『恭姉! 俺大きくなったら恭姉をお嫁さんにする!』
『はは、期待せずに待ってるわ』
『嘘やないで! 本気や!』
『はいはい。やったらウチよりは大きくならなあかんなー』
『そんなんすぐや! あっちゅうまに抜かしたる!』
それは、何年も昔のこと。まだお互いがあまりにも子供で、まだ見ぬ世界に大きな夢を抱いていた頃の何気ない一幕。家が近くで年齢も同じくらいというだけで、毎日日が暮れるまで遊んだあの日々のどこかで交わした、何気ない約束。
いつからだっただろうか。
彼が自分の後ろを付いて回らなくなったのは。
いつからだっただろうか。
活発でよく喋る彼が、寡黙だと周りから言われるようになったのは。
いつから、だったのだろうか。
自分と彼に、ここまで溝ができてしまったのは。
手を伸ばす。彼の背中がどこか遠くへ行ってしまうような気がして。それをなんとか食い止めたくて、無我夢中でその手を伸ばす。
でもそれは届かなくて。どころか彼の背中はどんどん遠くへ行ってしまう。
待って、行かないで。そんな風に叫ぼうとしても、不思議と声は出なかった。
伸びきった手を、それでも更に伸ばして。
「…………夢、か」
真上に突き出された自身の腕をぼんやりと眺めながら、末原恭子は目を覚ました。
靄がかかったような思考をクリアにすべく何度か頭を振るう。ゆっくりとベッドから身体を起こしてカーテンを開けば、柔らかな日差しが室内へと差し込んだ。気持ちが良いほどの晴天である。空には雲一つない。
だというのに、恭子の表情は先程までの夢のせいでどうにも晴れなかった。
はぁ、と一つ溜息を溢し、パジャマのボタンを一つずつ外していく。
(何で今更あんな夢……)
天気とは正反対などんよりとした感情を持て余しながら、恭子はちらりと窓の外に目をやった。通りを挟んで斜め向かいに建つ、黒い屋根の一軒家。その二階の角部屋を、なんとはなしに見つめる。カーテンが開いているところを見るに彼はもう起床しているのだろう。もしかすると朝練のため、既に家を出ているのかもしれない。
もう一度、小さな溜息が溢れた。
どうして自身がアイツのことでここまで鬱屈としなければならないのかという、八つ当たり気味な感情を込めて。
1
恭子の通う高校は、大阪府南部に位置する。名を姫松高校といい、とある界隈ではそれはもう有名な高校である。
男女共学のこの高校は男子はバスケット部、女子は麻雀部がとにかく強く、全国有数の強豪校としてその勇名を全国に轟かせていた。特に女子麻雀部に関して言えば先の春季大会5位、学校別ランキングでも全国4位と正に全国トップクラスの実力を有している。
さて、そんな超が付く程の強豪姫松高校女子麻雀部であるが、何を隠そう末原恭子もその一員である。
全国的に見ても有数の激戦区である大阪府、そして姫松の末原恭子といえば麻雀ファンの中でもちょっとした有名人だ。先月行われたインターハイ南大阪予選。その優勝校の大将というのだから、知名度が高いのも納得である。大阪府の高校生雀士を実力順に上から並べていったとしても五指に入る恭子はそのルックスも相まって、一部で熱狂的なファンがついているとかいないとか。
「なあキョーコ、どやった?」
「どやったって、何の話ですか?」
四時間目が終了し、教室を飛び出していく男子生徒を尻目にいそいそと弁当箱を取り出す恭子に、前方から声が掛けられる。赤髪をポニーテールにしたタレ目のこの少女も、恭子と同じく女子麻雀部に所属する生徒である。
愛宕洋榎。
姫松高校三年生にして現主将。個人戦でもインターハイ出場が決まっている全国クラスのプレイヤーだ。恭子とは小学校時代からの付き合いで、家族ぐるみの仲である。
根っからの関西人である彼女は時折空気を読まない発言をするものの、基本的にさばさばとした性格をしており、男女を問わず人気を集めている。
そんな洋榎は持参した弁当を広げながら。
「決まってるやん。期末の結果やって」
「まあボチボチってとこですかね」
「あーコレうち知ってるわ。実はめっちゃ点数良いやつやろ。前に絹もおんなじこと言うてたし」
自身の結果が芳しくなかったのか、若干疲れた様子で持参した弁当に箸を伸ばした。
二人して昼食を摂り始めたところで、やや遅れてもう一人少女がやって来る。その少女の存在に気が付いた洋榎が、ミートボールをぱくつきながら問い掛けた。
「由子はどやった?」
「ぼちぼちなのよー」
続いてやって来た金髪をお団子にした少女、真瀬由子もにこやかにそう返した。明らかに先程の恭子の返しを踏襲している。
恭子、洋榎と同様に彼女もまた麻雀部に在籍する少女である。おっとりとしたお嬢様のような雰囲気を纏う由子だが、闘牌となるとその目付きはがらりと変わる。その実力については、姫松のレギュラーだという時点である程度予想できるだろう。
三人が一つのテーブルで昼食を取ると窮屈になりそうなものだが、それぞれの弁当箱が女子特有の小ささをしている故に別段そうはならなかった。
