咲-Saki- 北大阪恋物語   作:晃甫

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宮永照のその後

 

 ――――だから、その時は。

 

 ――――照さんを、俺にください。

 

 今から一ヶ月程前の土曜日。とある少年は、愛する少女の母親に対してそうきっぱりと言い切った。

 そんな言葉を受けても母親には全く驚きや動揺といった感情はない。むしろ、ようやくここまできたのねと暖かい眼差しで目の前に緊張しながら立つ少年を見つめていた。

 本気なの? などと問いかける必要がないことは、これまでの彼と娘の付き合いを見ていれば分かる。

 娘には彼が必要だし、また彼にも娘が必要だ。

 

 思えば、彼こそが自分たちに家族というものを思い出させてくれた張本人だった。

 夫と別居し、もう一人の娘である咲と離れ離れになってしまったことで照には多大なストレスを与えてしまったことだろう。思春期の最も過敏な時期だ。

 母親である自身も別居ということでしか事態を収集できなかったことを悔い、つい照につらくあたってしまうことも少なくなかった。

 当時の照は今とは比べ物にならないほどに大人しく、暗い子供だった。

 母親失格だ、と言われても反論なんてしようがない。事実、母親らしいことなど東京へとやってきてから何一つとしてしてやることが出来ていなかったのだから。

 どうにかしてやりたい。でも、どうすることもできない。

 歯がゆさだけが日に日に募り、そのストレスで娘へと冷たくあたってしまう悪循環。

 もう、一人ではどうすることもで出来なかった。

 

 そんな時だ。目の前の少年が、照の前に現れたのは。

 

 最初はほんの些細な、しかしそれでいて確実な変化。

 東京に来てから殆ど笑うことがなくなった照が、再び笑顔を見せるようになった。

 普段は互いに話すことのない無機質な食事風景にも色が付き始めた。母がどうしたのかと問いかけると、照は少しだけはにかんで答える。

 

 ――――お友達が出来たの。

 

 それからの照はとても楽しそうで、自然と笑みを零すことが多くなっていった。

 

 一度は壊れかけてしまった家族関係を修復することが出来た事も、離れ離れになってしまった妹と再び話す事が出来たのも、どれも彼の手助けがあったからなのだと、照の母は思っている。赤の他人をそんな家庭事情に巻き込むというのは些か非常識だったのかもしれないが、彼の性格上、きっとどれだけ拒絶しても関わってくれていただろう。

 そして、宮永家はそんな彼に救われたのだ。

 

 未だに緊張した面持ちで返答を待つ目の前の少年。この家には数え切れないほど来ているし、そもそも照との交際も数年になる。親である自身ともよく顔を合わせているので、今更緊張なんてしなくてもいいのではないかと思ったが、彼にとっての一大決心を茶化すような真似はしない。

 いつかはこの日が来ると思っていたのだ。

 母親の返答は、この日がいつかやってくると予想した日から、既に決まっていた。

 

 ――――燐君。

 

 優しい笑みを浮かべながら、照の母親は言った。

 

 ――――照のこと、よろしくお願いします。

 

 

 

 1

 

 

 

 九月上旬。

 全国的にどこの学校も夏休みが開け、まだ夏休み気分の抜けきらない学生が辛そうに学校へと向かう光景が多く見られる期間だ。夏休み前とは打って変わってこんがりと焼けてきた者。夏休み中に行った旅行先での体験をクラスで話す者、山ほど出された課題に徹夜で取り組んだ所為で目の下に隈をつくって机に突っ伏している者など様々だ。

 そういった生徒たちが居るという点では、ここ西東京にある白糸台高校も例外ではない。

 東京都内でトップクラスの偏差値を誇る白糸台高校だが、基本的に勉強一色という校風ではない。部活動にだって力を入れているし、学校行事にだって積極的に取り組んでいる。其々頑張っている分野が異なるために、勉強をつい疎かにしてしまう生徒も少なくはないのだ。

 特に、部活動の特待生枠で入学試験を免除された生徒たちなんかは。

 

 つまり、何が言いたいのかと言えば。

 

「みんな、きちんと勉強できてる?」

 

 部活動終了後の監督からの話をする場面で、燐はそう言った。

 その言葉を受けてサッと目を逸らすものが若干名。これはいただけない。目を逸らした少女たちを見て小さく息を吐きだし、燐は『あのねぇ、』と切り出す。

 

「分かってるとは思うけど、白糸台の中で一番注目されてるのって女子麻雀部(うち)なんだよ? 学校や保護者会からの支援だってたくさんもらってるし、他の生徒たちからも一目置かれてるのは知ってるでしょ?」

