咲-Saki- 北大阪恋物語   作:晃甫

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 過去にないスピードで書きあがったので。


末原恭子の場合 2

 4

 

 

 

 姫松高校女子麻雀部の一、二年生にとって、現在レギュラーを張る三年生の三人は憧憬の的である。

 まずなんと言っても圧倒的な存在感を放つ姫松が誇る絶対的エース、愛宕洋榎。大阪、関西はおろか全国でも上位に食い込むその実力は、麻雀に精通する人間であれば賞賛を送る他ないレベルにまで達している。北大阪の荒川、園城寺と並んで大阪三強の一角である。

 次に真瀬由子。洋榎とは対照的に関西人気質は薄く、その振る舞いにはお嬢様然としたものを感じさせる。彼女の任される次鋒は、後輩たる漫が務める先鋒とエースが控える中堅を繋ぐ重要なポジションである。とにかく先手必勝で稼ぐことが至上命題とされる先鋒とは違い、次鋒は先鋒のデキ次第で様々な対応を迫られる。柔軟な発想と対応力、そしてそれを実行できるだけの実力が無ければ務まらないポジションを事も無げにやってのけるのが彼女だった。

 そして最後に末原恭子。彼女が担う大将というポジションに求められるのは、絶対的な信頼と実力である。伝統的にエースを中堅に置くのが姫松高校だが、大将に置かれるのは最も信頼される人間なのだ。彼女なら間違いなく勝利を収めることができる。そんな思いを自然と周囲が浮かべてしまうほどの、絶対的な信頼。恭子自身は己を過小評価しがちなきらいがあるが、そんな部分までひっくるめて姫松の麻雀部員たちは彼女のことを信頼していた。

 それぞれが違った個性を持つ三人であるが、仲の良さと面倒見の良さは下級生たちにとって周知の事実である。何か相談事があれば彼女たちに聞けばヒントをくれる。洋榎だけは言い回しが独特で要領を得ない場合もあるが、そんな時は恭子に問えば問題ない。

 

 さて、そんな下級生たちにとって羨望の的となっている三年生トリオであるが、どうも最近そのうちの一人の様子がおかしい。

 具体的に言うならば、末原恭子がここのところずっと覇気がないのである。

 本人的には自身の不調を必死に隠そうとしているのだろうが、そんな努力は一切報われておらず、顔と身体からは悲壮感や焦燥感といったマイナス的なものを全て混ぜ込んだようなオーラがにじみ出ていた。

 

 こんな彼女の姿は、下級生はおろか同級生である三年生たちも見たことがなかった。

 基本的に毅然とした態度を取ることの多い恭子である。自分の弱い部分をこうも見せること事態通常なら有り得ないことだ。

 一体なにがあったのか。そんな疑問を抱くのは当然のことだった。

 部活中もどこか元気のない恭子の様子を伺っていた三年生の一人が、別卓で半荘を終えた由子にこっそりと問い掛けた。

 

「ねぇ由子。最近の恭子どうしたん?」

「んー、ちょっと込み入った事情があるのよー」

 

 そう答える由子の表情は、恭子を心配しているというよりはどこか困ったような色を含んでいた。

 

「それって私たちにも言えないこと?」

「少なくとも私の口からは言えないのよー」

「インハイも近いし、大丈夫なんやろか」

 

 少女の心配は最もなものだった。

 インターハイは来月の頭に開催される。残された時間は一月しか残されていないのだ。大将を務める恭子の不調は、姫松の命運を左右することにもなりかねない。

 しかし由子は、少し考える素振りを見せただけで心配はないと言う。

 

「ちょっとした擦れ違いだと思うから。あとは恭子自身答えを見つけ出すしかないのよー」

「……ま、恭子のことやしあんま心配はしとらんけど」

「ふふ、未久は優しいのよー」

「もう、あんまからかわんでや」

 

 ちらりと、卓についている恭子の後ろ姿を見る。

 接点のない人間であれば、別段何か調子が悪そうには見えないだろう。恭子の不調を察知しているのは付き合いのそれなりに長い麻雀部の部員たちだからであって、授業中などの様子からクラスメイトは恭子の調子が悪いなど思いもしないだろう。

