何時からだったのだろうか。
何時の間に。
気が付けばそう感じていた。
否、気が付けば、という言い回しには多少語弊がある。
――――気が付かないようにしていたのだ。
自覚してしまえば、きっともうこの気持ちを止めることは出来ない。それが判っていたから。
だから。
私は――――――――。
1
千里山女子高校。
北大阪にあるこの高校に通う一人の少女は、今日も今日とて向かいに建つ一軒家のインターホンを律儀に鳴らす。七月に入ってから更に長くなった陽は、朝七時前だというのに白と紺のセーラー服を着た少女のことを照らしていた。
登校するには些か早いこの時間だが、彼女とこれから出てくるであろう少年には朝練がある。もうすぐインターハイも本番、今が最も練習に気合が入る時期だ。彼女の所属する麻雀部は北大阪はおろか関西、全国でも有数の超名門校である。全国でも特にレベルが高い北大阪を十一年連続で制し、昨年のインターハイでは決勝まで駒を進めた。春季大会の成績も加味され、なんと全国学校別ランキングは第二位につけている。そんな強豪の麻雀部を束ねているのが、この黒髪を靡かせた少女である。
少女、清水谷竜華がこの家のインターホンを鳴らすのは、最早習慣と化した行動だった。数秒の後、インターホンから眠そうな声が聞こえてくる。
『おっす~……』
「おはよう黎。はよせな朝練間に合わんでー?」
『んー、今行く……』
さてはついさっき起きたな、と竜華は寝ぼけ声から判断する。
竜華とは違う高校に通う少年は、吹田実業という男子校に通っている。この高校はサッカー部が強く、選手権やインターハイでもコンスタントに上位に食い込み、黎と呼ばれた少年はそこでレギュラーとして毎回活躍している大阪では名の知れた選手である。
数分して、ガチャリとドアが開かれ青いジャージを着た少年が欠伸を噛み殺しながら出てきた。
「おはよ」
「おはよ、相変わらず早いな竜華は」
「黎が朝弱いだけやろー?」
既に通い慣れた道を二人して歩く。ここから最寄りの駅までの道を一緒に歩くのは、この三年間ですっかり定着していた。そこからは互いに違う路線に乗り、其々の通う高校へと向かうのだ。
まだ早朝だというのに、夏の太陽は容赦なく二人を照らす。竜華が今朝見ていた番組の気象情報では、今日は最高気温が三十度を越えるであろうことを言っていた。
「あっついなー、これ今日もキツくなるぞ」
「あんま無茶して倒れたらあかんで?」
「分かってるよ。それに暑さ程度でへばる程やわな鍛え方してないし」
少年、二葉黎の言う通り、彼の身体は一般的な高校生男子と比較するとかなり鍛えられていた。ゴツい、と言うよりは無駄がないシャープな筋肉で覆われ、長身も相まってかかなり大きく見える。実際彼の身長は一八〇センチと高身長なのだが。
「そっちは最近どうだ? インハイは勝てそうか?」
「怜やセーラの調子も悪くないし、この調子やったらいいところまで行けるんちゃうかな」
黎にそう尋ねられ、竜華はここ最近の部活内での出来事を話し出す。最近のセーラはやる気が違うとか、怜のノロケがひどいとか内容は様々だったが、黎はそれを隣で楽しそうに聞いている。こういった会話が気軽にできるのも、やはり幼馴染という関係故なのだろう。事実、竜華には黎以上に親しくしている異性の友達はいないし、黎も竜華ほど気兼ねなく話せる異性の友達はいないと言える。
そんな二人である。思春期真っ盛りの今、お互いに全く意識しない、ということは無い筈なのだが。
「……ん? 怜のノロケって間接的に俺が責められてね?」
「あ、今頃気づいたん?」
黎という少年は中学三年の
「ほんまになー、
「うぐ……、仕方ないだろ。俺だってギリギリまで日程知らなかったんだよ」
「レギュラーとしてそれはどうなん」
「だ、だからインハイは応援に行くって」
竜華と怜が所属する麻雀部が出場した春季大会と黎のサッカー部が出場した全国選抜。非常に間が悪いことに、この二つの大会日程は丸かぶりしてしまったのである。そのことを知らなかった黎は怜に対して応援に行く、などと言っていたわけだが、自身の大会と日を同じくしてしまったために敢え無く断念。その事を怜に伝えた時は、それはもう酷い有様だった。
