咲-Saki- 北大阪恋物語   作:晃甫

6 / 14
新子憧の場合

 

 カラッ、と乾いた音が耳に届いた。別段大きな音では無かったが、その音が最早目覚まし代わりになってしまっている少年にとって、毎朝決まった時間に聞こえるこの音は迷惑ではなく寧ろ有難いものだった。もぞもぞと布団の中で身体を動かし、尚も二度寝を促そうとする睡魔を必死に振り払いながらまだ温かみの残る布団から抜け出すと、そのまま窓際へと向かう。

 藍色の遮光カーテンを寝ぼけながらも開くと、柔らかな日差しが部屋に差し込んだ。目覚めて間もない彼にしてみればその日差しでさえも『うっ、』と呻きたくなってしまうようなものだったが何とか堪え、鍵を掛けてあった窓をカラカラと開く。

 

「おはよ」

「おーぅ……、おはよう」

「寝ぼけてるとこの前みたいに落っこちるよー?」

「大丈夫、俺そんな間抜けじゃないから……」

「その言葉一週間前のコウに聞かせてあげたいよ」

 

 補足しておくと、今窓を開いた彼の自室は二階にある。どういう訳か聞こえてくる声が言っていた落っこちるとは、言葉そのままの意味だ。

 まだ完全に意識が覚醒仕切っていない様子の彼を見て、その一メートル程先の窓から上半身を外に出している少女はしょうがないなぁ、と小さく苦笑した。

 

「ほら、早くしないと学校遅れちゃうよ?」

「何言ってんだよ。今日は日曜日だろ?」

「お前が何言ってんだ」

 

 いい加減いつまでも寝ぼけているこの少年に若干のイラつきを感じ始めている少女としては、さっさと叩き起してやりたいところである。

 しかし、今の時刻を鑑みれば声を荒げてしまうのは憚られる。何せ早朝、朝七時なのだ。会社員や学生の殆どは起床している時間ではあるが、ご近所迷惑になることは間違いない。

 

「もー、しゃんとしてよコウ」

「んー、分かってるって」

 

 ガシガシと寝癖の付いた髪の毛を無造作に掻く少年を前に、少女は大きく溜息を吐いた。

 と、ここでようやく意識が覚醒してきたらしい少年が何度か目を瞬かせて少女の方をじっと見る。その視線に気がついた少女は、視線を左右に泳がせておろおろと身体を揺らし始めた。彼女には目の前の少年にここまで凝視される理由が分からなかったのだ。脳内で勝手に想像してお花畑を展開しだしそうな少女へと、少年は言った。至って平静に、無感情に。

 

「……憧。ブラ見えてる」

「…………………」

 

 数秒の沈黙。

 

「ぃ……」

「い?」

 

 少年が少女の言葉を聞き返した直後、ご近所一帯に幼気な少女の悲鳴が響き渡った。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 数時間後、左の頬に見事な紅葉マークを付けた少年と、尚も怒りが収まっていない様子の少女が二人揃って通学路を歩いていた。先程の一件で見事なビンタを食らった少年は、頬を摩りながら隣を歩く少女へと視線を向ける。

 

「つーかさ。俺としては親切心で教えてやった訳で、決してやましい気持ちとかからじゃないんだけど」

「うっさい! 年頃の女の子に対してあんなド直球な指摘の仕方しかできないの!?」

 

 頬を紅くして声を荒げる少女は胸元に手を当てながら少年をキッと睨み付ける。いやいや、ブラ見えてるの教えてやったのに、と内心で思う少年だったがこれ以上言い返すとまたビンタが飛んできそうなので口には出さない。

 余り深く言及しない、踏み込まないという思考は少年がこの少女と付き合っていく上で身につけたスキルの一つでもある。こんなスキル欲しくなかった、と思う少年の背中には少しばかりの哀愁が漂っていた。

 

「全くもう……ちょ、ちょっとは何か反応してよ」

「ん? なんか言った?」

「なんにも!!」

 

 後半部分の言葉を聞き取れなかった少年が聞き返すも、返ってきたのはそんな言葉だった。

 艶のある髪の毛をツーサイドアップにした少女、新子憧は隣を歩く少年を見上げる。少女よりも頭一つ分高い身長に、ツーブロックにされた髪の毛。どこか飄々とした雰囲気を感じさせる少年は憧とお隣さん、言ってしまえば昔からの幼馴染のような関係である。小さな頃から一緒に遊び、小学校も中学校も同じだった。

 

 少年、福与恒太はそんな幼馴染を横目に見ながら、舗装されたばかりの道を歩く。

 今日の朝のテレビ番組のお天気お姉さんが言っていた通り、二人の頭上には昇って然程時間の経っていない太陽が爛々として輝いていた。雲一つない青空が心地良いが、その太陽が放つ熱だけは勘弁してもらいたい。まだ朝方だというのに既に気温が三十度近いとはどういう訳なのか。地球温暖化をここまで身近に感じたのは初めての恒太だった。

 しかし、一方の憧はといえばそこまで暑そうには見えない。怪訝に思った恒太は、徐に口を開いた。

 

「なぁ憧。お前暑くないの?」

「は? 暑くないわけないでしょ。何言ってんの」

 

