母の顔というのは見たことがない。私が生まれてからすぐに他界したらしいから。
父と母という立場は、その昔は恋人というものだったであろうし、そうであるならそれなりにお互い愛しあっていたはずである。そこを考えると母が死んだことで父の精神になにかしら負担があっても当然といえる。だからもしかしたら、父も昔は模範的な人間だったのかもしれない。それでも、だから許せるという話ではないけれど。
やっちゃだめよと言われるとやりたくなってしまう人がいる。それはそれは大勢いる。だから煙草や酒が売れるのだ。健康に悪いからやめておけと保健の教科書は言ってくれるのに、まさかそれを見たことも聞いたこともないわけじゃあるまいに、それでも吸う人は吸うし飲む人は飲む。
私はそれを愚かだと思う。
そこをいくと父は愚者だった。煙草も酒もよく買っていた。そしてもちろん吸うわ飲むわと、やはり愚かとしか見えなかった。
酒癖も悪い方で度々暴力を受けた。と言っても、一年に何回かという頻度だったので虐待と呼ぶにはどうだろうなぁという微妙なものだった。
それで、やっちゃだめと言われているのに素直に言うことを聞けない人というのはなにも煙草と酒だけに留まるということもない。同じくだめだと言われていることにも手を出すのだ。例えば、借金の連帯保証人になるとか。そして当たり前のように相手に逃げられ借金を抱え、あげくそれをどうにかするためにギャンブルに走り破綻した。とか。
それを愚かと言わずになんと言うのか。
私が最後に父を見た時、父は天井からぶら下がっていた。体を支えていたのは首に括られたロープだけで、それを見た時にはさすがに「ひぇ」と変な声を出してしまった。たかだか高校二年の小娘に、人が死んでいるところを見て冷静でいろと言う方が無理だろう。
それから警察が来たりしていろいろあったのだがそんなことはどうでもいい。問題なのは借金、しっかりと私にのしかかってきたお金の問題をどうするかだった。
生活だけならバイトくらいいくらでもする。体を壊さない程度にいくらでも。そこに借金がのっかるとどうなるか。無理ゲーとはこういうものを言うのだ。ざっと二千万。女子高生が返せる額じゃない。どころか大人でも相当厳しいだろう。
それでもって、この借金を返さなくてはならない相手もまた困ったものだった。父が生きていた頃に何度か取り立てに来ていたのを見ていたが、あれはね、父亡き今私が売られるのも時間の問題ですよ。
これは親戚と呼べるのか? というくらい遠い遠い血縁関係にある人がいる。某企業の社長で、それはまぁ億万長者というやつではないだろうか。もしかしたら億どころか兆とかそれ以上かもしれない。そんな人がギリギリとはいえ身内にいるとなれば、当然私は助けを求めることになる。というか、それはそれは近い関係にある親戚にそう勧められた。
名案というか、妥当だとは思った。救われる側の人間が妥当だなんて偉そうにという話だが、そもそも私はなにも悪くないよねこれ。理不尽とはこのことか。
そしてさらにわがままを言わせてもらえば、私はあの人がどうしようもなく苦手なのだ。
で、まぁ苦手でもなんでもさすがにどうしようもなく、私はその親戚に、
相変わらず家が広い。いや、これは家なのか? 城では?
とりあえず門の所にあるインターホンを押す。門というのがもう本当に門だった。侵入が容易ではないような、一般的な一軒家のそれとは比べ物にならない門。THE門。この時点でだいぶ怖気づいてしまう。
「はい」
女の人の声がスピーカーを通して聞こえてきた。インターホンのこれってスピーカー? スピーカーだよね?
「
「お話は伺っております。どうぞ」
あっさりと来客であることを認められると門が独りでに開いた。なにこれすごい文明の利器?
「お待ちしておりました。お荷物お持ちいたします」
玄関、と呼ばれるべき場所に入った途端にドラマで聞いたことがあるようなことを言われた。もう一周回って感動を憶えてきた。使用人? の対応にも、玄関というにはあまりに広いこの空間にも。
「こちらです」
馬場海富のいる部屋へと案内される。実際に前に立って歩いてもらえないとわからないほど広い家というのはどういうことなんだ。ここは本当に日本なのか?