 

 白糸台高校は先も述べたように勉強一色、という校風ではない。

 しかしそれは決して勉学に力を入れていないのではなく、勉学など出来て当然、その上に部活動や委員会活動などが成り立つという考え方の高校であるが故だ。

 つまり、勉強を疎かにしている生徒に限っては部活などしている場合ではなく、最悪退部も有り得るのである。それは特待生として入学してきた生徒であっても例外ではない。

 

「来週には実力テストがあるけど、当然赤点を取った生徒は補習と一週間の部活動停止が義務付けられるから、皆しっかり勉強してね。――――特に、淡と亦野」

「うぇっ!? りんりん私ー!?」

「ちょ、そんな名指しで言わないでください!!」

「君ら二人はレギュラーとしての自覚が足りないんじゃないかってくらいひどいから。期末テストの点数言ってあげようか?」

「「…………」」

 

 言われた途端、大星淡と亦野誠子の二人から反論の意思はすっぱりと消えてしまった。

 その様子を見るだけで彼女たちの期末テストの結果がどれほど酷かったのかが伺い知ることが出来る。

 

「ほんと頼むよ。インハイで優勝したからってうちはそこではい引退って訳じゃないんだから」

 

 はぁ、と燐は溜息を溢した。

 八月に行われたインターハイに於いて、白糸台高校は前人未到であった三連覇を成し遂げた。準決勝で二位通過となる想定外はあったものの、それ以外の試合は磐石で他の強豪校を抑え、見事日本一の座に辿りついたのだ。個人戦にしてもエース宮永照が優勝、大星淡が四位と上位入賞者を出し、夏休み明けの全校集会では大々的に取り上げられた。

 さて、通常であれば高校三年生はこのインターハイを期に引退し、そのまま受験勉強へと移行していくのであるが、この白糸台高校女子麻雀部はそうではない。

 確かに引退していく生徒は多いが、それは三軍や二軍の生徒たちに限った話で、一軍メンバー、それもインターハイのレギュラーとなるとそこでは終わらない。

 

 来月十月に行われる国民麻雀大会。通称『コクマ』。

 同時期に開催される国民体育大会と並行して行われるこの大会は各県対抗で行われるもので、そのメンバーは各県の上位ランカーから選出される。

 因みにこの西東京からは東京代表として白糸台高校のレギュラー全員が選手又は補欠に選出されているため、東京代表というよりは白糸台高校としての色合いが強かったりする。 

 しかしそれは何も西東京だけではなく、お隣の東東京でも臨海女子のレギュラー全員が東京代表としてメンバーに選出されているし、鹿児島も永水女子の面子で固定されている。複数の高校から選手が選ばれているのは有名どころでは大阪や長野あたりだろうか。

 大阪は千里山女子と三箇牧、姫松の合同、長野は清澄、龍門渕、風越女子の合同編成で、その実力は既に白糸台の面子も十分に承知していた。

 

 更に、翌十一月にはここ日本で世界ジュニア選手権が開催される。

 十八歳以下を対象にしたこの大会は名前の通り全三十七カ国から参加選手が集う麻雀の世界一を決める大会だ。コクマは団体戦のみだが、この世界ジュニアは男女団体戦と男女個人戦が存在し、団体戦のメンバーには照と淡が、個人戦出場メンバーには弘世が選ばれている。

 日本代表として参加するこの大会は補欠も含めて団体メンバーが十人。個人戦のみの選手を含めた合計が二十人、男女合わせて四十人の参加となっている。

 

 コクマに世界ジュニア。こういったビッグネームが後に控えているのだから、当然選出されているメンバーたちには練習に励んでもらわなくてはならない。

 

 だが、それは勉学で問題のない成績を残している生徒の話。

 率直に言って、淡と亦野の成績は非常に悪かった。

 

「でもでもりんりん! 私勉強とかやったことないんだよー!?」

「だからアホの子とか言われるんでしょ」

「言われてるのそんなこと!?」

 

 大星淡。

 一学期末テスト結果。

 国語 210人中199位

 数学 210人中207位

 地歴 210人中173位

 生物 210人中200位

 英語 210人中210位

 

「…………、」

 

 本来教師と本人しか知りえないテスト結果が出力された用紙片手に立つ燐に、淡はブルブルと肩を震わせた。

 

「淡、お前……」

「やめて弘世先輩! 私をそんな目で見ないでー!!」

 