まず、怜がその事実に絶望して言葉を失う。次に目尻にじんわりと涙が溜まり、頬を伝うと同時に爆発。以降数週間、怜のテンションは極限にまで低下することとなってしまった。
当然、そんな状態のまま春季大会が始まってしまったものだから怜の調子は本調子と言うには程遠く、江口セーラや船久保浩子、竜華が奮闘するも結果は四位。かろうじて決勝卓へと進むことは出来たが、他の三校には大きな差をつけられてしまった。
しかし、怜もいつまでも子供のように拗ねているわけではなかった。
流石に北大阪の代表としての責任感を感じたのか二日目からは何とか調子を取り戻し、点棒を稼いだ。が、三日目の試合、彼女は唐突に意識を失い、対戦中に倒れてしまったのだ。そのまま救急搬送され大事には至らなかったものの、怜抜きの決勝は千里山にとっては厳しいものだった。
故に、今回のインハイではその雪辱を晴らすべく、竜華は燃えていた。
名門千里山の部長として、北大阪の代表として、恥ずかしい姿を晒すわけには行かない。
「団体が先なんだっけ?」
「うん、団体が終わってから個人戦や」
「そっか、お前と怜は個人戦にも出るんだもんな」
「北大阪は参加選手が多いから四人インハイにいけるんよ。後はセーラと三箇牧の憩ちゃんや」
竜華の話す所によると、通常インターハイ個人戦に出場できるのは各県の上位三位までらしい。しかし、大阪や東京など他県に比べて参加選手が多い県ではなるべく公平になるようにとその枠を一つ増やし、四位までがインターハイに出場できるようになっているのだとか。
因みに怜は二位、竜華は四位で北大阪の個人戦を制したのは荒川憩という三箇牧高校に通う少女である。彼女は昨年のインターハイで個人戦二位という成績を叩き出し、春季大会個人戦でも決勝卓に残った正真正銘の怪物の一人だ。
「憩ちゃんはほんま強いでー」
「竜華でも敵わないのか?」
「うーん、うちとは相性悪いんよねぇ。憩ちゃんの麻雀は理論とか確率ガン無視したものやから」
ふう、と竜華は軽く息を吐いて言った。彼女が言う憩の麻雀とは、ハッキリ言ってしまえばオカルトみたいなものである。しかもそれは他家にまで影響を及ぼすらしく、それを止めるのは怜や竜華であっても困難なようだ。
「つってもそれは怜だって同じなんじゃねぇか? 一巡先が見える、だっけか」
黎が言うように、オカルトのような麻雀を打つ人間は千里山にも存在する。それこそが竜華の親友であり黎の彼女、園城寺怜だ。
彼女は昨年一度倒れた。その際、見えるようになったというのだ、一巡先の未来が。
有り得ない、と笑うかもしれない。しかし、そんな笑いは怜の麻雀を見た瞬間に消え去ってしまう。本当に一巡先が見えているかのような不自然な待ちやアガリ。それを幾度となく繰り返されてしまっては、もう認めざるを得ないだろう。
「確かに怜の力は大したもんなんやけど、憩ちゃん相手になるとちょっとキツイかなぁ」
「どんだけすごいんだよその憩って子は……」
黎は竜華たちがどれだけ麻雀に真剣に打ち込んでいるかよく知っている。それ故に竜華にここまで言わせる荒川憩という少女の強さが信じられなかった。
「ま、憩ちゃんとこの三箇牧はインハイの団体には出てこんし、うちらは精一杯やるだけや」
「だな。俺も頑張らないと」
「頼むでー? 北大阪期待の星!」
「ちょ、その言い方はやめろって!」
茶化すように笑う竜華に反論する黎。彼としてはその呼び名は非常に恥ずかしいものであるために余り人前で使って欲しくないのだ。
「何で? いいやん。それだけ皆に期待されてるってことやろ」
「だからってそんな呼び名はいらないっての……」
その呼び名が出たのは黎が高校二年に上がるかという頃。選手権で七年ぶりにベスト4に進出した吹田実業高校が有名なサッカー雑誌に取り上げられた際にそう記事に書かれたのが事の始まりである。以降黎の知名度は大阪府内で急激に広がり、サッカーをしていない人にまでその名は知れ渡ることになってしまった。
