「……気持ち悪い……」
俺は目の前に広がる風景を見て、口を押さえながらそう呟く。妖怪である俺は風邪などの病気とは無縁なのだが、体調が悪くなることは普通にあるのだ。酒を飲んだら酔いが回るし、その場でくるくると回転したら目も回る。俺は今、乗り物酔いをするときのような軽い吐き気に見舞われていた。
「出てくる場所と時間帯、完全に間違えたな……」
いま俺がいる場所は、幻想郷の外の世界だ。外の世界は幻想郷よりも文明が進んでいて、俺の視界には沢山の建物と人間が映っている。
これほどまでに大量の人間は見たことがない。これが"人に酔う"という感覚なのだろうか。早く人気の無い場所に移動して一息つきたいところだが、空を飛んでこの場を離れたりすると目立ってしまう。まずは人目を避けるために、俺は人の少ない裏道へと避難した。
「……ふぅ、これで少し落ち着ける……」
目立たない建物の裏側まで入って息を吐く。これでもう更に気分が悪くなることは無い。呼吸をゆっくり整えてから、自分の姿を消してこの場を離れよう。飛び立つところを見られるのと同様、飛んでいる姿を外の人間に見られるわけにはいかない。
「……ん?」
「は、離してください! 大声を出しますよ!」
変化の術を使おうと自分の胸に手を触れたら、どこからか少女の声が聞こえてきた。どうやら奥から聞こえてきたみたいだが、こんなところに誰かいるのだろうか。
「まぁ落ち着いてよお嬢ちゃん。俺たちと少し遊んでいこうよって誘ってるだけじゃん」
「そうそう。金なら俺らが出すからさぁ、一緒にカラオケにでも行こうよ~」
消えるところを見られるわけにはいかないと思い声のした方向に顔を向けると、今度は少年二人の声が聞こえてくる。声がこちらに近付いてくる気配は無いが、なにやら話をしている様子である。
「行きません! 失礼します!」
「おっと、逃がさないぜ」
「きゃっ! …………」
「そんなに睨まないでくれよ、別に変なことするつもりは無いんだって」
「そんなあからさまに嫌がられるとショックだな~」
声は一定の場所から聞こえてくるので、こちらに近付いてくる心配は無さそうだ。さっさと姿を消そうかと思ったが、壁を叩く音も聞こえたし気になるな。
俺は少し耳を澄ませて、俺は少年と少女の会話に意識を向ける。
「な? ちょっと一緒に遊んでくれるだけでいいからさぁ」
「……と、友達と約束してて……」
「お! いいねぇ。それならその友達も一緒に遊ぼうよ。ケータイでその子と連絡とれる? 俺が事情を話して……」
「! だ、誰か……」
「ちっ」
少女の声が不自然に途切れる。姿を見ていないので分からないが、おそらく口を塞がれたのだろう。
「! んー!」
「頼むよー、大声出さないでっていったじゃん。 ……おい」
「ああ、人を呼べないように少し服でも切っとくか」
おいおい、なんだか物騒な話をしているように聞こえるぞ。俺はそーっと顔を出して何が起きているか覗いてみる。
見ると緑髪をした少女が二人の少年に、口を塞がれ壁に押し付けられていた。少年の一人は手にナイフを持っている。
……えーとこれは……助けたほうがいいのだろうか。
「んー! んー!」
「へへへ……あんまり動くと肌も切れちゃうぜ? 大人しくしといたほうが……」
「あのー……ちょっといい?」
「あ?」
じーっと様子を見るのをやめて、三人の前に姿を現す。少年たちは少女の口を押さえたまま、首だけ俺の方に振り向いた。
「……んだテメー。いつからそこに……」
「あ、お前らじゃなくてそこのお嬢ちゃんに聞きたいんだけど……」
「はぁ?」
「助けたほうがいい?」
「!」
とりあえず男は無視して少女のほうに尋ねてみると、少女は口を押さえられたまま首を上下に動かした。よかった、助けていいみたいだ。そういうプレイの最中だったらどうしようかと。
「分かった、じゃあ……」
「おっと助けを呼びには行かせないぜ」
ナイフを持った少年がすばやく俺の手を掴んでくる。少年たちが少女の知り合いじゃなかったら、そりゃあ助けを呼ばれるのはマズいわな。そんなつもりは全く無かったが。
「へへへ……カッコつけて登場したところ悪いな。刺されたくなかったら大人しく……」
「いいよ、刺して」
「へ? あっおい」
少年がナイフを構えて俺に向けるが、俺は気にすることなく少女のほうに歩いていった。咲夜じゃあるまいしナイフを躊躇いもなく人に刺せる人間なんて稀である。ナイフは向けられているほうだけではなく、向けているほうもストレスが生まれるのだ。
「ほ、ほんとに刺すぞ!」
「だからいいって……」
「うわぁっ! こ、こいつすげぇ力だ!」
少年に腕を掴まれたまま、少女の元まで歩いていく。たかが人間一人の力だけで俺を止めようなんて無茶な話だ。こう見えて一応妖怪だからな、言わないけど。
「く、来るな! おい! 刺せ! 刺しちまえ!」
「わ、分かった!」
ガキィン!