 ジトッとした視線を向けられ、淡はその場で大きく頭を振った。

 そんな彼女を見て隣にいた亦野も笑うが、彼女にそんな余裕は全くなかった。

 

 亦野誠子。

 一学期末テスト結果。

 国語 207人中154位

 数学 207人中186位

 地歴 207人中201位

 化学 207人中192位

 英語 207人中207位

 

「…………」

「おいマタンゴ」

「その呼び方は止めてください!!」

 

 左手に亦野のテスト結果の用紙を持つ燐に、亦野は顔を茹で蛸のように赤くして抗議する。が、燐からしてみれば彼女たちの成績ではいつ部活動停止になってもおかしくないと思っているので、この件に関しては目を瞑る訳にもいかない。。

 故に、本来ならば今すぐにでもこの二人は勉強しなくてはいけないのだが。

 

「二人共、コクマの選手に選ばれてるしねぇ……」

 

 十月に控えた国民麻雀大会に向けて、選抜された選手はこれから毎週末遠征を組んで対外試合を行うことになっている。当然、そのメンバーの中には淡や亦野も含まれるわけで、連れて行かない訳にもいかないのだが、如何せん勉学の面に不安がありすぎる。

 

「来週の実力テストの結果次第じゃ、メンバーも組み直さないといけないかもなぁ」

「ええっ!? ちょ、りんりんそんなのやだよ!!」

「わ、私も嫌です!!」

「だったらきちんと来週のテストで結果を残すこと。照や菫たちも二人の勉強を見てあげてくれるかな。時間がある時でいいから」

 

 燐に言われ、照や菫は首肯する。

 赤点候補の常連なのはこの麻雀部内では淡と亦野の二人だけで、その他の部員はどちらかといえば成績優秀者が多い。照や菫、渋谷あたりは常に学年上位に名を連ね、文武両道を体現している。

 因みに今回の期末テストの結果は、燐が学年三位、照が四位、菫が九位、渋谷が二年生の学年二位である。はっきり言って淡たちとは違って格段に勉強が出来る。

 

「じゃあ、そういう訳で今日は解散しようか。ああそうだ、コクマと世界ジュニアのメンバーに選出されてる人は残って。詳細の用紙が届いたから渡すね」

 

 パンパン、と燐は手を叩き解散を宣言。それによって殆どの部員たちは荷物を纏めて部室から足早に退出していく。鞄を持った最後の生徒が出て行ったところで、燐はファイルに挟んであった書類を取り出した。部室内に残っているのは今夏のインターハイを戦ったチーム虎姫の面々だけである。

 五人それぞれに書類を配った燐は、手短に話し始めた。

 

「先ずはコクマの方から話そう。開催は十月の二週目、場所は神奈川だ。本当ならブロック予選を勝ち抜かないとコクマ本選には出場できないんだけど、東京は去年のコクマで優勝してるからね。大会シードでストレートに本選入りすることになる」

 

 昨年の国民麻雀大会は照が西東京代表で出場しており、彼女を中心に他の強豪を抑えて優勝した。

 が、照がいるからといって安心はできない。他の四人はコクマを戦うのは初めてだし、なによりインターハイとは背負っているものの大きさが違う。

 

「コクマには俺も東京の総監督で同行するから、また詳しいことは追々話すけど」

「ちょっと待て」

 

 燐の話をぶった切って、菫が割って入った。

 今の彼の言葉に、何か引っかかるところがあったからだ。

 

「コクマ、には……?」

 

 訝しげに眉を顰める菫。彼の言葉を正しく理解すると、まるで――――。

 そして菫の予想を肯定する形で、燐はその問いに答えた。

 

「ああ。照以外のみんなにはまだ伝えてなかったけど、世界ジュニアには俺も参加するよ。――――選手としてね」

 

 その直後、照以外の全員が驚愕の声を上げた。

 

 

 

 2

 

 

 

 帰り道。白糸台高校から照の家へと続く道を、燐と照は二人して並んで歩いていた。まだ若干の蒸し暑さの残る九月の夜は、七時を回ってもまだ幾らか明るい。燐は自転車を押しながら、照の歩くスピードに合わせてゆっくりと歩く。こうして一緒に帰るようになってもう五年以上。すっかり見慣れた周りの風景だが、照と二人だと不思議と見飽きたりはしなかった。

 暫く取り留めのない話をしていた二人だったが、不意に照が話題を切り替えた。

 

「でも、よかったね。燐も世界ジュニアの選手に選ばれて」

 

