咲-Saki- 北大阪恋物語   作:晃甫

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 タイトルに北大阪が付いてるんだから、この子を書いてもいいじゃない。


荒川憩の場合

 

 

 現在の大阪は正に群雄割拠、三強犇めく戦国時代である。

 インターハイ予選こそ出場校の多さから南北に二分される大阪であるが、一つの塊として大阪を見れば、成程確かにさながら戦国時代のようである。

 先ず今夏インターハイ北大阪代表の千里山女子。激戦区と言われる北大阪を十一年連続で制したその実力は紛うことなく本物で、エース園城寺や江口、主将の清水谷など層も厚く隙がない。春季大会こそ四位に留まったが、コンスタントに全国上位に食い込み学校別ランキングは王者白糸台に続く堂々の二位である。

 続いて南大阪代表の姫松。こちらも千里山と同じく名門と呼ばれる古豪で、今年こそシード枠からは外れてしまったが全国五指に入ると言われる実力は確かなものだ。因みに現在姫松のエースを務める愛宕洋榎の母が千里山の監督を務めていたりする。

 そして千里山と同じ北大阪にある三箇牧。北大阪予選では千里山に一歩及ばず地区二位に終わり団体戦でのインターハイ出場はならなかったものの、個人戦では昨年のインターハイでも活躍した荒川憩が優勝。昨年個人戦二位の実力を遺憾なく発揮し、今年も旋風を巻き起こすことは間違いないだろう。

 昨年のインターハイを制した王者白糸台を相手に千里山と姫松はどう立ち向かうのか。そしてチャンピオンにあと一万点まで肉薄した荒川憩の初優勝はあるか。今年のインターハイは彼女たちの手によって席巻されることだろう。

 

「――――だってさ」

 

 ぱたり、と読んでいたウィークリー麻雀TODAYのインターハイ特集ページを閉じる。

 ベッドの脇に背中を預けてフローリングに座っていたからか違和感を感じる腰を伸ばしながら、少年はベッドで美味しそうに棒付きアイスを頬張る少女へと言った。

 

「ほぇ? なんてー?」

 

 声を掛けられた当の本人である少女は、しかしながら少年の話など全く聞いていなかったらしい。頬張っていたアイスを口から出して、可愛らしくこてんと小首を傾げた。外側へとはねた彼女のショートカットが揺れる。

 

「いや、お前のこと書かれてるんだよ」

「うちの? どんなん?」

 

 自身のことが記事になっていると聞いて興味が湧いたのか、少女はベッドの上を転がりながら少年のほうへと移動を開始する。やがてすぐ後ろまで転がった少女は、少年の肩から覗き込むように記事へと視線を落とす。閉じていたページを今一度開いて、少女へと見せてやる。

 

「おー」

「流石は大阪の有名人だな。扱いも大きい」

「えぇ? そんな照れること言わんといてぇ」

 

 とか言いつつも、大々的に取り上げられることに関しては満更でもないのか頬が緩んでいる。

 彼女が麻雀雑誌に取り上げられる、というのはこれが初めてではないが、やはり全国誌の記事になるというのは何度経験しても嬉しいものなのだろう。いつもにこにこと笑顔を絶やさない少女ではあるが、今はその二割増くらいに笑顔が輝いていた。

 

「こんな記事読んじゃうと、憩も大きくなったなぁと思うよ」

 

 自身の肩にちょこんと顎を乗せて記事に視線を落としていた少女、荒川憩へと少年はしみじみと口にした。

 

「む、またうちのこと子供扱いしてぇ」

「俺から見ればまだまだお子様だよ」

「いっこしか違わんやんっ」

 

 少年の言葉に食ってかかる憩だったが、残念ながらその光景は子供をあやす親のようにしか見えなかった。むーむー言いつつも彼から体を離れさせない辺り、憩はかなりこの少年に懐いているらしい。

 

「あ、そうやキューちゃん」

「キューちゃん言うな」

 

 キューちゃん、という渾名を認めていない少年にしてみれば、憩のこの呼び方はどうにかして直したい部分である。が、この渾名を使うのが憩しかいないのと、毎回笑顔ではぐらかされるという理由から既にこの渾名は完全に定着してしまっていた。それでもこう言わずにはいられないのだ。いつか普通に名前で呼んでもらえる日がくると信じて。

 そう少年、小田山休は切に思う。

 