「馬場様、士静様がいらっしゃいました」
「あーいいよ入って」
これまたやけに大きいドアが開かれた先に見えた男は若かった。いや、何回か会ったことがあるので年齢くらい知っている。それでもやはりこの優男がこれほどの金を稼いでいるなんて、信じられないというよりは納得できない。
「土姫ちゃーん、久しぶりじゃん」
これだ、来て早々のこれだ。この、一企業の社長とは思えない人間がやはり私は苦手だ。
「ご無沙汰しています」
「それはね、「しています」でもいいと言えばいいけどできれば「しております」と言う方がいいんじゃないかな」
そしてこれだ、二言目から早々のこれだ。一々いろんなことにケチをつけてくる。この小娘になにを求めているんだこの人は。敬語なんて入試面接以来まともに使ってないわ。
「すみません、気をつけます」
「うーん、うん、まぁがんばってね。そしてとりあえず座って座って」
勧められたので座る。わぁなにこれ椅子ってこんなふかふかするものなの? ていうかこれ椅子なの? なんか別の呼び名があったりするの?
「それで? 今日はどんな用で?」
知っているくせに。私に言わせようというのか。この人の苦手な部分その一は軽いノリ、その二はケチ(難癖)をつけてくること、そしてその三は性格が悪いことだ。
そうは言ってもやはり私が文句を言えた立場ではないので正直に、あたかも私以外の人はまだ知らないことを話すかのように要件を伝えた。父が死んで借金が山積みなんです助けてください。
ひとしきり話し終えて返ってきた一言は、
「なるほど。まぁ知ってたけど」
あなたが知っていたことを私は知っていた。どうせそれさえもわかっていて話させたんでしょう。いい趣味してる。
「ご存じでしたか。でしたら、そんないじわるをしなくても良いではないですか?」
別に本気で言ったわけじゃない。軽く形だけでも抗議をしておこうと思っただけ。本当に形くらいしか意味をなさないのが、なんだろう、悔しい? 違うなぁ、わからない。とにかく良い気分ではない。
「いじわるね、悪かったよごめんごめん」
これっぽっちも悪いと思ってないですよね、えぇ。
「いえ、大丈夫です。……それで」
「とりあえず一番重要なところから答えておこう」
「はい」
「二千万という借金を私が返済できるかだが、答えは可能だ。余裕、なんの問題もない」
それも知っていた。この人が二千万を用意できないなんてそんなことがあるわけない。と、この家に来てから確信していた。心配するならせめて億単位からなんじゃないかなぁ……。
「では」
「が、しかしだ」
そのくらいの金額余裕で払えるよ、とは言うがだから今すぐ払ってあげるよとはならないのがこの人だ。知っていた。いや、無償で助けてもらおうと言う方がおかしいのはわかっている。この人から見てどうであれ、事実として二千万という金額は尋常ではないのだから。
私は今、事実上命を乞う立場なのだ。
「しかし、ですか」
「そう、しかし。二千万を払えはする、するが、払ったところで俺になんのメリットがある」
……まぁ、そうだ。せいぜい恩を売れるくらいしかメリットはない。そして私みたいな一般人に恩を売るメリットというのは、要するになにもないのと同じだ。
「……ありません」
「ない? それで君はここに来たのか? あなたにはなんのメリットもないけど助けてーって、そんなクソみたいに都合のいいことを言うために? 暇人か君は」
…………うー、うーうーうー……! やっぱりだめだ。私はこの人とは絶対にうまくやっていけない! 暇人? どれだけ暇があってもこんな人に会いに来るものか。暇どころか明日からの生活が、人生が危ないのだ。だから来ている、そうでないなら来ない。都合のいいことを言っているのはわかっているけれど、それでも、それでもそんな言い方しなくてもいいんじゃないの?
「…………暇、ではないです。困り果てています」
「だろうね」
他人事だという言う風に適当な相槌を打たれる。地球の裏側で戦争が行われていると聞いたみたいに、究極的に他人事。
「お願いします、助けてください」
「だからね、助ける理由がこっちにないでしょ?」
「そこをなんとか、お願いします。いずれ必ず恩は返しますので」
「君から返される恩なんてたぶんないなぁ。ないっていうのはあれだよ? 財布に十円玉しか入っていない状況を「お金がない」と言うのと同じだよ?」
「お願いします……!」
やけに庶民的な例え話を持ち出してきた富裕層にただひたすら頼む。頭を下げるのは当然だし、もういっそ土下座でもしようかとも思えた。
「……あ、あれか、もしかしてあれか」
「……?」
どれだ。なにか話が良い方向に進展することでも思い出してくれたのか?
