星の在り処   作:KEBIN

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学園祭のマドモアゼル(Ⅶ)

「ふああああー、眠いなあ」

「シャンとしなさい、ハンス。と言いたい所だけど、私も限界ね」

 かつての遊撃士兄妹と似たようで微妙に食い違う会話を交わしながら、大きな欠伸を噛み殺した生徒会幹部ペアはクラブハウスへと足を運ぶ。

 ヨシュアの様々な企画を強引に押し込んだ結果、方々のプログラムで歪みが発生し、その修復に追われて予想通り会議は午前様になってしまう。

 それでも三時間程前にバランス調整に一定の目処がついたので、残りを単純な事務処理まで追い込めたら、他の役員は全員学生寮に帰宅させ二人だけで残業する。強権を盾に雑務を下々に押し付けたりせず、自ら貧乏籤を引き受ける姿は上位者の規範であり、色々と困った性癖の持ち主だがやはりジルは立派な生徒会長だ。

「とはいえ学園祭はこれからが本番だし、少しは仮眠を取らないと身体が持たないわよね。その前に少し腹ごしらえを……って、そういえば」

 「しまった」という顔つきで、ジルは軽く自らの頭を小突く。

 少しでも模擬店の売り上げを伸ばす為、学祭当日は食堂は全面休業するのを迂闊にも失念していた。それでも空腹を抱えたまま寮に戻るのも惨めなので、未練がましくクラブハウス近づくと窓から明りが漏れている。正面のドアも鍵が掛かっておらず、不審に思った二人が扉を開いてみると。

「わおー、天国だ」

「ヨシュア。あんた達、こんな所で何をやっているのよ?」

 ハンスが眠気を一気に吹き飛ばし覚醒したのも必然。クラブハウス一階の食堂では、ヨシュアとお芝居に参加するほとんどの女生徒が、ブルマの上に直にエプロンをつけるというマニアックな恰好で料理の下ごしらえを行っている。

「あら、ジルにハンス君。こんな朝っぱらまでお仕事お疲れさま」

 会長様直々の挑戦を受けた顛末ではあるが、生徒会を徹夜に追いやった自覚があったので一時手を休めて労いの言葉をかけ、三者はテーブルの一つを囲んだ。

 ヨシュアが説明する所、クラブハウスの営業停止に目をつけ、当日、食堂と厨房の一階部分を借り受けた。食堂係のデボラおばちゃんには話をつけているし、生徒会にも申請してきちんと許可を受けたが、雑務に忙殺された二人は提出書類を見落としていた。

「相変わらず抜け目ないわね。まさかクラブハウス一階を丸々乗っ取っちゃうとはね」

「それより、何か食べさてくれよ。俺たちお腹ぺこぺこでさ。って、御飯があるじゃん」

「あっ、それは……」

 女子の制止を訊かずに、ハンスは樽の中に飯を素手で掬って口元に運んだが、途端に唇を十文字に変化させる。決して不味くはないが、口一杯に奇妙な甘酸っぱさが広がっていく。

「す、すっぺえー。何だ、これは?」

酢飯(シャリ)よ。主に酢と糖分で調味して炊きあげたご飯のこと。リベールでは馴染みが薄いと思うけど」

 衛生上の問題で、ハンスが手をつけた部分の酢飯をしゃもじで隔離しながら補説する。良く見ると全ての食卓の上には、酢飯の入った樽が置かれており、女子たちが「あわせ酢」を混ぜ込んだり、団扇で扇いであら熱を取る作業などをテキパキと行っており、ジルの頭にピカリと豆電球が灯る。

「なるほど、ヨシュアが何の模擬店をするつもりか判ったわ。ずばり、お寿司でしょう?」

「ピンポーン、ピンポーン。まあ、正解しても何も出ないけどね」

 そう冷たく嘯きながらも、長方形のフライパンに焼き上がった玉子を細かく切り分け、二人の空腹児童に早速寿司を握る。二人が腰掛けた丸テーブルは瞬く間に黄色い玉子焼きの大群に埋めつくされる。