 白のカッターシャツにスカートという格好の憧。薄着であることに違いはないが、この真夏日の下を歩いていて汗の一つもかかないといいうのは些か不自然ではないだろうか。

 そこまで考えたところで、恒太はハッとする。これは踏み込んではいけない一線である可能性が高い、と。このまま不用意にそのことを口にしてしまった場合、乙女の秘密云々に土足で踏み込むことになるのではないか。そう瞬時に察知した恒太は、寸でのところで言葉を飲み込む。

 

「いやなんでもないんだ気にしないでくれ」

「何でそんな早口なのよ……」

 

 ぶんぶんと頭を振る恒太を怪訝そうに見つめる憧。しかし然程気にした風でもなく、すぐに話題は別のものへとシフトしていった。

 

「もうすぐだね」

「ん? なにが?」

 

 憧の言葉にそう返した恒太。が、その返答を聞いた憧は『こいつ本気で言ってんのか』的な表情をありありと浮かべている。ジトッとした視線が恒太へと向けられる。

 

「地区予選よ地区予選。まさか忘れてたわけじゃないでしょうね?」

「あー。そういやぁ来週の土曜日だったっけ」

 

 憧の言わんとしていることをようやく理解して、恒太は納得の声を上げた。来週の土曜日には、奈良県の麻雀部員が一同に集うインターハイ予選が行われるのである。インターハイと言えば部活動に取り組む全国の高校生が目指す夢の舞台。しかし生半可な努力では到底届かない遥か高みにある舞台だ。そのインターハイに奈良県代表として出場するため地区予選に、憧は出場するのである。因みに奈良県には過去四十年で三十九回インターハイに出場している晩成高校があり、今年も優勝候補の筆頭に挙げられている。

 そんな強豪に勝とうというのである。当然、普通に練習しただけで成し遂げられるものではない。どれだけ本気で打ち込んでいるのかは彼女の瞳を見れば分かる。その瞳に、一切の揺らぎは感じられなかった。

 

「……本気なんだな」

「当然でしょ。じゃなきゃ態々阿太峯から阿知賀女子に行ったりしないって」

 

 そう言って笑う憧。彼女は一度は麻雀の名門である晩成高校に入学しようとしていたのである。が、彼女の友人である高鴨穏乃のたっての願いを受け、阿知賀女子学院からインターハイを目指すことに決めたのだとか。恒太の聞くところによれば、今は地区予選に向けて猛特訓をしているらしい。

 憧からそうした話を聞くたびに、恒太は目の前の幼馴染の頑張りを嬉しく思うのだ。

 

「ま、頑張れよ」

「見てなさい。今にコウにぎゃふんと言わせてやるんだから!」

「いや俺は男だから対局しないだろ」

「そういうことを言ってるんじゃないわよ」

 

 全くもう、と憧は肩をすくめた。そうして話をしているうちに最寄りの駅に到着した。ここから二人は別々の電車へと乗り込んで行くことになる。

 憧は阿知賀女子へ向かうための電車に。恒太は――――晩成高校へと向かうための電車へと。

 

「じゃね、コウ」

「おう」

 

 そう互いに言葉を交わして、二人は別々の車両へと乗り込んでいった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 晩成高校で最も盛んな部活動はと問われれば、まず真っ先に上がるのが麻雀部だろう。過去四十年のうち三十九回も奈良県代表としてインターハイ出場し、奈良県だけでなく関西でも今や不動の地位を手にしている。麻雀という運の要素が強く絡む競技で、いくら実力者と言えども安定して勝利を収め続けるというのは難しい。現に全国を見てもこれほどまでに安定した実績を残している高校は極端に少ない。現在インターハイを二連覇している白糸台高校でさえ西東京を制しているのはまだ二度で、東東京の臨海女子も十五年連続がやっとなのだ。

 それを考えれば、三十年連続地区優勝の記録を持つ晩生が如何に突出しているのか理解できるだろう。

 因みに過去四十年間でたった一度だけ優勝できず全国出場を逃したのは十年前であり、その相手が現在憧が通う阿知賀女子だったりする。当時の阿知賀はそのままの勢いでインターハイでベスト8にまで進出した。これは晩成が持つインターハイ六位に並ぶ好成績だった。

 

 さて、そんな晩成高校麻雀部であるが、これまで述べてきたのは全て麻雀部女子の戦績である。

 男子も勿論部員にいるが、残念ながら女子程の成績は残せていない。そもそも今の日本の麻雀界は女高男低と言われており、男子よりも女子のほうがレベルが高いと言われている。特に現在の高校女子麻雀界は怪物と称される少女たちの巣窟で、昨年のインターハイで西東京の宮永照、龍門渕の天江衣、三箇牧の荒川憩に永水女子の神代小蒔と桁外れの実力者たちが大暴れしたのは未だに記憶に新しい。よってそもそもインターハイに出場するのすら難しく、出場したとしても勝ち残るには相当の実力が無くてはならないのだ。

 比べて、男子にはそういったスター級の選手というのは極端に少ない。テレビ放送などされた際に女子麻雀ほどの迫力がないこともあるのかもしれないが、とにかくパッとしないのだ。

 競技人口でも若干少ない男子であるが、全体の競技レベルが低いことで女子のような高レベルの対局というのが少ない。勿論中には例外がいて、女子以上のオカルトを有する選手というのも存在するが、そういった選手はほんのひと握りなのだ。

 

 晩成高校麻雀部女子の人数は五十人を超えるのに対して、男子はたったの四人。

 この人数差が、現状の男女間の差を如実に表していた。

 