 休憩のために卓を離れ、一旦部室を出る。自動販売機へと向かう道すがら、由子はさてどうしたものかと思考を巡らせた。

 約一週間前、朝のSHRを遅刻してきた恭子から告げられた衝撃的な言葉は、今でもはっきりと覚えている。

 失恋だと、恭子はそう言った。

 

(相手はやっぱりキョウ君かな)

 

 由子や洋榎の知らないところで、恭子がどこぞの男子に懸想をしているとは考えにくい。となると必然的に恭子に一番近い男子が相手という可能性が高くなるわけだが。

 

(そもそもどういう経緯で失恋したのかがよくわからないのよー)

 

 告白して振られたのか、既に彼には彼女がいたのか。

 告白の線はないな、と由子は断ずる。これまでの恭子の様子からすると、恭平に対して抱いている感情が恋愛感情なのかどうかすらも自覚していない可能性がある。なのに告白などするはずがないだろう。

 しかしそうなると恭子が「失恋」と口にしたことに説明がつかない。言葉から考えるならば、恭子は誰かに恋愛感情を抱いていて、それが報われなかったという結論に至らなければならないのだ。恋愛感情を自覚していない段階でそんなこと有り得るのだろうか。

 

(……何かが切欠で自分の感情を自覚した?)

 

 ふむ、と由子は親指を自身の顎に添えた。斜め上に視線を向けて、口をへの字に曲げる。

 恭平に彼女がいる、という可能性も無いわけではないが、そんな話は聞いたことがない。あれだけ人気を集める恭平である。彼女の一人でも出来たのなら、噂くらいは聞こえてくるはずだ。

 となると残される可能性は恭子が恭平に告白して振られた、というものになるが、それもどうもしっくりこない。何かこう、決定的に何処かで食い違ってしまってるような。そんな気がしてならないのだ。

 何があったのかを聞いても、恭子はこの件に関して頑なに口を開こうとはしない。大丈夫だから、の一点張りだ。

 

「これはもう片方に聞いてみたほうが良さそうなのよー」

 

 名探偵ユウコの捜査はまだ終わらない。

 

 

 

 5

 

 

 

 翌日。二年生の教室が集まる二階へとやって来た由子は、周りの下級生たちの視線をにこやかに受け流しつつ、恭平のいるクラスへとやって来た。教室前方の入口に立ち、室内をぐるりと見渡す。

 昼休みという時間帯故か教室内の人の数はまばらで、目的の人物はすぐに発見することが出来た。

 

「あ、いたいた。おーいキョウ君ー」

 

 やたらと聞き覚えのある声がする、そんな風に思ったのだろう。背中を向けていた少年の首が、ややぎこちなく回される。

 

「……ま」

「真瀬先輩!? 真瀬先輩じゃないですか!」

 

 恭平が何かを口にしかけたところで、同じ机で昼食を取っていた坊主頭の少年が立ち上がった。由子は彼に見覚えは全くなかったが、内心で恭平の友達か何かなのだろうと適当にあたりを付ける。

 こちらに駆け寄ってくる坊主頭と、面倒そうにゆっくりと立ち上がる恭平をにこにこと見つめながら。

 

「久しぶりだねキョウ君。あと、えーと」

「初めまして真瀬先輩! 狭山恭平の親友をやっております阿波邦次ですっ!」

「ああ、うん。よろしくなのよー」

 

 そのハイテンションに半歩下がりつつ、由子は遅れてやってきた恭平を見つめた。

 

「こうして話すのも久しぶりかな?」

「……そうですね」

「また背が伸びたみたいなのよー」

「……一応成長期なんで。ていうか、そんな話しに来たんですか?」

「可愛い弟分と世間話をしにきちゃダメなのかな?」

 

 作りすぎているとは思いつつ、可愛らしく小首を傾げてみせる。恭平の隣で坊主頭が吐血した。

 

「……用が無いなら、俺戻りますけど」

「用ならあるのよー。……ちょっと場所を変えたいんだけど、いい?」

 

 由子の口調が変化したことで、恭平はだらだらと幸せそうに血を垂れ流している邦次を見やる。

 