黎にしてみれば自分のことを記事にしてもらえる、というのは非常に光栄なことだが、如何せんその効果が些か大きすぎた。
いつの間にやらファンクラブまで出来上がっており、それを竜華から聞かされた時は開いた口が塞がらなかったのを今でも覚えている。
「っと、じゃあ竜華。またな」
「うん、頑張ってなー」
いつの間にか駅の入口にまでやって来ていた二人はポッケや鞄からいそいそと定期を取り出して改札へと翳す。
そうして駅の改札を通り、ここで二人は別々の通路を歩いていく。竜華は千里山女子高校へ。黎は吹田実業高校へ。其々を乗せた電車は、互の目的地へ向かってその車体を発進させた。
2
千里山女子高校の校門を抜け、自身の下駄箱へと向かう途中、竜華は前方に見知った少女の姿を見つけた。それを確認した竜華はこれまでよりも幾分か歩くスピードを早め、その少女の元へとやや小走りで向かう。
「怜ー」
「あ。竜華おはよう」
竜華に声を掛けられ振り返ったのは、同じく麻雀部に籍を置く少女、園城寺怜だ。
今日も今日とてマイペースな彼女は、竜華が隣に来るのを待ってやや歩くペースを落とす。隣に竜華が来たのを確認してから。
「今日の朝練は何すんの?」
「そやなぁ。とりあえずレギュラーは全員制限付きかな」
怜の問いにふむ、と考える仕草を見せてからそう答える。
制限付き、というのは千里山のレギュラーが他の部員と麻雀を行う際に設けられる特別ルールのことだ。例えば竜華の場合は面前のみや赤ドラ無し。怜の場合は副露無しなど、状況によってその制限は毎回異なるが、主にその選手の強みである部分を制限することによって他の部分を強化していく、という考えから編み出されたものである。
因みに、この制限付きは非常に難しく、レギュラーであってもこなすのは中々に困難なものだ。なにせその制限をかけられても卓一位を守らなくてはならないのだから。
「うえぇ……、うちあれ苦手なんやけど」
「苦手やからやるんやろー? 怜はうちのエースなんやから、こんくらいでへばったらあかんで?」
「鬼ー」
竜華の含みのある笑みに対し、怜は頬を膨らませぶー垂れる。
この千里山女子麻雀部で一、二を争う二人は、そんな会話をしつつ麻雀部の部室の戸を開いた。
「おはようございますっ」
「おはようございます清水谷先輩、園城寺先輩!」
既にやってきていた下級生たちから飛んでくる挨拶に手を振ったり返事を返しながら二人は部屋の中央に置かれた卓へと向かい、席についた。対面になる形で座った怜と竜華だったが、その横には既に二人の生徒が座り牌を触っていた。
「おはよう船Q」
「えらいはやいなぁ」
そう声を掛けられたのは眼鏡と毛先が軽くカールしたのが特徴の少女、船久保浩子である。なにやらIPadのようなものを繁繁と見つめて考え事をしていたらしい彼女は、掛けられた声に反応してハッと顔を上げた。
「あ、おはようございます清水谷部長、園城寺先輩」
「随分熱心に見てたみたいやけど、何なんそれ?」
「先月までに行われた各校の予選の牌譜をダウンロードしたの見てたんですよ」
そう言って浩子は画面に表示された各校の牌譜を竜華たちのほうへと向けた。そこには県代表としてインターハイに出てくる各校の選手一人一人の詳細な牌譜が映し出されている。中でも彼女が熱心に見ていたのは、西東京代表である白糸台高校と長野県代表の清澄高校、奈良県代表の阿知賀女子の大将の牌譜だった。
それを見ながら再び考えるようにして俯く浩子に、怜は興味本位から尋ねた。
「何か気になるところでもあったん?」
「いえ、気になるというか、おかしな打ち方というか」
どこか釈然としない浩子の様子に、怜は首を傾げた。
「おかしな打ち方?」
「はい。一年なんでまだ多くの情報は入ってきてないんですけど、白糸台の一年も清澄の一年も阿知賀の一年も。全員が何かオカルト紛いな打ち方なんですわ」
「怜だってオカルトみたいなもんやん」
「あ、いや。確かにそうなんですけど。今年の一年は、ちょっと手ごわいかもしれないですよ」
