星の在り処   作:KEBIN

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消えた飛行船の謎(Ⅷ)

「たはは、何か恥ずかしい所を見られちゃったかな」

 デバート内の氷菓子屋に腰を下ろしたアネラスは、三段重ねのアイスクリームを頬張りながら、軽く頭を掻く。

「あのぬいぐるみにご執心の様子でしたが、あなたのルックスなら、少しばかり殿方の顕示欲をくすぐれば、簡単に貢いでくれると思いますよ。そのあたりのコツをレクチャーしましょうか?」

「コラ、ヨシュア。今日まで真っ当に生きてきた大人の女性を、今更、悪の世界に引き込もうとするんじゃない」

「あはははは。カシウスさんのお子さん達が遊撃士デビューしたって、リベール通信で読んだけど。面白いだね、君たちは」

 目の前で漫才を繰り広げるブライト兄妹を愉快そうに眺めながら、一段目のアイスを丸飲みする。

「でも、駄目だよ。欲しいものは、ちゃんと自分の力で手に入れないとね。ローズマリーも私がクエストで稼いだミラで買われるのを、あのショーケースの中でずっと待ってくれているんだよ」

 ボースデパートに安物なしとは良く言ったもの。テディベアを飾ったショーケースには、二万ミラという値札が貼られていた。「まあ確かに買えない額じゃないよな」と楽観してしまうあたり、グラン=シャリネと関わった所為でエステルの金銭感覚にも歪みが生じてはいたが、素直にアネラスの潔さを絶賛する。

「ほら、見たか、ヨシュア。あれが淑女の態度というものだぞ。他人に強請っている中は、まだまだ子供だということを弁えろよ」

 独特の口調と童顔の為に実年齢よりも若く見られがちなアネラスは、一人前のレディと称えてくれるエステルの態度に新人の前で少しは貫祿を示せたのかと内心ウキウキしながら、二段目のアイスもペロリと一飲みする。

「ところで、何か私に用があったんじゃないのかな、新人君達?」

 アネラス自身はキリッという擬音を発して気負ったつもりだが、元々の性格がとことんフレンドリーな上、口の周りをアイスでベトベトに濡らしているので威厳も何もあったものじゃない。

 本当にこの人材で大丈夫なのか不安を覚えながらも、背に腹は替えられないとばかりに『定期船失踪事件』のチームにスカウトした。

 

「へえー、リンデ号まで辿り着いて、市長さんから正式な依頼を貰ったんだ。凄いんだね、二人とも」

 最後のアイスをコーンごと飲み込んだアネラスは、嫌味のない口調で褒めちぎる。

 嫉妬心とは無縁に素直に同じ見習いの偉業に感心している模様。「私も独自に調査したけど駄目だったよ」と二人に調査ノートを見せてくれた。

「ラヴェンヌ村、ヴェルデ橋の関所、ハーケン門、クローネ峠、等など。ボース地方のほぼ全域を網羅しているわね」

 正遊撃士たちがある一定の区域を決め打ち調査していたのと対照的にアネラスはリベール随一の広さを誇るボース全土を自らの足で渡り歩いた。

 だからこそ彼女はボース支部に不在がちで、他の正遊撃士と異なり中々兄妹と面識を持てなかった。一見エステルと同じ戦闘特化型に思えたアネラスの評価をヨシュアは一部改める。

「私はこの地方の出身だから、他のブレイサーよりも土地勘があっただけだよ。けど、流石に廃坑の中までは調べなかったから、君らに比べたら全然駄目だけどね」

 「それはあなたがエステルよりも頭を使って生きてきた証です」とヨシュアは内心で突っ込むが、言葉に出しては別のことを尋ねる。

「アネラスさん、ルグランおじいちゃんから、残す推薦状はボース一つと聞きましたけど?」

「うん、そうだね。普通は皆、君達みたいに地元から準遊撃士の旅を始めるよね? でも、私はボースで正遊撃士になるって心に決めていたから、地元を最後に残しておいたんだよ」

