「オトメちゃんは親戚のお家に行ったのよ」
その親戚というのが父方なのか母方なのか、その家はどこにあり、そもそもそんな話がいつのまにできたのか。そのようなことは一切触れられなかった。
沙希は未だ幼稚園児であったが、しかし人一倍敏かった。人の悲しみというのがわかる子供だった。それが例えば心無い男子たちのいじめの標的にされた両性院乙女を庇う正義感ともなっていたのだ。
その感覚は告げた。
たしかにオトメちゃんは帰ってこないのだ。
でなければ、どうして母がこれほどまでに悲しむだろう。
死、という概念を未だ正確に理解し得ない子供である沙希が、しかし永遠の別れというものについて初めて認識したのはこの時であったかもしれぬ。
沙希は人一倍敏い子供だった。
人の悲しみというのがわかる子供だった。
しかし、この時初めて、沙希は自分の悲しみというものを知った。
悲しみは肺腑の奥で燻っていた。陽炎の様に背筋を揺らめかせながら凍らせながら上がってきて、二の腕と頬を引き攣らせたかと思えば、それはあっさりと霧散した。
頬が。
静かに流れ出す涙を、まるで青天の霹靂の様に、あるいは時ならぬ雨の様に沙希は静かに拭い、そしてそれでも止まらぬと見るや眼を蔽うように隠した。
行き場のない声が体中の骨という骨を巡って結局喉の奥からせり出してきた。押さえきれなかった。抑えようとも思えなかった。脳髄がじんと痺れて、何も考えられずに、
沙希は哭いた。
抱き着くと、母親は待ち構えていたように沙希を抱き返して、しっかと、決して離すものかという様に良の腕でくるんでくれた。
どうしてわかったのだろう。
それこそが沙希の求めていた事だった。
なぜならば。なぜならば、もう五識は火にあぶられた様に歪んで果てて、肉も骨も筋もまるで凝ったように弛緩している。身も世もないという体で、沙希はまるで生まれたての子供のように泣いて泣いて泣いている。
世界が決壊して溶けていく。
その世界の果てで、母親が全てを押しとどめていてくれた。その両の手で沙希の悲しみを押しとどめてくれていた。
ここまではよい、しかしここからはいけない。その先に心配は一つもなく、悲しみの在り処は今この時この場所だけなのだと、そう保証していてくれた。
だから、沙希は思う様泣けた。
無量のこの悲しみに、果てはあるのだと、たしかに母親の温もりが教えてくれたから。
やがて、沙希が泣き始めた時と同じように寝息をたてはじめた時、ようやく沙希の母はようやく安堵のため息をついた。
全く、子供の泣く様を火のついた様と言うのは決して修辞的表現ではないと思う。我が子が今この時その嘆きによって燃え尽きてしまうのではないか、その様に恐れなければならない程、その悲しみは激しかった。
あるいは、単にそれが全く他に手のない嘆きであったのならば、そこまで怖れはしなかったやも知れぬ。
しかし――。
「おばさん」
一分前と打って変わって安らかな寝顔を魅せる愛娘を抱き抱えようとしたその時、背後からかけられた声に母親は僅かに痛みを覚えたように顔をしかめ、それから振り返った。
そこに、その表情はいつものように穏やか。
そうあってほしいと女は思っている。
だが、その元凶と言えば、そんな事にはまるで関心が無いようだった。
そこにいたのは少年である。
先と同じくらいの年で、背はといえばこの年ごとの男女には珍しく沙希よりも少年の方が幾分高い。やんちゃ盛りの少年にありがちな事で、顔や腕にべたべたと包帯や絆創膏の類が張らてている。かといって、考えなしの喧嘩少年課と言えば、とてもそうは思えない程にその表情は引き締まっていて、その思慮の深さを感じさせる。
そのまなざしは、真直ぐに沙希を見ている。
「ごめんなさい、勝手に入ってきて」
「いいのよ……いつもそうしてたじゃない」
やがて、少年は沙希から女に視線を戻してそういった。女は何気なく応えた。その心算ではあった。それが、どれほどの功を奏したのかは、判らなかった。
目の前の子どもは、つい先日最後に目にしたときからは変わり果てていたからだ。
