暖かい風が吹いていた。
風は、生臭い臭いを運んでくる。赤い臭いだった。火の臭い、血の臭い。俺の目の前の世界が赤いのは、夕暮れ時だからだけではない。
図書館を出て、『新世界より』を背に。
俺はジュラ紀を見た。
四足歩行し二足歩行しあるいは飛行するジュラ紀が夕焼けの街を闊歩していた。
逃げ惑う人たちが、踏みつぶされ、食い殺され、あるいは単に互いにひしめき合って死んでいく。
ジュラ紀は、俺の目前を悠然と通り過ぎていく世紀末めいた棘付きのコブに体を包み尾に巨大なハンマーを武装した鎧竜であり、逃げ惑う烏の群れををまるでクジラが小魚を食らう様に人のみにして彼方へ消え去った翼と頭だけがアンバランスに大きな翼竜であり、泣き叫ぶ赤ん坊を細長い口にくわえて俺の足もとをすり抜けて図書館の中へ消え去った大型犬ほどの二速で走るトカゲの群れであり、それを半狂乱になって追いすがろうとした女をベビーカーごと踏み潰して歩み去った全貌すら見通せないほど巨大な雷竜であった。
あるいは、アスファルトを捲りあげて生い茂る呆れるほど巨大な羊歯植物であり、その間を戦闘機の様な爆音を響かせて飛び交う冗談みたいな大きさの蜻蛉であり、そんな虫にさえ捕食されて哀れな鳴き声を上げる幼稚園児の描いたネズミのような哺乳動物であり、その頬袋から俺の足もとへ零れ落ちた虹色に輝く水生生物の体の一部を思わせる肉片であった。
それは濃密な空気であり。
文明の崩壊だった。
地上にのたうつ電線は半生半死、逃げ惑う人や恐竜が知らずに触れては家々に流すだけのはずだった数百アンペアの毒牙を剥いて思い出したように噛付いて不意にその命を奪っていく。最も強敵だったのは背中に将棋の駒の様な骨質の板を並べた剣竜で、黒色の毒蛇を背中の骨に絡みつかせたまま、その毒牙が胡桃大の脳を焼き尽くすまでの数秒を絶望的な逃走に費やし電柱をひん曲げてしまっていた。
巨大な肉食恐竜は何が気に入ったのか4人家族が立てこもっているセダンに何度ものしかかっている。その所為でセダンの天井は本来の半分ほどの高さにまでなり、最早脱出が絶望的となった車内で、二人の子供の悲鳴など意に介さず両親は夫婦喧嘩をしている。セダンに施された悪趣味なペイントのどこが肉食恐竜へのセックスアピールに繋がったのかについて、掴み合いをしながら必死に襲い掛かる死から目をそらしている。
何故か路上に打ち上げられていた首長龍が、日本刀を持った男に串刺しにされていた。男は刀が折れる度に近くの家へ取って返しては新しい刀をもってきて首長龍に突き刺すのを繰り返す。どうも性的興奮と死の恐怖によって発狂しているらしいことが、そのズボンのシミと盛り上がりによって察せられた。
そこらじゅうで火の手が上がっていた。一軒に火が付けば火は瞬く間に縦横へ広がっていく。煙が上がり、灰がまき散らされる。その熱がその前を通り過ぎることを許さず、逃げ惑う群衆は所々でその最外周を熱圏に押し込んでいた。その中の一人が、燃え盛る家の庭から巨大な恐竜の卵を発見すると、暴徒と化した市民たちはその周りを取り囲んで棒を振り下ろす。その中身は既に茹り切っており、ある種のものが手を伸ばす。涙を流しながら彼らは、愛するものを恐竜に殺されたことを叫んでいた。
そんな光景が、そこら彼処で見られた。
どうやって家にたどり着いたのか、その記憶は全く抜け落ちていた。
気が付いたら、俺は自分のアパートの自分の部屋の玄関で、ドアに背中を預けて震えていた。
足は滅茶苦茶に走ったような疲労と、挫いたのか骨折したのか微妙なところの激しい痛みが渦巻いている。それら二つが放つ熱を冷やしているのは、認めよう、失禁した小便だった。生温かくて臭いにおいが鼻を突いたが、俺にできたのはパンツを下す事だけで、無様に座り込んでしまえばもう立ち上がることもできない。
手に持っていた鞄にはしっかりと図書館で借りた本が入っていたけれど、幾度となく鞄は鈍器として使用されたらしく、中身はめちゃくちゃにかき回されて、その外側にはべったりと血と髪の毛が付いていた。
隣の部屋からテレビの音が聞こえた。いやにクリアに聞こえる。街中が混乱していて、あるいは俺の背中の向こうでも何か小型恐竜が走り回る床を爪がリズミカルに叩き削るお供するというのに、俺にはその牧歌的なアニメのテーマソングがはっきり聞こえた。そのテレビ局にとっては、いきなり街中で恐竜が暴れ出すのも緊急事態には程遠いらしい。