「ふーん。でも、有望な一年っていうならうちにもおるやん。なー泉」
卓につく四人、その最後である一人の少女に竜華は話しかけた。制服の袖を大胆にカットした少女は、その言葉に多少狼狽しつつも答える。
「え、えぇ? そんな、うちなんかまだまだですよ」
二条泉、この千里山女子において一年生で一軍レギュラーにまで登り詰めた少女はそう言ってわたわたと両手を振った。
「いや、泉もたいしたもんやとは思うけどな。特に白糸台の大星淡とかなんてハッキリ言って別格やで」
「そら白糸台の大将任されるくらいやもんな」
浩子が大星淡という少女の牌譜を眺めながら言う。この大星という少女は一年生にしてインターハイ二連覇中の高校最強、白糸台の大将を任されている。それがどれほど異常なことなのか、あの高校の実力を知っている怜や竜華にとっては想像するに難しいことではなかった。
「しかも今年はあの宮永照が先鋒に起用されてるんで、園城寺先輩とぶつかる可能性が大ですね」
「うわー……、うち次鋒でええよ」
「ちょ、園城寺先輩ッ!? それやと自分が先鋒になるやないですか!!」
「ええやん泉、いっちょやったれや」
「無理ですよ!?」
宮永照、高校生一万人の頂点と呼ばれる彼女は、これまでの高校タイトルを欲するままに己が手にしてきた最強の高校生だ。北大阪トップ通過で昨年個人戦二位の荒川憩でさえ、宮永照には手も足も出ずに苦汁を喫した。これまでは大将を任されていた彼女だったが、どういうわけか今年は先鋒に起用されているのだ。何か監督の思惑があるのだろうが、それを竜華たちに理解することは出来ない。ただ言えるのは、この采配によって今年の白糸台の火力は歴代最強との呼び声高い集団と化した。高火力選手としてはセーラが千里山にもいるが、如何せん彼女だけでは些か荷が重い。
「白糸台の監督は何考えてるんやろうな」
不意に怜が呟く。確かに、このオーダーの変更には何らかの意図が隠されているのだろう。それを行なった白糸台の監督に、怜を始め竜華や浩子も興味があった。
「確か白糸台って二年前から監督が変わったんやんな」
「はい。今監督やってるのは清水谷先輩たちと同じ高校三年生の男子生徒みたいですよ」
「ええ!? そうやったん!?」
まさか自分と同学年が監督をしているなど考えていなかった竜華は素っ頓狂な声を上げた。その横で怜は『ほほう』と興味深そうに浩子の次の言葉を待っている。
「先輩方も名前くらいは知ってるんじゃないですかね。三尋木燐って言うんですけど」
「三尋木燐……って、うちらの代のインターミドルを連覇した天才児の!?」
再び竜華から声が上がる。
三尋木燐。基本的に男女別で行われる麻雀だが、その名は竜華たちも知っていた。今から四年前の全国中学校大会に於いて、当時中学二年生だったその三尋木という少年は前人未到であった個人戦連覇をやってのけたのだ。当時は麻雀雑誌にも大々的に取り上げられ、神童だの天才だのと書かれていたのを竜華は覚えていた。今でも鮮明に思い出すことができる、あの芸術的なまでの打ち筋。和了まで一切の無駄が無い彼の打ち筋は究極のデジタル打ちなどと言われていたが、彼の本質はそこではないのではないかと竜華は考えていた。彼の打ち筋には、不可解な点が幾つかあったのだ。それは怜の持つ一巡先を視るようなオカルトのようなものなのではないかと思われた。
しかし、竜華のその考えは答えを得ることが出来なかった。
当然出てくると思っていた三年時のインターミドルに、彼は出てこなかったのだ。
理由は不明。彼の中学の部活顧問の話によれば、部も退部してしまったらしかった。それから暫く、音沙汰のなかった少年が、今はあの白糸台の監督に。
「……そら手強いな」
「ですね。あの人自身かなりの実力者でしたから」
竜華の言葉に浩子も賛同する。只でさえ層の厚い白糸台を束ねるのがあの三尋木燐となれば、苦戦は必至。それは竜華だけでなく、怜たちも充分判っていた。
「あのう……、その三尋木って人、誰なんですか?」
唯一人、泉を除いて。