男子三日会わざれば――という諺があるが、この場合はさらに。
「乙女ちゃん――いえ、
「はい」
「これからも、沙希のお友達でいて頂戴。これまでの様に」
「はい」
そう言って、それから少年はよどみなく、まるで予め考えていたような、それも昨日今日からではなくて、まるで遠い昔からずっとずっと思いつめていたような声音で、続けた。
「いいえ、これからは僕が沙希を守ります」
――そう。
そう応えた女の、その言葉は果たして声として少年に届いたか、どうか。
本気なのだと思う。
それは、女の勘であるが、嘘ははないのだとわかっていた。
嘘を吐いたのは自分だ。
女はそう思う。
子供たちはいつも、あきれ返るほど正直だった。
だから、本当の事を隠し、糊塗して、嘘にしてしまうのはいつだって大人だ。
少年の名前は両性院男女。
かつて、隣家に住んでいた少女、両性院乙女、そのなれの果てである。彼女は魔人として覚醒し、性転換の特殊能力を手にしたのだ。
魔人覚醒。
それは、知らしめればその子供の社会的なダメージの計り知れない大事だ。
凶悪な事件を引き起こし、かつてはその暴力を持って政治を独占した魔人は、今では社会的に何ら価値を認められることが無い。排斥されるばかりである。魔人と知られる事に害こそあれ利益などあり得ない。
友達は離れ新たに作ることも難しい。人間であれ魔人であれ教師から愛されることもないだろう。勉学は難しく、学業が大成するとは言い難い。就職にも制限がかかり、将来の所得も知れてしまう。恋愛や結婚だとてない袖は振れず、将来には寂しい老後が待ち受けているか、あるいはそれさえありえない短い一生。理解を得られず周囲に受け入れてもらえない。中には自棄になって凶行に走り魔人警察に殺されるものも少なくない。
およそ、魔人の一生とはそのようなものである。
当然の成り行きとして、子供が魔人と為ろうと親はその事実を隠そうとする。
両性院乙女の親も例外ではなかった。
一時は本当に親戚に預け、そのかつてを知る者とてない異郷でただの子供として生かすつもりであったのだという。
そこに立ちふさがった最大の障害は――。
「――だって僕は、そのために男の子になったんだから」
躊躇いなく言い切る少年のその眼に宿るものを、何と呼ぶべきか。
ある者は決意と呼び、ある者は歓喜と呼び、ある者は邪悪とさえいうだろう。それほどまでに強く輝き、深く底の見えぬもの。およそ人間の持ちるうる感情の中で最も強く、破滅的で、何ものをも超克する儚い意志。
女は娘に向けられるその感情を過たずとらえた。
その名は恋情。
今までもこれまでも決して逃げも隠れもせずに少女の瞳の奥にあり続け、しかし少年の瞳の中でようやく見出すことのできたもの。
女の――いや、当人以外の誰も見ようともしてこなかった、常識に糊塗された世界の裏側の真実。
「だから、これからは僕が沙希を守ります。任せてください」
「ええ――勿論」
人間が魔人と化すに至る執着を、正しく扱うことのできるものがどれほど居よう。
少なくとも、両性院夫妻は最善でなくとも次善の手を打った。
娘は――今や息子だが――沙希ちゃんと引き離そうとすれば何をするかわからない。ならば遠くへ行かせるのではなく、危険を冒してでもこの場所に居続けるほかはない。そう思い定め、天音家に協力を要請したのだ。
協力と言えば聞こえはいい。だが、お宅の娘に執着する魔人を宥める為に娘さんに協力して欲しい、と言うその内容は、結局のところ半ば恫喝であったことも否定しがたい。
侃侃諤諤の議論があった。
結局は、両性院乙女は遠くへ行き、代わって両性院男女がやってくるという茶番を演出し、沙希には真実を伏せるという形になった。
その最大の山場であり、唯一の懸念であった沙希への説明は済んだ。
だから。
問題はこれからである。
「勿論そうね。男の子だものね」
「はい」
「その、傷は?」
「……前に、沙希を苛めていた奴を。……とっちめてきました」
「そう。でも、程々にね」
「はい」
悪い子ではない。
娘の親友であったという欲目を抜いても、理性的で話の通じる子だ。この年頃の子供としては、いっそ痛ましいほどに。