 二人の付き合いは古く、もう十年以上になる。

 転勤族だった休の父が大阪に引っ越してきた際のお隣さんが荒川家だったのである。そのことを切っ掛けにして子供同士も仲良くなり、小中高と共に過ごしていくうちに気付けば互いの部屋を無断で行き来するくらい親密になっていた。

 今日の場合も、部活が午前中で終わったらしい憩が部屋でのんべんだらりと過ごしていた休に会いに来たことが発端である。三箇牧麻雀部からインターハイへと出場するのは憩だけということもあって、部活内容の大半は憩によって決められている。彼女はまだ二年生で部内には当然三年生も居るが、三箇牧は他校と比べてそれ程上下関係に厳しくはない。実力的に考えても憩が指揮をとるということで部内では考えが纏まっているらしく、顧問の先生もそのことに口出しはしてこないのだとか。

 その憩が今日の練習は午前で終了、と言ってしまえば、本当にその日の練習は午前だけで終わってしまうのだ。

 例えその理由が、目の前の少年に会いたいというものであっても。

 

「今度の日曜日、一緒に海遊館行かへん?」

「海遊館? なんでまた」

「部活の後輩がチケットくれたんよぉ」

「ならその後輩と行けばいいんじゃ――――」

「キューちゃんと一緒に行きたいー」

 

 そう言って、後ろから休の首を絞めるようにして腕を回す。

 因みに海遊館とは大阪府内にある水族館で、屋内水槽の規模では世界の五本指に入る世界最大級の水族館である。当然大阪府民である二人はそんなこと知っているし、両手の指では数え切れないくらいにこの地を訪れている。

 なのにどうして今更、と内心で休は思ったが、部活の後輩から貰ったという部分でなんとなく思い当たった。これはきっと部員から憩への激励のようなものなのだろう。インターハイという過酷で大きな舞台で存分にその力を発揮できるよう、たまの休みくらいは水族館でリフレッシュしてこいとの思いが詰め込まれた提案に違いない。

 ともすれば、そんな提案を断るような理由は休には無かった。

 

「そっか。じゃあ行くか」

「やった。なら十時に海遊館の前に集合なー?」

「は? いやお隣さんなんだから別に一緒に行けばいいだろ」

「分かってへん。キューちゃんは女心ってもんが全然分かってへんなー」

 

 休の発言の何かがマズかったらしく、憩は回した腕に力を込める。彼女の華奢な腕でいくら首を絞められようと苦しさなど感じないが、背中辺りに感じる柔らかな二つの双璧の感触がより強くなる。

 幾ら口では子供だと言っている休であっても、現実として女性特有の柔らかさというものを実感してしまっては嫌でも意識せざるを得ない。

 

(いやいや待て待てクールになるんだ俺。憩は妹みたいなもんであって決してそんな邪な気持ちでコイツを見るような真似は――――)

 

 我が身に降りかかる煩悩を振り払うかのように脳内でそんな思考が駆け巡る。

 しかし休の内心の葛藤など知るかとばかりに、憩との密着度は上がっていく。

 

「こういうのは雰囲気とかが大事でなぁ? ……ってキューちゃん聞いとるー?」

「おおうッ!? き、聞いてるぞ?」

 

 これではどちらが年上か分からない。少なくとも休の目には、憩は全くの自然体でしかない。これでは無駄に葛藤していた己が馬鹿みたいだ。そう思うと急速に脳が冷静さを取り戻す。

 

「ちゃんと私服で来るんやで? キューちゃん制服とジャージしか着いへんのやから、たまにはオシャレしんと」

「制服とコスプレ衣装しか着ないお前にだけは言われたくなかった言葉だ」

 

 そう。そうなのである。

 この荒川憩という少女。外見を見れば外側にハネた茶髪のショートカットがよく似合う美少女は、麻雀以外にコスプレという趣味を持つのである。彼女が初めて休の目の前にコスプレ衣装を着て現れたのは約二年前のことだった。何の前触れもなく、唐突に。憩はコスプレという趣味に目覚めたのだ。

 その趣味をどうこう言うつもりはない。趣味なんてものは人それぞれだし、元がいい憩のコスプレ姿は正直なところよく似合っている。映画鑑賞という平凡な趣味しか持たない休と比べれば余程良い趣味なのかもしれない。

 

「そういえばキューちゃんのとこってもう夏休み?」

 