「jkに恩を売ることに意味があるとか、そういうことか」
「……」
jkて、あなた社長ですよね、もういい大人ですよね、jkではしゃぐようなことしませんよね普通。いや今に限ってははしゃいでくれた方がいいのだけれど。
「助けてなにがあるってことじゃなくてjkを助けることそれ自体に意味があるとか、そういうことかな?」
訊かれても困る。
「え、えー……と、そう、かもしれないです」
曖昧な返事しかできない。そんな考え方予想していなかった。予想するはずもない。
「でもさぁ知ってる土姫ちゃん? jkはjkでもね、かわいい子にしかそういう特権は発動しないんだよ? それとも自分はかわいいと思ってるってことかな」
なんで一々嫌味なことを言うんだろうこの人は。だから苦手なのだ。これは私だけの感想ではないと思う。これまでにこの人と関わってきた何人もの人が同じ苦手意識を抱いたに違いない。そう信じている。
「容姿に自信はないです」
きっぱり言った。事実と言えば事実なのだが、それ以前にこれ以外の答え方はあるのだろうか。
「それは謙遜か?」
「いえ、本心です」
「だとすればひどい皮肉だ。全国のブスになぶり殺しにされても文句は言えない」
言える言える絶対に言える。なんでそんな目に合うことが当然みたいに言われているんだ私は。
「ぶっちゃけた話し土姫ちゃんはかわいいよ。中の上くらいかなー」
「は、はぁ」
格付けをされても困る。そしてそんないい格にはいない確実に。良くて中の下くらいだと思う。自己評価でそれだと他人から見ればもっと下かもしれない。そういうレベルでの話だ、私が中の上とか自負してたらそれは確かに殺される。
「せっかく容姿に恵まれたんだからそれを利用して稼げば? 二千万、と利子だけどなんとかなるでしょ。jkブランドを舐めたらアカン」
なんで急にのど飴のCMみたいなこと言うんだ。そしてなにより、それが嫌だから助けを求めている。
「それが嫌だから助けを乞いに来ました」
「そんなまた自分勝手な。借金っていうのは借りた金だからね? 返すのが普通なんだよ? もちろん基本的には自分でだ。その過程に嫌だなんてわがまま言うのか?」
「それはだって、この借金は私が借りたものではありません。あまりに理不尽です」
そう、これが自業自得で背負った借金なら私だって諦めがつく。そうではないから今こうしている。
「父親を止めれなかったのは君だろう」
私のせいなの……? 止めれなかったから? 冗談じゃない。止めようとしたら止められたの? 私はもちろん、この世界の誰かにでも。不可能だ。
「そんなの、そんなのどうしようもなかったじゃない!」
「うおぉ落ちつけ落ちつけ、ごめんごめん悪かったって。そんな急に叫ぶなよ。それと使い慣れない敬語はついぞ何処へ行ってしまったんだ大丈夫か」
「……すみません取り乱しました」
「取り乱しましたって言えば丸く収まると思ったら大間違いだぞ。野々村議員って知ってるか」
「知っていますが、さすがにそこまでではなかったと思います」
またこの人のペースに呑まれていく。真面目な話をさせてくれないのだ。それと、取り乱したのは確かだったのでそれを止めてくれたのはありがたかった。
「そうだなそこまでじゃなかった。で、結局どうするの借金」
どうするのって、どうしようもない。助けてもらえないのなら嫌だろうがなんだろうが私は効率だけを重視した方法でお金を稼がなくてはならない。……もしくは父と同じく首をくくるか。
そうなることを考えれば、できることはなんでもしておこうと思った。
「どう、と言われましても。私は懇願することしかできません。なんでも言うことは聞きます、ですからどうか、助けてください、お願いします……」
「え、今なんでもって。そんなこと言っちゃっていいの? 訂正するなら今のうちだよ?」
「訂正などいたしません。私は、あなたに頼るほかないのです」
「ふーん、でもさ、それで例えば僕が土姫ちゃんの言うところの「嫌なこと」を命令したらどうするの? 助けてもらう意味もなくない?」
そこは確かにそうだった。でも、なにを言っても最後の最後では仮に嫌な命令をされてもそっちの方が楽なんじゃないかと思っている。そういう意味では信じているといえる。この人は、まさか本当の本当に私が心から嫌悪することはめいれいしないのではないかと。
実際私はこの人を苦手としているが嫌悪はしていない。そこまでの人じゃない。
「……その時はその時です。でも、馬場さんはそんなことしないと私は信じております」
「嘘吐けお前、良心の呵責に訴えるパターンの発言だよねそれ。計算ずくか」
計算はしていないしわりと本気で信じているが、言われてみれば良心に訴える言い方だったしそういうやり口もあったのかと思う。
そしてなにより、心から信じでもしないと私がもたない。
「そんなまさか、滅相もないです」
「そうだね、土姫ちゃんのことだからそんな高度なこと思いつかないよね。それでもって信じてるということにしておかないとどうしていいのかわからなくなっちゃうとかそんな感じでしょどうせ」
……これほど悔しいことが今までにあっただろうか。バカにされ、あげくそれがエスパーの如く心の中を見透かされるなんて。圧倒的な敗北感が残る。
「そんなことは……」
「ないの?」
「ないです」
悔しかったのできっぱり言い切った。
「土姫ちゃん……、これは忠告だよ」
「はい……?」
「つまらない嘘を吐くのはやめよう。君の身のために言っておく」
……エスパーか。
「……わかりました」
「で? 図星でしょさっきの? 君に計算した発言なんてできないし、信じているというのは逃避だ」
「……はい」
嘘を吐くなと、早くもそう命令されては仕方がない。私の身のための忠告というのは要するに、見捨てられないようにがんばれということでしょう?