不意におかしみが湧き上がってきた。
恐怖で頭がおかしくなったのかもしれない。
だが、そうではない部分では、冷静に何が起きたのかを理解していた。
魔人の能力によるものだった。
現代に恐竜があふれ出せば、それは魔人に決まっている。そんなのは幼稚園児にだってわかる。だが、俺はそれ以上の事を知っていた。
恐竜や動植物があふれ出したのは、ジュラ紀の世界とこの世界が一時的につながったからだ。それが具体的にどういう能力なのかは不明だが、引き起こした能力の名前は『サンカーシャ』。阿摩羅識ぎりかという魔人の能力であることも俺は知っていた。
ちゃんと『戦闘破壊学園ダンゲロス』の原作に書いてあったからだ。分量にして数行。その結果だけが非常に簡単な形ではあったけれども、確かに触れられていたのだ。
笑いとも、悲鳴ともつかない塊が、俺の喉をふさいでいた。
俺の指が、俺の頭に食い込んで潰してしまいそうになるのを、俺の冷めた部分が冷静に観察している。
知っていた。
知っていたとも。
俺のカバンの底に入っているノートの片隅には、たしかに数か月前に思い出したこの事実が書き留めてあったはずなのだ。
ジュラ紀世界との接合が、埼玉県で起こることも。
ここが埼玉県であることも。
俺は、知っていた。
知っていただけだった。
ただ、それが現時点では起きていないことに僅かな違和感を感じたに過ぎない。
もちろんそれは現在の俺から見て未来におきるはずに他ならないことも承知はしていたけれどなんとも思っていなかった。本筋には全くからまない内容だったから。
用心すること、とかたわけたことを書き添えていたかもしれない。
それが実際に起きて、そしてどれだけの被害が起こるかなんて、考えもしなかったのだ。
何が。
何が転生だ。原作の知識だ。俺の持ってるアドバンテージだ。
そんなもの、俺は全然役立てることができていなかったじゃないか。自分の身に降りかかる災害を、予測立てることもできなかったじゃないか。
何年も何か月もかけて本を積み上げ教科書を黒くした結果が、これか。
転校生だとか、ダンゲロスだとか、世界を渡るだとか。そんな絵空事にうつつを抜かしていた結果が、このありさまか。
笑いさえ出なかった。
代わりに、頭をつかんでいた右手が不意に滑り、髪の毛と血糊をつけたまま靴箱にぶち当たってその上のものを派手にぶちまけた。靴ベラが俺の頭を叩き、土間に空っぽの花瓶が落っこちて粉々に砕け、その上に印鑑や封筒が散らばった。
しばし、茫然とそれらを奈が見えていた俺は、不意に背後からの音に気が付いた。
いや、それは衝撃だった。何かが、ドアを叩いている。それも、へたりこんだ俺の頭のちょうど後ろ辺りを。それは高さにして一メートルもない。
何かが、ドアを叩いている。
のろのろとした動きで俺は立ち上がり、そして聞こえるのがドアをたたく音ばかりではないことに気が付いた。
名前。
俺の。
不意に閃くものがあり俺はドアの魚眼レンズをのぞく。何も見えない。
苛立たしくドアを開けようとするが、なにか重いものが引っ掛かって開かない。
呼ばれる俺の名前。
間違いない。そこにいるのだ。ドアのすぐ前に、倒れているのだ。
俺の、母親。
叫び返すと、果たしてもう一度俺の名前が呼ばれた。
いる。そこにいる。
ガチャガチャとドアを鳴らすことしかできない俺に、彼女は俺が無事かどうか聞いてきた。
まるで普通の母親みたいなことを言う。俺は苦笑して、それから自分の姿を見下ろして、それなりに無事だと答えた。湿っぽいパンツは邪魔なので完全に脱いで靴箱の下の放り込んだ。
それから。
悲鳴。
それも、押し殺したような悲鳴。
それからちょっとドアを開けるから身体を動かしてくれ、と言おうとして。
俺は思い出した。血の気が音よりも早く地獄へ向けて落ちていく。外。ドアの向こうに居るのは、母親ばかりではない。先ほど、小型恐竜らしきものが通り過ぎて行った音が聞こえたが、あれは。
俺の目の前が真っ赤に染まり、視界は図書館を出た瞬間に引き戻される。悠然と歩く鎧竜。空を飛ぶ翼竜。そして、あのに二足歩行する獣脚類は、人間の子供を食べていたのだ。
これまでの道のりで、恐竜に食い殺される人間もたくさん見てきたのだ。
ならば。
おれはドアに体当たりした。ビクともしない。
おかしい。
やはり。
悲鳴。