 思い出したように質問を投げかけてきた憩に、休は天井を見上げて答える。憩の腕は相変わらず首に回されたままの状態だ。

 

「いんや。夏期補習だとかがあって来週までは学校だ。そっちはもう夏休みか」

「うん。うちの学校夏休み長いんよぉ」

 

 七月の二週目である現在の時点で既に夏休みに入っている高校はそう多くないだろう。憩の通う三箇牧高校は私立の共学校だが、夏休みと春休みが長いことで大阪府内で有名だったりする。その理由は不明だが、カリキュラムはきちんとこなしているし何より偏差値六十の進学校なのだ。

 因みに休の通う高校は北大阪にある普通の高校だが、サッカーが全国でも上位に食い込むほど強いことで有名だ。友人の一人は実際プロからのスカウトも来ているらしく、地元に残るか出て行くかで悩んでいたのを思い出す。

 

「あーぁ。うちもキューちゃんとおんなじ学校行けばもっと一緒におれたのに」

「いやいや。お前は特待だろ、うちの麻雀部じゃ憩には釣り合わないって。つーかうちは男子校だ」

「ならキューちゃん今から三箇牧に転校してきてー」

「無茶言うなよ……」

 

 憩と同じ高校に通う。そのことをふと想像してみてそれはそれで悪くないかもな、とも考えた休だったがやはり憩は三箇牧に入学して正解だと思う。中学時代も全国レベルの打ち手であった憩には高校のほうから何校も推薦の話が来ていた。千里山女子や三箇牧といった地元から、白糸台、新道寺といった県外の強豪まで。

 最終的に三箇牧に入学することを決定したのは憩自身であるが、その決定に至るまで随分と休は相談を受けたものだ。

 良くも悪くも普通と称される休には推薦されるような事柄がなく、故に勉学で試験をパスするしかない。それが彼の進路を決める大きな要因だったわけだが、勉強もそこそこ、大学への進学率も高卒の就職率も大阪府内で上位に入るという吹田実業高校にあっさりと決まったのだ。勿論受験勉強は憩に教えてもらいながら知恵熱になるくらいに頑張った。今思い返してもあの頃が一番勉強していたと休は思う。

 

 そうして休が必死に勉強机に齧り付いていた一年後、受験生となった憩は進学先をまだ決めきれていなかった。

 大阪から離れることに抵抗を感じていたらしい彼女の意見で大阪府内の高校に進学したいとだけ決まっていたが、そこから先は白紙の状態。

 どこの高校からも同じような入学条件を提示されていたので、あとは憩の匙加減だけだったのだがこれが中々難しいらしい。

 

 ――――千里山はだめなのか?

 ――――ダメじゃないんやけどぉ。

 ――――姫松は?

 ――――遠いしなぁ。

 ――――なら三箇牧。

 ――――うーん。とりあえず三つとも見学には行ってみる。

 

 そうして散々悩んだ結果進学先に選んだのが今通っている三箇牧高校なのであった。

 ある日突然三箇牧にしたとの報せを受けたときは素直に良かったなと言った休だが、数日してからふと思う。どうして三箇牧高校を選んだのかと。

 麻雀に対して知識豊富でない休にも千里山と姫松の名には聞き覚えがある。比べて、三箇牧は大阪府内では強豪として知られていても全国的とまでは言えない。憩の一つ上の学年だった愛宕や江口は、それぞれ姫松と千里山に進学したことからも、多くの実力者の進学先は大体がこの二校に縛られるのである。

 で、あるにも関わらずだ。

 憩が選んだのは三箇牧。休も一応のチェックは入れていた高校だったが、これは少々予想外だった。理由を聞いてもはぐらかせてしまい本当のところは聞けずじまいで、結局彼女が二年生に進級して二度目のインターハイを目前にした今も真実は闇の中だ。

 当初は実力が伸びないのではないかと一抹の不安も抱えていたが、昨年のインターハイで大暴れしたのを見てそれも杞憂だと悟った。憩はどこであろうと関係ない。打てる環境さえ整えてやれば、放っておいても成長するような人間なのだ。

 

「んじゃとりあえず今の話はここまでにして。今日はうちで飯食ってくか? 母さん喜んで作ると思うけど」

「ご同伴に預かりますーぅ」

 