「初めから素直になっとけばいいのに」
「すみません……」
「別にいいけどね。土姫ちゃんがいくら頑張って嘘吐いてもすぐに、」
また私をバカにしようとしていた時に、電話の音が鳴った。馬場は面倒極まりないという風に「ちょっとごめん」と言い残して電話を取りに消えてしまった。
しばらくして帰って来て、非常にすっきりしないことを言われた。
「ごめんちょっと仕事行ってくるから、この話はまたあとで」
そんな平常通り軽いノリで、私の人生を左右する話は延期された。
出かける際に馬場は私にいくつか命令した。私にそれを無視するという選択肢は実質ない。
命令その一、この部屋から出るな。見た感じ無駄に広いしテレビもパソコンもゲーム機も本もあってむしろ一生ここから出なくても退屈はしなさそうだった。もちろん暇つぶしにそれらをいじろうとは思わないけれど。さすがにトイレはなかったのだが、その点は許可された。使用人を呼んで案内してもらえ、だそうだ。普段店員を呼ぶのにもボタンがないと呼びづらいものなのに、たかだかファミレスとかで客と店の関係でさえそれなのに、他人の家で使用人を呼ぶなんてチャレンジもいいところだ。まぁそれでも、問題があるかないかで答えるのならないだろう。
命令その二、なにも食べるな。この部屋にも冷蔵庫があったし、探せばお菓子的な物もありそうだがそんなことは関係ないらしい。ただ、飲むのはいいらしい。なにゆえ断食なんてしないといけないのかは謎だが命令なら仕方ない。そもそも理由がわからなくても愚直に従えるか、ということを試されているのかもしれない。これで「やっぱ借金は自分でがんばれ。じゃあねばいばい」なんて言われたら人をおもちゃにするのも大概にしろとキレてもいいのだろうか。
以上二つの指示を私は厳守しなくてはならない。そして一番厄介なのは馬場が最後に残した台詞だった。
「夜には帰ってくるけど、そうだなー、……まぁ何時かはわかんないけどとにかく夜だよ。それじゃあファイト!」
と。ほぼ無制限に待たされることほどつらいこともそうそうないと思う。別に命令ではないが、というか命令するまでのことでもないのはどう見ても明らかなのだけれど、馬場海富を待てという事実上の指示が私には一番難題に思えた。待つことは得意ではないのだ。待ち合わせとか、そうだからつまり、遅刻を秒単位で許せない人間だと言えばわかってもらえるだろうか? いやしかしあれは、許せない理由も人それぞれだから違うのか。待ちたくない待たされたくないから、遅刻なんて常識がない、せっかく時間を決めるのだから守らなくては意味がない、などなどかな?
なんにしても、この状況で待つのが苦痛だなんてなんだか主人を待つ犬みたいでいやだ。
「ただいMAV」
わけのわからない発言と共に馬場海富は帰ってきた。時刻、二時。十四時ではない。
「おかえりなさい」
遅かったですねといいかけたがやめた。私がどうこう言うことでもないはずだ。
「あれ、もう寝てるかと思ったのに」
寝れるかこんな状況で。気が気じゃない。そしてなにか、起きていては迷惑か。
「眠れなくて」
「まぁそんなもんか。さて、それはともかく土姫ちゃんにおみやげ買ってきたよ」
それはともかくと言うならおみやげも「それ」に含むべきだろう。結局借金はどうなるんですか。早く答えが欲しい。諦めるにも、それなりに時間がいる。
「はぁ、ありがとうございます」
「はいこれ」
渡されたのは、……これはなに? ラジコンのヘリ?