 そう言う彼女の顔には喜びの色が浮かび、一緒に選手として参加できることを本当に嬉しく思っていることを伺い知れる。

 そんな彼女に笑みを返しつつ、燐は言う。

 

「うん。高校時代の成績が0な俺をよく協会が選出してくれたよ。姉さんや小鍛冶さんが口添えしてくれたかららしいけど」

「成績はなくても、実績ならあるわ。白糸台インターハイ三連覇の監督っていう実績が」

「確かにそれが無かったら名前すら上げてもらえなかっただろうね。最終成績がインターミドルで止まってる俺のこと、協会はすっかり忘れてただろうし」

「そんなことないと思うけど」

 

 謙遜にも似た燐の言葉に、照は反論した。

 三尋木燐、という名前は麻雀を嗜む高校生であれば知らない人間などいないと冗談抜きで照は思っている。それは惚気からくるものではなく(否定はできないが)、客観的に見た彼の実績を思えば自ずとその結論に達するのだ。インターミドルを二連覇し、高校進学と同時に名門高校の監督に就任。以降インターハイ三連覇や春季大会優勝など監督して輝かしい結果を残してきた。

 それを本人に直接言えば『選手のみんなが頑張ってくれたからだよ』とでも言って受け流してしまいそうなので言わないが、こんな所業を並の人間が達成できる訳がない。

 学生監督というだけで話題に上がるというのに結果も残している。これで有名にならないというほうがおかしな話である。

 

 それに、彼はその容姿もあって人気も高い。

 燐自身はそれほど気にしていないようだが、照は白糸台高校内で燐のことを気にかけている生徒たちが無数にいることを知っている。彼女として鼻が高いとは思うが、それでもやはり複雑な気持ちにさせられてしまう。

 こういう感情を独占欲と言うのだろうか。照は、少しだけ頬を膨らませて俯いてしまった。

 

「どしたの?」

「……別にぃ」

 

 明らかに『私、拗ねてます』といった表情で視線をプイッと逸らす照。

 こういう風に子供っぽいところを他人に見せるのは燐にだけだ。普段の照はクールで口数が多い方ではない。それは燐も知っているが、時折こうして自身に甘える様に態度を変えることがある。

 それは燐にとって嬉しいことで、彼女が素でいられるという事に他ならない。

 そして今も恐らくは、彼女が何を考えているのか燐は把握していた。

 

「大丈夫だよ」

「……何が?」

「俺、照以外の女の子に興味ないから」

 

 瞬間、照の頬が紅く染まる。

 どうして心の内を読まれたのだとか、ストレートすぎるだとか、色々と言いたいことはあったが、それでもやはり惚れているからなのだろう。そんな事よりも、好きな人にそう言ってもらえることに歓喜している自分がいることに照も気付いていた。

 

「……ずるい」

 

 だが何か釈然としないのも事実。燐のペースのままで話を流されるのは面白くなかった。

 

「ずるいって、何が」

「いつもいつも、私ばっかり不安になったりしてる」

 

 いつか彼が自分以外の女の子のもとへと行ってしまうのではないか。

 振られてしまうのではないか。わかっている、燐はそんな人間ではない。自分のことを守ってくれるし、愛してくれている。

 きっとそんなことを考えてしまう自身は、やはり根本が彼とは違うのだろうか。

 

 悶々とする照だったが、しかし返って来た言葉は意外なものだった。

 

「俺だって、不安になったりするよ」

「え……?」

 

 予想外の燐の言葉に、思わず顔を上げる。

 

「照は知らないかもしれないけどさ。うちの学校は勿論、照のことを気にかけてる人って結構多いんだよ」

 

 そう言う燐は、少しだけバツが悪そうにして続ける。

 

「まぁ、何て言うか……心配なんだ。照が他の男の人に取られちゃうんじゃないかって」

 

 言っていて気恥ずかしくなってきたのか、頬をポリポリと掻く燐。

 そんな彼のことがどうしようもなく愛おしくなって、思わず照は彼の腕をギュッと抱いた。

 

「照?」

「……大丈夫。私も、燐以外の男の人になんて興味ないから」

 

 そう口にしてから、照は自身の左手を見つめた。その薬指には、燐が着けているものと同じシルバーのリングが嵌められている。このリングはインターハイの数日前、正確に言うと燐が照の母親に例のことを言って認められた際に購入した指輪だ。高校生が買える範囲のものなので決して高価なものという訳ではないが、照はこの指輪を大層大事にしている。

 それは燐も同様のようで、何かあるたびにこのリングを触っているのを見れば簡単に想像することができる。

 