「はっ? て、鉄板?」
「……いて」
ナイフを持った少年が俺の背中に、思いっきりナイフを突き立ててくる。まさか本当に刺してくるとは。一応変化で皮膚を鉄みたいに硬くしておいてよかった。俺も痛いのは嫌だからな。
刺されたことは気にせずに、少女の口を押さえている少年の腕に手を伸ばす。口なんて押さえたら呼吸がしづらくなるだろうが。
「ほら、離してあげな」
「へ? いてててててて!」
「……お嬢ちゃん、もう大丈夫だ」
「けほっけほっ。 ……あ、ありがとうございます……」
少女と少年の間に自分の体を挟み込み、少女の口を押さえていた少年の腕を掴んで捻りあげる。結構昔に覚えた技だが使えるものだ、確か勇儀たち鬼と妖怪の山住んでたときに会得したんだったか。
少女は押さえられていた自身の体が自由になると、俺の背中に身を潜めた。これでもう少年たちは、少女に余計な手出しができない。
「ち、畜生! 逃げるぞ!」
「覚えてろ!」
「あ、待て待て」
逃げようとする少年二人の腕を、指をうまく使い右手一本で引き止める。別にこのまま逃がしてもよかったのだが、関わった以上最後まで面倒は見るべきだ。
「な、なんだよ……俺たちを警察に突き出すってのか!?」
「そうされたいならそうしてもいいけど……お嬢ちゃん、どうする?」
「うう……俺捕まりたくねぇよぉ……」
「……おおごとにするのも嫌なので警察は……」
「……だとさ、よかったな」
今回の被害者は少女なので、どうしたいかの意見を少女に仰ぐ。ボコボコにしてほしいくらいなら協力してやろうと思ったが、幸いにして少女は一番穏便な選択肢を選択した。
「……よ、よかった……」
「……ちっ。行くぞ」
「待て待て」
「……まだなんか用かよ」
「お嬢ちゃんに言うことがまだあるだろ? な?」
「「!!?」」
俺は少しだけ威圧するように、両手で少年たちの頭をそれぞれ掴んだ。一刻も早くこの場から去りたいだろうが、それだと互いに不快感が残ってしまう。
「悪いことをしたらなんて言うんだ?」
「ひいっ!? ご、ごめんなさい……」
「わ、悪かった……」
「反省してるか?」
「「は、はいぃ!」」
「ならよし」
俺は掴んでいた手をゆるめ、そのまま少年たちの頭を乱暴に撫でる。 ……うーむ、少し強引だったかな? 驚かすのは好きだけど、脅すのはどうも好きになれない。とはいえ謝ったのだから、今回はこれで良しとしよう。
「お嬢ちゃんが許してくれるかは別にして、そういった反省をすることが大事なんだ。次から似たような失敗はするなよ?」
「「ハイ……」」
「うん。あとはお嬢ちゃんだけど……」
「……あの、私ももう気にしてないです」
「ん。お嬢ちゃんもいい子だ。優しいな」
そう言って少女の頭にそっと手を乗せる。怖かったろうに強い子だ。見たところ霊夢と同じくらいの年齢だろうか、そのくらいの歳なら泣いていてもおかしくないのに。
「じゃ、行っていいぞ。よかったなお嬢ちゃんに許してもらえて」
「あ……は、はい……」
「し、失礼します!」
男たちはそそくさと、俺が来た方向から去っていった。俺はそんな二人に対してにこやかに、片手を振って見送っておく。
……さて、じゃあ俺もここから離れようか。本当はこの場で姿を消して飛んでいきたいが、少女に見られるわけにはいかない。だからといって、ここに残って少女と二人であるところを見られでもしたら事案が発生してしまう。
『住居年齢不明の男が幼い子どもと路地裏に二人でいる事案が発生!』ってか? うーん、これはマズい……
「じゃあお嬢ちゃん、次からこんなとこに入り込むなよ」
「ま、待ってください!」
「え」
少女に背を向けて俺もこの場を立ち去ろうとしたら少女に手を掴まれた。さっきのことがあったから一人が心細いのだろうか。俺だって見知らぬ男の一人なんだが……
「助けてくれてありがとうございました! おかげで助かりました!」
「ああ、いえいえ。偶然だから気にしなくていい」
「あの……私は
「へ? えーと……俺は鞍馬真だ」
今後会うこともなさそうな相手に名乗ることは滅多にないのだが、向こうが自己紹介してきたので俺も黙っているわけにはいかない。まぁ名前くらい別にいいだろと思い、早苗に自分の名前を教えておく。
お礼と名前を聞くために俺を引き止めたのだろうか。お礼をしっかり言えることはいいことだ。
「真さん、ですね!」
「ああ。呼び方はまぁなんでもいいけど……」