「恒太! もう一局だ!」

「えー? やだよめんどくさい」

「なんだと!? 先輩がもう一局って言ってるんだからもう一局だ!!」

「だってやえさん勝つまで止めないだろー? もう半荘六回やってんだぜ。いい加減諦めろよ」

「うぐぐ……!」

 

 晩成高校麻雀部、部室。木造だが古臭さを感じさせない清潔感のある大きな部室の中心で、一人の少年と少女が視線をぶつけていた。否、少女の方が一方的に睨み付けていた。

 髪型の右側はおさげ、左側は縦ロールというヘアスタイルの少女は、どうやら今の半荘で少年に負けたことが悔しいらしい。点棒を片手に、椅子から立ち上がると。

 

「うるさいうるさい! 私に負けは許されないんだ!」

「いや負けまくってますけどやえさん」

「ぬぐぐぅ……!」

 

 少女、小走やえは言い返すことが出来なかった。

今日行った六回の半荘で、一度も目の前の少年、福与恒太を上回ることが出来ていない。いくら運の強い要素が絡むと言っても、それは裏打ちされた技術や実力で覆すことも可能である。にも関わらず、やえは恒太を上回ることが出来なかったのだ。それは今日だけに限った話ではなく、恒太が晩成高校に入学してきてからの三ヶ月間ずっとだった。

 

「なんでだ! なんで一回も恒太に勝てないんだよぅ! 私は王者なんだぞ!? 奈良県トップなんだぞ!?」

 

 余程悔しいのか涙目になってきたやえに、同じ卓で対局していた横の二人が宥めにかかる。

 

「や、やえ。ほら、恒太はなんつうか例外の人外みたいなもんだし。やえが負けるのも仕方ねえよ」

 

 短めの金髪を立たせた髪の毛にキリッとした顔、そして男子並に高い身長を持つこの少女は晩成高校麻雀部の部長を務める上田良子。一応断っておくが、決して某慢心王でAU王ではない。

 

「そ、そうですよ。恒太君は全国チャンプなんですし、勝てたらすごいですよ」

 

 咄嗟のフォローを入れたのはボブショートの可愛らしい顔をした少女だった。三年生であるやえに敬語を使っているところを見ると後輩なのだろう。

 

「ちょっと由華さん。俺なんかよりも強い人たくさんいますからね?」

 

 由華と呼ばれた少女、巽由華は恒太のその言葉を受けて目を丸くした。信じられない、とでも言うように。

 

「俺がインターミドルを三連覇できたのってただのラッキーなんだよ」

「いや、ラッキーでインターミドルを三連覇できないと思うんだけど……」

「いやいやほんとに。俺が一年生の時のインターミドルってさ、それまで二連覇してた人が出てこなかったから優勝できただけなんだ」

 

 福与恒太。恐らくは、今最も強い男子高校生。

 彼は中学時代のインターミドルを三連覇した怪物である。そんな彼を以てしてそそこまで言わせる人物に、由華を含めた三人は興味が湧いた。

 

「だ、誰なんだ? 恒太がそこまで言う奴って」

 

 卓に乗り出してきたやえを抑えつつ、恒太は苦笑しながら言った。それは、やえたちにも聞き覚えのある名前だった。

 

「――――三尋木燐。今は白糸台で監督やってるらしいよ」

 

 

 

 ◆

 

 

 

「へっくし!」

「どうしたの燐。風邪?」

「うーん、なんだろ。誰か俺の噂でもしてるのかな」

「…………」

「あの、照? なんでそんな顔してるの?」

「燐の噂してる女の子は、どこにいるの」

「え、なんで女子限定……」

「渡さない、燐は私のもの」

「ちょ、照!? 今は部活ちゅ……」

「おいお前らいい加減にしろよ部長権限でしばくぞ」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 晩成麻雀部の部活動は毎日大体六時くらいまで行われる。地区予選が来週の土曜日にまで迫った今日はそのメンバーが発表されるということで、部室内はいつにない緊張感で満たされていた。全ての卓で牌が片付けられ、掃除も全て済ませたうえで、ホワイトボードの前に部員全員が集められる。

 五十名を超える部員の前に立つのは部長である上田良子である。監督から渡されたのだろう資料を片手に、団体メンバーとベンチメンバーの名を挙げていく。

 そんな中、恒太はと言えば今日の夕飯は何かなあ、などとどうでもいい事を考えていた。特に何の変哲もない天井を見上げながら、冷やし中華とかいいなぁと思い描く。恒太にしてみればそもそもこのメンバー発表自体が関係ないものなのだ。何故なら晩成高校麻雀部に男子は四人しかおらず、団体戦へのエントリーが出来ないのである。故に個人戦のみに出場する恒太にとって、女子のメンバー発表の場に集められてもという思いのほうが強かったりする。

 女子メンバーのほうは大方の予想を裏切ることなく固まった。やはり主力となるのは三年生たちで、団体メンバーに抜擢された二年生は巽由華のみ。一年生はベンチメンバーにすら選ばれなかった。このことからも晩成高校の層の厚さを窺い知ることが出来るだろう。

 発表が終わり、良子が解散を宣言すると同時に多くの生徒たちが緊張の糸を切り、わいわいと賑わいだした。そんな中で、恒太は一人の少女のもとへと歩み寄っていく。

 