「……ありがとう、照」

 

 なんとはなしに呟かれた感謝の言葉。

 それは紛れもない本心からの言葉だったが、しかし照はその言葉を聞いて一層腕に力を込めた。

 

「て、照? ちょっと腕が痛いんだけど……」

「……私のほう、」

 

 ポツリと、消え入りそうな声は燐の耳に届く。

 

「ありがとうって、言わないといけないのは私。燐がいなかったら、私は今頃……」

 

 そこまで言いかけた所で、不意に燐が止まった。

 不思議に思って燐の方を見てみると、何ということはない。ただ自宅の前までやって来ていただけだった。

 この時間が終わってしまうことを多少、いやかなり残念に思いつつ、照は燐の自転車の前かごに入れてあった鞄をとって家へと続く階段に足を掛ける。

 

 と、そこで照の肩に手が置かれ、くるりと身体を反転させられた。

 目の前には、肩に手を置いた燐の姿。心なしか、その頬が紅いように見える。

 

「燐、顔紅いよ?」

「ゆ、夕焼けのせいじゃないかな」

「月出てるけど」

 

 燐の言い訳は、照の一言でバッサリと切り捨てられた。

 既にとっぷりと暮れてしまった空の下では、この頬の紅みを隠すことは出来ない。薄暗いとは言え、家の前には街灯もあるため周囲の闇に溶け込むことも出来そうになかった。

 

「……照」

「うん……」

 

 それ以上、二人に言葉は必要なかった。照の肩に置かれていた手は自然と腰へと回され、照も燐の胸へと身を預けるようにしてしな垂れかかる。寄り添うように抱き合い、そして視線が交わる。

 互いに見つめ合う。何が言いたいのか、口にせずとも互いに理解していた。抱き寄せられた照は瞼を閉じ、燐は彼女の顔へとそっと顔を近づける。

 二人の距離が縮まる。そしてその距離が、0になろうかという瞬間。

 

 ガチャリ、と。

 照の家の玄関から、やけに勢いの良い音がした。

 

「……へ?」

「え……」

 

 思わぬ事態に二人が目を点にして玄関の方へと顔を向けてみれば。

 

「あらあら、二人共お熱いわねぇ。あ、燐くん今晩泊まってく? 勿論照の部屋に」

 

 頬に手を当てながら、高校生の子供がいるとは思えない程に若々しい笑みを浮かべた宮永母の姿があった。

 余談であるが、燐はこの後数十秒逡巡した挙句チキって宮永家に泊まることはなかった。照の少し残念そうな表情など、決して見ていない。

 

 

 

 3

 

 

 

「っだぁー、やっと終わったぁ」

 

 実力テスト当日。一日かけて行われた苦行が終わりを告げるチャイムと共にそんな言葉を溢したのは、燐の隣で今までテストを受けていた少年、浅野藤間だった。

 

「お疲れさん」

「涼しい顔して言うなよ。なんかこっちが惨めになってくるから」

 

 労いの言葉を掛けたつもりが、どうやら彼は気に食わなかったらしい。

 何週間も前からこの日のために勉強してきた藤間からすれば、もともと頭の出来がいい燐の言葉には嫌味が多分に含まれていると感じてしまうらしい。いや、実際はそんなこと全くないのだが、余りにも内容が酷かった自身への自己嫌悪に拍車をかけていることは否めない。

 とは言っても、浅野藤間という少年もそこまで成績が悪いわけではない。学年上位、とまではいかないまでも平均よりは上の成績を維持しているし、教師たちからの評判もいいために大学は推薦がほぼ決まっている。

 三年生の二学期という受験生にとっては正に地獄が始まろうとしている中で、彼はかなりの幸運と言える。

 のだが。

 

「お前に比べりゃ俺なんて大したことないっつの」

 

 帰宅の準備を進めつつ、藤間は口を尖らせる。

 

「卒業後はほぼプロ入りが内定してるんだろ?」

「うーん、まだ世界ジュニアの結果次第ってところはあるけど。そこの監督さんが俺のこと気に入ってくれたみたいでね」

「姉弟揃って実業団入りかー。羨ましい限りだな」

 

 苦笑する燐に、藤間はそう返す。

 インターハイが終わって二週間程経った頃、燐の家に一本の電話があった。電話を寄越してきたのは彼の姉であり現役の麻雀プロ、三尋木咏。日本ランキングトップ5に名を連ねる正真正銘のトッププロだ。

 そんな彼女が電話を掛けてきた理由、それは燐の進路についてのことだった。

 