「……おい、いつまで血吐いてんだアホ」

「お前そのあだ名真瀬先輩の前で言うんじゃねえよクラァッ!」

「喚くなアホ。……つうわけで、ちょっと外すから」

「なんだてめえ末原先輩に続いて真瀬先輩までもか!?」

 

 騒ぐ邦次を無視して、恭平は教室を出た。それに続いて由子も歩き出す。

 

「よかったの?」

「いいんですよ」

 

 そう言い切られては何も言うことはない。由子と恭平は階段を上がり、屋上までやって来た。一般高校であれば立ち入り禁止になって鍵が掛けられているだろう屋上だが、姫松高校の場合は周囲を三メートルのフェンスが囲んでおり、それを乗り越えない限りは転落の心配はない。従って生徒たちは自由に出入りすることができるのだが、七月に入った今では炎天下の中で昼食を取ろうとする生徒たちは皆無である。殆どが冷房のよく効いた教室か食堂で済ませている。

 そんなわけで予想通り、屋上には由子たち以外の生徒の姿は無かった。

 なるべく影の出来ているところを選んで、由子は恭平を手招きする。無言のままついてきた恭平の前に立って、由子はゆっくりと口を開いた。

 

「最近恭子の様子がおかしいことは知ってる?」

「……そうなんですか」

「どうも元気がないみたいなのよー」

「夏バテとかじゃないんですか」

「それがね、どうも失恋したみたいで」

「っ……」

 

 明らかに動揺を見せる恭平に、由子は内心で疑問を抱いた。

 もしも恭子を振ったのが恭平だというなら、ここまで動揺を見せることはないはずだ。この今初めて知りました、というような反応の仕方は絶対にしない。

 あれ、と由子は思う。だとすると、恭子の失恋した相手というのは一体どこの誰なのだ?

 

「……誰なんですか」

「え?」

「あいつを振ったっていう男は」

 

 恭平の口からそんな言葉が飛び出したことで、由子の中で恭平が恭子を振ったという線は完全に消滅した。

 

「それがね、聞いても教えてくれないのよー」

「…………」

「私はてっきりキョウ君が振ったんだと思ってたんだけど」

「……俺が? あいつを?」

 

 僅かに俯く恭平の表情は、由子からは窺うことは出来ない。

 今彼がどんな表情をしているのか、どんな感情を抱いているのか。彼が口にしてくれることを、由子は待つことにした。

 

「……有り得ないですよ」

 

 数十秒間ののちに恭平が口にしたのは、そんな言葉だった。

 

「だって俺は、誰よりも恭姉のことを愛してますから」

 

 堂々と、はっきりと。恭平は一切動じることなくそう断言した。

 余りにも明確にそう言い切るものだから、由子のほうが呆気にとられてしまったくらいである。

 

「…………薄々そんな気はしてたのよー。キョウ君が変わったのも、恭子が原因?」

「……あいつが物静かな男の方が好みだって言うから」

「言葉そのままを間に受けて急に口数が減ったと。ド直球すぎなのよー」

 

 こういうのを単純一途と言うのだろうか。由子は思わず苦笑した。

 

「麻雀をやめてバスケット一本に絞ったのは?」

「……麻雀じゃ、俺はあいつと同じステージには立てない。全国って舞台で戦えるのは、バスケットのほうだった。それだけの話ですよ」

 

 つまるところ彼は、恭子と同じレベルのステージで、肩を並べて戦いたかったのだろう。どちらかが先を行くのではなく、共に戦いたかったのだ。

 

「勉強だってそうです。あいつの進路は知らないけど、どこにでもいけるような学力は必要でしょう?」

「どうして?」

「たとえ日本最難関の国立だろうと、あいつが行くなら俺もそこへ行くためです」

 

 何を学びたいのかではない。誰と学びたいのか。臆面もなくそう宣言する恭平を前にして、由子は笑を深くした。なんのことはない。彼は昔から、何一つ変わってなどいなかったのだ。どれだけ上辺を繕ったところで、その内側までをそう簡単に変えることなど出来やしない。そのことを目の当たりにして、自然と由子の口元が緩んだ。

 