「そっか、泉は三尋木君が居た時を知らんねんな」
竜華たちと泉とは学年が二つ離れている。三尋木燐が最後にインターミドルに出場したのは中学二年の時だったので、泉はその少年が一体誰なのか全く理解することが出来ていなかった。
「うーん、なんていうかな、もう次元が違ったわ」
「次元ですか?」
「うん、泉が宮永照とやる感じやな」
「うへぇ……」
自分を引き合いに出された表現に、泉の表情が曇っていく。泉とて昨年の全中では活躍した。が、それでもあの宮永照と互角に戦えるとは現時点では思えなかった。
「まあこんな話ばっかしててもしゃあないし、さっさと始めよか」
随分と話し込んでしまったことを反省しつつ、竜華は自動卓のボタンに手を掛けた。他の三人も無駄なおしゃべりは止め、現れた牌を理牌していく。
「さて、じゃあ今日の制限は――――」
3
「し、清水谷さん。僕と付き合ってください!」
目の前でそう告げた少年の顔は、傍から見てもはっきりと分かるくらいに真っ赤になっていた。
放課後、他校の学生が千里山女子の校門の前に来ているとの話を聞いた竜華。その時は特に気にも止めていなかったものの、話を更に聞けばなんとその少年は自分のことを待っているらしい。そんな訳で部室で部活の準備をしていた竜華は怜やセーラから少なからぬ冷やかしを受けつつ、その少年が待っているという校門へと向かった。
そして、話は冒頭に戻る。
竜華は内心、またかと困り果てていた。目の前の少年は、麻雀大会の会場で幾度か見かけたことがある。男子のそこそこ強い高校のレギュラー部員だった筈だ。男子と女子は会場が違ったり日程が違ったりして滅多に顔を合わせることがないのだが、希に決勝卓は同じ日に同じ会場で行うこともある。そういう時に見かけたことがあるのが、この少年だった。
因みに、話したことは一度もない。
未だ何の返答もないことに少年は疑問を感じたのか、竜華へと伺うような視線を向ける。
『まいったなあ……』
竜華としては、こういった経験がない訳ではない。
いや、むしろそこいらの女子生徒たちよりは遥かに多いことだろう。名門千里山の部長にして容姿端麗、おまけに面倒見も良いとくれば、意識しない男子生徒のほうがもしかしたら少ないのかもしれない。何せ非公式ながらファンクラブなるものまで最近設立されたというのだから、竜華本人としては笑えない話である。
告白に対する答えは既に決まりきっている。しかし、それをずばっとストレートに言えるほど彼女は強くなく、相手のことを気づかえるほどにまた優しかった。
故に、返答に困ってしまうのである。
「その、気持ちは嬉しいんやけど……」
「……ダメ、ですか?」
「ごめんなさい……」
申し訳なく思いながら、なんとか竜華はその言葉を伝えた。
その言葉を受けた少年は、数秒俯いてから、静かに尋ねる。
「付き合ってる人が、居るんですか?」
「……ううん、おらへんよ」
「じゃあ、好きな人が……?」
少年にしてみれば、最後に聞いておきたかっただけなのだろう。特にその質問に深い意味などなかった筈だ。竜華にしても、その質問をされたことはこれまでにもあった。そして、今まで全く同じ返答をしてきた。
しかし、どういうわけか今回、彼女の心の内で一人の少年の姿が思い浮かんだ。思い浮かんでしまった。いつも馬鹿みたいにサッカーに明け暮れる、長身の少年の姿が。
違う。
うちとアイツは、そんなんやない。
半ば強引にその考えを断ち切った竜華だったが、どうにも上手く口に出すことが出来ないでいた。
その沈黙をどう受け取ったのか、対面する少年は静かに口を開く。
「……そうですか」
未練が無いわけではないだろう。それでも少年は最後まで竜華のことを気遣い、それ以上の詮索をしようとはせず、一言『ありがとう』と告げて竜華の前から立ち去った。そんな少年の背中を見ながら、竜華は無意識のうちにセーラー服の裾を握っていた。
違う。決して。
「……うちは――――」
そこから先の言葉は、やはりどうしても口にすることが出来なかった。
4