「これは……?」
「MAV。もといドローン」
あぁ、あのニュースでやってた。へぇーこれがそうなのかぁ。……いや、なんでドローンなのさ。これでなにをしろと。
「これで明日から飛ばして遊べるね! なんせ敷地なら十分に」
暇つぶしの方法が増えたことに呑気に喜んでいる場合ではない。そもそも私にラジコンとかその手の物で遊ぶ趣味はないし首相官邸に飛ばす趣味もない。それよりも、
「明日も、明日からもここに置いていただけるのですか……?」
「あぁ、いいよ別に」
あっさり。あっさりだ。肩すかし? 違う、えぇと、拍子抜け? いやそれもなんか違う。とにかく信じられないほどあっさり私は救われた。救われた、よね? 大丈夫たぶん酔ってはいない。
「本当ですか!?」
「ちゃんと命令守ってたみたいだからね。みたいというか、土姫ちゃんに巧みに命令を無視しつつそれを隠すなんてできっこないだろうし。律儀に守ってたんだろうね」
律儀でも愚直でもバカ正直でもなんでもいい。それでいいならいくらでも命令くらい聞く。というかそもそも、わざわざ命令をかいくぐる必要あったのかな。
「ありがとうございます! この恩はいつか」
「返さなくていいし返せないと思う。そんなことより忠実でいてくれたらそれでいいよ」
忠実でいることは恩返しにはならない。厳しい。
「はい! それはもう信義を尽くします」
「おうおういいのかねぇそんなこと言っちゃって。どうなっても知らないぞ」
言わないとどうにもならないのだから仕方ないだろうよ。
「あ、そうだ土姫ちゃんお腹減ったでしょ」
「まぁ、はい」
そりゃあそうだろう。なにも食べるなと言ったのはあなただし深夜まで帰ってこなかったのもあなただ。私の次くらいには私のことを理解できるのでは?
「ついておいで、ご飯食べに行こう」
こんな時間に外食ではないだろうしあれか、なんかこう専用の部屋があるのか。さすがですなぁ。
私はついてっきりこの人はもう夕飯を食べているものだと思っていた。しかしテーブルに並んだ皿の量を見るにおそらくそれはないだろう。もしそれが夜食程度だというならかなりの大食いだ。大食いだとするとそれなりに体格は良くなるはずだが、この人は所謂もやしだ。そこをいくとこんな時間から夕飯を食べていたのでは太りそうなものだが、そこのところはどういうことなのだろう。
まぁ、人の食生活と体型の関係はともかく。私の前にはせいぜい漫画くらいでしか見たことのないような大きさのステーキがあるのだがこれはどういうことだろうか。なんでこの家の物はなにもかも大きいんだ。いや、いいことだけれども。慣れない慣れない。
「馬場さん」
「うん?」
そう、皿が並べられていくのを眺めながら薄々気づいていたことがある。恐れていたことかもしれない。
「大変恥ずかしながら、私はテーブルマナーのテの字も身についておりません」
ナイフとフォークってどう使うのが正しいんでしょうか。そもそも私はパンケーキを食べる時以外にナイフを使ったことがありませんがどうすればいいでしょうか。フォークとなんて爪楊枝で代用できると言っていた過去もありますがいかがいたしましょうか。
「どうすればいいでしょう……?」
たぶんまた別の意味で懇願するような目になっていたと思う。迷子になった子供ってこんな感じなんじゃないかなぁと思った。
「どうすればって、適当だよ。君にそんなもの期待してないし」
あぁ、そうか、そうですね。ありがとうございます。そうだよ考えてみれば一般より若干下回っていると思われる水準の家庭の子になにか期待されても困るよね。
「ありがとうございます」
「ありがとうって、必死か」
「?」
「期待してないって言われてお礼を言うって」
いや、いやいや、期待はされればいいというものじゃないでしょう。周りからの期待に押しつぶされちゃう人もいるわけですし。私も今場合によってはつぶされかねなかったから、だからお礼を言った。
「期待されるのは、あまり得意ではないので」
「得意なやつなんていないよ。でも、それでも期待してないって言われたらちょっと傷つくでしょ」
「そういうものですか」
「俺の知る限りではね」
若くして社長になるような人の知る世界なんて、一般人にはアテにならない。
食事を終えて、ついでに入浴も済ませてまた部屋に帰って来た。風呂の話だけど、これがまた驚いたことに男湯と女湯に分かれていた。ありえないでしょ。ここ家だよね?