 昔を懐かしむような遠い目をする。

 

 彼女はエステル達と同じく十六歳で王都へ旅立つ。カシウスに次ぐ名声を誇るクルツの後継の元、見習いの資格を取得したが、四つの推薦状を手に再びボースの地に足を踏み入れるのに二年の歳月を費やした。

「ルーアンでは受付の人が意地悪で、推薦状を貰うのに一年近くかかったんだよ。やっと私のホームで故郷に錦を飾れると思ったら、クエストは一つも受けられないし」

 何やら辛い記憶を穿り返したらしく、口の周りについたアイスを墨代わりにテーブルにノノ字を書いてイジケはじめる。

「それは済まないことをしたね」

 ヨシュアのお株を奪うような神出鬼没振りで、三人の前に再びエジルが姿を現す。

 フリーダムに見えて意外と目上への礼儀を弁えているアネラスは、慌てて口の周りの汚れをゴシゴシと肘で拭き取ってから挨拶する。

「知らぬ仲でなし、無礼講で構わないよ。それよりも大人気ないとは自覚していたんだが、君まで巻き込んだようで申し訳ない」

「あれっ、この流れで、どうしてエジルさんが頭を下げるんすか?」

「あなたは判らなくてもいいことよ、エステル」

 以前の稽古での偽告白騒動と同じく、ヨシュアは説明無しでバッサリと切り捨てた。

 エジル達が『光る石の捜索』レベルの極貧クエストまで残さず平らげたのは、英雄の系譜としてデビューしたてで脚光を浴びたエステルへの当てつけの面があった。雨降って地固まるという訳ではないが、エステル本人が正遊撃士の悪意に気がつかない内に彼らからの評価を一変させるあたり、特別な何かを持っているとしかヨシュアには思えない。

「これからは、ボースのクエストが滞ることはないから安心していい。最もこの『定期船失踪事件』のクエストを君達の力で解決できれば、それだけで推薦状にはお釣りが来ると思うがね」

 さらにエジルは、アネラスを苛めていたルーアンの古株が引退し、若い受付が登用されたという情報も提供してくれた。

 その新入りは前任者に比べて、人当たりの良い人物と専らの評判だ。英雄の息子などアネラス以上に目をつけられそうなので、ヨシュアは受付の世代交代に密かに胸を撫で下ろした。

「ところでエジルさん、ここに来たということは、もしかして」

「そうだった。君から頼まれた目撃情報が見つかったので、報告に来た」

「早いですね」

 予想以上の仕事の速さを率直に賞賛する。

 ギルドでエジル達と別れてから、まだ二時間も経過していない。これがチームを組んだ正遊撃士の本来の調査能力なのだ。

 実際、ヨシュアがラヴェンダ廃坑を特定できたのも、各々の正遊撃士の調査が正確だったからこそ。彼らが最初からこの調子で力を合わせていたら、リンデ号などあっとうい間に発見できたのは疑いない。

「要点だけを話すと、ヴァレリア湖のほとりで、君の求める風体の人物が姿を現したそうだ。他にもう一人、妙齢の女性も一緒にいたみたいだが」

「間違いなさそうね」

 ヨシュアは何かを確信すると、正遊撃士達の功を労った後、再びエジルの耳元に顔を近づけて、ごにょごにょと何かを告げる。

 エジルは「心得た」と新たなリクエストを了承すると、自ら定めた助手という立ち位置を遵守するが如く、余計な詮索は一切せず次の任務の為にこの場を去る。

「何か緊張するよな」

 シェラザードのように気心の知れた相手ならともかく、見習いの分際で正規の遊撃士を身分不相応にも顎で使う立場というのは、縦社会の構図に無頓着なエステルをしても居心地が悪くて仕方がない。