「なあ、ジル。寿司って、一体なんだ?」

 ウエハースのように縦に組み合わされた玉子焼きと酢飯の奇妙な複合物と睨めっこしながらハンスが小首を傾げるが、それも宜なるかな。

 実は手伝いをしている少女らも、ヨシュアの指示に従っているだけで、自分たちの作ろうとしている食物の正体を知らないので、博識のジルが解説魔を差し置いて講釈を垂れる。

 寿司とは東方にあるジパングと呼ばれる島国に伝わる伝統料理。

 酢飯の上に生魚を乗せただけのシンプル構造で、一見、誰にも握れそうに見縊られ易いが、その実、一人前の寿司職人になるには十年単位の長い修行期間を必要とする。

 ジルにしても単に知識だけで、実物を食した経験はないが、帝国の上流階層では寿司が密かなブームになっていると聞き及んでいたので、ヨシュアが掲げる外国人専門屋台のお題目としてはうってつけ。

(それにしても、まさかヨシュアがこれだけの女子を招集するとはね)

 二桁を数えるお手伝いの多さは、正直、想定外。殿方の応援ならいくらでも搔き集められただろうが、「男子厨房に入らず」の諺通りに一部の料理経験者以外は調理場では役立たずなので、即戦力の女学生を必要とした。

 ここにいる女子が騎馬戦赤組のヨシュアの手駒と見做してよさそうだが、どんな手腕であれだけ反目していた彼女らを手懐けたのか? この場に糾合されたのはクローゼの熱狂的なファン層がほとんどなので、そのあたりに謎解き攻略のヒントがあるような気がする。

「うめえー、これが寿司かよ」

 学生ホームズが灰色の脳細胞をフル活動させて、さらなるミステリーに挑もうとしていた矢先、ワトソン役のブルマニストが馳走になった寿司に瞳を輝かせる。

 といっても、ネタは全て玉子焼きだけだが、空腹のハンスは飽きることなく海苔でシャリに結わかれた出汁巻き玉子を胃の中に放り込む。ジルも苦笑いしながら、お上品に鮨を味わってみる。

「美味しい……」

 玉子焼きは、料理の基本。この品目一つで調理人の大凡の力量が図れるというが、これは絶品というしかない。

 ほっぺが蕩けるように甘く、マシュマロのようにふわふわして、酢飯との一体感が玉子の本来の旨味を格段に引き出している。ジルも淑女の体裁を溝に放り捨て、複数を纏めて頬張った。

「お誉め預かり恐縮だけど、今食べさせられるのは、(ぎょく)だけよ。これ以外のネタはまだ届いて……って、ちょっと?」

「何これ、ホントにオイシイ!」

「ちょっと、ちょっと、私にも食べさせて」

「ずるーい、私にも」

 二人があまり大袈裟に絶賛するもので、好奇心を刺激された女生徒が次々とつまみ食いに手を伸ばす。高速作業で三十個は握った玉子焼きが瞬く間に消えてしまう。

 我に返った女子は恐縮して縮こまったが、手伝ってもらっている手前、ヨシュアも強くは怒れずに、苦笑だけで済ませる。再度、厨房に足を運ぶと玉造りに取りかかる。

「あー、満腹、満腹ー。おかげで二人の外泊の用事の見当がついたわ。築地あたりで、鮨用のお魚を仕入れに行ったのでしょう?」

「まあね、けど、正確には旬の鮪を手に入れる為に海釣りに出掛けたのよ」

 大型のボウルに生卵を十個ほど纏め入れて菜箸でかき混ぜながら、ヨシュアはジルの推理に少し修正を加える。

 ジルの与太話の相方を務めながらも、オーブメントも裸足で逃げ出すレベルの精密調理で焦げ目一つなくフライパンに玉子を焼き上げる。先と寸分変わらぬ味付けを忠実に再現して思わず笑みを零す。

 本来、締めの口直しに用いられる薄味の卵焼きでこれだけ好評なら、トロリと脂がのった大トロと酢飯の組み合わせなら、どれほどの騒ぎになるのやら。

 ヨシュアはこの地点で模擬店の成功を確信したが、逆にジルから疑問を提出される。

「それで、肝心の生鮮魚介類は何時届くの?」

 そもそも目当てとされる黒鮪は黒いダイヤと称され、一匹釣れれば半年を遊んで暮らせるという稀少魚。一日仕事でそんな大物を狙って釣り上げられる腕前があるなら、生涯ミラに困ることはない。