「驚いた。いや、予想外だった」
部屋に帰って早々、馬場は私を見て言った。さも意外だと言う風にしみじみと。できれば放っておきたかった。無論そんな選択肢はない。
「なにがですか?」
「土姫ちゃん、今日の朝なんか食べた?」
「朝、ここを伺う前にですか?」
「そう。いやそんなカマをかけたりしないから安心しなよ」
いやぁあなたならそれくらいしかねないじゃないですか。
「すみません。えぇとそれでですね、朝はなにも食べていませんでした」
「じゃあ今日はついさっきまでなにも食べていなかったんだね」
「そうですね」
別に一日くらいなにも食べなくても大したことはない。二日以降は経験がないのでなんとも。たぶんさすがにつらいと思う。
「そのわりにすごく落ちついてたよね」
「はぁ、そうですか?」
別に見栄を張ったりしたつもりはない。特に何も変わらず、いつも通りだったと思うが。……おぉ、それは私が普段から落ちついているということでは? やったね褒められた。
「そうだよ。なんかこう、ガッつくって言うの? そういうのが全くなかったねって」
「そう、でしたか? そうだったかもしれません」
言われてみれば生まれてこの方そういう心境になったことがない気がする。テンションが上がるというかリミッターが解除されるというか、そういうことがなかった。
「いっそもう一日くらい放っておいてから食べさせれば違ったかもね」
やめて。
「それは、できればやめてほしいです……」
「わかってるよやらないやらない。……どうせやるなら一週間近く、いやなんでもないよ」
うわぁ……。やっぱり悪趣味と言うか性格悪いよこの人。どうやら命令に背けば飢えに追い込まれえそうだ。
「……えぇと、私はこれからどうすればいいですか」
借金はなんとかしてもらえる、命令は聞かざるを得ない、そうなると私の扱いはどうなるのだろう。なんでも言うことを聞くというのは理論上実質奴隷となんら変わらない。自宅に帰る奴隷とかは聞いたことがない。
つまりは、もしかすると「この部屋から出るな」という命令は半永久的に続くのではないか? ということ。
私としては実はそっちの方がありがたいのだけれど。今家に戻ったところでどうしたって金だ、金がない。生活ができないなんてことはないだろうけれど、ぶっちゃけてしまうならなるべく苦労はしたくない。人間誰しもそうでしょう?
「どうするって? まさか家に帰れるとか思ってないよね」
おぉ、やったぜ。
「……私は命令を聞かなくてはなりませんからね」
「そう、だからとりあえず最初の命令だ。今日俺が出かける前に出した命令は基本的に永久的なものとする」
すごい、今度は私がエスパーになった。思った通りじゃないか。
「はい……」
「それに加えてそうだな、先に言っておく。これより君から一切の拒否権は剥奪される」
そんなものすでに形骸化している。あってないようなものだ。
「はい、心得ています」
「本当か? 一切だぞ? 「嫌です」という意思表示の反映を永久に奪われるんだぞ? 手っ取り早く言えば今俺が「服を脱げ」と言ったらどれだけ嫌でも最終的には逆らえないんだぞ?」
犯罪臭がしますね。そしてもしそんな命令が飛んできたら私はここにいる意味を大幅に失うのだけれど、うーん。
「もちろん、正直に言ってしまえばそれはつらいことですが。しかし私にはそうするほかにはなにも……」
「じゃあ脱げ。今すぐ」
「え」
……うそでしょ? 本気?
「え、じゃないよ。今そういう話してたでしょ。ほら早く。それとも無理やりの方がいい?」
「……いえ」
そんな趣味は当然ないし、もしあれば案外身を売られても楽しんでいたかもしれない。それはもしもの話だ。実際は違う。
「……」
「三分だけ待ってやる」
ムスカか。援交行為をさも軽いノリで……。
決心がつくまでどれほどの時間を要したか。目の前のご主人様の言ったことが確かなら少なくとも三分未満だ。意外と強い方じゃないだろうか、私。
服の裾に手をかけ上げようとした瞬間。
「うぉいバカ! なに本気にしてんだアホか!」
即座に手を掴まれた。突然大声を出されてそれなりにひるんでしまう。
「えっ……、え……?」
「お前バカだろ!? 本当に脱ごうとするやつがいるか!?」
いや、そりゃあ、いる。ここにいるし、どこにでもいるだろう。あんなこと言われてそれでも無理やりされる方を望む奴なんてそれこそいるのか?
「え、だって、言いましたよね……?」
「冗談に決まってんだろ。そうでなくても嫌がらせくらいのもんだよ。ムスカみたいなこと言ってた時点でわかるだろ」
……いやぁ、いやいやいやいや、いやっはっはーやだなぁ……。わかるわけねぇだろそんなもん! 無茶苦茶言うな! ふざけんな! こちとらそれなりに思いつめて覚悟決めたんじゃボケがぁ! 死ね! ふざっけんな死ね! 本当にもう地獄に落ちろ! 生前も若くしてはげろ!