暴力に酔っている様子も見受けられなかった。
言葉だけとらえればいっそ誇らしげにしてよさそうものなのに、少年の瞳は罪悪感に揺れた。乙女ちゃんは本当に優しい子だったものね――今更ながらに女は思い出す。
「ちょっと待っていて。この子を寝かしつけたら話があるの」
「はい」
少年は、かつて隣家の少女がそうしていた様に、行儀よく客間へ消えていった。
女が娘を寝かしつけ、お茶とお菓子を持って客間に入った時にも、はやり少年は懐かしい少女の面影を残していた。
けれど。
変わってしまったものもまたあった。
「これは提案なんだけど」
当たり障りのない会話の果てに、ようやく女は言った。
お茶を口に含んだが、喉の渇きはいや増すばかりであった。
「なんですか?」
「あなた。沙希の事が好きなのね」
「…………」
「それはまあ、いいの。今は男の子なのだし」
今のは蛇足だったかな、と女は思う。
だが、少女がかつてそのことに負い目を感じたのは確かだろう。沙希を守るため――なるほど嘘はあるまい。だが、決して全てでもない。
この小学生にもまだ上がらぬ子どもが、魔人と成り果てるまでに人を想ったのだと、その思いを向けられて知らずに眠っている娘の事を思うと女はこの小さな魔人の事を決して憾むことはできないと思う。
この子は、痛ましいほどに敏い子だ。知らなくてもいいことを知って、それに縛られ苦しんでいる。
愛した相手が同姓だから結ばれないだなどと。
「今は男の子だけど、私はオトメちゃんがレズビアンでも構わないと思ってる」
魔人は、お茶を吹き出した。
何とか謝ろうとし、それから今の言葉を聞き返そうとし、混乱の内にむせまくる。
ここは。
慰めてあげてもいいけど、責め時よね。女の勘がそう告げる。そして、その方が楽しそうだと女は思った。
「だから、これから何年かして本当に沙希に告白する勇気が出て、そして振られたら私のところに来なさい。愛してあげるわ」
少年魔人は悶絶した。
女は上品に笑って、それ以上は何も言わず、少年も何も聞かなかった。女がまた当たり障りのない話を振って、少年は縋り付く様にそれに応え、しばし歓談し、少年は家を辞した。中味のある会話と言えば、両性院男女として沙希の前に姿を現す段取りについてだが、これも予め大筋では決まっていたのでその細かいところを二三詰めただけだった。
もちろん本気だった。
娘がこの一途な元親友をむげにするとは思えない。
だが、こと色恋となれば受け入れられる入れられないは理屈ではないのだ。だからこそ性質が悪い。恐ろしい。その恐怖がこれからずっと、あのかわいそうな子供にはついて回るだろう。
それは哀れだと女は思うのだ。
だから、その先を示した。
現実的には想い人のお母さんなんてオバサンすぎてとても無理よねとは自分でも思う。正直短く見積もってもあの子が告白なんて大それた真似をできるようになるまで、娘が恋愛に向き合うようになるまでかなりの年数がかかると思う。
だが、あの痛ましいほど敏い子供は考えるだろう。その最悪の結末についても。そこに至ればその悲しみは今日の娘の嘆きように勝るとも劣るまい。
だから、どんなに馬鹿らしくても最悪のその先を用意してあげずにはいられなかったのだ。その先に心配は一つもなく、悲しみの在り処をその時その場所だけにしてしまえる言葉が何か一つでも、あの少年がたどる未来には必要だと思ったのだ。
だからそうした。
それはそれとして、娘と同じ年頃の少年に恋をしたのも本当である。
しかもその子が好いているのは誰あろう娘である。
参った。
これでは変態ではないか。
まあその時にはきっと年頃の美少年か、美少女になってるからいいでしょう。女はそう考えてひとりごちる。
寝室では娘がこれからの未来に何の不安もないような朗らかな寝顔を見せていた。
かくあれかし。
子供たちはいつも、あきれ返るほど正直なのだ。
だから、本当の事を隠し、糊塗して、嘘にしてしまうのはいつだって大人の役目だ。
母は微笑むと、しばしともに昼寝することにした。
『天音沙希』へ続く