 開門は八時と定められているので、学園祭の開催までもう数時間も残されてない。釣りに失敗しただけならまだ良いが、海上で嵐に遭遇するなどの深刻なトラブルに見舞われたのではとジルは危惧するが、ヨシュアの表情に焦りは伺えない。

「平気よ。土壇場の瀬戸際で期待以上の何かをやってのけるのが、エステルという男の子だから。船上で何か問題が発生したとしても自力で解決して戻ってくるわよ。小さい頃から何時だってそうだったし、多分これからもきっと……」

 遠い目をしながら成功を微塵も疑わないヨシュアの姿を目の当たりにし、普段の突慳貪とした態度と裏腹にいかに義兄を高く評価しているのか再確認する。

「ほら、来たわよ」

 そんなヨシュアの揺るぎない自信が具現化したように、外からトラックの排気音が聞こえてきた。本日、業者の搬入予定はないので、確かにエステル達しか考えられない。「そうそう、クローゼの苦労も、忘れず労ってあげないとね」と気配りの達人は呟くと二人を出迎えに行く。

「クローゼ君、君が最近ヨシュアと仲良しになれたのは知っているけど、あの娘にとってお馬鹿なお義兄ちゃんはちょっとばかし特別みたいよ」

 どうやって、あの腹黒娘の全幅の信頼を勝ち得たのやら。やはり五年という歳月の持つ重みは大きいようで飛び入り参加のクローゼには些か分が悪いみたいだが、この学園祭のお芝居を経て、揺れ続けるヨシュアという名の振り子はどちらの側で静止するのだろうか?

 

 学内に乗り入れてきたのは、築地漁業組合の大型トラック。予測通り助手席には日焼けしたエステルが乗っていて、義兄妹は一日ぶりの再会を果す。

「お疲れさま、エステル。その顔つきだと首尾は上々みたいね」

「おうよ。話したい冒険譚があるけど、何はともあれ、まずは釣果の方を確認してくれよ」

 ドヤ顔のエステルはトラックから飛び下りると、荷台の閂を外して観音開きのドアを開く。固唾を飲んで見守る女生徒たちの視界に飛び込んできた、その光景は。

 

        ◇        

 

「それ、また来たぞ、クローゼ。準備しておけよ」

「判りました」

 剛竿トライデントが再び獲物を引き当て、海上を釣糸が凄い勢いで縦横無人に動き回る。

「「「「オーエス! オーエス!」」」」

 小型漁船に乗り込んだ十人の屈強な船乗りは、エステルの腰に尺取り虫のように連なって、黒鮪との引っ張りっこを演じる。

 エステルのポリシーに照らし合わせれば釣りとは人と魚との知恵比べであり、戦闘スタイル同様にタイマンを基本とするが、重量400kgオーバーの黒いダイヤが相手では節を曲げざるを得ない。

 黒鮪は約90km(50ノット)という信じられない速度で海中を泳ぎ捲くる。この場合、竿に懸かる負荷はゆうに一トンを超越するので怪力のエステルでも一人で持ち堪えるのは無理がある。

 延縄や巻き網などの乱獲漁法が主流となった、昨今、伝統の一本釣りを人の身で可能とするのがこのアーティファクトの剛竿。エステルは歯を食いしばりながら少しずつリールを巻き続けて、黒鮪と漁船との距離を狭めていく。

 船乗りが総出で黒鮪と格闘している最中、クローゼは一人ポツンと離れた位置をキープしている。

 非力故に戦力外とされた訳ではない。彼には別の重要な仕事が割り振られており、印を組んでアーツの詠唱態勢に入る。

 首元にぶら下げられたクリムゾンアイの鎮静効果で、あれほど苦しめられた船酔いの症状も、今だけは消し飛んで、頭の中がスッキリする。

(あのクリムゾンアイはヨシュアの………………って、止め止め、考えないって誓っただろ? 今は目の前の大物を釣り上げることだけに集中しろ、エステル)