「お疲れ、初瀬」

「あ、恒太。お疲れ」

 

 肩にまでかかるセミロングの髪を耳にかけた少女、岡橋初瀬は、恒太の言葉に明るく返す。おや、と内心で恒太は意外そうに呟く。てっきりメンバーから外れて落ち込んでいるかと思ったが、彼女の様子を見る限りそうでもないらしい。

 

「落ち込んでるかと思ったけど、そうでもないみたいだな」

「いや凹んでるよ? でも私には来年も再来年もあるし、今年だけは応援席からで我慢してあげるの」

「ははっ、頼もしいな」

 

 初瀬の言葉に、恒太は笑みを返す。

 恒太と初瀬、そして憧を含めた三人は中学まで行動を共にしていた。憧と初瀬が仲良くなったのは中学で同じクラスになってからだ。元々社交性が高かった憧と息が合ったらしい初瀬は、知り合って一週間もしないうちに親友と呼べるまで仲良くなった。部活も同じで家も近いこともあり、よく雀卓のある初瀬の家で三麻をしたものだ。しかし高校も当然同じ晩成に進むものだとばかり思っていた初瀬にとって、憧の阿知賀へと進学するという言葉は受け入れられるものではなかった。何のために阿太峯中学に入ったのか、進学校である晩成へと進むためではなかったのか。そう聞いても、憧の答えは同じだった。

 友達との約束があるから。

 なんだそれは、と初瀬は思ったことだろう。自分は友達じゃなかったのか、一緒に晩成で頑張ろうと約束したのは、あれはなんだったのか。

 二人の仲違いに対して、恒太は何もしなかった。恒太が仲介することは出来るだろう。二人の考えをきちんと理解しているのは、きっと恒太だけだ。憧の考えも、初瀬の想いも。どちらも正しいし、間違ってなどいない。だからこそ、恒太にはどうしようもなかったのだ。

 現状初瀬が一方的に意地を張っている状態だが、心の奥底ではどう思っているのかなど、彼女の表情を見ていれば解る。

 

「……憧だったら、ベンチくらいには入れたかもね」

 

 帰り支度をしながら、ポツリと初瀬が呟く。

 

「憧な、阿知賀で頑張ってるみたいだぞ」

「ふん。あんな潰れかけのとこで麻雀したって強くなるわけないじゃない」

 

 スクールバッグに荷物を押し込んで、初瀬はそれを肩に掛ける。

 

「ほら、帰るよ」

「あいよ」

 

 初瀬の言葉に頷いて、恒太も自分の鞄を肩に掛けた。窓の外を見れば、地平線に沈む夕日が視界に飛び込んでくる。六時を回っているというのに未だ輝きを放つそれを眺めながら、恒太は僅かに目を細めた。 

 

 晩成から駅までの道のりを、恒太と初瀬の二人は歩く。

 腕時計を見れば既に時刻は七時をまわっていた。空はうっすらと濃紺が広がりつつある。

 

「こ、恒太はさ。個人戦勝てそう?」

 

 横を歩いていた初瀬が、俯きがちに尋ねた。

 

「ん。まぁ余裕だろ」

「……その余裕綽々な態度はなんかムカつくわね」

「奈良県どころか、全国にだって俺の相手になる奴は少ないだろうよ」

 

 それは自信過剰なのではなく、恒太の本心から出た言葉だった。実際、昨年までのインターミドルでは恒太を苦戦させる程の打ち手には出会えなかった。決勝卓でさえ、他の三人とは二万点以上の差があったのだ。高校に上がってから急激に力を付けた選手でもいない限り、相手になるのはあの三尋木燐くらいしかいないと思っている。

 が、その三尋木燐は今は白糸台の監督を任されているのでインターハイには選手として参加しない。彼のいないインターハイなど男子個人戦を行う意味がないのではないかと思うが、根は真面目な恒太は出るからには優勝、という思いを持って大会に臨もうとしている。

 

「でもほら、去年男子個人で三位だった鹿児島の井上って人は今年三年生でしょ?」

「ああ、あの鳴き麻雀するやつか。あんなの話になんないよ、デジタル打ちしてるみたいだけど女子のレベルと比べればだいぶ落ちるし」

 

 初瀬が言っている井上という選手は昨年のインターハイ男子個人戦で三位に入賞した九州赤山高校の選手だ。三尋木燐と同い年だったと記憶しているので、今年が最後のインターハイだろう。恒太が県予選を突破して全国へと駒を進めれば、まず間違いなく対戦することになるだろう相手である。初瀬から見ても井上の打ち方は基本に忠実で無駄が削ぎ落とされたお手本のようなデジタル打ちだと思う。しかし、それを恒太は一蹴する。

 

「アレからは何のニオイも感じない」

「またそれ? ニオイとかなんとか、一体どんなニオイがするっていうのよ」

「何て言うのかなー。強者にしか纏えないニオイっていうの?」

「いや、私に聞かれても」

 

 恒太の言う『ニオイ』なるものが理解できない初瀬は首を傾げる。当人である恒太も、実のところそれが何を根拠にしているのかはっきりとは理解できていない。ただ、なんとなく感じるのだ。その人間の纏う雰囲気や表情、仕草などを漠然と見たとき、自分と通じ合うところがあるのを感じる。それを恒太は『ニオイ』と呼んでいる。

