「明日加!起きて!早く!」
ソファで気持ちよく寝ていたキリハは、自分が呼ばれたわけではないが突然の大声に驚き危うく落ちそうになった。
「どうしたんですか?」
キリハは寝室へ向かいドアを開けた。そこには勿論キリトとアスカ、そして、二人の真ん中で目を開けている少女。
「自分がどうなったか、分かる?」
少女の体をゆっくりと起こしたキリトは優しく声をかける。その問いに少女はぎこちなく首を横に振った。
「そっか…。じゃあ、自分の名前は分かる?」
「な…まえ…わたしの…なまえ…」
少女は思い出すように目を伏せてそう呟いた。
「ゆ…い…。ユイ…それが…なまえ…」
「ユイちゃんだね。俺はキリト、こっちの男の人がアスカ、こっちの女の人がキリハ」
まずキリトが自分の名前を教え、次にいつの間にか自分の隣にいたアスカを、最後に自分達の後ろにいるキリハを紹介した。
「き…と……あ…うか……きいは…」
見た感じ少女の外見は八歳前後、そう考えると今は十歳前後となる。だが、たどたどしく言葉を発する姿は、まるで物心ついたばかりの幼児のようだ。
「ユイちゃん。君はどうして二十二層にいたの?どこかに、お母さんかお父さんはいないかな?」
キリトの言葉に少女は少し目を伏せ、首を横に振った。
「わか…んない……なんにも…わかんない…」
ユイ、と名乗った少女にホットミルクをすすめると、カップを両手で持ちゆっくりと飲み始めた。それを横目で確認して、少女から離れた位置で三人は会議を始める。
「どう思います?」
「…記憶を失ってる様子だし…。もしかしたら、精神にダメージを負っているかもしれない…」
「クソッ…」
キリトの顔が泣きそうな程に歪み、拳を震わせた。
「今までだって…酷い現状は見てきたけど……こんなの…あんまりだろ…」
「佳奈…」
アスカはキリトを両手で包み込み、落ち着かせるように背中を撫でながら言葉をかける。
「大丈夫…。必ず何か、俺達に出来ることがあるさ」
「明日加の言うとおりですよ。小さなことでも、僕達が彼女に出来ることを見つけましょう」
「…そうだな」
キリトが落ち着いたことを確認し、アスカは少女の隣の椅子に座って話しかけた。
「やぁユイちゃん。俺はアスカって言うんだ」
ユイはカップから顔を口を離し、アスカを見上げた。そして舌足らずに口を開く。
「……あ…うか…」
「アスカだよ、あ、す、か」
難しそうな顔をして、黙り込んでしまった。アスカは笑みを浮かべながらユイの頭を撫でる。
「ちょっと難しかったかな。じゃあユイちゃんの好きなように呼んで良いよ」
ユイは下を向いて考え込む。数分してアスカを見上げ口を開いた。
「パパ…」
「えっ?」
ついで、キリトに顔を向けた。
「きいとは、ママ…」
瞬間、キリトの中に言いようのない気持ちが芽生えた。本当の親と勘違いしているのか、それとも─この世界にいない親を求めているのかは分からないが、キリトは笑みを浮かべ両手を広げた。
「あぁ…そうだよ。ママだよ」
初めてユイの表情に笑顔が浮かび、ユイもまた、両手を広げキリトに飛び込んだ。
「ママ!」
キリトは飛び込んで来たユイを抱きかかえ、涙を見せないようにニッと笑う。
「さて、ご飯にしよっか!パパが美味しいものを作ってくれるぞ!」
「ごはん!」
「ははは、分かった。すぐ作るよ」
キリトの言葉にユイは、今度は目を輝かせてアスカの方を向いた。アスカもまた、笑みを浮かべ了承する。
アスカが激辛サンドウィッチと、フルーツを挟んだものをそれぞれ二つ出した。激辛がキリトとアスカ、フルーツ入りがキリハとユイなのだが、二人が激辛を美味しそうに食べてるのを見て、ユイも激辛ソース入りを食べてみたいと言い出して二人を慌てさせ、キリハはサンドウィッチを食べながら笑った。
「二人が親となると、僕はその子の伯母さんになってしまいますね」
そういえばと、キリハはふとそんなことを言った。流石にこの歳で伯母さん呼ばわりされるのは抵抗があるようだ。それに二人は苦笑した。
