまりの疲労に声が途切れ途切れになっている菜々に、杏は同情するような、しかし面白がっているのを隠しきれない笑みを浮かべながら眺めていた。

 

「青木さん、どんな感じ?」

「最初の頃よりは大分マシになった。この調子で頑張っていけば、案外早くデビューできるかもしれないな。とはいえ、体力不足であることに変わりは無いがな」

「みんな、青木さんは本当に凄い人なんだからね? アリーナとかドームでライブするようなアイドルじゃないと、本来はレッスンを頼むことすら難しい人なんだから。この機会に、色んなことをしっかりと学んでおくんだよ?」

「そ、それは心得ておる……。しかし、幻惑の世界を歩むのは、これほどまでに過酷な道のりなのだな……」

 

 普段のゴスロリ姿ではない、白いTシャツにジャージのズボンという出で立ちの蘭子が、スポーツドリンクをがぶがぶ飲みながらそう言った。そして、それを見ていた青木に「一気に飲むと体に負担が掛かる。口を湿らせるようにゆっくりと飲むんだ」と軽く注意されていた。

 

「そりゃ、杏もデビューのときは散々レッスンさせられたからねぇ……。あの地獄の日々は忘れられないよ……。杏も何回プロデューサーを恨んだことか……」

「そんなこと言いながら、双葉は何かと理由をつけてはレッスンをさぼっていたじゃないか」

「えぇっ? そうだったっけ?」

 

 惚けたように首をかしげる杏に、麗は呆れたように大きな溜息を吐いた。そんな遣り取りの横で、菜々が口を開くこともせずに床に座り込み、まるで抜け殻のようにじっと床を見つめていた。あれはかなり危険な段階に入っているのではないだろうか。

 

「とりあえず、青木さんに見てもらえるのは今日が最後だから。――それじゃ青木さん、後はよろしくね」

「ああ、分かった。後でそれぞれの今後の特訓内容を纏めておくよ。――よし、おまえ達! 休憩は終わりだ! 次はランニングマシンで走り込みをするぞ!」

 

 それを聞いた4人の悲鳴を後ろに聞きながら、杏はジムを後にした。

 

 

 

 346プロには社屋内にある社員食堂の他に、屋外に軽食やデザートを中心としたカフェテリアが存在する。社員食堂とはまた違った趣のあるそこは、ゆっくり休憩できるスペースとして社員やアイドルにも人気のある店である。たまにだが、デビュー前のレッスン生が勉強のために店員として働いていたりもする。

 遠巻きにこちらを見てざわついているのを感じながら、杏はハニートーストとカフェオレを注文してオープンスペースに腰を下ろした。聞いたところによると、このトーストはカフェに併設されている“大原ベーカリー346支店”にて作られたもので、この店自体も或るレッスン生が作ってきたパンが社内で評判を呼んだことで、社員による強い要望により造られたものらしい。

 そんなハニートーストを頬張りながら、杏は疲れを吐き出すように大きな溜息を吐いた。

 

 ここ1ヶ月、杏にしては考えられないほどにあちこち動き回っていた。菜々達がアイドルとして汗を流している間、杏は裏方として色々と準備を進めていたのである。李衣菜や他のバンドメンバーに作ってもらっている楽曲や、きらりに作ってもらっている衣装やグッズ、さらには他にも色々と進めている案件が幾つもあり、普段の杏を知る者から見たら目を疑うほどの働きっぷりである。

 

 ――でもまぁ、一旦仕組みを作ってそれが軌道に乗れば少しは楽になるかな……?

 

 先程も書いたが、杏は楽をするための努力は欠かさない。そして今は、将来楽をするために努力をする期間なのである。ここで中途半端な仕事をすると後々になってもっと面倒臭いことになるだろうし、何より自分を信じてくれているアイドル達に被害が及ぶ。

 杏は頭の中で様々なプランを構想しながら、何かやり残していることは無いか確認していた。

 だから、後ろからこっそり近づいてくる人影に気づかなかった。

 

「あーんずちゃーん!」

「うひゃあっ!」

 

 後ろから突然抱きしめられた杏は、驚きのあまり変な声をあげてしまった。そしてそのことに頬を紅く染めながら、口を尖らせて後ろを振り返る。

 