 

「あ、じゃあさ。晩成にそのニオイを持つ人っているの?」

「ん? んー、どうだろうな」

 

 何かを期待した表情で尋ねる初瀬に、恒太は明確は答えは返さず言葉を濁した。それが不服だったのか、少女の眉が怪訝そうに下がる。

 

「なによ、うちにはそんな強い人がいないってわけ? そりゃ恒太には勝てないけど、小走先輩とか巽先輩は奈良県でもトップクラスの打ち手だよ?」

「いやいや。そんなことはわかってる、あの人らも十分強いよ」

 

 ――――晩成の中では、という言葉を、恒太は口にすることは無かった。

 来週にまで迫った地区予選に向けて、最後の追い込みとばかりに部内は真剣味を帯びた練習が続いている。九連覇しているという実績もあって、今年でその記録を途切れさせるわけにはいかないという想いもあるだろう。三年生には特にその想いが強いように見受けられる。

 強豪校特有のプレッシャー。それを上手く自身の力に変えられればいいが、大きすぎる重圧に潰されてしまわないか心配だ。特にやえなどは普段は強気に振舞っているが、その実内心では大きなプレッシャーを感じているに違いない。

 

「……どう転ぶかな」

 

 ポツリと呟かれた言葉は、横を歩く初瀬の耳には届くことなく消えていった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 会場は騒然としていた。

 大きなモニタに映し出された得点が、観客たちの視線を一手に集める。奈良県予選の一回戦、県内最強と言われ今年も優勝候補筆頭だった晩成高校が敗退した。晩成を下したのは、十年ぶりのインターハイ出場を目指す阿知賀女子学院。先鋒から大将まで全員がプラス収支という結果に、多くの観客が驚愕する。終わってみれば、あっという間の出来事だった。

 カメラが捉えた阿知賀女子の面々を、恒太は観客席から無言で見つめる。

 ダークホース、というのは正に彼女たちのことを言うのだろう。昨年までは人数すら足りずに予選に出場していなかった阿知賀女子。だが蓋を開けてみれば彼女たちが他を圧倒していた。まさかここまでだったとは恒太も想像していなかった。穏乃や玄など旧知の仲である彼女たちが、あそこまで成長しているとは。

 

「ありゃ本物だ」

 

 対局している彼女たちを見た瞬間、感じたあのニオイ。昔からその片鱗は見えていたが、特に玄と穏乃はあの白糸台のレギュラーにすら匹敵するのではないかと思わせる程だった。やえや由華が遅れを取るのも仕方ない。これまで公式戦に出場していない彼女たちの牌譜などなく、対策の仕様がないのだ。いきなりあんなものを見せつけられれば、動揺してしまうのも無理からぬことだった。

 カメラは切り替わり、晩成の面々を映し出す。

 やえと由華は抱き合いながら涙を流し、良子は壁に手をついて項垂れていた。これで、彼女たちの団体戦は終わってしまった。今日のメンバーで共に戦うことは、もう二度とない。

 ショックが隠せないのか、恒太の隣に座っていた初瀬はメガホンを抱えたまま泣いていた。

 

 結局、第一シードで優勝候補の晩成を一回戦で破った阿知賀女子は破竹の勢いで勝ち進み、そのまま十年ぶりとなる優勝、インターハイへの出場を決めた。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「ってわけで、女子の団体は阿知賀女子が優勝」

『へー! てっきり晩成が優勝すると思ってたよ』

「まぁ、何が起こるか分かんないのが麻雀だしな」

『んで、今日の個人戦はどうだったのさ。まさかアンタ負けたなんてことは……』

「アホか。ちゃんと優勝したよ。決勝で二人トバして」

『なら良し!! はー、じゃあもしかしたら私がアンタの実況することもあるのかもねー』

「ねーちゃんの実況テンション高すぎてうざいからヤダ」

 

 なんだとー!? という声が受話器から飛んでくるが、恒太はこれを意図的にスルーした。

 

『じゃあ東京来るときは連絡してよ。ホテルとか取ってんの?』

「一応晩成から四人インハイ行くから、学校が取ってくれる」

『そう。じゃあ父さんと母さんによろしく言っといて』

「はいよ」

 

 そう言って、恒太は受話器を戻した。彼の姉はアナウンサーをしており、現在は東京に一人暮らしをしている。今回のインターハイで小鍛治プロと一緒に実況をすると喜んでいたが、本当にあの姉が実況なんて出来るのかと若干恒太は心配だった。麻雀の基礎知識などには問題ないが、あのテンションは問題だ。何せ高い。基本的に物静かな小鍛治プロとは相容れないような気がしてならない。ご愁傷様です。

 自室へと戻り、ベッドへと背中から倒れこむ。ぼふん、と何とも言えない音とともに、彼の身体はベッドへと沈み込んだ。

 

「ん、メール?」

 

 枕の横に置いてあった携帯のランプが点滅していることに気がついて、恒太は寝たままの状態で携帯を手にとった。見れば憧からのものである。内容は折り返しで電話を掛けてこいというもの。何故向こうが電話してこないのか。あれか、通話代をこちら持ちにしようとしているのか。

 と考えつつも、素直に憧へと電話をかける。これで無視したりメールで『そっちから掛けてこい』とか送ると、明日が怖い。

 数回のコールの後、憧の声が聞こえてきた。

 