「ちょ、えぇ……? 勘弁してくださいよ……。すみません、本気にしました」
「もうこっちがびっくりするわ。そういう公序良俗に反する命令は絶対に死んでも出さないから安心して。わかった?」
「はい」
死んでも出さないのか。それはありがたい。でも欲を言えば死に値するくらいの不幸に見舞われろ。
「はぁ……。だいたいさ、jkだなんだって言っても要はたかだかガキでしょ? ガキの裸見てなにが楽しいんだよ」
セクハラだね今の。ついでに侮辱もだよね。確かに命令でもなんでもないけれども、公序良俗とはほど遠くないですか?
「考えてみればそうですね。すみませんそこまで頭が回りませんでした」
「いや普通に自分にそれなりの価値があると思ってたでしょ? その価値は、それは否定しないよ? しないけど、あくまで俺は興味がないってことね」
なんだろうか、さすがというべきか。エスパー能力と、人の神経を逆なでする天才。この人これ素なのかな? それともわざと?
「憶えておきます」
「うん。じゃあまぁ拒否権の話も終わったし次ね。土姫ちゃん、君には一つ仕事を任せる。これは命令だから強制だし仕事と言っても給料は出ない。ボランティアだ」
「はぁ」
仕事? なに、社会勉強とかさせてくれるの? 違うんだろうなぁ。
「俺のこの性格、どう思う?」
「は?」
「は? じゃないよ。この抜群の性格の悪さ、どうよ」
……いや、どうよと言われましてもですね。言ってしまえば苦手だし大嫌いですけれど。そんなこと言えるわけないじゃん? そういうこと訊いてくるのがまた性格悪いよね。
「どうと言われましても……。そもそも、性格が悪いと言いましたけれど、そうなのですか? 私は特にそういった印象は」
「……土姫ちゃん」
明らかに普通に話すよりも低い声だった。思わず身を強張らせる。
「は、はい」
「なにも俺も鬼ではないし、君が一回言われただけで理解できるとも思っていないし、仏の顔も三度までとも言うしね。だからまぁ三回目くらいまでは許すけどさ、つまらない嘘を吐くのはやめようって言ったよね?」
相当自覚していたのか自分の性格を。そしてそれがどう思われているかも、もっと言えば私がどう思っていたかも知っていると。……やだなぁ、こういう人。
「……すみません。でも、失礼なことを言いますが」
「なに?」
「つまらない嘘では、なかったと思います」
吐かざるを得ない嘘だった。そう言い切れる。
「そうだね。土姫ちゃんにとってはね」
「……すみませんでした」
私にとっては、か。本当に全てお見通しだというのなら、さぞ私の嘘は滑稽なものに見えただろう。そうだけれど、そうだとしても、じゃあどうしろと?
「まぁ今回はいいよ。許す回数も厳密に三回と決めるわけじゃないし、気楽にね」
気楽に。拒否権がない気楽さなんてあるのだろうか。私はないに一票入れる。
「ありがとうございます」
「そんな卑屈な礼はいらないよ。普通嘘を吐くことにも自由はあるんだから。あぁそれで仕事の件だけど、土姫ちゃんは俺のことが嫌いって認識でいいんだよね?」
えぇ、そういう質問をしてくるところとか特に。さっきの話でそれはもう結論が出たでしょうに。わざわざ再確認だなんて。
「…………申し訳ありません」
「いいんだよ。わかりきってたことだからね。それでだ、そんな俺のことを嫌う土姫ちゃんにしかできない仕事がある」
「は、はぁ」
なんだその条件。この人を嫌っていると職を任せられるのか。謎だ。
「ズバリ、永久にこの俺とおしゃべりをする仕事だ」
「……仕事、ですか?」
それは私とあなたの関係上必然そうなるのでは? 話さないわけにはいかないだろう。それが仕事というのはどういうことなのだろう。
「そうだよ立派な仕事。このクソみたいな性格したやつと話し続けるとか仕事でなければある種の拷問じゃない?」
私の記憶には、この人が自虐好きだという情報はない。
「え、いや、さすがにそれはないと思いますよ」
「本当に?」
「これは神に誓えます。拷問は言いすぎです」
仮にあの「服を脱げ」という命令が本気だったならそれは拷問だったと思いますけどね。その心配はなかったからね。
「そうか、それはまぁいいことだな。で、この仕事ちゃんとできるよね?」
できるよね? って、できなければ生きていけないと思う。できるかできないかじゃないやるのだ。それで仮に難なくこなせるようになったとしてもその仕事だけはどうにも好きにはなれなさそうだけれど。
「はい。それくらいなら」
「いやーよかったよかった、使用人たちじゃ土姫ちゃんみたいな反応はしてくれないからね。みんな自分の仕事だと割り切っちゃってて」
「私の反応?」
そんな露骨に嫌いだと伝えた覚えはないぞ。表情も読まれやすい方ではないというのは自他共に認める事実だし。
「なんかね、わかるんだよねなんとなく。なにが違うのかと訊かれたら答えられないんだけど、なんか土姫ちゃんからは俺を嫌ってるオーラが出てるんだよ。なんで私がこんな目に合わなきゃならないんだ、みたいなオーラが」
いやいやいやいや、そんなのでわかっちゃったら本当にあなたエスパーですよ!? 嘘でしょう!? 私、オーラでそんな仕事に抜染されたの!?