「真さん! 助けていただいたお礼がしたいので、ちょっとそこの喫茶店にでも行きませんか? ご馳走させてください!」
「は?」
早苗の言葉に、思わず自分の耳を疑った。おいおいこんな得体のしれない男に、小さい女の子が自分からお茶に誘うかね。ああでも阿求と初めて会ったときも、荷物を持っただけで"お礼をさせてください"とか言われたっけ。女の子は意外としっかりしているな。
「ああいや、別に大したことをしたわけでもないし……」
「大したことです! 真さんが助けに来てくれて私本当に嬉しかったんですから!」
「友だちと約束してるんじゃなかったのか?」
「あれは嘘です!」
「実は俺、使えるお金を持ってなくて……」
「私が奢るって言ってるじゃないですか!」
「大人の男が女の子に奢ってもらうってのも……」
「コーヒーの無料券が丁度余ってるんですよ!」
「ええと……」
とりあえず断る理由を並べ立てたら、その全てに反論をされた。用事があって外の世界まで来ているわけだが、その用事も特に急ぎでは無いし……
「さぁ行きましょう! 何か言うことがあればそこで聞きますから!」
「うええ……またあの人混みに……」
早苗に腕を引かれてこの路地裏から連れ出される。最近の子どもはやけに強引だな。こんなのさっきまでお前がやられてたことじゃないのか、無理やり相手を連れ出そうとして。人が嫌がることをやっちゃいけないんだぞ、いや別に嫌ではないんだけど。
路地裏から出て再び人混みに飲み込まれる。そこまで人間が密集しているわけではないが、それでもこの人の多さは苦手である。
「……って、手! 自分で歩くって!」
「え? ああ、まぁいいじゃないですか。はぐれないようにです」
「……こんな小さい子と手を繋いで捕まらないかなぁ……」
「小さいて…… こう見えても私、高校生なんですからね!」
「は? 高校生?」
早苗に引っ張られたまま歩くのは目立つと思い、何とか早苗の隣まで歩いていく。早苗が高校生だって? 今どきの高校生ってこんなに幼く見えるのか。霊夢と同じくらいだと思ったから中学生以下だと思っていたが……まぁ霊夢は一人暮らしも長かったし、同学年と比べると大人びている気もする。
「そうです! だからそこまで真さんと年は離れてないはずです!」
「マジか…… ちっちゃ」
「な! 身長は平均的ですし……そもそも中学生があんなナンパにあうはずないでしょう!」
「……てっきりまだ『東風谷早苗! 逆から読むと、えなさやちこ!』とか言って喜んでる年ごろかと」
「小学生じゃないですか!」
大袈裟に表現したところを、隣の早苗に突っ込まれる。さすがにそこまで幼いとは思っていないが……これがもう高校生か。慧音の寺子屋の女の子の中には"ちゃん"付けして呼ばないと怒る子もいるし、早苗もどう呼ぼうか迷っていたが、多分呼び捨てでも大丈夫だな。
……いや、外の世界じゃ高校生は、下の名前で呼んだら馴れ馴れしいのか? うーむ分からん……俺にとっちゃあどっちも子どもだし、普段と変わらないように接しよう。なんで俺が子どもに気を使わなきゃならないんだ。
「むー…… 神奈子様みたいに大人の色気が足りないんでしょうか……」
早苗が俺から手を放し、自分の胸に手を当てながらなにやら呟いている。この時期の女の子はいろいろ複雑なんだろうな。
「すまん。早苗は十分大人だった」
「……もー! そういうところが既に子ども扱いじゃないですか!」
早苗を励ますように頭を軽く叩いたら怒られた。別に本当にそう思ったんだけどな、男に絡まれても気丈に振る舞ってたし。
「……だって俺から見たら子どもじゃん」
「真さんいくつですか! そりゃあ私より年上でしょうけど……」
「えー……」
早苗に年齢を聞かれたが、正直に答えるわけにもいかないだろう。そもそも俺は何歳くらいに見えるのだろうか。
「えーと……とりあえず早苗が思ってるよりは年上だ、とだけ言っておこうか」
「……ということは……二十七、八歳くらいだったりするんですか?」
「教えない。そう見えるんだったらそれでいいよ」
「それでいいって…… じゃあ、それより上かどうかだけ教えてくださいよ!」
「……上だ」
「え、えぇー!」
早苗が大袈裟に驚いてくる。ふむ、二十代くらいに見られていたのか。千年以上生きている妖怪ともなると、若く見られてもそれほど嬉しくない。紫とかだったら喜ぶのだろうか。
「三十代以上なんですか!? 全くそんな感じには…… あ、でも、古風な格好をしてますもんね……」