「……もう未央、脅かさないでよ」

「はは、ごめんごめん。杏ちゃんの真剣な顔を久し振りに見たから、ついからかいたくなって」

 

 杏に抱きついたその女性――未央は、悪びれる様子も無くそう言って笑うと彼女の正面に腰を下ろした。そしてやって来た店員にシナモンロールとコーヒーを注文し、それがやって来た頃に口を開いた。

 

「それにしても、まさかこうやって杏ちゃんと仕事の打合せをすることになるとはねぇ……。デビューした頃からは考えられないことだよ」

「まぁ、杏もこうやって自分から仕事の話を持ち掛けるなんて思いもしなかったよ」

「ははは、そうかもね。――でも、自分の所の可愛いアイドル候補生のためなら、って感じかな? 確か今、ここでレッスンをしてるんだよね?」

「うん、そう。麗さんにやってもらってるんだ。346プロにいたときのコネをフル活用して、信じられないくらいの破格で見てもらってるよ」

「んで、今まさにこうやってコネを使って私の番組に出演させようとしてるんだね!」

「……確かにその通りだけどさ、そう言われると何か悪いことしてる気分になるよ」

「あはは、大丈夫だって! 枕営業なんかよりもずっと健全なんだから!」

 

 未央はそう言って笑いながら、シナモンロールをぱくりと食べた。デビューから7年経って22歳になった彼女だが、皆を引っ張る明るい性格はその頃から何1つ変わっていない。

 

「んで、どの番組に出演させる? 今の私だったら、朝の帯番組もゴールデンも深夜枠も自由自在だよ!」

「自分で頼んでおいて何だけどさ、そういうのって未央が自由に決められるもんなの?」

「いつもはスタッフさんに任せてるけど、私が希望すれば大体通るよ」

 

 何でも無いかのようにそう言ってのける未央だが、それってかなりの権力だよね、と杏は秘かに思った。とはいえ、今の杏はその権力にあやかろうとしている立場なので何も言わない。

 

「んで、どれに出演する?」

「確か未央、深夜のラジオ番組もやってたよね? それが良いんだけど」

 

 杏が言うその番組は、未央が今のような売れっ子になる前から細々と続けているレギュラー番組であり、彼女が自分でコーナーなどを企画したり、勝手知ったるゲストと気ままにトークしたりと、彼女の最も素な状態が見られるとしてコアなファンに人気の番組である。

 

「あれって多分、私がやってる番組の中でも一番見てる人……っていうか聞いてる人が少ないと思うよ? 別に杏ちゃんの頼みなら喜んで引き受けるから、そんなに遠慮しなくても――」

「別に遠慮してるわけじゃないよ。あまりテレビに出て大々的に宣伝とかしたくないだけ。でもお客さんを呼ぶためには宣伝しなきゃいけないから、未央のラジオ番組がちょうど良い匙加減だと思ったの」

「インターネットで宣伝とかってしないの?」

「もちろん、そっちもやるよ。動画サイトにアルバムの視聴動画を投稿したり、ホームページでも幾つかコンテンツを用意するつもり。でもインターネットって、最初に自分の手で検索しないと情報に辿り着けないじゃん? だからネットの宣伝って、元々それに興味のある人じゃないと見てもらえないんだよ」

 

 いわばインターネットというのは“能動的”なツールであり、自分から調べようと思わなければ情報を得ることはできない。それに対してテレビやラジオというのは、たとえ興味の無い人間でも様々な情報をある程度得ることのできる“受動的”なツールであり、まったく興味の無い人間に訴えかけるという点では、たとえインターネットがどれほど発達しようと無視することのできない重要なツールであるといえる。

 

「もっと多くの人に見てもらえる番組に出た方が、宣伝効果が期待できるんじゃないの?」

「今の時代ってね、色んな番組に出て必死に宣伝をやると逆効果になるんだよ。特に杏達みたいなインディーズ系だと特にね」

「ふーん……、私にはよく分からないや。でも杏ちゃんがそう言うんなら、そうなのかもしれないね! 杏ちゃん、昔からよくこういうことをプロデューサーと話してたし」

「そうだっけ? よく憶えてないや。――そういえば、未央ってまだ武内Pのプロデュースを受けてるの?」

「表向きはね。でも最近はテレビ局の方から仕事を持ち掛けられるのがほとんどだから、あまりそういう実感は無いかなぁ? でもそういう意味では、私も“武内組”の1人ってことになるのか」