今度は押し殺すこともできない悲鳴。
今度は半狂乱になってドアを蹴り上げ、殴り、もう一度体当たりした。
さらにもう一度の体当たりで、ようやくドアは弾かれたように少しだけ開いて、俺は外を垣間見た。
外を。廊下を。
骨の見えるほど食いちぎられた足を。その傷口から顔をあげて此方を見上げる小型の恐竜を。その口元にべったりとへばりついた血糊を。
悲鳴。
それは俺のものか、母親のものだったか。
音を立ててしまったドアに俺が再び取りつくと同時に、音を立てて鍵が閉まった。
慌てて鍵を取り出すが、どこへ行ったか分からない。悪態をつきつつカバンをひっくり返し、ポケットを裏返しにするが見つからない。ようやく一分かけて、俺は家の中にいるのだからドアを開けるのに鍵は必要ないと思い至る。
開かない。内鍵のつまみを幾ら回そうとしても、開かない。それは鍵が壊れたのではない証拠に、時折まわりそうになるのだが、その都度押し返されてしまう。回しきれない。そのように、ドアの向こう側で抑えられているのだ。
なぜ。どうして。
叫んだが応えはなかった。そんな余裕はなかったのかもしれない。その頃にはもう母親の悲鳴は立て続けに上がってひとつながりとなって切れ目もない。
ただ、足が、と言っているのは聞こえた。意味のある言葉に聞こえたのは、それだけだった。
ドアの向こうで、母親は、足を食いちぎられながら、それでもドアを閉め鍵を閉める力を緩めることが無い。
俺はそれでもドアに喰ってかかる。声も枯れ、腕も上がらなくなり、足が棒のようになった。
それでもドアは開かない。
俺の呼びかけに、応えもない。
……それから、長い、長い、長い時間が過ぎた。
*
その後の記憶はさっぱりと抜け落ちている。
俺は、突入してきた魔人自衛部隊員に救助された。部屋の前には、自動小銃でハチの穴にされ 自営部隊員に踏みつぶされた恐竜どもと、その肉片と、その血と、それらとまじりあってしまった母親の残骸があった。死体袋に入れられるところだった。
服の切れ端が、かろうじて面影をしのばせた。
柔らかい鼻や目は当然のように食い荒らされていたから、面相はまるっきり別物のようで、見えたのは一瞬だったのにまぶたの裏に焼き付いたように覚えている。
魔人自衛部隊員が俺の手を引いて避難所となっていた近所の公園に連れて行ってくれ、そこで救護班へ引き渡された。殆ど戦場のような避難所で、俺なんかのことを誰かが気にかけていたかどうか。
その間、俺が何をしていたのかも、何を思って居たのかも、もう俺には思い出せない。
*
長年の疑問に一つ決着はついた。
母親はどうやら天涯孤独の身の上だったらしい。両親を早くに亡くし、他に身を寄せるべき親戚などもなかった。らしい。
どこの役所からだったか、そういう通知が届いた。
焼け出された人があまりにも多く、被害者を収容施設はあまりに足りていなかった。家の中には何も被害が無かったという事で俺は自分の家に帰されていた。
独りで飯を作って一独り食う生活にはあまり変わりはなかった。金は一日かけて箪笥の裏から通帳を見つけて下ろした。何も問題が無かった。
こんな時だというのに新聞はおろかダイレクトメールやチラシの類も届いた。
新聞はこれからのことを考えて止めたのだけれど、契約の期間だけ来続けた。
恐竜大量発生の記事はしばらく紙面を騒がせて、そしてあっという間に消えた。どこそこで大量虐殺があったとか、北海道からエゾヒグマが迷い出たとか、そういうネタには事欠かない世の中だ。
父親に、母親の死は知らせた。事務的に事実だけを記し、それからいくらか迷って、それ以上のことは何も書きはしなかった。
返事は来なかった。
事件の合同葬儀が営まれたので、俺は喪服を着て座っているだけで済んだ。
ほとんどすべての手続きは役所が済ませていて、俺は印鑑と署名をするだけでよかった。
初めて袖を通す喪服は、母親の遺品だった。丈も何もあっていなかったし、虫食いもしていたし、その割に防虫剤のにおいがきつかった。
けれど、そんなことを気にする人間は誰もいなかった。葬儀会場には山と積まれた柩があり、その中に詰め込まれた死体の多くはひどく損傷していたため腐臭が漏れていて、線香は普段の三倍も焚かれているようだった。遺族の中には異常性癖がいて、死臭につつまれたいから線香を消せとがなり立てていたが、別室に連れて行かれた後ドデカい銅鑼の音がしてそれっきりだった。珍事と言えばそれくらいだった。