 だが、目上の男性の扱いに手慣れているヨシュアはそういう遠慮とは無縁。それは相手が同格の女性であっても相違ない。

「さて、私達は今からヴァレリア湖に向かいましょう。アネラスさん、案内してもらえますか?」

「うん、いいよ。ヴァレリア湖畔の宿屋というと川蝉亭だね。あそこはお客の釣った魚を調理してくれる自給自足の面白い民宿なんだよ」

 アネラスの側も年の差や立場を気にすることなく、フレンドリーな笑顔で対応すると、快く道案内を引き受けた。

 

        ◇        

 

「なあ、ヨシュア。そろそろ話してくれてもいいだろう?」

 アンセル新道を南に下りながら、エステルがヨシュアに催促する。

 カプア一家の空賊艇に密かに乗り込んで、敵のアジトに賊自身の手で案内してもらって、人質を救助するという大胆極まりない作戦のアウトラインは、ルグランへの進捗報告という形で聞いている。

 故に少数精鋭の人員構成が必須なのも理解しているが、肝心の空賊艇を探し出す算段については伏せられたまま。当事者の一人の筈なのにエステルを蚊帳の外にして、エジルと二人だけで話しを進行させられると、自分の存在意義に対して懐疑的にならざるを得ない。

「別にエステルを除け者にしたつもりも無かったんだけどね。私がエジルさんに頼んだのは、ジェニス王立学園の学生。もっとハッキリ言うなら、ジョゼットを探していたのよ」

「ジョゼットって、あの空賊のクソガキかよ?」

 コクリと頷く。軍内部にスパイがいるのは間違いないが、カプア一家はどうやって情報を仕入れているのか? 現在、王国軍はボース全域にアンテナを広げているので、導力通信での遣り取りは傍受の危険が高く現実的ではない。

 とすれば生身で直接コンタクトを取るしかないが、一家の面々は堅気とは思えない厳つい連中が多くてこの手の仕事にはまるで向いていない。恐らくは軍から警戒されにくい子供のジョゼットが諜報活動をしているという推論の元、捜索対象をジェニス王立学園の制服一本に絞ってエジル達に聞き込み調査を任せた。

「ジョゼットは自分の素性が王国軍には露見していないと多寡を括っている。私達からカプア一家の情報が軍に伝わるにしても、まさかエステルがもう釈放されたとは夢にも思わないだろうから、今夜あたり内通者と接触する可能性は高いと思う」

「それで、その目撃情報があったという川蝉亭で網を張る訳か?」

「ええ、ジェニス王立学園の長期休み期間はもう終了しているから、真っ当な学生がこんな所にいる筈はない。一緒に目撃された女性は、多分、姉のキールでしょう」

 ロレントでの一件のおかげで、ジョゼットの存在を抑えておけたのは、情報戦で不利を強いられた準遊撃士の二人にとって、王国軍や正遊撃士にも対抗できる大きなアドバンテージとなった。

「なるほどな。だから虎の子の情報を独占する為、正遊撃士に閲覧可能なクエストの報告書にジョゼットやカプア一家の存在を伏せていたわけか」

 先見の明に溢れた義妹を何とも言えない表情で見下ろすが、「不確定情報をギルドの報告書に記載しなかっただけよ」としれっと答える。

「けど、冗談抜きにカプア一家がリンデ号のハイジャック犯だとは、廃坑で直に見るまでは信じられなかったけどね」

「まあ確かに、ロレントの事件もぶっちゃけりゃ、しょーもないコソ泥だったしな。あいつらの中でそんな度胸がありそうなのは、あのキールとかいう婆だけだろ?」

「同感だわ。でも、あの女は誘拐は一家の総意じゃないみたいに主張していたけど、ジョゼットや周りの面子の温さからして、その発言自体に嘘はないと思う。とすればハイジャックを強行した、あの二人よりさらに上位の黒幕が一家に控えている公算が高いわね」

 ジョゼット達の戦力の底は知れているが、その謎の頭目が凄腕だった場合、三人だけでアジトを制圧するには少し厳しいかも。

 やはり準遊撃士だけでチームを組まず、もう一人エジルあたりをパーティーに加えた方が良かったかと悩んだが、彼には別の重要な案件を任せているので判断が難しい所。

 