『もしもし、どうしたの姉さん。電話なんて珍しいね』

『おう弟よー、ちょいとばかし話があるんだけどさ。明日あたり時間ある?』

『まぁ部活さえ終われば時間はあるけど』

『そっかそっかー。んじゃちょっと来てくれよ』

『姉さんの寮に行けばいいの?』

 

 そう問いかける燐に、咏は彼の予想とは違う場所を提示してきた。

 

『いいや――――横浜ロードスターズだ』

 

 そんな訳で急遽横浜ロードスターズへと足を運ぶこととなった燐。

 指定された場所で彼を出迎えたのは、姉である咏と初老の男性だった。頭上に?を浮かべる燐に、咏が今回の呼び出しの用件を伝える。それは、卒業後にこのチームへ入団しないかという誘いの話だった。簡単に言ってしまえば、スカウトである。

 何でもこの初老の男性、現横浜ロードスターズ総監督が前々から燐に興味を持っていたらしく、プロ入の意思さえあれば是非入団させたいと考えていたようだ。

 姉である咏の口添えもあり、こうして話をする場を設けたという訳らしい。

 

 幸いにして、このチームには男女其々が存在し、日本リーグでも毎年優勝争いする強豪だ。燐にとっては願ってもない話だった。

 迷いが全くなかった、ということもないが、実はこのチームには照も入団することが内定しており、それを知っていた燐はすぐに首を縦に振った。

 こうして、燐の卒業後の進路は固まったのだった。

 

「全く、プロの親友ができるなんて鼻が高いぜ俺は」

「まだ完全に決まった訳じゃないけどね」

「つっても内定は貰ってんだろ? 彼女と揃って同じチームとかどんだけだよ爆発しろ」

「いやそれは偶然だから。まぁ、嬉しいことは否定しないけど。こういうの俺たちだけじゃないしね」

 

 インターハイという高校生にとって最大の大会が終わり、有望な選手には各チームから声が掛けられるようになる。麻雀は野球とは違いドラフト制度のようなものは存在せず、サッカーやテニスのように選手とチームが合意すればそのチームへの加入が可能だ。それ故に争奪戦も激しくなるが、今年は目立った争奪戦が行われることもなく燐を含めた有望選手の進路は内定している。

 例えば千里山の園城寺と清水谷。この二人は揃って大阪ドミネーターズへの入団が決まっており、例年関西リーグBクラスだったチームの起爆剤になることが期待されている。またこの大阪ドミネーターズには荒川憩の入団も内定しており、関西リーグを制して日本リーグに進出してくる可能性も非常に高いだろう。

 更に今夏のインターハイに彗星の如く現れ快進撃を見せた長野の清澄高校の部長、竹井久と南大阪の名門姫松の主将愛宕洋榎は地元を離れ埼玉に拠点を持つハートビーツ大宮への入団が内定。燐と照が入団予定の横浜ロードスターズとは同じ関東リーグに属するため、これから幾度も顔を合わせることになるだろう。

 

「お前が試合に出るときは、テレビくらいは見てやるよ」

「そりゃどうも。藤間も大学行っても続けるんでしょ?」

「まぁな。一応一部リーグの大学狙ってる。麻雀の推薦は無理だから、学力で入るしかないけどな」

 

 実業団と同様、大学も一部リーグに属するところは有望選手を推薦という形で獲得する。基本的にはそういった選手で殆どが構成されているが、藤間の言うように一般入試で入った生徒であっても部活動に参加することができる。その中で実力さえ伴えば試合にも出してもらえるが、全国各地から優秀な選手が集うのだから、レギュラー獲得は非常に困難だ。

 藤間の実力はそれほど低くはない。恐らく、西東京でなければインターハイの個人戦には出場できていただろう。

 しかし、インターハイ出場とインターハイ入賞とでは、その実力差は天と地程の開きがあるのだ。藤間がこれから大学で活躍できるかどうかは、これからの努力次第だろう。

 

「っと、お迎えが来たみたいだぜ?」

「え? ああ、照」

 

 二人して教室で話し込んでいると、先に藤間が彼女の存在に気がついた。燐は廊下側に背を向けていたので気がつかなかったが、そう言われて振り返ると鞄を持った照がドアの前に立っていた。

 直ぐに鞄を取り、藤間へと一言言って彼女のもとへと向かう。

 

「ごめん、ちょっと話し込んじゃってたよ」

「ううん、私もさっきまで菫と話してたから」

 