「……あれ。てことは恭子は何が原因で失恋とか言ってるの?」

「いや俺に聞かれましても……」

「何か心当たりとかないの? 最近告白されたとか、偶然その現場を見られたとか」

「そんなことは……あ」

 

 そう言えば、と恭平は思い出す。この間、バスケット部のマネージャーに教室に呼び出された日のこと。バスケ部と麻雀部は校内で最も部活動の時間が長い。加えて麻雀部の活動拠点は校舎内である。ひょっとしたら、あの時の現場を恭子が目撃していたかもしれない。

 いや、しかし。

 そんな偶然、有り得るのだろうか。

 

「そうとしか考えられないのよー」

「……いや、だとしても。なんであいつが失恋なんて」

「本当に、わからないの?」

 

 恭子が失恋をしたと言う理由が分からない。そう言おうとして開いた口が言葉を紡ぐよりも早く、一歩詰め寄った由子がじっと恭平の瞳を見つめて問い掛けた。ややブラウンが混ざった大きな瞳が、恭平の瞳をまっすぐに射抜く。

 

「恭子言ってたのよー。キョウ君が昔みたいに接してくれなくて寂しいって」

「…………」

「これ以上、私は何も言わない。でももう、キョウ君ならどうすればいいのか、分かってるんじゃない?」

 

 くるりと半回転して、由子は恭平に背を向けた。後ろ手を組んで、上空に広がる夏空を眩しそうに見つめる。

 知らず、恭平は奥歯を噛み締めていた。

 恭子に少しでも近づくために、自分なりに努力を重ねてきた。

 しかしそれが結果的に彼女との溝をつくることとなり、こうして恭子を悲しませるような事態にまで発展してしまった。

 

(情けねぇ……)

 

 結局、恭平は己のことしか見えていなかったのだ。見えていたつもりだった彼女の姿は仮初のものでしかなく、本当の彼女を写してはいなかった。

 末原恭子という少女に釣り合う男になるために努力を続けてきた。それが二人の仲違いの原因となってしまうとは皮肉なものである。

 一度自嘲気味に笑って、恭平は右拳を握り締めた。

 

 そろそろ、はっきりさせておくべきだ。

 

「……由子さん」

 

 青空を見つめたままの由子の背中に向けて。

 恭平は昔の呼び名で彼女を呼んだ。

 

「ありがとう」

 

 それだけを言って、恭平は屋上の扉から校舎内へと走り出した。

 遠のいていく足音を聞きながら、由子は雲一つない青空のその先を見つめる。

 我ながらお節介焼きであることは自覚していたが、まさかここまでとは思っていなかった。恭子と恭平という二人の大切な友人が擦れ違う姿を、これ以上見たくはなかったのだ。

 真瀬由子とは心優しい少女である。自分の感情など二の次にして、大の親友に手を差し伸べるくらいには。

 

「……ズルさの一つでも身に付けていれば、君は私を見てくれたのかな」

 

 

 

 6

 

 

 

「はあ……」

「キョーコ、あんま溜息ばっかやと幸せ逃げるで?」

「ウチにもう幸せなんてないんです……」

「うわこれガチなやつやん」

 

 昼休み中ずっとこの調子の恭子に、さすがの洋榎も対応に困っていた。

 他の生徒には決してこんな姿を見せないだろうが、相手がよく知る洋榎であるというのなら話は別である。授業中や部活中であれば無理やりにでも気を張って誤魔化すことを選ぶ恭子だが、昼休みまでその我慢は続かなかったようである。

 

「もー由子どこ行ってん。うちだけじゃ今のキョーコの相手できへんっちゅーの」

「なんですか主将ー。主将までウチを見捨てるんですかー」

「酔ったおっさんみたいな絡み方やでキョーコ」

 

 冷房のおかげでひんやりと冷たい机に顎を乗せ溜息を吐き続ける恭子。そんな親友の姿にそろそろ洋榎のメンタルも限界が近付いてきた、そんな折。

 唐突に教室の扉が開かれた。ほぼ条件反射で向けられたその視線の先には、高校に入学してからめっきり口数の少なくなってしまった後輩の姿があった。

 

「あれ、キョウやん」

「……っ」

 