「きいはは、ねぇね」
口元にソースをつけながら、ユイはそう言う。キリハは軽く目を見開いたが、すぐに笑みを浮かべユイの頭を撫でた。姉と呼ばれるのは構わないが、そうすると別の問題が発生する。
「姉さんがユイの姉となると、俺らの娘になっちまうな」
「こんなに大きい子供はまだいらないぞ」
「だよな「あははは!」」
「ほう?二人とも、一回逝っときます?」
「「ごめんなさい!」」
茶番をしている中、ユイだけは黙々とサンドウィッチ(激辛)を食べていた。
朝食を食べ終わり、これからどうするかを話し合った結果、取りあえず『始まりの街』 に行くことにした。そのためにユイを着替えさせようとしたのだが、問題、というか、本来ならGMを呼ぶべき案件が二つ発生した。
「どうなってんだこれ?」
「ん~。ウィンドウが左手で開くなんて聞いたことも無いし、ウィンドウの配置もおかしいし…。GMがいないのがここで響くとはなぁ…」
「…」
一つ、ユイがウィンドウを開くときに使ったのは左手であり、右手では開けなかったこと。二つ、ウィンドウの配置が普通のプレーヤーと明らかに違っていること。
ウィンドウは三つのエリアに分かれている。最上部に英語表記の名前、HPバー、EXPバーが、その下の右半分に装備フィギュア、左半分にコマンド一覧という配置だ。それに対しユイのものは、最上部にあるのは《Yui-MHCP001》という奇怪な名前のみがあり、装備フィギュアはあるもののコマンドは《アイテム》と《オプション》のそれがあるのみ。
元々はキリトがユイのウィンドウをいじっていたのだが、この奇妙な配置を見て驚愕の声と共に手が止まった。それを不思議に思ったアスカとキリハもユイのものを見た、という経緯だ。
二人がこの現象について話し合っている中、キリハだけは何かを考えている。
(MHCP…?確か昌彦がそんなことを言っていたような…。昌彦の関係者だとするなら、この子は何者ですか…?演技をしているようには見えませんし…)
そこまで考えたキリハは頭を振って思考を放棄した。怪しい事があると疑ってしまうのは自分の悪い癖だ。それにこんな子供を疑うとは何をしているのだろうか。
ユイの方を向くと白いワンピースから一転、淡いピンク色のセーターとスカートに黒いタイツと、すっかり装いを改めていた。キリハが思考している間に準備が完了していたようだ。
「よし、じゃあ出かけようか」
「うん。パパだっこ!」
手を広げ満面の笑みのユイがアスカにそう言う。アスカは苦笑するが、ユイを抱き抱えた。そしてキリトとキリハに言う。
「一応、武装の準備はしていこう。最近《軍》の過激派の行動が目立ってきてるらしいから」
二人は頷き、アイテムを確認する。
(そういえば、最近シンカーから連絡がありませんねぇ…。何かあったのでしょうか…)
第一層の治安維持の為に攻略組を抜けたシンカーを案ずるキリハ。何もなければ良いのだが。
第一層『始まりの街』、そこを三人(ユイはアスカに肩車)は歩いている、のだが。
「…人、いなくね?」
「あれ?ここには何人くらいいるんだったっけ?」
「生存者が約七千人、《軍》を含めたおよそ三割、二千人くらいのはずですよ」
その割には人がいなさすぎる。『始まりの街』に来てから一時間は経っているが、一人にも会わないとはどういうことなのだろう。
ほんの数人のプレーヤーと会うことが出来ると、とある情報が手に入った。教会で子供を保護しているプレーヤーがいるらしい。
ということで、教会に到着した四人は声をかけてから扉を開けた。返事は返ってこず、明かりもついていない。
「留守か?」
「いや、いくつか反応があるな」
「二階にも何人かいますね」
「…索敵スキルって便利だな」
俺も上げようかなぁ、などと言っているアスカを無視してキリトは中に再度声をかけた。
「すいません!人を探してるんですが!」
返事は返ってこなかったが、部屋から黒縁眼鏡をかけた女性が出てきた。女性は体を半分ドアに隠しながら問いかけてくる。