「……“武内組”? 何それ?」

 

 聞き慣れない単語が未央の口から飛び出し、杏は思わず尋ねた。

 

「あぁ、そっか。杏ちゃんは知らなくて当然だよね。――ほら、私達の事務所ってどんどん大きくなって、プロデューサーの数も多くなったじゃない?」

「確かにそうだね。あの人なんて“チーフプロデューサー”なんて肩書きまで貰っちゃって」

「今のあの人の仕事って他のプロデューサーの仕事を統括して色々指示を出すことなんだけど、あの人自身が担当アイドルを受け持ってプロデュースすることもあるの。そういった子達のことを事務所のアイドルとかスタッフとかの間で“武内組”って呼んでて、他の事務所の人達からも一目置かれてるんだって」

 

 ちなみに、以前ちひろが武内の部屋にパンの差し入れに行ったときに鉢合わせした佐久間まゆも、その“武内組”の1人である。

 

「ふーん……。それで、そういう子ってやっぱり他と比べても才能とか実力があったりするの?」

「ううん、そういう基準で選んでるわけじゃないよ? 他のプロデューサーが担当してるアイドルで売れっ子なのも普通にいるし。あの人が担当になるアイドルって単純に相性が一番良いからとか、あるいはあの人じゃないと手綱を握れないような問題児だったりするんだよ」

「問題児って……、どんなアイドルだよ……」

「うーん……、事あるごとに仕事を休もうとするようなアイドルとか?」

「デビューライブでお客さんが少ないことにショックを受けて、そのまま引退宣言するようなアイドルとか?」

「ぐはぁ」

 

 からかい混じりの杏の言葉に、未央はダメージを受けたようにテーブルに突っ伏した。

 

「それにしても、あの人も大変だねぇ。せっかく出世したのに、相変わらず忙しいみたいで」

 

 しかし杏がそう言うと、すぐに未央はむくりを体を起こした。

 

「まぁ、あの人自身も楽しそうにしてるからね。見た目には分かりにくいけど。――それに“武内組”のみんなも、結局はあの人のプロデュースを受けて凄く売れてるわけだから、会社としても休ませるわけにはいかない人材だってことでしょ」

「ふーん……。とりあえず杏は、少数精鋭でやらせてもらうとするよ」

 

 杏はおどけた口調でそう言って、ハニートーストを一口食べた。

 それを眺めていた未央が、興味津々といった表情で尋ねる。

 

「んで、そうやって宣伝を考えるようになったってことは、いよいよ始動の目処が立ったってことかな?」

「まぁね。グッズの開発や衣装も順調だし、曲も続々と届いてる。本人達も準備が着々と進んでいるみたいだし、他にも色々企画しているものも大体形になってる」

「おおっ! じゃあついにその全貌が明らかになるときが来たんだね! 最近ウチの事務所でもその話題で持ちきりなんだよ! スタッフもそうだけど、他のアイドル達も凄い興味を持ってるみたいだよ!」

「うーん、そんなに期待されても困っちゃうんだけどねぇ……。別に奇を衒った戦略をするわけじゃないし……。――というか、やっぱり噂になってるんだ?」

「うん、別に私達が言い触らしたわけじゃないんだけどね。でも大丈夫! ちゃんと社長達が箝口令を敷いてくれてるから、そこから外部に情報が漏れるって心配は無いよ! 杏ちゃんも、自分の好きなタイミングで発表したいもんね!」

「タイミングもそうだし、好きな“媒体”で発表したいよねぇ。信頼できない所に好き勝手書かれたら堪らないよ。――未央も、あんまり外で言い触らしたりしないでよ?」

「大丈夫だって! この未央ちゃんを信じなさい!」

 

 未央はそう言って、自分の胸を力強く叩いてみせた。おちゃらけた態度を見せてはいるが、彼女がそんな態度に反してしっかりと物事を考えており、軽薄な行動はけっして取らないことを杏はよく知っている。

 なので杏は、未央のことについて“は”一切心配していなかった。

 

 

 *         *         *

 

 