 リールはほぼ限界まで巻き上げたが、眠ることなく永泳する鮪は無尽蔵のスタミナを誇り、竿に懸かる力は一向に弱まる気配を見せない。

 釣りとは本来、魚の泳ぎ疲れを待つ持久戦だが、長引かせる程にその身にストレスを抱えて品質を劣化させる矛盾を孕む。

 オーブメント万世のご時世に、時代後れで非効率的な一本釣りが未だに持て囃されるのは、魚に与えるストレスを最小限に抑えられる所以。エステルは勝負に出る。

「みんな、このまま一気に釣りあげるぜ!」

「「「「そーれ、オーエス! オーエス!」」」」

 全体STRアップ効果を持つエステルの『掛け声』に、漁師達はやる気を漲らせると、呼吸を一つにして、エステルが綱を引くタイミングに合わせて力を篭める。

(なんか、体育祭の綱引きでもしている気分だな)

 釣りは一人でする孤独な作業だと思っていたが、こうやって全員で力を合わせて一致団結するのも悪くないとエステルは考えを改め、とうとう力ずくで黒鮪を海中から陸上へと引きずり上げた。

「よし、今だ。クローゼ」

 漁師たちは手慣れた手付きでルアーを口元から回収すると、尾びれを甲板に叩きつけて、ピチピチと暴れる黒鮪から距離を取る。

「やあっ、ダイヤモンドダスト!」

 クリムゾンアイによって増幅された冷気が黒鮪に襲いかかり、一気冷凍されて、瞬く間に氷塊の中に閉じ込められる。

 凍結された鮪は死んでおらず。すなわち鮮度を保っており、ヨシュアの元に送り届けるまで最高品質の生きの良さを保証するのがクローゼに課せられた役割。この「生かさず殺さず」の微妙な温度調整を成し得るのは水属性のスペシャリストの彼を置いて他にはいない。

「よっしゃあ、一丁上がり。これで三匹目だぜ」

 緊張感を解いた瞬間、再び船酔いに襲われフラフラになったクローゼの左腕に自らの右腕を絡めてクローゼを支えながら、エステルは余った左手でピースサインを型作る。

「まさか、ドキュメンタリ番組顔負けのこんな面白い映像が撮れるとはな」

 一連の黒鮪との格闘シーンから漁師達が氷づけの黒鮪を抱えて船底の保管庫に運んでいくショットを収めたナイアルは満足顔で呟く。

 クローゼ以上の船酔いに苛まれていたが、ゴシップネタに賭ける不屈の闘志で病症を強引に捻じ伏せ起き出し、漁師の何人かにインタビューを敢行。

「スゲエな、ブレイサーの坊主。剛竿トライデントの恩恵があるとはいえ、一日に黒鮪三匹は、築地の新記録だぜ」

 予想外の豊漁にホクホク顔の漁師の集団に囲われ、エステルはチヤホヤされる。

 時化の時期は数カ月不漁が続くこともしばしばなのに、大海原のど真ん中に出てから、台風の目に入り込んだかのように天候も回復し、絶好の釣り日和へと変化。少年たちが陽焼けする程の爛々とした太陽すら拝めたので、釣りの神様の加護に溢れているとしか思えない。

「まだ時間はあるし、この調子なら、もう二、三匹釣れるじゃないか?」

「そうだな、個人的に三匹もあれば十分なんだけど…………!」

「どうした坊主? 隣の氷遣いの兄ちゃんなみに顔が真っ青だぞ」

 まるでクローゼの船酔いが伝染したかのように、急にエステルがブルブルと震え始めたので、漁師たちは不審そうな表情を見合わせる。

「すぐに………………せ」

「はい?」

「今直ぐに船を発進させて、この場から離脱しろ! 早くしないと本当に手遅れになるぞ!」

 大声でそう怒鳴り散らす。突然の豹変に気でも触れたのかと正気を疑われたが、エステルは周りの様子に頓着せず、操舵室に乗り込んで船長に直談判する。

「手遅れになるって、一体なにが? 空は雲一つなく晴れ渡っていて、嵐が来るようには思えない」

「んなこと、俺にも判らねえよ! とにかく、このままここにいたら、俺たち全員やべえんだよ!」

 理屈になっていないのは、本人が一番良く理解している。説得を諦めたエステルはやむを得ずに強行手段に訴えて、まん丸い舵輪に手を伸ばす。

「コラコラ。判ったから、素人が操舵ハンドルを弄くるんじゃない。とりあえず、ここから移動させれば良いのだな?」

 仲間は好調の漁の継続に未練を残していたが、肝心のトライデントの所有者が店仕舞い気分のようだし、操舵室で暴れられて計器類を破壊されでもしたら堪らないので、エンジンをかける。舟は弧を描くようにゆっくりとUターンし、ルーアンに進路を定める。