 最早家族ぐるみの付き合いとなった小田山家と荒川家。両家の垣根はあって無いようなもので、互いの子供がお隣で夕飯を取るなど日常茶飯事だ。来た方の両親は食事が賑やかになると喜んでいるし、逆は洗い物が楽になると言ってこれまた喜んでいる。持ちつ持たれつの関係とはこう言うことをいうのだろうか。

 

 すっかり家族公認の仲になっているこの二人ではあるが、交際関係にはない。

 両家の親たちは既に式場の場所まで相談したりしているらしいが、当の本人たちは今の関係を変えるつもりはないらしい。少なくとも、今はまだ。

 

「夕飯まで時間あるけど、どうする?」

「なら遊びにいこうやぁ」

「いやいやいや。今日の最高気温三十四度だぞ、死ぬわ」

 

 真夏日の今日、わざわざ好き好んで外に出て行くことはない。汗をかくのが嫌で部屋で過ごしていた休には憩の提案は許容できるものではなかった。

 が、根がアクティブな憩にはそんな休の言葉を聞く耳は持ち合わせていないらしい。

 

「たまには運動せんと太ってまうでぇ? 今はなんも部活してないんやろー?」

「う、いや体育の授業で身体は動かしてるし……」

「メタボなキューちゃんなんか見たないでー」

 

 憩の言う通り、休は吹田実業では部活動に所属していない。

 正確には、一年生の夏に退部しているのだ。サッカー部を。退部の理由は怪我。インターハイ前の練習試合で相手選手との接触の際、膝を怪我してしまったことが原因だ。日常生活には支障はないものの、サッカーという激しい接触スポーツをするのは無理だと医者からの宣告を受けてしまったのだ。

 伸び盛りの時期ということもあって、一年生時の休の身長や体格は大きく成長している段階だった。日頃の練習に負荷がかかりすぎていたこともあって、身体は悲鳴を上げていたのだ。それに気がつかないままに酷使し続けた身体は限界で、不運も重なった結果、彼は二度とピッチに立つことは出来なくなってしまった。

 

 今でこそきちんと気持ちの整理を付けられているが、当時の休はこれまでにないくらい荒れた。両親の言葉すら罵声を浴びせてかき消してしまう程で、何日も部屋から出てこなかった。

 

 そんな彼を絶望から救い出したのが、荒川憩という少女だった。

 

 思えば、休はこの出来事があってから彼女のことをただの妹分の幼馴染だと思えなくなっていったのかもしれない。

 彼女に救われた己の心は、無意識のうちにその無垢な笑顔に惹かれていたのかもしれない。

 この関係を壊したくないなどと思ってはいても、本当のところは――――。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 荒川憩にとって、小田山休という少年はただのお隣さんではない。

 何せその付き合いはもう十年程になる。俗に言う幼馴染という関係である憩と休は、学生生活の多くの時間を共有してきた仲である。お互いの部屋を行き来するなんていうのは当たり前。思春期などあって無いようなものだった二人には、隠し事の類も一切無い。親と喧嘩したことからクラスメイトに告白されたことまで、全て互いに打ち明けてきたほどなのである。

 

「で? 憩はいつその人に告白するん?」

「え!? 憩ちゃん告白すんの!?」

「いやいや、そんな嘘に引っかからんでぇ梨沙ちゃん」

 

 夏休みの二週目。午前中の部活を終えて昼休みを取る三箇牧高校麻雀部の部員の一人が、そんな爆弾を投下した。それに驚愕の反応を見せているのは憩の友人である。が、当の本人である憩は苦笑いを溢すばかりだった。

 建設されて間もない麻雀部の部室はまだ新しく、全自動麻雀卓が八台も設置されている豪華さである。北大阪地区で二位という成績を残すことからも分かるように部内全体の競技レベルは基本的に高く、新進気鋭の強豪というイメージがぴったりと当て嵌る。

 今夏インターハイへの切符を手に入れたのは憩の個人戦のみであったため、地区予選を最後に三年生は引退。現在は憩が中心となって部活動を執り行っているが、これは別に彼女が次期部長だからという訳ではない。インターハイが終えるまでは、憩の一番良いように部活を行うという方針が定められているためだ。

 

「何言ってんねん憩。さっさと首輪付けとかんとあっちゅーまに取られてまうで?」

 

 爆弾を投下した張本人、眞鍋早絵は憩へと詰め寄ってそう豪語した。

 栗色のショートカットが活発な印象を与える彼女は正にその見た目の通り勝気な少女だ。地区予選の団体では千里山の中堅江口セーラにボコボコにされていたが、涙目になりながらもセーラにリベンジを宣言する程彼女は負けん気が強いのである。