「いーな、二人とも何か楽しそうで」

 案内役のアネラスはチラチラと後ろを振り返りながら、会話が弾むブライト兄妹の遣り取りを物欲しそうに見つめる。

 今回のクエストはルグラン爺さんの懇意で頭数の傭兵として雇われただけなのは弁えているが、こうまで放置されると寂しくなってくる。エステルはヨシュアの秘密主義を愚痴っていたが、アネラスの立場に比べれば可愛いものだ。

 そうこうしている間に三人はアンセル新道を下りきって、ヴァレリア湖のほとりにある川蝉亭へと辿り着いた。

 

        ◇        

 

「ほぼ確定とみて良さそうね。後は今夜、現れてくれるかどうかだけど」

 実際の目撃者のロイドという釣り人に改めて事情徴収した結果、髪色や身体的特徴などのさらに詳しい特徴まで返ってきて、そのカップルがカプア姉弟である可能性が一段と高まった。

 ジョゼット達が出没する真夜中まで待機する必要性から三人は宿を確保する。束の間の自由行動を許されたエステルは、桟橋の上で久方ぶりに釣りを楽しむことにした。

 

        ◇        

 

「うわー、随分と釣れたね、新人君。これは今夜の夕食が楽しみだよ」

 サモーナ3匹、レインボウ4匹、オロショ2匹、カサギ7匹、リベールブナ5匹。外れの穴あき長靴4足はご愛嬌としても、バケツ一杯に蓄えられた淡水魚の山々に目を丸くして驚く。

「まあ、野良仕事とかの体力勝負はともかく、大凡、技量が介入する競技で、俺が確実にヨシュアを上回れるのは釣りだけだからな」

 プログレロッドをひゅんひゅんと振り回して、ルアーを湖の狙ったポイントに投げ入れる。瞬く間にレインボウが喰らいつき、さらなるオカズの品目が追加される。

 確かにエステルの釣技は名人芸の域に達していて、先程も件の目撃者だった釣人から、釣公師団とかいう妙な団体にスカウトされたばかりだ。

 

「くっくっくっくっくっ」

「どうしたの、新人君?」

 レインボウが腹の中に溜め込んでいたセピスを吐き出させながら、突如思い出し笑いをし始めたエステルを不思議そうに眺める。

「いや、昔、一家で海釣りに出掛けて、ヨシュアに竿を持たせたことがあったんだけどさ。結構な大物(ギガンコラー)を引き当てたは良いが、あいつ見た目からして軽いだろ? あっと言う間に水中に引き込まれて、悲鳴を上げながら湖中をアチコチ引っ張り回されて、それ以来、釣り竿を見るのも嫌になっちまったんだよな」

 エステルとカシウスは面白がって助けなかったので、結局ヨシュアは水中戦でギガンコラーを三枚に下ろし、自力で難を逃れた。

 自慢の黒髪をワカメのように膨張させた全身ずぶ濡れの姿で、戦利品の真紅の秘石(クリムゾンアイ)を掴んで船縁に乗り込んできたヨシュアの様は中々にホラー。

 その後、旋毛を曲げたヨシュアは一月程、ブライト家の家事全般をストライキして、栄養失調寸前まで追い込まれた男衆は土下座して謝罪した経緯がある。それ以来、ヨシュアを本気で怒らせないのはブライト親子にとって暗黙の不文律となった。

 

「仲が良いんだね、君達兄妹は。私は一人っ子だったから、少し羨ましいかな」

 あながち社交辞令でもなく、頬杖をついたアネラスはエステルを眩しそうに見つめる。

「アネラスさん今、俺たちのことを兄妹って? そうだよな、どちらが先に産まれたかなんて関係ない。あれだけ身長差があるのに俺の方が義弟なんて有り得ないだよ」

 ボースの地で順調に進んでいたヨシュアのブライト姉弟化計画に初めて綻びが生じる。二人の真実を見極めた慧眼の持ち主に出会えたことに感動したエステルはアネラスの手を強く握りこむ。