「あーあ、せっかくの大漁日だったのにな」

 今日の異常な釣果ペースは黒鮪の回遊コースにぶち当たったとしか考えられず、そんな幸運は十年に一度あるかどうか。どんどん遠のいていく鮪の草刈り場を断腸の思いで見送るが、突如その海面がせり上がったように映り瞼をゴシゴシする。

「何だ、目の錯覚か? それとも蜃気楼か何か」

「いや、見間違いじゃねえ。ホンマに海面が浮上しているで。もしかして津波か?」

 もし、この現象をエステルが野生本能的な勘で予見したのだとすれば、先の取り乱し振りも納得がいくが、現実には津波や台風などの自然災害よりも遥かに危険度の高いバイオハザードが発生。エステルの英断は誇張でなく、この場にいる全員の生命を救った。

「船長、レーダーに反応が……」

 本来、海中の魚の位置を調べる為の魚群探知機(ソナー)にUMAの存在を確認して、漁師の一人が泡を食う。穴場の海面に向かって、海底深くから何かが凄い勢いで急浮上する。

「何だ、黒鮪か?」

「いや、違う。この大きさは…………ぜ、全長二十アージュ以上!」

「二十アージュ? そんな巨大生物はマッコウ鯨ぐらいだが、この海域にいる筈が……」

 バネルに表示された数値を疑ったが、計器の故障ではないのは、目の前の異様な光景が直ぐさま証明してくれた。

「現れるぞ」

 凪で風が止まり、海面が泡立ちながら、山のような何かが海面に浮かび上がってきた。

「なっ……なっ…………なっ!?」

 漁船に乗り込んだ者は、全員目を疑った。赤い風船のような真丸な頭部に見せ掛けて、実は胴体。吸盤を網の目のように張り巡らせた八本の触足。このフォルムは云う迄もなくオクトパス。

 ただし、そのサイズは小島のように超規格外。先程エステル達が苦戦した黒鮪を触足の彼方此方の吸盤に張り付かせながら軽々と空中に持ち上げて、そのまま触足の付け根の基部に位置する口器に次々と放り込んで踊り食いを堪能する。

 

「海の悪魔、クラーケンだ!」

 様々な海の伝承に登場する伝説の巨大蛸。築地でも代々言い伝えられてきたが、まさか実在しているとは努々思わなかった。

 傲岸不適のエステルですら呆気に取られ、「ひっ、触手!」とクローゼは何か別のトラウマスイッチを発動させ、頭を抱えて体育座りでしゃがみ込んでいたが。

「うっひょうー、今度は海の大怪獣かよ? 英雄小僧と一緒にいると、特種が向こうから歩み寄ってくるぜ!」

 スクープの鬼が船尾にへばり付いて、パシャパシャとシャッターを切り続ける。仮にこの場で生命を落としたとしても、今度は煉獄で七十七の悪魔の取材を始めそうだ。

「全速力で現海域から離脱しろ!」

 危機感の欠落したナイアルを放置し、再びエステルが大声で喚き散らすが、今更煽動されるまでもない。船員は最大船速でエンジンのモーターとスクリューをフル稼働させる。

 あの巨大な触足に全身で絡みつかれたら、小型漁船は海底に引きずり込まれて海の藻屑と化すであろうから皆、必死だ。

 こちらに気づいたクラーケンが、激しい波飛沫を立てて漁船を追走してきた。まるで山脈が移動するかのようなとんでもない迫力で、迫りくる真紅の巨壁に生きた心地がせず、はしゃいでいるのはナイアル一人。

 クラーケンは複数の触足を伸ばしてきたが、紙一重で届かずに何とか安全圏へと離脱する。彼我速度差から追撃が難しいと悟った巨大蛸は、数百万ミラに相当する黒いダイヤの群を胃に押し込んで満足したのか再び海中へと沈んでいった。