 そんな彼女は憩に詰め寄ったまま、箸をビシッと向けて。

 

「ええか? 幼馴染ってのは近そうで実は一番遠いねん。はやいとこ自分のモンにしとかんと後で後悔すんで?」

「自分のモンて……。別にうちそういう関係になりたいわけやないもん」

「嘘やな」

 

 憩の言葉を、早絵は即座に否定した。そのあまりの即答に、憩の隣に居た友人である久々利栞奈までもが目をパチクリとさせて早絵の方を見ている。

 

「ホンマに恋愛感情やない言うんなら毎日写真見てニヤニヤせんやろッ!!」

 

 ズバッ!! と憩が持っていた学生証入れを胸ポケットから抜き取る。スリも顔負けの早業である。奪い取ったその学生証入れの裏側に指をするすると滑り込ませ、そのまま一枚の写真を取り出す。そこに写っているのは、真新しい三箇牧の制服に身を包んだ憩と吹田実業の制服を着た幼馴染の二人。憩の入学式の時にでも撮影したであろうその写真をヒラヒラと揺らして、早絵は意地悪く口角を吊り上げた。

 

「なー憩。これは一体何なんかなー?」

「ちょ、返してや早絵ちゃーん」

 

 懸命に腕を伸ばして写真を取り返そうとするも、身長が早絵よりも低い憩では、背伸びして腕を上に持ち上げている早絵が持つ写真には届かない。

 そんな二人の様子を見ながら、梨沙は黙々と昼食を食べ続ける。憩の色恋沙汰に興味は感じているが、目の前のじゃれあいに混ざるつもりは無いようである。懸命に腕を伸ばす憩を見ながら『健気やなぁ』などと考えているあたり、彼女もまた若干ズレているのかもしれない。

 その後も数分続いた憩と早絵のやり取りがようやく終息したところで、梨沙は口を開いた。

 

「でもさー憩ちゃん。確かに自分の想いを相手に伝えるって大事なことやと思うで?」

 

 食べ終えた弁当箱を片付けながら、彼女は続ける。

 

「今はまだそんなつもりはないにしても、いつまでもこのままの関係ってわけにはいかへんのやから」

「……おぉ、流石彼氏持ちが言うと説得力が違うわ」

 

 妙に納得した表情を浮かべる早絵。この三人の中で唯一彼氏がいるという事が手伝って、梨沙のこの言葉は独り身を追い詰めるには十分だったらしい。それを受けて憩はんーと小さく唸り。

 

「キューちゃんはうちのこと、どう思っとるんかなぁ」

 

 ふと、このまま何事も無く高校を卒業した後のことを考える。恐らく憩自身は実業団へと進路を進めることだろう。現在も幾つかのチームに声をかけてもらっているし、練習にも行っている。一年後のことなど明確には予想できないが、この進路だけは揺るぎないものだと断言できる。それはいいとして、休のほうはどうなのだろうか。彼に具体的な今後を聞いたことがなかったことを今更ながらに思い出して、少しだけ後悔する。

 彼が吹田実業を卒業した後、実家に残るのか一人暮らしをするのかさえ知らないのだ。

 それどころか大学に進学するのか就職するのかも憩は知らなかった。

 

 もしもこのまま彼が卒業して、段々と疎遠になってしまったら。

 直ぐにこの関係が終わることはないと思う。幼い頃からの付き合いである、何処へ行っても連絡は取れるし、その気になれば会いにも行ける。だが、それもいつまで続くのだろうか。

 今のように共有できる時間がなければ、繋がりが薄くなってしまえば。

 

 もしも、彼の隣に並んでいるのが別の女性だったなら。

 

(……あぁ、)

 

 そこまで考えて、おもむろに憩は上を見上げた。

 視界にはまだ新しい部室の天井がいっぱいに広がっている。

 

(イヤやなぁ……)

 

 休が他の女性と肩を並べて歩いている姿を想像するだけで、心臓の辺りがキュゥッと痛くなる。

 今までの関係に不満を抱くことの無かった憩は、この瞬間自身の感情をきちんと理解した。要するに、惚れていたのだ。いつの間にか、自分でも気がつかないうちに。

 よくよく考えてみれば、どうして今まで気がつかなかったのだろうかと自身の鈍感さを呪いたくなる程だ。

 