「よくわかりませんが、とにかく私は馬場さんの話を聞けばよいということですか?」
「うん。それでそれなりの相槌を打ってくれればいいよ」
まぁそれなら、なんとかなると思う。というかなんとかする。
「承知しました」
「よーし! じゃあ俺からの契約の話はこれでおわり! いやーやっぱり純粋に会話してくれる相手がほしいもんだよね」
「……はい。これからよろしくお願いいたします」
これから、そうこれからね。だいぶ長い期間をよろしくおねがいすることになるんだろうね。うーん、気が滅入るとまでは言わないけど、うん。
ただ、純粋に話すなんて仕事じゃないはずだ。適当な相槌を打てばいいと、そういう話だ。それともそこはオーラとやらで解決するのだろうか?
「まぁあれだね、土姫ちゃんはお人形さんだね」
「はぁ」
どういうことだろうか。そういえばこの人は私の容姿を中の上と言ったが、中の上は「お人形さんみたい」というフレーズにふさわしいものなのだろうか? 違うと思う。
「ひたすら俺の思い通りに動かされて、それでいて返事とか反応してくれるんだから人形としてはすごいよね。時代の一歩先をいってる」
「ありがとう、ございます?」
人形として次世代に踏み出していても全く嬉しくない。せめてまず人間でいたい。
「人形として褒められてお礼言ってどうするの。それじゃ今日はもう遅いし寝ようか」
誰かさんが帰ってくるの遅かったからね、夜遅くもなるよね。
「はい」
「ついてきて」
またそう言って人形の持ち主は歩き出した。寝室と言う名の例によって例の如くアホみたいにでかい部屋があるのかな。
やっぱりでかい。わかってはいたけれどもでかい。なにこのベッド、これ一人で使うの? もしくは一人が使っていたものなの? 無駄遣いってこういうこと言うんじゃない?
「これ、ここで寝ていいんですか?」
「だめって言われたらどうするつもりなのよ」
床で寝るくらい造作もないです。
「えぇと、いいんですよね?」
「どうぞどうぞ」
不思議だ、立場的にはそれこそお人形さんとか奴隷とかそこらへんなのに扱われ方がお客さんだ。良いことだけどさ。
「じゃあ、ありがとうございます。えぇと、おやすみなさい?」
「うん、おやすみ」
挨拶を返しつつすごく自然な流れで私の隣に寝そべってきた。
「!? えぅ!? え!? え、え!?」
「え、なに?」
なにじゃない。なにを夫婦がするようにナチュラルに隣り合って寝ようとしているんだ。公序良俗はどこへ行った。
「え、だって、ほら、公序良俗!」
「いやさっきもいったけどガキに興味ないしなんもしないよ。じゃあおやすみ」
「な、な、なんで。どうせこれ以外にもベッドの一つや二つ」
「「どうせ」の使い方おかしいでしょ。そしてこれ以外にはないよ」
ないだと。これだけなんでもありそうなオーラを出しておいて? いけない、私までオーラとか言いだしてしまった。
「なんでないんですか!」
「なんでって、他のは住み込みの人たちが使ってるから。風呂が男女別れてるのも使用人が使うからだし、わかんない?」
「いや、……いや、わかりますけど……。わかり、ます、ね。はい」
ないっていうのは「今使えるものが」っていうことね。そうですよねー物自体がないなんてことないですよねーさっすがー。
……いやいやいやいやいや。
「じゃあおやすみ」
「お、おぉうおマジか、マジですか、お、おやすみなさい!」
寝ろ。早く寝ろ私。寝ればなにもかも気にならなくなる。頼むから早く寝てくれ。頼むから……。
翌朝。
「どうしたの」
「すみません……、眠れなくて……」
「なんで」
「……隣に異性が寝ていて眠れる年頃の女がいますか!?」
「アホか。じゃあもう今からでも寝とけ」
「わかりましたありがとうございますぅ……。でもアホって……、アホなんて言わなくてもいいじゃないですかぁ……」
「寝不足でキャラがブレてきてるぞ気をつけろー」