「ふうっー、バトルマニアの俺もアレと戦う気にはなれないな」

 海面は何もなかったかのような静寂さを取り戻したが、もう一度戻って漁を再開しようなどと主張する命知らずはおらず。今見た情景は生涯忘れようもない。

 再び海面からクラーケンが出没するという悪夢に駆られた漁師たちはペースを落とさず走り続けるが、その無茶が祟って日没頃にはエンジンがオーバーヒートし船足が止まる。

 専門の技師は乗船しておらず、この場での修理は不可能。仕方なしに原始的な手段で船を動かした。

 視界の利かない漆黒の海でクラーケンの襲撃に怯える尋常でない恐怖と戦いながら、風を受ける為に帆を張りガレー船のように全員半交代でオールを漕いで、一路ルーアン港を目指す。

 魚が水を弾く微かな音にも心臓の鼓動をびくつかせながらも、幸い海の悪魔は再出没することなく漁船は無事に帰還した。

 

「ほうっ、お前さん。アレに出会ったのか? 本当に運が良いのやら悪いのやら」

 帰港したエステル達を出迎えた長老は、昔を懐かしむような嗄れた目で海岸を見つめる。

 実は半世紀ほど前、まだ駆け出しの船乗りだった長老を乗せた漁船は大海原でクラーケンと遭遇。彼一人か生還を果すという痛ましい海難事故があった。

 導力革命以前の凪任せでしか船が動かせなかった時代、あんな怪物に襲われたら対処のしようがない。漁船は海に沈められ仲間は次々と餌食になり、咄嗟の機転で木樽に隠れた彼一人だけが遣り過ごすのに成功する。

 波に揺られた樽の中で二週間近く呑まず食わずの漂流をした後、偶然通り掛かった貨物船に救助されたが、唯一の生存者の長老の供述を誰一人として信用してくれず、クラーケンの存在は闇へと葬られた。

 しかし、こうして五十年の歳月を経て、かつて狼少年扱いされた長老の証言が立証されることになるとは、真に世の因果とは不思議なもの。

「『シンドバッドの千夜一夜物語』ではないが、海で長年生活していればクラーケンの他にも科学で説明できないような非現実的な体験をしたことは何度かある。じゃが、今は嬢ちゃんとの取引の方を先に済ませるとしようかの」

 長老はそう宣言すると、一匹の極上の黒鮪と物々交換に漁師たちに大量の木箱を持ってこさせ、サービスとして三人を大型トラックで海産物と一緒に王立学園まで送り届けた。

 

        ◇        

 

「クラーケンとはこれまた信じられない冒険をしたものね、エステル。何よりも私の予想以上の釣果を成し遂げるとは本当に驚きだわ」

 トラックの荷台の中を覗き込んで、他の女子同様にヨシュアも目を丸くする。

 釣り上げた二匹の氷づけの黒鮪の他にも、たくさんの木箱が積まれている。中身は新鮮な、鯛、イカ、赤貝、甘海老、イクラ、ウニなど海の幸が盛り沢山だ。

 寿司ネタ大本命の黒鮪は一匹余分にあるので、後夜祭で生徒にも振る舞うことにして、ついでの余興としてマグロの解体ショーでも帝国貴族にお披露目しよう。

 尚、おまけとして荷台の奥では、クタクタに疲れ切ったナイアルとクローゼが互いに背中合わせに座って熟睡し、「日焼けしたクローゼ君の寝顔も可愛い」と女子生徒の熱い視線が鮨ネタから陽焼王子にシフトした。

「ほとんどの魚介類を長老は用意してくれたけど、蛸だけはどのルートでも入手出来なかったらしいぜ。ちっ、こんなことならサイズにびびってないで、クラーケンの触足の一本でも切り落としてくれば一年分の在庫になったのにな」

「もう、エステルったら」

 ヨシュアは可笑しそうに微笑み、エステルも豪快に一日の苦労を笑い飛ばす。

 そんな遊撃士兄妹の微笑ましい交流を眺めながら、ジルは天才と何たらは紙一重というお決まりのフレーズを思い浮かべた。

 入学当初からジルが見込んでいた通り、やはりエステルは周囲に騒動を撒き散らすだけの単なる馬鹿ではなく、『世界を広げる無限の可能性』を秘めた大馬鹿野郎なのだ。

 

 かくして、ヨシュアの最後の準備が整い、様々な人間の願いと思惑を秘めたジェニス王立学園の学園祭が、ここに開幕する。

 


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