 すっかり日も落ちて暗くなった頃、杏達5人のグループは346プロの最寄り駅までの通りを歩いていた。全員女性ということを差し引いても背が低い者達で構成されているそのグループは、全員がそれぞれのベクトルで可愛らしいということもあって普段はとても目立つが、346プロ近辺はオフィス街であり帰宅ラッシュを過ぎると途端に人通りが少なくなるため、現在彼女達もあまり人の目を気にせずに歩くことができる。

 

「いやぁ、今日は特に疲れましたねぇ……」

「フヒ……。で、でも、最初の頃よりは疲れを引きずらなくなった、気がする……」

「う、うん……、私も……。最初は歩くのすら大変だったけど……、今はそうでもない……」

「我が体に積み重ねられし修練が、魔力となって表れているという証か!」

 

 菜々達4人は地獄のレッスンを受けた後とあって疲れ果てた様子だが、それに反して気力は充ち満ちているといった雰囲気だった。最初にレッスンを受けた頃など家まで無言で歩き、家に着いた途端に部屋に直行して爆睡だったことを考えると、相当な進歩と言えるだろう。

 そんな4人に向けて、先頭を歩いていた杏が振り返って声を掛ける。

 

「さてと、せっかくだから何か食べてから帰ろうか。みんな、何かリクエストある?」

「え、えっと……、私、お寿司が食べたい、かな……?」

「お寿司ですかぁ! 良いですねぇ!」

「フヒ……、わ、私もそれで良い……」

「“姿を変えられし生命と穀物の円舞曲(ロンド)”か! 我が身を満たすのに相応しい!」

 

 小梅の言葉を皮切りに、皆が賛成の意を示した。若干1名分かりにくい者がいたが、ニコニコと嬉しそうにはしゃいでいるので賛成に違いない。

 

「よーし、杏さん張り切って回らない寿司屋に行っちゃうぞー」

「おおっ! 太っ腹……」

「あの、杏ちゃん……。あんまり高いお店だと、こっちが緊張して食べられないというか……」

「ん? だったら逆に凄い高い店に行ってみる? お寿司って普通に食べると高カロリーだし、アイドルを目指す身としては食べない方が良いんじゃない?」

「ちょ、ちょっと杏ちゃん! それはひどいですよー!」

 

 慌てて杏に詰め寄る菜々の姿に、皆が楽しそうに笑い声をあげた。

 そんな中、皆と同じように笑っていた小梅がふと真顔になると、何かを気にするようにちらちらと視線を明後日の方へと向ける仕草をした。

 

「ん? どうしたの、小梅ちゃん?」

 

 杏がそれに気づいて尋ねると、小梅は少しだけ悩む素振りを見せて、

 

「えっと……、“あの子”がね……、『さっきから私達をつけている人間がいる』って……」

「ひぃっ!」

 

 小梅の言葉に一番反応したのは、蘭子だった。彼女は中二病的ファンタジーは好きだがホラーは苦手なので、それを連想させる“あの子”という言葉に恐怖を感じたのかもしれない。それでも小梅を避けようとはしない辺り、彼女はかなり心優しい性格と言えるだろう。

 一方、彼女以外のメンバーはちゃんと“自分達をつけている人間”に対して反応していた。輝子と菜々が勢いよく後ろを振り返り――

 

「2人共、後ろを振り返らないで」

 

 かけたところで杏にそう言われ、2人はぴたりと動きを止めてぎこちなく正面へと顔を戻した。杏がそのまま歩き出したため、他の4人も黙って彼女の後に続く。

 しかし少し経った頃、杏はポケットから携帯電話を取り出して画面を顔の高さまで持っていった。そしてそのままカメラモードにして、カメラをディスプレイ側へと変更する。

 画面には杏の顔――の向こう側に広がる景色が映し出されていた。オフィスビルから漏れる電灯のみが光源なので全体的に薄暗いが、ビルの柱に隠れている人影は何とか確認することができる。

 

「……狙いは何かな?」

「ま、まさかナナ達を狙った変質者とか?」

「杏達を狙っているのは確かだけど、少なくとも“あっち方面”が目的ってのは無さそうだね。相手は単独みたいだし、いくら女性だけっていってもグループは狙わないよ」

「単身と見せかけ、傍に仲間が潜んでいる可能性は?」

「わざわざそんなことする理由は無さそうだけど……。“あの子”は何か言ってる?」

 