「どうする? こんなおっさんとお茶に行くのはやめとくか?」
「いえ! 見た目とか年齢は関係無いですから! それに私、真さん以上に年上だけど真さん以上に若い見た目の人知ってますし!」
「へー、そうなんだ」
そんなヤツがいたら、そいつは確実に人外なんだが……まぁそんなことを言っても仕方がない。ここは軽く流しておこう。
「……ところで真さんって、お金を持ち歩いてないってことはここら辺に住んでる人なんですか?」
「いや、住んでるのは結構遠いとこでな。ここへは来たばかりだが」
「え? じゃあお金も無いのに、食事とか寝るところとかどうするつもりなんですか?」
「ん? あー……そこらへんは考えてなかったが……まぁなんとかなるだろ」
「ぃいっ!?」
今まで旅をしてきていろいろな場所を訪れたが、具体的な計画を立てて旅したことは一度もない。それでもなんとかなると思っていたし、実際なんとかなってきた。お金があれば少し楽かもしれないが、無くたって全然生きていける。文明に揉まれて育った現代の子どもには想像できない話かもな。
「じゃあ今晩どこで寝泊まりするつもりですか!?」
「そりゃあ人が通らなそうなところを探してそこらへんで。寝ないって手もあるな」
「ご飯は!」
「ここに持って……ああいや、食べられるもんって結構身近にあるもんだぞ? 食べないって手もあるな」
「そもそもなんでここへ来たんですか!?」
「ちょっと用事があって。ついでに観光?」
早苗が大声で色々聞いてくる。そんなに大声を出されると目立ってしまうので少し声のトーンを落としてほしい。
「そんな大変な状況なのに、赤の他人の私を助けたりしてたんですか!? 何してるんですかもう! ありがとうございます!」
「俺は別に大変とか思ってないん……」
「丁度お店に着いたので、真さんの状況を中でゆっくり聞かせて……あああ定休日!?」
「お前一人で楽しそうだな」
早苗がなんか勝手に一人でテンションを上げている。お店が定休日なんだったら、もう俺はどっかに行ってもいいだろうか。
「ああ、閉まってるな、残念。じゃあ俺はこれで……」
「よくこのタイミングで立ち去ろうと思いましたね! 待ってください、それならファミレスにでも……」
「女の子に奢ってもらう気は無いって」
「無一文の身で、なんですかその強情さは! 普通両手を挙げて喜ぶところでしょう!」
あれ? 俺って早苗を助けた身分だし年上だよな? なんで早苗に怒られてるみたいになってるんだろう。
「喜んでるよ。早苗のその気持ちで十分嬉しい。ありがとな」
「それじゃあ私の気が済まないんですよ! ……ああそうだ、真さん今夜寝る場所を探してるんでしょう? それなら……」
「いや、探してない……」
「それなら! 私の家に泊まっていったらどうでしょうか!? うん、我ながらナイスアイディアです!」
「いやいやいや」
全然ナイスアイディアではない。やっぱり早苗は子どもだ、視野が狭い上に考えが浅すぎる。出会ったばっかりの男を家に泊めるなんて問題が多すぎるだろ。お父さん泣くぞ。
「あのなぁ……親御さんにどう説明するんだよ」
「そこですね、問題は。 ……うーん……神社のほうに泊める? いやいや、それでも結局お二人に相談することに変わりないし…… そうだ、真さんっていつまでここにとどまるつもりですか? 明日以降とかも……」
「期間は特に考えてないが……」
「そうだそれなら! 今日は家族に確認を取るので、明日以降泊まってください! 家の近くに誰もいない神社があるのでいつまででも大丈夫ですから! 明日改めて真さんを迎えに来ますね。朝にこのお店に待ち合わせましょう。できるだけ早く来るので、それまでなんとか生きていてください!」
「え……お、おい、俺は泊まるなんて一言も……」
「それではまた明日!」
「……行っちまった」
早苗は俺に言うだけ言ったら、返事も聞かずに去ってしまった。俺に借りを返すつもりなら、まず俺の話を聞いてほしいんだが。
……仕方ない、数日くらいとどまるか。一応用事があって外の世界まで来たが、急ぐことも無ければ場所にそこまでのこだわりも無い。ここは発展している場所みたいだし、少し見回ってもいいだろう。
「……明日まで何しよう」
あまりこの場を離れて、またここに戻ってくるのも面倒くさい。一日なんてあっという間だし、それまでこの辺で時間を潰そう。
そう思った俺はとりあえず、この人混みから抜け出すことにした。