その日の夜。家に帰ってきてからも竜華はどこか煮え切らない悶々とした感情を持て余していた。マイペースながらもきっちりした彼女の性格からは想像できないほどに、今の部屋は荒れている。これまで数年間夜を共にしてきた巨大テディベア、ジャッカル二世の顔面も見事にひしゃげている。補足すると、テディベアをプレゼントしたのは黎で命名したのは竜華本人である。些かネーミングセンスに疑問を感じるが、本人はこの名前をいたく気に入っているのでそこにツッコミを入れる人間はいない。
「なんなんこの気持ちは、あーモヤモヤするっ!」
ぼふんっ、とベッドにダイブして縦横無尽に転がりまわる。綺麗なストレートの黒髪がボサボサになるのも構わず、彼女は顔面がひしゃげたジャッカル二世を抱きながら邪念を振り払うかのように転がり続けた。
それもこれも、全てはあの告白された時の一言が原因だ。好きな人はいるのかという質問に、これまでならば一瞬の迷いもなく『いない』と答えられていたのに、どうしてか今回はそう言えなかった。
「あー、もうっ!」
ジャッカル二世の頭に顎を乗せ、両足をバタバタとベッドに叩きつける。
思えばあの時、どうして黎の顔が思い浮かんだのだろうか。竜華にしてみれば黎は昔からの幼馴染で、異性として意識するよりも早く家族として接してきたのだ。今更そんな感情を抱くなんて、そんなことは有り得ない。それに黎は自身の親友、怜と付き合っているのだ。何せ二人をくっつけるためのキューピッド役を買って出たのは他ならぬ竜華自身である。二人が知り合ってくっつくまでの経緯などばっちり全て知っている。
竜華も二人はお似合いのカップルだと心底思っていたし、憧れもした。ああいう風に、いつか自分もなれるのだろうかと。
だから、黎のことを特別に思っていたわけでないのだ。
だからこそ、自分がおかしいということに竜華は気付いていた。
(なんで……、なんでこんな胸が苦しくなるん……)
今まで一度だってこんな経験はしたことがなかった。
このままではいけない。間近にインターハイが迫っているというのに、部長である自分がこんな体たらくでは他の部員たちに示しがつかない。今日の部活も、あの告白のせいでどこか上の空になってしまい、セーラや怜にこっぴどくやられてしまったのだ。こんなんじゃ春季大会のリベンジなどできるはずもない。
気持ちを切り替えねば、奮起してその場で立ち上がる竜華だが、そう簡単に気持ちを入れ替えることは出来ない。モヤモヤした何かを抱えたまま、ふとなんとは無しに窓を見た。
カーテンを締め忘れていたので外の光景がよく見えるその窓からは、当然お向かいさんである黎の家も見ることができる。
そして、視線に映った。
蛍光灯に照らされる道を歩く、二人の男女の姿が。
二葉黎と園城寺怜の二人である。恐らくは黎が千里山にまで態々迎えに行ったのだろう。押している自転車がその証拠だ。二人共こちらには気付いていない。それは竜華にとっては幸いだった。きっと、今の顔は二人には見せることは出来ないだろうから。仲睦まじく歩く二人を、一体自分はどんな顔をして見ているのだろうか。考えたくもない。
竜華はそのままカーテンを締め、うずくまるようにジャッカル二世を抱えてベッドに座り込んだ。
「……ぅ」
自然、小さな嗚咽が漏れた。
今この瞬間、清水谷竜華という少女は、初めて自分の本心を知った。否、もしかしたら自分でも気づいていながら必死に気付いていない振りをし続けていたのかもしれない。二人の恋路を応援し手助けしたのも、自分はなんとも思っていないという免罪符が欲しかっただけなのかもしれなかった。
竜華は、自分のココロと向き合おうとしていなかっただけなのかもしれないと、ようやく気づかされた。
思い返せば、彼のサッカーの試合には毎回応援に行ったし、朝早く起きて手製のお弁当を作ったりもした。毎朝起こしに行ったし、勉強もわからないところは家で一緒に勉強した。家族のような関係の中に、どこか違和感を感じていた。もっと近づきたい。でもそれはきっとあってはならないことだと、自分を戒めていた。