「あ、もしもし? 一体なんのよ――――」

『こ、コウ!? 違うのよこれは玄がどうしてもって言うからちょっとやめてよしず携帯取ろうとしないでうがー!!』

 

 ブツッ。ツーツー。

 

「…………」

 

 通話が切れた携帯をまじまじと見つめながら、恒太は一言。

 

「……なんだったんだ?」

 

 

 

 ◆

 

 

 

 時間は少々遡り、憧が恒太へと電話を掛けるに至る十数分前。阿知賀女子のメンバー五人は、その日の練習を終えて部室でまったりとくつろいでいた。昨日の団体優勝という結果に、彼女たちは全く満足していなかった。穏乃の言う和と遊ぶ、という目標を達成するにはインターハイへの出場を決めたくらいでは足りないのだ。お互いのヤマにもよるが、もし反対のヤマになりでもしたらお互いが決勝に勝ち進まなければ達成し得ない。故に五人に緩みはなく、昨日と同じ会場で個人戦が行われている今日も部室でレベルアップに努めていたのだった。

 因みに監督である赤土晴絵はこの場にいない。彼女は今日の男女個人戦を見学に行っているのだ。観戦にではなく、情報収集にである。

 

「はー、今日もつっかれたー」

 

 卓に着いていた穏乃が背もたれにぐだっと背中を預けて天井を仰ぐ。そんな彼女の様子を見て苦笑しているのは、長い黒髪の少女。

 

「今日もたくさん打ったからねー」

「もう腕上がんないよ」

 

 玄の言葉に、穏乃は魂まで出そうな大きな息を吐き出す。

 

「ほら、だらしないよしず」

 

 そんな彼女に母親のように言う憧。小学校までは穏乃と一緒に野山を駆け巡っていた彼女は、今ではすっかりお淑やかな少女となっていた。今も鞄からブラシを取り出して髪の毛の手入れをしている。

 うーい、と返事なのかよく分からない声の後、穏乃は姿勢を戻した。戻して、『あ!』と声を上げた。

 

「そういえば今日の個人戦どうだったのかな!?」

「個人戦? うちら出ないんだから関係ないじゃん」

「違うよ恒太だよ! 一緒にインターハイ行けるのかな!?」

 

 穏乃の言葉に玄と憧はああ、と納得の表情を浮かべた。ここに居るメンバーは灼を除いて恒太と親交がある。小学校のころは一緒に阿知賀麻雀教室に通った仲である。中学校にあがって阿知賀と阿太峯に進学先が別れたことで中々会って話す機会は無くなってしまったが、それでも大事な友人である。

 

「恒太君ならきっと大丈夫なのです」

「だと思うよ。コウが負けるとこなんて想像できないし」

「た、確かに……」

 

 二人の言葉に、穏乃も思わず同意した。小学校の頃から幾度となく恒太と卓を囲んできたが、穏乃は恒太がラスを引くところを見たことがなかった。三年連続でインターミドルを制した実力は伊達ではなく、相手のやる気を根刮ぎ奪う玄のドラ麻雀ですら恒太には通用しないのだ。ドラを抱えてくれるのだから逆にやりやすいとばかりに玄の捨牌ばかりが当たる様は未だに強烈に記憶に焼きついている。

 

「その恒太って子、知り合いだったの?」

 

 唯一彼と関わりのない灼が、三人の会話に割って入った。因みに残りの一人、松実宥は既にご帰宅である。

 

「昔一緒に赤土さんの麻雀教室に通ってたんですよ」

「へぇ。てことはハルちゃんとも知り合い?」

「そうですよ。昔は恒太私よりも背が低かったんでよく赤土さんにからかわれてました」

「仲、いいんだ」

「そうなんです! うちらすっごい――――」

「ハルちゃんと仲が良い男……」

 

 途端、灼の周囲にどんよりとした重たい空気が漂い始める。それに気がつかない穏乃は更に話を続けようとするが、慌てた憧と玄の二人の手によってそれは遮られた。このまま話を続けていれば恒太の身が危ない。そう直感したのだった。

 灼の周囲に漂っていた不穏な空気はしかし、軽快な電子音が鳴ったと同時に霧散した。それは灼の携帯の着信音であり、ポケットから携帯を取り出した灼はパアッと顔を輝かせる。その表情を見ただけで、憧たちは誰からの連絡なのかを悟った。

 

「もしもしハルちゃん? うん、さっき終わったところ。え? うん、ここに居るよ。うん、分かった。伝えておく」

 

 通話を終えた灼が携帯をしまい、三人へと顔を向けた。どうやら先程の電話は今日行なわれていた個人戦のものらしく、その結果を三人へと伝えてくれというものだったのだろう。赤土がわざわざ連絡を寄越してくる辺り、なんとなく結果が見えているような気もするが。

 

「さっき個人戦が終わったって。女子の優勝は晩成の小走やえ。男子の優勝は、福与恒太」

 

 それを聞いて、憧は胸に手を当てて安堵の息を吐いた。いくら彼が桁外れの実力者と言え麻雀に絶対は存在しない。万が一、ということも考えられる。先程まで心配する素振りなど全く見せていなかった憧だったが、内心では幼馴染の結果に気が気でなかったのだ。優勝したという結果を聞いて安堵すると同時に、一緒にインターハイに行けると胸が高鳴る。

 

「よし憧ちゃん!」

 

