私があの妖怪に恋をしたのは、いったいどれほど前のことだっただろう。何年、何十年、何百年も昔のことだったと思う。あまりに昔すぎて、もしかすると私という個が存在する前から恋していた気さえしてくる。気のせいだろうか。いや、あり得る。
あの妖怪と出会ったときのことを思い出す。
あのときの私はただの狐の妖怪だった。いやまあ、ただのというには九尾の狐は結構な妖怪なのだけどそれはともかく。紫様の式なんていう肩書きの無い、人間に憧れるだけの存在だった。
そう、私は人間という生き物に憧れていた。
人間は、寿命も短く弱い生き物で、それ故に支え合って生きている。それが個として生きていた私にとってはとても羨ましくて、とても輝いたものに見えていた。
とりわけ愛や恋といった感情に憧れた。
それを私も感じたくて、人間の中に混じって生きることにした。当然、妖怪ということは隠してだ。隠せない尻尾に関しては、幻術の類で誤魔化すことができた。
しかしある日、私の些細な失敗で、正体が人間たちにバレることとなった。そのころにはある程度の地位を持っており名前も知られていた私だったが、一転、人間たちに追われる身となってしまう。
それで人間の町にいられなくなり、逃げ出した先でのことだった。
私があの妖怪と出会ったのは。
あの妖怪は、優しかった。人間たちにやられて傷を負った私を、出会ったばかりだというのに献身的に看病してくれた。
あの妖怪は、強かった。自分の妖力には自信があったが、あの妖怪の持つ妖力を感じて、上には上がいるものだと教えられた。
あの妖怪と話すのは、楽しかった。今まで自分を人間と偽って、人間と接してきたためか。本当の自分、ありのままの自分を受け入れられたようで嬉しかった。
そしてあの妖怪と触れ合うと、胸が高鳴った。冗談を言って笑い合うと、満たされる気がした。これが恋心なのだと自覚して、喜んだ。
まったく、「恋に落ちる」なんて、人間たちはうまいことを言ったものだ。空を飛べない人間にとって、落下することに抗う術はない。確かにこの感情には抗えない。
深く、深く、私は恋に落ちた。海の底の底まで落ちて恋に溺れた。夢の中にいるみたいにふわふわとしていて、文字のごとくその感情に夢中だった。
その後、あの妖怪との別れのときが来たのだが、もう会えなくなるなんていう不安は無かった。私たちには繋がりができていたから。紫様……八雲紫と幻想郷のことだ。実際、何百年後かにはなってしまったが、私はその妖怪と幻想郷で再会できた。
嬉しかった。あの妖怪とまた話せて、何度目か分からない恋にまた落ちた。私は一体、何度同じ相手に恋をするのだろう。
この恋が実った今になっても、私は何度もこいつに恋をしている。
「……ん? どうした藍、ぼーっとして。風邪か?」
「いや、お前と共にいられる幸せを噛みしめていた」
「また藍は、そういう照れることを臆面も無く」
「というか私が風邪を引くわけないだろう。妖怪だぞ」
「確かにそれはその通りだな」
何度目かの冬が、幻想郷にも訪れていた。
雪も降っており、人間なら風邪を引く輩も出る寒さだろうが、私は平気。左手と、今の言葉で胸の奥まで暖かい。
私と真は、冬の妖怪の山を進んでいた。珍しく真に誘われて、私が承諾したからだった。よければ一緒に飲まないか、と。
私は、迷い家か、夜雀の屋台だなとアタリを付けたが違ったようで、それで妖怪の山までやって来ていた。
雪道を、歩く、歩く。スキマを使える身としては移動時間ほど無駄なものはないと思えるのだが、なかなかどうして、こうして歩く時間は無駄とは思えない。むしろ楽しいとさえ感じる。無論理由は明らかなのだが。
進むと、一軒の小屋へとたどり着いた。山小屋と形容するのにピッタリな、小さい家だった。どうやらここが目的地らしい。多分、妖怪の山に構えた真の家。
「なにも無いところだが、あがってくれ」
真に促され中へ入る。外見から分かっていたが、お世辞でも広いとは言えない部屋。そして真の言うとおり、小屋の中には何も無かった。
家具の類が一切なく、かろうじて存在するのは部屋の隅に、布団が一枚敷いてあるだけだった。
冬の雪山で、小屋にあるのは布団一枚。温め合うことしかできることがなさそう。
まあ、それもいいな。しばし妄想の世界に入り込む。
真は私が固まっていると勘違いしたようで、一人だったらこれで十分なんだけどと苦笑をした。その後に、変化で家具を作り出す。丸い机と、それから座布団。これでも十分殺風景だが。
真が座る。それを見届けた後、座布団をズラして真の隣に座る。苦笑。いいじゃないか、二人きりなんだから。
「最近どうだ、橙の様子は」
小さく、浅いお猪口を作りだし、それに酒を注ぎながら真は言う。少ない量だが、それでも酔えるのが真である。
一向に酒に強くならないな、真は。むしろ弱くなってる気さえする。
「まあまあだ。だが最近の集中力には目を見張るものがあってな。同じ修行でも飽きずに続けられることが多くなった」
受け取った酒をチビリと口にして私はそう答えた。私自身、式を育てるのは橙が初めてで、毎回新しい発見がある。それ故に話したいことも溜まっていた。
真と話す。油断すると橙の話ばかりになる。紫様の話もか。
私は思った以上に二人のことが好きらしい。三割程度は愚痴も混ざるが。好きだからこそ小さい欠点が目につくのだ。