「…軍の方ではないんですか?」
「違いますよ。人を探すために、今日上の層から降りてきたばかりなんです」
アスカがそう言った途端─
「上!?って事は本物の剣士かよ!?」
─何人もの子供がドアを開けて飛び出してきた。三人が呆気にとられている間に子供達に囲まれてしまい、みな興味津々という体でこちらを眺め回している。
「部屋に隠れてなさいって言ったでしょ!」と言って女性が子供達を部屋に押し戻そうとしていたが、誰一人として聞いていない。
「なんだよ。剣の一本も持ってないじゃん。上から来たんだろ?武器持ってないのかよ」
最初に飛び出してきた少年が失望したようにそう言った。一足早く復活したキリハが笑みを浮かべながら「持っていますよ」と言い、ストレージから使っていない武器を複数取り出した。取り出したそれらを床に置くと子供達は群がり、手に持っては「重~い」やら「かっこいい~」などと言っている。
「なんかすいません…」
「いえ。使っていない武器なので問題ないですよ」
互いに自己紹介を終え、こちらの目的を伝える。が
「…その子は見たことがないので、ここにいた子ではないと思います」
女性─サーシャ─からは有力な情報を得ることは出来なかった。
それからは身の上話になった。サーシャが何故、子供プレーヤーを保護しているのか。ここの資金はどうしているのか、など。
「私も最初はゲームクリアを目指してレベル上げをしていました。でも、路地裏で子供が泣いているのを見たら放っておけなくなって…。それからは子供を見かけたらここで保護しているんです。私はここを離れられませんので、お金はシンカーさんを初めとした軍の人達や冒険者の人達頼みになってしまってるんですが…。ですから上の層で頑張ってる方達に申し訳なくて…」
「そんなことはありませんよ、サーシャさん。貴方は立派に戦っています」
そう言ったキリハに、サーシャは「ありがとうございます」と返した。
「でも義務感があってやってるわけじゃないんです。子供達と暮らすのはとても楽しいんですよ。ただ…最近目を付けられちゃって…」
「目を付けられた?誰に?」
サーシャの穏やか顔が一瞬厳しくなり、キリトの疑問に答えようと口を開いた、瞬間、ドアがバン!と音を立てて開き数人の子供達が雪崩れ込んできた。
「サーシャ先生!大変だ!ギン兄ぃ達が軍の奴らに捕まったよ!!」
「っ!場所は!?」
注意をしようとしたサーシャは、少年の言葉に雰囲気を変えて立ち上がった。少年から場所を聞き出したサーシャはキリハ達に頭を下げる。
「すいません。私は子供達を助けに行きますので、お話はまた後ほど…」
「いえ、僕達も手伝いましょう」
サーシャの言葉を遮って立ち上がったキリハは、キリトとアスカに目線を送った。それに頷き立ち上がる。
「人数は多いに越したことはないしな。大丈夫、こう見えても俺達は結構強いんだぜ?」
前半はサーシャに、後半は心配そうにこちらを見ている子供達にキリトはそう言った。
サーシャは礼を言って走りだした。それをキリハ達も追う。アスカが後ろをチラッと見ると子供達も追ってきていたが、サーシャは追い返す気は無いようだった。
しばらく走ると、狭い通路を塞いでいる一団を見つけた。灰緑と黒鉄色の装備は間違いなく軍のもので、最低でも十人はいる。どうやら《ボックス》で子供達を囲んでいるようだ。
足音に気づいた一人がこちらを向き、サーシャを見た瞬間ニヤニヤと笑い出した。
「子供達を返してください」
硬い声でサーシャは言った。それに対して軍は「社会常識を教えてるだけ」「市民には納税の義務がある」と笑い声を上げる。サーシャは拳を震わせ、囲まれている子供達に叫んだ。
「ギン!ケイン!ミナ!そこにいるの!?」
「せ、先生…助けて…」
男達の向こうから返ってきた声は恐怖で震えていた。「お金はいいから渡してしまいなさい!」とサーシャが言ったが、それだけでは駄目だと男達は言う。