 洋榎の言葉に反応し、わずかに肩が揺れる。恭子は教室の扉がある方とは逆側に顔を向けて、件の少年を視界に収めないようにした。きっと今その姿を見てしまったら、涙を堪えることはできないだろうから。

 しかしそんな恭子の胸中など知るかとばかりに、恭平は上級生の教室に足を踏み入れ、ずんずんと確実に恭子たちに近付いてくる。

 やがて二人の前にまでやって来て立ち止まった恭平は、顔を背けたままの恭子の腕を取った。

 

「……え、ちょっ?」

「話がある。ヒロ、ちょっと恭姉借りてくぞ」

 

 これまでとは明らかに違う恭平の態度と、数年ぶりに呼ばれた「ヒロ」という呼び名。

 その二点だけで、洋榎はニヤリと口元を吊り上げた。どうしてかは分からないが、ここはきっとそういう場面なのだと直感したのである。

 

「おう、持ってけ泥棒」

 

 

 

 7

 

 

 

 二人が教室を出て、ようやくその足を止めたのは人気の無い体育館裏だった。先程までは昼休みということで体育館内で遊んでいただろう生徒たちも、予鈴が鳴ったことでそそくさとそれぞれの教室へ戻っていった。

 

「……腕、離しいや」

 

 恭平に腕を掴まれたままここまでやってきた恭子は、複雑な心境だった。

 どうして今になってこんな行動に出るのか。どうして今になって「恭姉」などと呼ぶのか。

 ズキリと、胸の奥が痛む。これ以上先の思考をしたくはないのに、しかし嫌な考えは一向に頭の中から消えてはくれない。

 

 無言のまま恭子の腕を離した恭平は、じっと俯いたままの恭子を見つめている。何かを話そうと口を開くが、上手く言葉が出てこないようだった。

 数秒の逡巡のうち、ようやく口をついて出た言葉は。

 

「……失恋したんやってな」

 

 傷口に塩を塗りこむような。死体を蹴りつけるような。そんな言葉だった。

 

「…………」

 

 無言のまま、恭子の掌が弱々しく握り締められる。

 

「……俺な、この前マネージャーの女の子から告白されてん」

「…………」

「でも断った。好きな人がおる、そう言った」

 

 知っている。そんなことは。

 何せ恭子はその現場に遭遇しているのだ。そしてその発言が、恭子を失恋させた決定的な言葉だったのだから。

 

 俯く恭子を見つめる。

 不思議と、今までのような焦りや羞恥は湧いてこなかった。

 一つ年上なだけのこの少女のことを、初めて同じ目線で見ることができたような気がした。

 無意識のうちに、身体は動いていた。

 

「……え」

 

 柔らかく華奢な恭子の肩を、恭平は無言で抱き寄せた。

 呆気にとられる恭子の耳元で、恭平は静かに呟く。

 

「俺が高校上がって静かになったんは、昔恭姉がクールな男が好きや言うたから」

 

 恭子の瞳が、大きく見開かれる。

 

「麻雀やめてバスケに専念したんは、恭姉とおんなじ全国の舞台で戦えるのがバスケやったから。両立なんて器用なこと、俺には出来ん」

 

 恭子の背中へと回された腕が、優しく少女を包み込む。

 大きな瞳は、既に涙をいっぱいに溜め込んでいた。

 

「俺がこないだの告白を断ったんは、……恭姉のことが好きやからや」

 

 我慢なんて、できるはずもなかった。

 嬉しさと驚きに満ちた涙が、心の内側に溜まっていた不安や悲しみと共に溢れていく。ゆっくりと伸ばされた少女の両腕が、恭平の背中をぎゅっと抱き締めた。

 

「……うそや、ないんやろな」

「こんな時に嘘なんか吐くかい。もうずっと昔から、俺は恭姉しか見てへん」

「ッ……!」

 

 全身に感じる彼の温かさに、恭子はこれまでの負の感情が消失していくのを感じていた。

 こんな気持ち、これまでの人生で感じたことはない。

 互いに腕を離して、正面から見つめ合う。

 