静かなものだった。
葬式とは、概ねそのようなものであろうが。
ふと、俺も死んだときにはこのように弔われたのだろうかと思った。
そうかもしれない。トラックに轢き殺された俺は見るも無残な死にざまであっただろうし、腐ればひどい臭いがしただろう。
なんだか、ひどく、場違いな気がした。
俺の両隣にいた人もその向こうも、会場の端から端までも、涙をぬぐうのに必死な人ばかりだった。
俺は。
そういう俺は、泣きもせず笑いもせず、ただ、幾百も並んだ遺影の一つを眺めていた。
そこで母が死んでいる。
なんだか不思議な気分だった。
胸元に手をやる。
首にかけた鍵は、アパートの鍵だった。母親が力任せに回し続けたせいで、もう使い物にならないほどねじまがっている。鍵は交換したが、その時に手元に引き取った。
これを撫でるたびに不思議になる。ただの、人間だったのに。非力な女だったのに。どこにそんな力があったんだろうか。
わからない。
なぜ、あのとき母親は部屋の中に逃げ込もうとしなかったのか。
なせ、あの時母親はドアを開けようとする俺を押し返したのか。
わからない。
なぜ母親は死んだのか。
なぜ俺は生きているのか。
なにもかも、わからない。
問いかける俺に、モノクロの写真と化した母親は答えない。幾百の遺影の中の一つになって、俺にはその姿を探せない。ならば答える道理もないが、それでも俺は問いかけた。
ねえ。返事はない。
なぜ。返事はない。
どうして。返事はない。帰ってこないとわかっている返事を、それでも俺は待っていた。
葬儀は粛々と進む。行政の代表者が何かと訓示をくれた後、被害者の名前がひとりひとり呼ばれていく。啜り泣きだけが木霊する。母親の名前も数えられ、長い時間をかけて全ての名前が網羅されると、
磬子(かね)が鳴らされた。
木魚が低音を奏で、磬子が高音を担う。その狭間を、禿頭の僧侶の読経が埋めていく。
意味も分からないお経がしかし、まるでなにがしかの実体を持つかの様に空間に満ちていく。空っぽだった空間が満たされていく。あるいは、お経が満ち始めたから、空っぽだとわかったのかもしれない。不思議な感覚だった。
何かが満ちて、張り詰めていくのが分かった。初めは心地よく感じられたその感触が、やがて少しの圧迫感になり、そして溢れんばかりの緊張感に変わっていく。
ゆっくりと。
満ちていく。
読経の声が段々と遠くなって行き、意味の分からなかった言葉は音階の分からぬ音声へ遠ざかる。意識から、遠ざかる。潮が引くように。その代わりに、何か別なものが引き寄せられてくるのが感じた。
いつの間にか閉じていた眼を、ゆっくりと開き、また細める。
そこに見た。
幾百の遺影の中に、あのひとが。他の誰でもないあの女がいた。真っ直ぐと、こちらを見て。目を合わせて。微笑んでいた。
「 」
何かを言った。
そんなわけがないという理性と、たしかに聞いたという確信がせめぎ合う。考えて、考えて、考えても死人が喋るなんてことはないと思う。けれど、理屈ではない。正しいのは理屈ではない。間違っているのは理屈の方だった。
もはや読経もすすり泣きも聞こえない。
静かなざわめきの中で、俺は耳を澄ましている。聞こえない。聞こえるはずだ。聞きたい。俺は耳を澄ますのに、もう二度とあの声は聞こえる気がしない。
不意に読経が止む。
磬子が鳴らされた。
その音の中に、俺はようやくその言葉を聞いた。
なんという事もない。あのひとは俺を呼んでいた。
そこにいるのね、とでも言うかのように俺を呼んでいた。
姓はあの人のもの。名も、あの人が名づけてくれた。女の俺の名前だった。俺の、名前だった。
あの人は、俺の名前を呼んでいた。だから、俺は応えた。
「……母さん!」
どこにも居場所なんてないと思って居た。どこでもいいからここではないどこかへ行かねばならないと思って居た。
それが、今では間違っていたと気付かされる。
居場所は、あった。
俺は、ここにいた。
大莫迦者の俺には。
それをなくしてから気が付くことしかできなかったけれども。
「母さん……!」
言葉が、しめやかな空気ににじんで消えていく。式次第はまだ長く、粛々と進められる。
俺の両隣にいた人もその向こうも、会場の端から端までも、涙をぬぐうのに必死な人ばかりだった。
俺は。
俺も、泣いていた。
「4、夏への扉」へ続く。