「……早絵ちゃん」

「ん?」

「うち、キューちゃんのこと好きやったみたい」

「今更何言うてんねんこの娘は」

 

 

 

 ◆◆

 

 

 

 同時刻。吹田実業高校。

 三箇牧とは違い今週いっぱい補習期間として授業が行われる吹田実業ではあるが、基本多くの学生は夏休みに突入している。現在学校に出てこなければいけないのは成績が危うい者や部活動の事情から出席日数が少ない者で、残念ながら休は数学の期末テストで赤点を取ってしまったが為に補習を受けなくてはいけなかった。

 午前中の授業が終わると、クラスに居た生徒の多くは購買や食堂へと足早に向かう。休もその例には漏れず、通学鞄にしまっていた財布を取り出して教室を出た。

 と、教室を出たところで休の肩が叩かれる。

 

「よ、」

「おう、黎」

 

 声を掛けたのは、休よりも背が高い少年だった。

 

「今から飯だろ? 俺も一緒させてくれ」

「いいけど、お前が学食なんて珍しいな」

「いや実はさ、早弁しちゃって昼飯ないんだわ」

「おい」

 

 補習時間に早弁するとかそれ補習の意味あんのか、と思ってしまうが、この黎と呼ばれた少年は決して勉強の成績が芳しくない訳ではない。寧ろクラスでも上位に食い込むくらいの成績は維持している。彼がこの補習に参加しているのは、出席の日数が少ないためだ。

 この吹田実業高校のサッカー部は関西地区では超が付くほどの名門校であり、二葉黎は部の主将を任されている身なのである。休と黎が友人なのも元同じ部活動に所属していたが故だ。

 そんな黎は大会のたびに授業を欠席してしまっており、こうして補習という形で補っているのだ。夏のインターハイや冬の選手権などは高校の生徒総出で応援に駆けつけることもあるため、そういった場合は授業は免除、休校扱いになるのだが、彼が個人的に遠征に参加する場合はそうもいかない。ジュニアの日本選抜などが正にそれで、黎は先月の半分程学校を休んでいた。

 

 食堂へと続く廊下を歩きながら、休は徐に口を開いた。

 

「どうよ、調子は」

「ん。概ね順調だよ、皆気合も入ってるし今年は決勝も視野に入れてる」

 

 そっか、と休は黎の返答に簡潔に返した。

 

「幸い今回のインハイは麻雀部と日程が被ってないし」

「あぁ。園城寺さんのことか」

「春はマジでヤバかった……。機嫌直んなくて三日くらい口聞いてくんなかったんだぜ」

 

 先程までとは打って変わってどんよりとした空気をその身に纏わせる黎。休はその様子を横目に、『リア充は爆死しろ』と思わなくもなかった。

 園城寺怜。麻雀を嗜む人間であれば、この名を知らない大阪人はいないだろう。どころか、全国にだって少ないかもしれない。知名度で言えば幼馴染の荒川憩と同レベルだ。全国でも有数の激戦区である大阪三強の一角、千里山女子。その先鋒を任されるエース選手だ。憩が通う三箇牧と今年の地区予選決勝で激突し、十一年連続で北大阪の頂点に立った全国ランキング二位。そんな見た目も麗しい少女と、あろうことか黎は交際しているのである。なんということだろうか、今すぐにでも呪い殺してやりたくなる衝動に襲われる。

 

「はは、リア充死すべし」

「おい口に出てんぞコノヤロウ」

 

 おっといけない。思わず本音が漏れてしまっていたらしい。休は悪びれもせず口に手を当てた。

 

「つーかよ、俺のことリア充だなんだと言ってるけどそれお前にだけは言われたくないからな」

「は? なんでさ?」

「荒川憩がお隣さんとかそれなんてエロゲ状態だろうが」

「エロゲが話に絡んでくる意味がわからないんですが」

「だってよ、あの荒川憩だぞ。誰がどう見たって可愛いし、話に聞く限りじゃかなり休に入れ込んでるだろ」

 

 食堂の扉をくぐって、券売機で食券を購入する。その間も、会話は続く。

 

「荒川憩が千里山に行ってたら、怜と一緒に全国制覇だって狙えたかもなー」

「ああ、仲いいもんなあの二人」

「え、そうなのか?」

「そりゃ地区じゃ毎回当たるし、全国行けば同郷なんだし。自然に仲良くなるもんだろ」

 