「……今まで、ごめん」

「ほんまや。勝手に一人で大人んなって」

「うん」

「ウチと全然喋らんくなるし、朝だって先一人で行ってまうし」

「うん、ごめん」

「だから」

 

 恭平と視線を合わせたまま、涙を流したまま。恭子は柔らかく微笑む。

 

「だからこれからは、ずっとウチの隣におってもらうで」

 

 そう言って、どちらともなく顔を近づけ合う。

 静かに唇が重なった。

 数秒して、互いの顔が離れる。

 これまたどちらともなく、少しだけ恥ずかしそうにはにかんだ。

 

 

 

 8

 

 

 

「……こ、恭子」

「んう……」

 

 肩を揺すられる感覚に引っ張られて、ゆっくりと瞼を開く。見慣れた天井と、彼の顔がそこにはあった。

 

「もう八時や。今日は一限からあるやろ?」

「あー、うん。そうやった」

 

 ベッドから上体を起こして、時計を確認する。それほど猶予はないが、かといってゆっくり朝食を食べる時間がないほどでもない。ここから大学までは電車で二駅である。講義の開始時間から逆算しても、そう焦るような時間ではなかった。マイペースに洗顔と着替えを済ませて、恭子は既に朝食が用意されていたテーブルにつく。

 

「相変わらず料理上手いな」

「花婿修行の賜物や」

「なんなんそれ」

 

 恭子と恭平が交際を初めて二年。二人は同じ大学に通う大学生になっていた。

 恭平の大学入学を機に同じアパートに住み始め、今ではこうして同棲生活を送っている。

 同棲を始めて分かったことであるが、恭平は恭子以上に女子力が高かった。炊事洗濯は勿論のこと、編み物までやってのけるレベルである。これはちょっと女としてまずいのではないかと本気で恭子が思い始めているのは当然ながら秘密だ。

 

 二人の通う大学は大阪府の公立大学で、麻雀では関西リーグ一部。バスケットではインカレベスト8の成績をそれぞれ残す強豪校である。

 それぞれの練習時間が長いこともあって中々二人きりという時間は取れず、貴重な二人で過ごすこの朝の時間を恭子は大事にしていた。美味しい朝食が出てくるということも含めて。

 こんがりと焼き目のついたトーストを齧りながら、恭平は恭子に問い掛ける。

 

「今日は練習休みやっけ」

「うん、久々のオフ。哩と一緒に買い物でも行ってくるわ」

「そっか。楽しんでな」

 

 なんとなく付けられたテレビでは、今夏の麻雀インターハイの特集がなされていた。やれ今年の再注目はどこだの、予選から見たダークホースはどこだのと、コメンテーターが興奮気味に語っている。

 

「そういえば、今年のインハイの解説主将がやるらしいで」

「は? ヒロが? できんの?」

「由子もおんなじこと言うてたわ」

 

 プロになっても相変わらずな元姫松のエースを思い浮かべて、恭子は苦笑する。

 

「こないだ福与アナウンサーと一緒にラジオやったときは酷かったからなぁ」

「絹ちゃんが未曾有の大事故とか言うてたで、あのラジオ」

 

 放送時間ギリギリまで着地点の見えないボケをかまし続けるプロ二年目と、そのボケ全てに付き合っていくアナウンサー。場が混沌となるのは必然だった。

 

「っと、そろそろ出んと間に合わんで恭子」

「あ、ちょ、待ってや」

 

 残っていたサラダを急いで完食し、準備してあったトートバッグを肩に引っ掛ける。 

 玄関先では既に準備を終えた恭平が待っていて、自然な動作で手を差し出してきた。

 その手を取って、恭子と恭平は外へと出る。

 隣同士で、同じ歩幅で。二人は大学へ向かって歩き出す。

 

 上空に広がる青空は、いつかの空を彷彿とさせた。

 

 

 

 

 

 

 




末原編、完!

以下どうでもいい設定など。

・狭山恭平
→名字の由来は「末原」→末広がり→じゃあ逆の狭いを入れよう→狭山。
名前に関しては恭子と同じ「恭」の字を入れたかったのです。

・末原編を書いていたと思ったら途中で真瀬編になった。と思ったらやっぱり末原編だった。
→のよーは天使。はっきりわかんだね。


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