 二人して歩き出す。実力テストが行われた今日は全部活が停止になっており、当然麻雀部も活動はない。

 久しぶりに部室に寄らずに帰宅する二人の話題は、今日のテストと部活のことが大半だった。

 照も実力テストの出来はそれなりだったようで、その話題を出すと少し笑みを浮かべて答えた。

 

「じゃあ後はあの二人の結果次第だね」

「燐や私が勉強を見たんだから、きっと大丈夫」

「だといいんだけど」

 

 思い返されるのは、これまでの数週間に行ってきた二人の成績向上のための勉強会の日々。

 部活動を疎かにすることは出来ないので、部活が終わってからや昼休みなどの時間を利用して散々勉強を教えてきたのだ。最初はブツクサ言っていた二人(特に淡)だったが、コクマや世界ジュニアへの出場が本気で危ういと悟ってからの集中力は凄まじいものがあった。

 勉強会を発案した燐が驚いた程である。そんなに集中して出来るならどうして最初からやらないのか、と思ったが決して口には出さなかった。

 こういう人種にはそれなりの危機感が必要なのだろう。

 

「あ、そうだ照」

「……?」

 

 ふと思い出したように言って、燐は鞄から数枚の紙を取り出した。

 

「これは?」

「姉さんから照に渡してって頼まれてたんだ。日本リーグのための事前合宿をやるんだって」

 

 照の受け取った書類には、日時や場所などの基本情報を始め合宿の趣旨や日本リーグの戦い方など事細かに記載されていた。

 上から順に目を通していく照だが、とある箇所でその動きがピタリと止まる。

 

「……燐」

「なに?」

「この合宿、横浜ロードスターズの女子だけなの?」

「そうだよ」

「…………」

 

 それを聞いた瞬間、傍から見ても分かるほどに照はガックリと肩を落とした。

 

「男子は……?」

「厚木。女子の藤沢とは少しだけ離れてるかな」

 

 燐にしても照と同じ場所で合宿に参加できないのは残念だが、こればかりはどうしようもない。元々男女別で練習が行われることも少なくないのだ。

 現時点でほぼ日本リーグへの出場が決まっている横浜ロードスターズは、恐らく内定選手として燐や照を使う算段でいることだろう。燐たちの実力を正確に推し量る為には男女別で多く対局したほうが効率がいい。

 今回の男女別という合宿には、そういった意図も少なからず存在した。

 

「まぁまぁ。合宿って言っても一週間なんだし。メールも電話も出来るよ」

「……それは、そうだけど」

 

 燐に宥められながらも、照の表情は晴れない。『そういうことじゃない』感がひしひしと伝わってきている燐は苦笑するしかないのだが、それが更に彼女の機嫌を損なうこととなってしまった。

 

「燐はその……寂しくないの?」

「寂しいよ。でもこれは必要なことだよ。俺と照が――――一緒になるためには」

「その言い方はずるい……」

 

 そう言われてしまっては、もう何も言えなくなってしまう。何より、二人のこれからのことを考えてくれている燐のことがより一層好きになってしまう。

 頬を染めつつ、照はゆっくりと自らの左手を差し出した。

 それの意図をすぐに理解した燐は、黙って手を差し出してくる彼女を一度見つめて、それからそっとその手を取った。

 簡単に離れてしまわないように、互いに指を絡める。

 

「ねぇ燐」

 

 ポツリと。照が口を開いて。

 

「――――大好き」

 

 見惚れるような笑みを浮かべてそう告げた彼女に、彼は応えるのだった。

 

「――――俺も」

 

 

 

 4

 

 

 

『これより、第三十七回世界ジュニア選手権第一日目を開催致します。参加選手の皆様は、指定された対局室へとお入りください』

 

 会場全体に響き渡る進行係の声に、多くの観客たちから歓声が上がる。

 毎年十一月に行われる世界ジュニアだが、日本で行われるのはまだ二度目である。しかも一度目はまだ日本の競技レベルが低く、到底メダルを狙えるレベルには達していなかった。

 しかし、今年は違う。

 近年稀に見る有望な選手が多く、団体、個人の両方でメダル獲得の期待がかかっているのだ。

 中国、アメリカ、ヨーロッパ各国など強豪国は多いものの、開催国ということもあり今年こそはの思いが日本の麻雀協会、そして選手たちにはあった。

 

 第一日目の今日は、男女団体戦の予選リーグ二試合が行われる。

 先鋒を任されているのは男子はインターハイ個人戦二位の少年、女子は大星淡。

 

「淡、全然緊張してないみたいね」

「緊張っていうなら九月のテストの時のほうが酷かったしね」

 