「わっわっわっ。ちょっと新人君、私は年下は趣味じゃないんだよ。けど、こうして見ると新人君って背が高くて結構カッコいいよね。って?」

 意外とこの手のアプローチに免疫のないアネラスは赤面したが、告白してきた彼が次の瞬間には別のことに気を取られ始めたのでムッと頬を膨らませる。

「コラコラ、新人君。遊びだとしたら、お姉さん許さないよ。あれっ? 何かな、この物悲しいメロディーは?」

「ヨシュアだよ、外れの桟橋で歌っているみたいだな」

 カナリアのような奇麗な歌声が、まるでヴァレリア湖全体を包み込むように浸透しアネラスの心に染み渡る。

「本当に良い歌だね。まるで心が洗われるみたい。流石は噂に聞くアンテローゼの妖精さんかな?」

「『星の在り処』っていうヨシュアの十八番さ。ロレントではアーベントの黒猫って呼ばれていたけどな」

 舌先三寸と嘘泣きで男性を惑わしている義妹だが、歌には一切の虚言が混じらないというのがエステルの持論。「本当に仲が良いんだね」とアネラスは先の不機嫌を忘れて、ヨシュアの歌に聞き入った。

「さてと、夕飯のおかずも釣れたことだし、一丁、ヨシュアをからかってやるか」

 アネラスの側を離れたエステルは釣り竿を片手に、予備の空のバケツを掴むという小細工を施すと、義妹の姿を探すことにした。

 

        ◇        

 

「愛してる、ただそれだけで、二人はいつかまた会えるー」

 桟橋に佇んで、夕焼けのヴァレリア湖に向けられたヨシュアの歌唱が終了し、パチパチという拍手音が少女の背中を叩いた。

「大漁だったみたいね、エステル? 釣りばっかりは、真面目に取り組んでも勝てる気がしないわ」

 ヨシュアは後ろを振り返ることなく、拍手者の特定はおろか、空バケツの坊主のフェイクまできっちり見破りやがり、エステルの悪戯は不発に終わる。

「まあな。けど釣りはあくまで趣味であって、俺の本業は棍術だからな。とはいえ修行不足か、こっちは一朝一夕では強くなれないらしい」

「修行不足ですって? 随分と可笑しなことを主張するのね、エステル」

 日課だった早朝稽古はボースに来てからずっとご無沙汰ゆえに、最近忘れがちだった義妹へのコンプレックスを久方ぶりに思い出したが、ヨシュアはエステルの愚痴をクスクスクと嘲笑った。

「飽くなき強さへの向上心、質量共に尋常でない稽古時間、過酷な実戦レベルの修練の数々。脇目も振らず一心にエステルは強くなる為の最善の努力を継続してきたのを私が保証してあげる。でも、それだけの代償を支払ったのに、強さへの執着がない私に一度しか勝てなかったのはどうしてだと思う?」

 かつて王都の武術大会の幼年の部で優勝し自分はリベールで一番強い子供だと天狗になっていたエステルの鼻っ柱をへし折ったのは、親父がどこからか拾ってきた同い年の女の子だった。

 その日以来、エステルはヨシュアに勝利することを目標に修行を重ねてきたが、五年の年月を費やして尚、力量差は一向に縮まる気配を見せない。

「悔しいけど、それが持って生まれた才能の差って奴なんだろ? って、いうか俺、お前に勝てたことあったっけ?」

 ヨシュアが度々主張するたった一度の勝利とやらは、少なくともエステルの側には覚えがない。無理に思い出そうとすると、頭の中に黒い霧がかかって記憶を阻害する。

「天稟の差ねえ。けどカプア一家の面々を始め、世間はエステルを化物扱いして、きちんと強さを称えてくれている。この場合、エステルの精進が足りないのでなく、私の方が異常なのだと思わない?」