 杏が小梅に視線を向けると、彼女は明後日の方向へと視線を向けて声に出さずに口を小さく動かし、再び杏へと視線を戻した。

 

「あの人だけだって……。他に怪しい人はいないみたい……」

「外見はどんな感じ?」

「…………。小汚いコートを着た、冴えない中年男……?」

 

 随分と辛辣な評価に、菜々達は尾行されているという事実を忘れて同情的な苦笑を浮かべた。

 そんな中、杏だけは小梅の言葉に何か引っ掛かったのか考え込んでいた。

 

「どうかしたんですか、杏ちゃん?」

「……いや、ひょっとしたらその人、杏の知り合いかもしれない」

「知り合い?」

 

 菜々達4人が顔を見合わせて首をかしげる中、しばらく考え込んでいた杏がふと顔を上げて皆の方へと視線を向けた。

 

「みんな、夕飯はお寿司じゃなくても良いかな?」

 

 

 

 杏とつかず離れずの距離を保ったまま後をつけていた、くたびれたコートを身に纏い無精髭を蓄える40代後半の男――阿久徳は、懐に忍ばせたカメラをいつでも取り出せるようにしながら、いつ訪れるか分からないシャッターチャンスを待ち構えていた。

 とはいえ、彼の表情自体はそれほど真剣味のあるものではなかった。相手が小柄な少女(一部女性)5人組だから、というわけではない。彼は職業柄そういった少女達を相手にすることも多く、付け入る隙があれば容赦無く付け入ってきた。道徳的な問題が付き纏う職業ではあるが、彼には彼なりの“矜持”というものがある。

 彼の表情にやる気が感じられないのは、ただ単に彼が狙うシャッターチャンスの訪れる気配がまるで無いからである。にこやかに会話をしながら夜道を歩く光景は、アイドル事務所の社長と所属アイドルというよりは、仲の良い友人と表現した方がまだ適切に見える。

 これではとても、依頼主からの要望である“事務所を潰す”を叶えられるようなネタを見つけられるとは思えない。

 

 と、そのとき、彼女達がとある飲食店の前で立ち止まった。それは彼もよく知っているアイドル“三村かな子”が経営する飲食店の1つであり、良質な洋食を安価で提供する店として専門雑誌でも高い評価を得ている店である。

 おそらく、彼女達は今からそこで食事をするのだろう。

 しかし彼は、その“違和感”に気づいていた。

 

 ――店の“正面”から入る気ですかい?

 

 かな子の店にはすべて“VIPルーム”があり、スタッフ用の裏口から入れば一般の客と顔を合わせることなくそこに行ける。これは一般の客と顔を合わせると無駄な騒ぎを起こしかねない芸能関係者でも気兼ねなく自分の店に来てほしい、というかな子の配慮によって設計されたものである。なので彼女達も同じように、裏口からVIPルームに入るものと思っていた。

 阿久徳が首をかしげていると、杏が他の少女達と別れてその場を離れていった。そして少女達は、普通に正面の入口から店の中へと入っていく。そして杏はぐるりと建物を回って、スタッフ用の出入口と思われるドアに手を掛ける。

 

 そして彼女は、ふと“こちら”に視線を向けて手招きをした。

 

「…………」

 

 そしてドアを開けて中へと入っていった杏の姿をじっと見つめながら、阿久徳はその表情を真剣なものへと変化させていった。自分の身を隠していた電信柱から体を離し、先に中へと入っていった杏の後を追ってそのドアへと歩いていく。

 そしてドアノブに手を掛けて開き、中へと足を踏み入れた阿久徳を出迎えたのは、

 

「いらっしゃいませー。どーぞこちらへー」

「……“奇跡の10人”自らお出迎えたぁ、随分と贅沢ですねぇ」

 

 ニコニコと“営業スマイル”を浮かべた杏に案内されながら、阿久徳はひっそりと隠れるように存在するVIPルームへと入っていった。いくら彼といえどもこの部屋に案内されたのは初めてであり、彼はまじまじと部屋中を見渡している。

 