 緊張の糸が切れた憧に、やけに気合の入った声で玄が詰め寄った。

 

「今すぐ恒太君におめでとうの連絡をするのです!」

「は、はぁ!? なんでよ!?」

「幼馴染の優勝をお祝いするのは当たり前のこと! さあ、さあ!」

 

 むふー、と鼻息荒く詰め寄る玄の瞳は、それはもう引くくらいにキラッキラしていた。対して穏乃は玄の意図を理解していないのか『あ、私も私もー』と手を挙げている。

 花も恥じらう女子高生。他人の色恋に敏感なのは、どこも同じようだった。

 

「べ、別に今言わなくたって家に帰れば隣なんだし……」

「甘い! 甘いのです憧ちゃん! こういうのは早いに越したことはないんだよ!」

「う……」

「こうしている間にも恒太君を狙っている他の女の子達がわらわらと……」

「あーもう! 分かったわよ!」

 

 有無を言わせぬ玄の迫力に屈して、憧はヤケクソ気味に自身の携帯を取り出した。

 しかし連絡先を呼び出したところで、憧の指の動きが止まる。

 

(なんて言おう。普通におめでとう? いやそれだったら別に言わなくても……。でも初瀬はもう言ってるんだろうし……)

 

 脳内に浮かぶのは中学までの同級生。勉強でも麻雀でも恋でもライバルである彼女に遅れを取るわけにはいかないと自身を鼓舞して、憧は思い切ってボタンを――――。

 

「やっぱ無理メールにする!!」

「ええ!?」

 

 ――――押せなかった。

 

「メールなんて邪道ですのだ! コーリング! コーリング!!」

「おめでとうって伝えられればどっちでも同じでしょう!」

「全然違うのです! お姉ちゃんと憧ちゃんのおもちくらい違うのです!」

「あんた喧嘩売ってんの!?」

 

 自分でも気にしていた胸のことをよりにもよって巨乳の玄に言われ顔を赤らめる。持たざる者はいつだって持つ者を羨むものなのだ。

 その後数分の口論の末、メールで向こうから電話を掛けさせるというよく分からない妥協案でお互いに納得した二人。憧はメールを送信し、そのまま携帯を卓の上に置いた。

 

「はぁ。なんでメール一つでこんなに疲れなくちゃいけないのよ……」

「憧ちゃんがもっと素直になればすぐに済む話なのに」

「? なんの話?」

 

 話についてこれていない(というか根本が理解できていない)穏乃は放っておいて、憧はジッと携帯を見つめる。会場から帰宅する時間なども考えても、もう家には帰っているだろう。もしかしたら彼の姉に結果を報告したりしているのかもしれないな、などと考えていたとき。

 

「! キターッ!!」

 

 憧よりも先に玄が反応した。次いで憧が慌てて携帯を手に取る。

 聞こえてきたのは、いつもどおりの彼の声だった。

 

『あ、もしもし? 一体何のよ』

「こ、コウ!? 違うのよこれは――――」

「憧ちゃんファイト!!」

「玄がどうしてもって言うから――――」

「憧私にも、私にも代わって!!」

「ちょっとやめてよしず携帯取ろうとしないで――――」

 

 わいわいと憧の周囲ではやし立てる玄と携帯に手を伸ばす穏乃に、憧の我慢の限界を超えた。

 

「うがー!!」

 

 ブツッ。

 

「「「あ」」」

 

 部室内を居た堪れない空気が包んだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 幼馴染なんて関係から恋人に発展するのは、漫画や小説の中だけの話だ。殆どの場合は成長するにつれて親交が薄まり、ただのお隣さんになってしまう。それが異性なら尚更だ。思春期ともなれば心の何処かでは意識しているのだろうが、今の関係を壊したくなくて結局は現状維持に甘んじてしまうのだ。やがては互いに違う人と付き合い、結ばれていく。

 

 そんな結末を望まない少女、新子憧はホテルのベッドの上で悶々とした気持ちを持て余していた。

 原因など今更言うまでもなく、福与恒太である。

 

 八月の二週目。今日の昼間に行われたインターハイの開会式。会場では多くの有名選手が勢揃いしていた。白糸台や千里山、永水女子や臨海女子など全国有数の選手たちである。憧も雑誌で何度か見たことのある顔ぶれであった。そういった選手たちには開会式のあと多くの記者が集まりマイクを向ける。特にその数が多かったのは白糸台、個人では荒川憩や井上健、そして恒太だった。和を探す記者も多くいたが、残念ながら憧のいた場所からでは彼女を見つけることは出来なかった。

 昨年までのインターミドル覇者である恒太に記者が付くことはなんとなく分かっていたが、まさかあれほどまでに注目されているとは思わなかった。

 それだけならば憧がこれほどまでに悶々とすることはない。

 問題なのは、恒太の周囲に集まっているのが女の記者ばかりだということだった。まるで図ったかのように女性の記者ばかりが彼のもとへ集まり、彼も記者たちの質問に笑顔で答えていた。更にその周りには、サイン色紙を胸に抱えた制服の少女たちが群がっていたのだ。

 

 これはどういうことだ、と声を大にして言いたかった。

 憧が知らなかっただけなのではあるが、福与恒太という少年は全国的にかなり有名でまたモテていたらしい。思わぬ伏兵、いや軍隊の出現である。まさかあんなにライバルがいるなどとは思いもしなかった。