 男女合同の日本の控え室で燐と照はモニタに映る後輩の姿を見てそう言った。

 今の淡は緊張などしていないように見える。それは彼女と対戦する各国の選手たちも気づいているだろう。初参加で初試合、しかも先鋒を任されているのだから、多少の緊張もないというのは逆に不自然だ。

 だが、彼女は不敵に哂っていた。

 

「ほんと、あの時の淡はやばかったよ。テスト結果が帰ってくるまで気が気でなかったみたいだし」

「でもよかったわ。ちゃんと赤点を回避できていて」

「赤点ギリギリのが三教科くらいあったけどね」

「何の話しとるん?」

 

 淡のテスト結果について二人が話していると、同じ控え室でモニタを見ていた千里山の二人が入ってきた。

 インターハイの時は先鋒を任され照と一戦交えた千里山のエース、園城寺怜と部長、清水谷竜華である。

 彼女たちとは燐も幾度かの面識があり、コクマの時などは一緒に食事に行ったりもした。当然、照も一緒にである。

 

「ああ、二人共。淡が今日はすごくノッてるみたいだって話だよ」

「みたいやなぁ。全然緊張してへんみたいやし」

「うちなんて今日出えへんのに緊張してるっていうのに」

「竜華は小心者やなぁ」

 

 モニタを眺めながら竜華は胸を抑えてそう溢す。彼女は明日の対局に出場予定で、今日の対局に出場するのは怜のほうだ。中堅でエントリーされている彼女もどちらかといえば緊張していないように見える。

 というか、どことなくホワホワとしているように燐には見えた。

 

「ねぇ園城寺さん」

「なんや三尋木くん」

「なんでそんなニヤニヤしてんの?」

「ふぇッ!?」

 

 そう指摘され、両手で頬を押さえる怜。そのまま身体をクネクネさせ始めるものだから、それ以上燐はツッコむことが出来なかった。

 

「あ、始まるみたいだ」

 

 燐がそう言うのとほぼ同時、試合開始のブザーと共に賽が回される。全自動の麻雀卓から四人の前に牌が現れ、全員が素早く理牌を終える。

 第一戦。日本の対戦国は台湾、カナダ、ブラジルの三ヵ国。

 いずれも日本よりは格下とされているが、油断は禁物。特にブラジルには一人、世界ランカーがいるのだ。

 そんな三ヵ国を相手に、淡は最初から全力と言わんばかりに、第一打の牌を横向きで河に置いた。

 

「リーチ」

 

 大星淡の代名詞になりつつあるダブリー。開始早々のダブリーに、思わず対戦相手は目を瞠った。

 

「うん、やっぱ絶好調みたいだ」

「燐、男子の方は見なくていいの?」

「いや、一応白糸台の面子は個人的に見ておきたくて」

 

 苦笑いを浮かべる燐は、男子の対局を映しているモニタへと視線を向けた。

 今日の対局では大将を任されている燐からしてみれば、点差を離して回ってきても、離されて回ってきても正直戦い方は変わらない。

 点差が離れているなら最下位がトビで終わるだろうし、離されているのなら大逆転で一位通過。今日の対戦相手を見る限りではおそらくこの予想は覆らないだろう。

 

『おーっとここで日本の井上選手ダマッパネに放銃ー!! 韓国の洪選手にリードを許してしまいましたー!!』

『井上選手は感覚的に打つ選手ですが、今のは洪選手に上手く狙い打たれてしまいましたね』

『頑張れ日本代表!! 負けたら小鍛冶プロから物理的な制裁が待ってるぞー!?』

『ちょッ!? しないよそんなこと!? 何でそんなデタラメ言うかな!!』

 

 実況と解説が騒がしく行われる中、燐は一人席を立った。

 

「さて、と」

「もう行くの?」

 

 男子の対局はまだ始まったばかりで、大将にまで回ってくるのは何時間も先だ。

 にも関わらず、彼は既に準備を始めようとしていた。

 

「うん、ちょっと寝ておきたいし」

「じゃあ、私も行く」

 

 控え室のすぐ近くに仮眠室があったことを知っていた燐が言った言葉に反応して、照もその腰を上げた。

 

「確かさ、あそこって布団そんなに無かったと思うんだけど」

「じゃあ仕方ないわ」

 

 控え室を出て、二人並んで歩きながら。

 

「一緒に寝ましょう」

「え、そうなるの? いや、いいけど」

 

 何処かで菫の『お前らいい加減にしろ』という声が聞こえたような気がした。

 

 

 

 




 

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