「あんたらずいぶん税金を滞納してるからなぁ。だから金だけじゃあなく、装備も含めて全部置いてって貰わないとなぁ」
その言葉を聞いた瞬間、殺気が膨れ上がった。しかしそれは一瞬のことで、感じ取れた者は何人いたか。
「納税の義務は、まぁギリギリ納得出来るが、身ぐるみ全部置いてけは納得出来ないな」
((あっ、キレてるなこれ))
そう言いながらキリハは男達の前まで歩いて行った。キリトとアスカはサーシャと子供達に下がるように言う。
「なんだお前!?軍の任務を妨害すんのか!!」
「まぁ待て。あんたら見ない顔だが、軍に楯突く意味わかってんだろうなぁ?なんなら本部でじっくり話を聞いても良いんだぜ」
他の男達よりひときわ重武装の男が大ぶりのブロードソードを抜きながら歩み寄ってきた。キリハの前まで来ると見下しながら、言ってはいけないことを言ってしまう。
「それとも《圏外》行くか?おぉ!?」
─パキン─
その言葉の後に響いたその音が何の音か、誰も分からなかった。しかし男が手元を見ると、剣の半分から先がなくなっていた。
「えっと、なんだったか。圏外、だっけ?もう一度言ってくれるか?」
男が視線を戻すと、キリハが折れた剣先を手に持っていた。
「あぁでも、わざわざ圏外に行く必要ないよな」
「え、なん─」
─瞬間、男の視界が黒く染まった。続いて、顔に走る衝撃、浮遊感、今度は背中に走る衝撃。キリハが全力で回し蹴りを叩き込み壁まで吹き飛ばしたのだ。キリトとアスカがため息をつき、他全員が唖然としている。
「そんなに戦いたいんだったら《圏内戦闘》ってものがあるぞ?」
「い、行けぇぇぇぇぇ!!」
その一声で、周りの男達も武器を構えた。キリハはキリトとアスカに子供達を救出するよう指示を出す。
「テメェらに一つ教えてやろうか。武器を構えたら、覚悟を決めとけ?」
そこからは一方的だった。キリハは武器を出さずに拳と蹴りのみで男達を蹴散らす。キリハが消えたと思ったときには、剣が折られ吹き飛ばされた。
ただ組織の名前を借りただけのプレーヤーと、最前線で文字通り命懸けの戦いをしてきたプレーヤー、どちらに軍配が上がるか、考えるまでもない。
二分後、路地裏には剣を折られ地に伏した男達が広がっていた。キリハが振り返ると、サーシャと子供達が絶句して見ていた。
(あ~…ちょっとマズかったでしょうか…)
先程のキリハの姿は、子供達にとって恐怖に映ったかもしれない。しかし、それはいらぬ心配だった。
「す、すげぇよお姉ちゃん達!あんなの初めて見たよ!」
「達?」
「な?強いって言ったろ?」
キリトを見ると剣を肩に担いでおり、アスカも両手にそれぞれユイとレイピアを持っている。良く見れば二人の足下にも何人か転がっていた。どうやらキリトとアスカも何人か相手したらしい。
子供達がキリハ達に群がり、サーシャも泣き笑いのような表情をした。その時だ。
「みんなの…こころが…」
「ユイちゃん?」
ユイが手を虚空に伸ばした。慌ててキリトが近づく。
「ユイ、どうしたんだ?何か、思い出したのか?」
「あたし…あたし…」
ユイの目は震えていた。何かを思い出すかのように頭を抱える。
「あたし…ここには…いなかった…ずっとひとりで…くらいとこに…あ、ああ…あぁぁぁあ!!」
突然、ユイの口から悲鳴が迸った。そして─
「「「「「「「「!?」」」」」」」」
─ザザっとノイズのような音が響くのを全員が感じた。直後、ユイの体が振動する。
「「(ユイ/ユイちゃん)!!」」
「こわいよ…パパ…ママ…こわい…ひとりは…やだよ…!」
キリトとアスカがユイを抱き込み、ユイもまた何かを恐れるように抱き付く。数秒後、怪奇現象が収まると同時にユイの体から力が抜けた。
残ったのは呆然と立ち尽くすサーシャと子供達、ユイを抱き込むキリトとアスカ、そしてやはりと言うべきか、考え込んでいるキリハだった。
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