「……案外、普通の部屋なんですねぇ」

「そりゃそうだよ。それで、何頼む?」

「……もしかして、奢ってくれるんですかい?」

「んなわけないじゃん。自分の分は自分で払いなよ」

「そうですかい」

 

 本気で口にしたわけではないらしく、阿久徳は軽く肩をすくめるだけだった。

 そうして2人がそれぞれメニューを注文し、少しして店員がそれを運んできた。杏が頼んだのはクリームソースの掛かったオムライス、阿久徳が頼んだのは肉汁がジュージューと音をたてるステーキセットである。

 

「んで、狙いは?」

 

 杏が話を切り出したのは、2人が揃って目の前の料理に手をつけ始めたときだった。

 

「随分と直球ですねぇ」

「探るような真似って苦手なんだよね。それで?」

「いやぁ、あの双葉杏がアイドル事務所を立ち上げてプロデュース業に挑むって情報を掴んだもんで。もし本当なら、一般人だけじゃなく芸能界にも大きな衝撃が走るスクープでしょう?」

「うん、“表向き”はそうだろうね」

 

 オムライスを頬張りながら、杏は阿久徳の語った理由に対してそう言い放った。

 

「……表向き、ですかい」

「そ。阿久徳さんがカバーしてる“分野”は、こういったものじゃないでしょ? こういうのって、どっちかと言ったら善澤さんの得意な分野じゃん。その善澤さんがまだ取材をしていないこのタイミングで、阿久徳さんがこうして出てきたことが気になるんだよ」

「別にそこまで不自然なもんでもないでしょう。たまたま善澤の奴よりも情報を掴むのが早かった、というだけの話でしょう?」

「……阿久徳さん、その情報って、どこから貰ったの?」

 

 スッと目を細めて尋ねてきた杏に、阿久徳はその表情を崩すことなく笑みを深くする。

 

「……情報の提供者については、教えることはできませんなぁ」

「ふーん……。まぁ、そりゃそうか。――じゃあ、1つだけ」

 

 杏はスプーンを置くと、阿久徳へと向き直った。口元にはうっすらと笑みを浮かべているが、その目はまったく笑っておらず、まるで針で突き刺すような鋭い視線を放っている。

 

「杏達の邪魔をするんだったら、容赦しないよ?」

「はは、それは怖い。肝に銘じておきますぜ」

 

 そしてそんな視線をまっすぐに向けられているにも拘わらず、阿久徳は眉1つ動かすことなく平然とした表情でそう答えた。

 

「あー、本気にしてないでしょ? 本当に容赦しないんだからね?」

「いえいえ、あっしは本気で聞いてますぜ? でもまぁ、いったいどういう感じに“容赦しない”のか、その辺りは少し気になるところではありますがね」

 

 冗談めかして肩をすくめる阿久徳に、

 

「うん、分かった。それじゃ、軽くだけど」

 

 いかにも真剣な表情で、杏がウォーミングアップでもするかのように手首をぐりぐりと回しながらそう言った。

 

「えっ?」

「といっても、本当に軽くだから。そんなに激しいやつはやらないから安心して。――それじゃ、いくよ」

 

 戸惑う阿久徳をよそに、杏はその手を彼へと向けた。

 そして、

 

 パリンッ。

 

「――――!」

 

 阿久徳の目の前で、彼も杏も一切触れていないグラスが突然割れた。中に入っていた飲み物がテーブルを濡らし、ポタポタと床に雫を落とす。

 

「……今のは、どういう仕掛けですかい?」

「ふふふ、それを教えたら意味が無いでしょー? ……後で弁償しないと」

 

 それだけ言って何事も無かったかのように食事を再開する杏に、阿久徳は先程までは無かった恐れの色を含んだ表情を浮かべて、彼女をじっと見つめていた。

 

 

 

「――ふふっ」

「ん? どうかしましたか、小梅ちゃん?」

「……何でもないよ、菜々さん」

「ああ……! 甘美なる誘惑が、我を激しく揺さぶる……!」

「フヒ……、蘭子ちゃん、デザートを食べたいのか……?」

 

 そしてその頃、一般客と一緒のスペースで食事を摂る菜々達は、そんな会話を交わしていた。

 

 

 *         *         *

 

 

 様々な紆余曲折はあったものの、物語は劇場のオープン当日へと差し掛かる。


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