ああ、私は――――。
そっと顔を上げ、天井を見つめる。目尻に涙を溜めたその瞳は、どこか納得したようだった。
「うちは、黎のこと、好きやったんやな……」
言葉にして、再び涙がこみ上げてくる。それを必死に堪えようとして、でも結局堪えきれずに、竜華は再びジャッカル二世を濡らした。
彼女にとっては黎も怜も、同じくらい大切な友人だ。その二人が幸せだというのに、そこに横槍を入れるような真似は竜華には決して出来なかった。つまるところ、この想いは、絶対に届くことはない。
この日、清水谷竜華という少女は初めて恋というものを知り、同時に初めて失恋というものを知った。
5
八月、インターハイ当日。
既に東京の会場に入り控え室で対局を待つ千里山のレギュラーたちは、皆思い思いに時間を潰していた。
「いやー、にしても東京はあっついなー」
シャツの上に学ランを羽織り、下は短パン一枚というなんともな格好をした短髪の少女、江口セーラが通路の自販機で買ったらしいコーラを豪快に飲みながら言う。この控え室には冷房が効いているのでそこまで外の暑さを感じないはずだが、セーラには窓から見える景色で既に暑く感じるらしい。
「対局はまだやからええけど、ちゃんとセーラー服には着替えなあかんで?」
「えー? これじゃあかんの?」
「船Qに着替えさせてもらう?」
「着替えます」
竜華の脅し(?)によって早くも学ランを脱ぎ捨てるセーラ。余程浩子に着替えさせられるのは御免らしい。そんなやり取りを傍から眺めていた泉は苦笑し、竜華の膝枕でうたた寝していた怜はようやく目を覚ました。
「おはよー怜」
「おはよう竜華。やっぱ竜華の太ももが最高やわ」
「何言うてんの」
ごろごろと猫のように目を細める怜に竜華は苦笑し、その頭を撫でる。まるで親子のようなやりとりだが、これが二人の間ではデフォルトだ。
竜華の太ももの上で横たわる怜の首には、とあるネックレスが下げられている。それは黎が彼女に渡したものらしく、竜華はその話を怜から延々と聞かされた。
失恋を知った日から、約三週間。
竜華は完全に立ち直ったわけではなかった。
しかし、そんな私情でインターハイという高校生憧れの舞台を棒に振るなど馬鹿げている。それはそれ、これはこれだ。応援してくれている人たちの前で恥ずかしい姿を晒す訳にはいかない。
それに、竜華は黎や怜のことが本当に大切だ。失恋はそれは悲しくもなったが、それ以上に二人には幸せになってほしいと思う。
偽善、と言われてしまうかもしれない。
しかし、これが今の彼女の紛うことなき本心なのだ。自己犠牲とは違う。他人の幸せを願うことは、誰にでもできることではない。
「怜、そろそろ二回戦が始まるで」
「ん、ほな行ってくるわ」
竜華にそう言われ、怜は彼女の太ももから離れ立ち上がる。セーラや浩子、泉から激励の言葉を貰い、怜は控え室から出て行った。
「よかったんか?」
突然そんなことを言い出すセーラに、竜華は一瞬目を丸くした。
「何が?」
「言わすなや」
そういえば、彼女はこういう事に関しては非常に敏感なのだった。まさかセーラに気取られるとは思わなかった竜華はあちゃー、と額を押さえる。泉や浩子は何の話をしているのか分かっていないようなので問題はなさそうだが、まさかこの場でそんな話題を出されるとは思ってもみなかった。
しかしこれが彼女なりの気遣いであるということを竜華はこれまでの付き合いで分かっていたので、その質問に答える。
「いいか悪いかって聞かれたら、いいんよ。うちはな、二人が幸せならそれで」
「……竜華って人生損するタイプやな」
「え゛」
「ま、それがええとこなんやけどな」
ニッ、と笑うセーラを前に、竜華も口角を緩めた。
「頼むで、部長さん」
「任せとき」
そう言うと同時、控え室のテレビに二回戦の選手たちが映し出された。埼玉、兵庫、奈良の代表と続いて怜の姿が映る。
『インターハイ第二回戦第二試合、いよいよ開始です!!』
快活なアナウンサーの実況が響く中、静かに対局は始まった。
彼女たちの高校最後の夏が、幕を開ける――――。