 配膳口で休はきつねうどんを、黎はジャンボエビフライセットを受け取り、まだ混み合っていない食堂の一席へと腰を下ろした。これが通常なら空いている席を探すだけでも困難な程に混み合っているのだが、殆どの生徒が夏休みを満喫している現在では空席のほうが目立っていた。出汁をたっぷりと吸った揚げを一口齧って、休は対面に座った黎に言う。

 

「つーか、俺と憩はそんな関係じゃないからな」

 

 出汁と揚げのほんのりとした甘さが、口内にふんわりと広がる。

 

「またまたー。憩なんて名前で呼び合う仲なんだろ?」

「お前だってお向かいの清水谷さんのこと名前で呼んでんじゃん」

「だって幼馴染じゃねーか」

「それとおんなじだよ」

「向こうはそうは思ってないかもしれないだろ」

「それはないって。向こうも使い勝手のいい兄貴みたいに思ってるよ」

 

 二人の周囲に麻雀好きな人間が居なかったのは幸いだろう。もしも聞かれていたなら、飛びかかっていたに違いない。千里山の園城寺怜や清水谷竜華、三箇牧の荒川憩と言えば大阪内で絶大な人気を誇る選手なのだ。それこそファンクラブまで設立されてしまう程の。まぁ、それを言ったら二葉黎という選手もそうなのであるが。

 ずるずるとうどんを啜る休に、黎は目を細める。

 

「向こうの気持ちなんか聞いてないって。俺はお前がどう思ってんのか聞いてんだよ」

 

 ぴたりと、休の持つ割り箸の動きが止まった。

 そして数秒。

 

「……ねーよ」

 

 出てきたのは、そんな言葉だった。黎はそれを黙って聞いている。

 

「俺と憩じゃ、そもそも釣り合わねーよ。お前らみたいなお似合いにはなれない。片や将来有望な麻雀選手、片や怪我した元サッカー部。一目見れば分かるだろ」

 

 はぁ、と。休の言葉を聴き終えた黎は溜息を溢した。俯いている休にはその表情は見えないのだろうが、呆れ顔を浮かべていることくらいは想像できているかもしれない。

 

「釣り合うとか釣り合わないとか、そんなこと誰が決めるんだよ」

 

 コップに注がれた水を飲み干して、黎は休の核心を突いた。

 

「……お前、本当はもう分かってるんだろ?」

「……何が」

「言わせる気かよ」

 

 俯いていた顔を上げてみれば、口角を持ち上げた黎の表情が伺えた。質問に質問で返すなよ分かってるくせに、と言外に言われているような気がした。そんな表情を浮かべられて、休は小さく息を吐き出す。確かに、もう内心では理解しているのだろう。憩へ抱く感情の正体は、いつの間にか妹へ向けるものから変化していたことを。

 でもそれを憩へと伝えるかどうかというのは、別問題だ。今の関係を壊したくない、壊れてしまうのが怖い。一目惚れから即座に行動できた黎とは違う。下手に十年近く時間を共にしてきただけあって、その時間の大切さは身に染みている。それを壊してしまうのが、とてつもなく恐ろしいのだ。

 

「……そう簡単じゃないんだよ。お前と違って俺は臆病だから」

 

 いつまでもこのままではいられない。いつかは大人になるし、いつかは結婚して家庭を持つ。憩もいつかはそうして実家を離れるだろう。その時隣に立つのが見知らぬ男だったなら、自分は耐えられるのか。そう自問する。

 

「なぁ。もしもの話なんだけどさ」

「ん?」

「もしも園城寺さんが他の男と並んで楽しそうに歩いてたら」

「死因はショック死だと検死官に伝えてくれ……」

 

 一瞬でも想像したらしい黎の口から、エビフライが転げ落ちた。

 

(そうだなー……)

 

 黎の様子を楽しそうに眺める反面、休は思う。

 

(誰かに取られるなんて、嫌だよな……)

 

 好きなもの、欲しいものは誰にも取られたくない。それが根本で、原理で、心理というものだ。恋愛感情というものの根にあるものに違いない。だとすれば、こういった感情を憩に抱いている時点で休にはもう言い訳のしようがなかった。

 はっきりと自覚してしまえば、もう止まらない。湧き上がる想いを、押さえつけることなどできない。

 