対する真は、妖怪の山の話が多い。天狗たちの世話に苦労しているようだった。真を尊敬できない部下たちなんて追い出せばいいのに。でも真はそんなことしない。だから好き。
そのせいか、橙に算術を教えたいとも言っていた。一対多で教えるよりも一対一で教えるほうが楽しい、らしい。慧音の寺子屋で算術を教えていたことに未練があるようにも見える。
酒が進んで、話も進む。
真が霊夢の話をする。酔いが回ると、真は子どもの話が多くなる。まあ、私にとっての橙みたいなものだろう。
真の肩に頭を預けて聞いていると、戸を叩く音がした。誰だ私の幸せな時間を邪魔する輩は。死ぬ覚悟はできているのか。
「来たか。悪いな藍、ちょっと出てくる」
真は来客があるのを知ってたように、平然と立ち上がって扉へ向かう。私はそれが少々面白くない。後で真は、私にぎゅっと抱きしめられる刑に処す。
戸を叩いた人物の正体は、人間の男だった。それも外の世界から来た人間だ。人里の人間とは一味違うおかしな恰好が、その事実を物語っている。
実のところ、外の世界の人間が幻想郷に来ることは結構ある。
妖怪の本能を満たすために、紫様が連れ去ってくるということがまず一つ。それと、結界の歪みから生じる無差別な取り込みがもう一つ。そのどちらかに関わらず、こちらに取り込まれることをを幻想入りと言う。
この男は、後者で幻想入りしたようだった。それで妖怪の山にいて、彷徨ううちにこの場所まで来たと見える。地獄に仏といった様子で、真の姿を見て安堵していた。
男は興奮した様子で、ここは一体どこなんだとか、多分そんな感じなことを真に訊いている。
「答えてやりたいところだが、どうせ忘れるのだからそんなことを知っても仕方あるまい。大丈夫、目が覚めたらお前の知ってる場所に戻っているさ」
真はそう答えると、手をかざして男を眠らせた。意識を失いその場で倒れそうになる男を真が抱える。そして部屋の隅にある布団へと連れて行った。
後で知った話だが、真は時折、誤って幻想入りした人間をこうして保護したのち帰しているらしい。この小屋も、真が住んでいるのではなく、このためだけに急遽造ったもののようだ。
家具が無く布団だけあったのも頷ける。保護した人間を寝かせるためのものだったのだ。早とちりして布団に飛び込んだりしなくて本当によかった。普段の私なら絶対しないが、酔うとたまに突拍子もない行動に出る。
「お待たせ、藍」
戻ってきた真は、今度は自分から私の隣に座る。私は真に抱き着いた。一瞬でも私をほったらかしにした罰だ。抱きしめる。押し倒して、唇を塞ぐ。
「……藍、もしかして怒ったか? 確かにあの人間を待つ間の暇つぶしのために呼んだようにも見えるしな。すまなかった。でも、藍と二人になりたかったのは本当で」
変なことを言いだす真の頬を両側から引っ張る。むにむに、むにむに。
私がそんなことで怒るわけないだろう。というか、そんなこと思いつきもしなかった。
「今だって」
「ん?」
「今だって、考えようによっては私たち二人きりだ。あの人間は寝ているからな」
真と二人になりたかったのは私も一緒だ。そう思い、もう一度唇を塞ごうとした。そしたら、止められた。
真が体を起こす。お預けをくらった気分のまま、私も合わせて体を起こす。
「いくら寝ていると言ってもな」
真の基準では、寝ている人間がいたら二人きりではないらしい。変なところで頭が固い。残念。でもそんなところも好き。
「これでよし」
手をかざし、部屋の真ん中に壁を作り出して真は言った。これで寝ている人間と、私たちとで隔離されたことになる。壁一枚隔てたら真の中では許容範囲らしい。いやもしかすると、二重三重に壁を作っているのかも。
「藍、おいで」
そう言って、自分の膝をポンポンと叩く真。そこに座るか、頭を乗せるかで少し悩んだ。まあ真が望んでいるのはこっちだろうと頭を乗せる。たまにはこういうのも悪くない。というか毎回してくれていい。
前髪に触れられる。見上げると真がいた。見とれていると、不意に唇を重ねられて驚いた。不意打ちはズルい。
まるで悪戯が成功した子どものように、真は楽しそうに笑っている。その顔に触れたくなって、私は手を伸ばした。
頬に手を触れる。時間が止まる。
「どうした藍」
「お前と共にいる幸せを噛みしめていた」
「そうか。俺もだ」
真の手も私の頬に触れた。互いに互いの頬を触れている。まるで口づけの直前みたい。
これはもう、結婚と呼んでいいのではないだろうか。妖怪にそんな文化は根付いてないのだけど。子どもの名前を考えなければ。
「子どもの名前は
「唐突だな。藍と同じ系統の色の名前か」
それだけではなく、真の語感からも取っている。実は橙からも取っているのだが内緒だ。しん、らん、ちぇん、こん。紫様だけ仲間外れ。
「じゃあ俺は
そういう風に真は言ったが、実は真も、妹紅あたりから語感を取っているような気がする。もこうと、こも。気のせいだろうか。
「それだと真から貰ってる部分が無いじゃないか」
「いま考えたんだから、そんな色々考えられるわけないだろう」
「真の字を取って
「ぼんやりした子になりそうな名前だな」
「その感覚はよく分からないが」
未来の子どもの名前の話は、非常に楽しいものだった。
しかしあれこれ話したものの、結局の話、私の考えた名前が採用されることは無かった。理由は次の通り。
まさか勇儀と考えが被るとは。こん。あちらは闘魂の
惚れた相手どころかセンスまで同じとは、私たちは意外と似た者同士なのかもしれない。