 

 直接的な繋がりを持たない女など驚異には成りえないが、容姿だけ良い女に恒太がいつ引っかかってしまわないか心配である。

 

「はぁ……」

 

 このままではいけない。それはきちんと理解している。こんな状態では試合に支障を来す。折角ここまで来たというのに、こんなことでチャンスを不意にしたくなかった。

 明日にまで迫った一回戦。他の四人には迷惑は掛けられない。これは自分自身の問題だ。なら、どうするのか。

 

 もう五年以上胸に秘めていた想いだ。そろそろ、明らかにしてもいいのではないか。

 もしも振られたらと考えると泣きそうになる。怖さもある。出来ることなら、この関係を壊したくない。

 

 でも。

 それでも。

 

 たくさんの女の子の中心に居る彼を見たとき、思ったのだ。

 彼を、誰にも取られたくないと。自分だけのものにしたいと。

 それはきっと、何物にも代え難い自分だけの本当の気持ちだった。

 

「……ッ、女は度胸!!」

 

 拳を握って、そう自らを奮い立たせる。

 そう決めてからの憧の行動は早かった。携帯を使って晩成の生徒が泊まるホテルで休んでいるであろう恒太へと電話を掛けて、お互いに分かる場所へと呼び出す。

 幸いにも、恒太は快くそれを了承してくれた。

 

 携帯を閉じ、憧は早まる鼓動を自覚した。これでもう後には退けない。後には退けなくなってから何もこんな時に言わなくてもと思ってしまったが、感情が先立ってしまったのだから仕方ない。何より、もうこの気持ちを抑えこめる気がしなかった。

 ある種県予選の時よりも強い決意を瞳に宿して、憧は部屋を後にした。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「さあインターハイ二日目! ここでは一回戦第六試合をお伝えします!!」

「あれ、なんかいつもよりテンション高いね恒子ちゃん」

「あ、分かる? いやー、実は昨日ついに弟にも春がきてねー!」

「春? ……って、ええ!?」

「身内のことながら、嬉しさからテンションが若干上がっております!!」

「若干じゃないよ!?」

 

「……あんのバカ姉……!」

 

 アナウンスを聞きながら、恒太は額に青筋を浮かべた。何公共の電波に乗せて私的なこと言ってやがるんだと思うと同時に、言わなきゃ良かったと後悔が留まるところを知らない。

 

「…………、」

 

 昨日の夜のことを思い出し、柄にもなく頬が熱くなるのを感じた。憧から呼び出され、指定された場所へと足を運べば、そこに居たのは普段とは打って変わってしおらしい姿の幼馴染だった。

 翌日に一回戦を控えていたことから激励でも寄越せと言われるのかと思っていたが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。

 

『よ、どした? こんな時間に』

『…………』

 

 恒太の挨拶にも、憧は俯いたままで答えなかった。いつもと違う様子の彼女を不思議に思った恒太は、彼女の目の前にまで歩を進める。そこで気付いた、少女の顔が、耳まで真っ赤に染まっていることに。風邪か、などと下らないことを考えはしない。本当にそうならさっさと帰って療養しろと怒っている。

 恒太はそこまで鈍感でも、ラノベのような天然ハーレム野郎でもない。

 

『あ、あのね。コウ』

 

 やっとの事で口を開いた彼女は、胸の前で指をもじもじさせながらあちこちに視線を彷徨わせる。

 

『こんな時に言うのもアレなんだけどさ……、こんな気持ちのまま試合なんて出来ないから』

 

 意を決したように、口を開く。

 

『私ね、ずっと前から――――』

 

 その先を聞く前に、恒太の足は動いていた。数歩進んで憧の数センチ前まで迫ると、そのまま彼女の肩を優しく抱いた。

 

『す――――ってええ!?』

 

 突然の行動でパニックに陥る憧に、恒太はその体勢のまま耳元で告げる。

 

『憧が好きだ』

『――――ッ』

 

 その一言を聞いて、少女の瞳から涙が零れる。息を飲む音が恒太の耳に届いた。

 

『いつ、から……?』

『そんなの覚えてねぇよ。何年一緒に居ると思ってんだ』

『私が、言おうとしてたのに……』

『こういうのって男が言うもんなんだろ』

『……バカ』

 

 そう言って、憧も両腕を彼の背中に回した。

 

『私も、コウが大好き……』

 

 互いに見つめ合って、笑い合う。

 初めてのキスは、少女の涙でしょっぱかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「えーーーッ!?」

 

 控え室で玄の声が反響する。憧からの報告を受けた彼女の瞳は、これまでとは比べ物にならないほど輝いていた。他人の恋バナ程面白いものはないと言わんばかりに、玄は憧へと質問を投げかける。

 それをやんわりとかわしつつも、憧は嬉しそうに笑う。

 

「おーい憧ー。試合中はその頬の緩みなんとかしろよー」

 

 そう晴絵に言われてしまうほどには、憧の表情は緩んでいた。何年も想い続けた相手を結ばれたというのだから無理もない話だが、それことこれとは話が別。試合に集中できないようでは問題外である。それは憧も承知しているのか直ぐに表情を引き締めた。

 が、直ぐに思い出したかのようににへらと笑みが零れる。

 

「……大丈夫かしらこれ」

 

 晴絵の心労は耐えない。

 

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。