 ――――俺は。

 

 

 

 ◆◆◆

 

 

 

 八月。インターハイ会場。

 全国各地の熾烈な予選を勝ち抜いた高校が集う一際大きな会場の観客席に、休と黎の二人は居た。因みに黎の試合は三日後から開催されるので、この個人戦が終われば即座に現地入りする手筈となっている。本当ならば他の部員と一緒に会場近くに先入りして最終調整を行う予定らしいが、今の彼の様子には微塵もそんな気配は感じられない。それでいいのか主将。

 大きな会場には大小様々なホールが設けてあり、各ホールではそれぞれ違った対局を観戦することが出来る。今二人が居るのはその中でも一番大きなホールであり、先程までは個人戦第一シードの宮永照の対局が放映、実況解説されていた。

 

「いやー、やっぱすごいのなチャンピオンって。他の三人涙目だったぞ」

「そら半荘一回でトバされりゃな……」

 

 団体戦を終えても西東京代表、宮永照の実力は遺憾なく発揮されていた。他の三人も地区予選を勝ち抜いてきた猛者であることには違いないのに、意にも介さず圧倒してみせたのだ。唯一対抗しようとしていたのは奈良の晩成の選手であったが、その対抗も最後までは続かなかった。

 その対局が今しがた終わったところであり、他の観戦客が移動をしようと腰を上げるのに合わせて、休もその腰を上げた。

 

「じゃあ、憩の対局見てくる」

「おう。怜はこのホールらしいから俺は残るわ」

 

 昨年インターハイ個人戦二位の憩は今回の個人戦では第二シードの位置におり、対局は一番最後に行われる。ということで、数あるホールの中でもその数字が一番最後のホールで放映されるのだ。しかし、休が向かう先はそのホールではなく、参加選手たちのあつまる控え室の方向だ。地区ごとに纏められている控え室の中から、関西地区を見つける。そのドアの前に立ち、一度大きく深呼吸をした後、扉をノックした。

 返事は、すぐにあった。

 

「はーい。あ、キューちゃんやぁ」

 

 扉先には、三箇牧の制服に身を包んだ憩の姿があった。

 控え室の中には憩一人しかおらず、皆対局室へと向かったのだと聞いてホッと胸を撫で下ろす。流石に多勢の前で会いにいくのはまだ休にはハードルが高かった。憩に招かれるままに、室内へと入っていく。

 

「調子は、良さそうだな」

「うん、調子ええよぉ。なんせキューちゃんが見てくれてるんやからぁ」

 

 むん、と拳を握って言う憩に、思わず苦笑を漏らす。

 

「む、何で笑うんキューちゃん」

「いや、いつもどおりで安心したんだよ」

 

 そう言う休の手を掴んで、憩はそのまま自身の胸へと宛てがった。

 突然の行動に、休の顔が一瞬で赤くなる。

 

「ほら、うちの心臓の音、聞こえる? こんなに緊張しとる」

 

 手のひらから感じる鼓動は、確かに普段よりも早かった。表情には出ていなくとも、それなりには緊張しているらしい。いくら昨年二位だからと言って、緒戦で負けるとも限らない。インターハイには魔物が住むとはよく言われることだ。

 

「憩……、」

 

 お前なら大丈夫だ。そう言おうとして、しかし憩の言葉がそれを遮った。

 

「……ぎゅってしてくれたら、この緊張も溶けると思う」

 

 休の手を胸に当てたまま、上目遣いでそうねだられてしまっては、断ることなど出来はしなかった。割れ物でも扱うかのように、そっと少女の躰を抱き締める。そして、視線がぶつかる。至近距離で見つめ合う二人には、言葉はもう不要だった。憩は瞳を閉じて、少しだけ顎を持ち上げる。

 ゆっくりと、二人は唇を重ねた――――。

 

 

 




 ◎おまけ

「そういや何で三箇牧にしたんだ?」
「だってここの制服ナース服みたいやん。キューちゃんナース好きやろ? ベッドの下の本そんなんばっかやったもん」
「…………」
「因みにコスプレしだしたんもキューちゃんのフェチに……」
「それ以上言うな」

 ◎どうでもいい裏設定
 吹田実業サッカー部の練習の中で完全にオフの日があるのは休の怪我が原因だったりする。

 このインハイのあと怜と休が顔見知りに。

 個人戦で無双した照さんの薬指には……。


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