 ヨシュアはゆっくりと、エステルの方に向き直る。

 湖に沈み込んだ夕日をバックに、オレンジ色に染まったヨシュアの姿は神々しい程に美しい。柄にもなくエステルはドキリと心臓を震わせる。

「エステル、あなたは私が怖くないの?」

「怖い?」

 エステルはヨシュアの意図を図り兼ねたが、一つだけ確信していることがある。

(あいつ、また壊れ始めやがったな)

 まるで世界から見捨てられたかのように思い詰めた表情をしている。普段闊達なヨシュアが時折見せるこの仕種は、中二病(おかしなやまい)を患う前兆だ。

 このメランコリーな症状は、エステルの与り知らぬヨシュアの過去に根ざしているのだろうか?

 だとすれば、義妹の為にしてあげられることは一つしかない。

「怖いと言えば怖いかな? 何しろお前を怒らせたら、二度とご飯を作ってもらえなくなるからな。俺たち親子はヨシュアの料理の末期的な中毒患者だから、それは御免被りたいぜ」

「エステル?」

 それは自分たちが過去ではなく、ヨシュアと同じ現在(いま)を生きていると伝えること。

「なあ、ヨシュア。お前が俺より物理的に強いから、畏怖しないのか尋ねているのだとしたら、それは無意味な勘違いだぞ。それだと凄腕のブレイサーは無辜の民間人から慕われるのは最初から不可能ってことになるじゃないか?」

 エステルのこの上ない正論に、ヨシュアは何を感じたのか無言を貫く。

「まあ、得体の知れない強者なら、俺も警戒するかもしれないが、ヨシュア相手に心の門を閉ざす必要はないだろ? だって俺たちは家族なんだからさ」

 ちょっと臭いかなと内心で照れながらも毒を喰らわば皿までということで、ヨシュアの身体を抱き寄せようとしたが、するりとエステルの手をかわすと桟橋の反対側へとすり抜けた。

「ありがとう、エステル。そっか、エステルは私の作ったご飯が大好きなんだね」

 先とはうって変わった明るい笑顔で、軽く舌を出しながら謝意を述べると、『星の在り処』を鼻唄で口ずさみながら、この場を離れていく。

 

「一体、何だったんだ、あいつ?」

 これ以上ないタイミングで肩透かしを喰らったエステルは、所在無さげにヨシュアを掴み損ねた掌をぷらぷらさせる。勝手に一人でおかしくなって、自力で立ち直ったのか。それとも最初から、からかわれていただけなのか?

 黒猫のように移り気なヨシュアの心情を推し量るのは、朴念仁のエステルでなくても困難。

 

        ◇        

 

「うわあー、何か凄い豪奢な夕食だねー」

 カサギの天麩羅、フナの味噌煮、レインボウの塩焼き、オロショの串焼き、サモーナのムニエルに、ダイナトラードの活け造り。

 テーブル一杯に並べられた昼間のアンテローゼの晩餐に劣らぬ贅を尽くした魚料理の数々に、アネラスはリアクション要因としての責務を全うする。

 夕飯の献立はエステルが釣ったお魚がベースであるが、聞けばヨシュアが支度を手伝った。

 調理中、ヨシュアはずっとご機嫌で、つい我を忘れて作り過ぎたとのこと。大食漢のエステルをしても食べきれない分量に仕方なしにロイドや他の宿泊客も呼び込んでの合同宴会という形を取る。

 ただ、ヨシュアと別れた後に、エステルが気紛れでサモーナを餌にその場で釣り上げた『ダイナトラード』は、ロイドと釣公師団が長年求め続けたこのヴァレリア湖の(ぬし)

 並みのトラードの十倍以上の重量を誇るダイナトラードの魚拓を取る間もなく、ヨシュアに活け造りに解体された憐れな姿にロイドは涙を流しながら、せめてもの供養としてヌシの刺身を胃袋に納め続けた。

 

 その名の通りに川蝉亭の夕飯で箸休めをしながらも、カプア一家との雌雄を決するボース編の最終局面が着々と近づきつつあった。

 


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