「そーいえば来週の練習試合の話ってもう言うたんか?」
妹お手製の卵焼きを頬張りながら、洋榎が恭子に尋ねる。その問い掛けに恭子は一旦箸を置いて。
「まだ二年生以下には言うてません。今日の部活終わりにでもと思ってましたけど」
「どこやったっけ相手。玉越女子?」
「風越女子なのよー」
天然なのかわざとなのか分かりづらいボケをかましてくる洋榎に、由子がやんわりとツッコんだ。それを受けて満足そうに頷くあたり、どうやら確信犯だったらしい。洋榎へのツッコみは由子に任せて、恭子は本題の話を進めることにした。
「長野の一昨年までの優勝校ですね」
「長野言うたら去年の龍門渕がえらい目立ってたからなー」
「天江衣ちゃんね」
昨年のインターハイで大暴れした小さな暴君を思い出しつつ、三人は食事を進める。龍門渕とはヤマが反対であったため直接対戦する機会には恵まれなかったものの、その圧倒的火力と東東京代表の臨海女子を追い詰めた実力は本物で、当校の監督でさえ気にかける程だ。
早々に弁当箱の中身を平らげたらしい洋榎が、恭子の弁当に手を伸ばす。それを素早く叩き落とした恭子の表情がどうも優れないことに気が付いたのは、横に座る由子だった。
「どうかしたの? なんだか悩んでるように見えるけど」
「ん、いや、何でもない」
「見るからに何かありそうなのよー」
ふんわりとした見た目に反して、案外鋭い部分がある由子である。誤魔化したところで見抜かれる可能性は高いと言えた。
これは話さない限り逃してはもらえないと早々に判断し、恭子はゆっくりと口を開いた。
「キョウのことでちょっと」
「今日?」
「洋榎」
「ああ、うん。ごめん」
ピシャリと由子に言われ、洋榎が口を噤んだ。ボケも時と場合によるのである。
「それで? キョウ君がどうかしたの?」
「いや、どうもせん。どうもせんけど……」
「なんやノロケかい。洋榎ちゃんお腹いっぱいやねんけど」
茶化すように口にした洋榎に、由子の視線が突き刺さる。慌てて視線を逸らし、吹けもしない口笛を吹こうとする。この場面だけを切り取ってみれば、誰がこのお調子者を姫松の絶対的エースだと信じるだろうか。
「最近、というか高校上がってから、アイツ全然うちと話そうとせえへん」
「確かに昔はよく喋る子だったのよー」
「あれちゃうんか、中二病的な」
今度はもう、反応さえしてくれなかった。流石にこれ以上茶々を入れるのはまずいと確信し、ようやく洋榎もボケモードから通常モードへと移行する。
三人が話題に上げている共通人物「キョウ」とは、恭子の弟のような存在であり、三人の共通の友人でもある。学年で言えば一つ下の男の子だ。恭子は幼少の頃からの付き合いだが、洋榎と由子は中学時代に麻雀の大会会場で恭子を通じて知り合った。
「昔は恭姉言うていっつも後ろくっついて」
「今の彼を思うと全く想像できないのよー」
「あれやんな、くうる言うやつ」
洋榎の言うように、今の彼は昔とはまるで正反対な性格をしていた。口数もそれほど多くはなく、活発よりも寡黙、熱血よりも冷静が似合う少年として成長している。昔は笑顔が可愛い少年だったが、年齢を重ねるにつれ自身のことを置き去りにして成長していった。恭子の話を簡潔にまとめてしまえば、それがどうやら気に入らないらしい。手のかかる弟分がいつの間にか独り立ちして己よりも先へと進んでしまう。そんな胸中なのだろう。
一通りの話を聞き終えた由子と洋榎は、恭子に生暖かい視線を向けて。
「……ブラコンもここまで来ると大概なのよー」
「ようするに寂しいんやろ? ん?」
「なっ、ちが、違うわ!」
2
「狭山君ですか?」
放課後。麻雀部部室にて、上重漫は牌譜を手にそう問い返した。今彼女が手にしているのは先月の南大阪予選時の自身の闘牌が記録されたものであり、インターハイに向けての課題を見つめ直している最中だった。
きょとんとした表情を浮かべる漫に質問の主、恭子は一度小さく頷いて。
「漫ちゃんあいつとおんなじクラスやろ? どんなんかな思て」
「どうって、そらもうスゴイですよ」
どこか瞳を輝かせて、漫は小さく拳を握った。
「学年主席でバスケ部エース。こないだの予選でも活躍して府のベストファイブに選出されたみたいですし、なによりも長身イケメン! マンガの世界の主人公みたいですよね」
「え、ああ。そうなん?」
熱が篭もり始めた後輩を諌めて、恭子は内心で驚いていた。
勉強ができることは前々から知っていた。だが学年で一番を取るほどではなかったはずだ。同様にバスケットが上手いことも知っていた。だが大阪を代表する選手にまで成長しているとは思わなかった。
そして何よりも、ここまで女子に好かれているとは思わなかった。事恋愛についてはかなり興味津々は漫はともかく、話を聞いているとかなりの女子生徒が少なからず彼に好感を抱いているようである。
姫松高校麻雀部レギュラーであるもうひとりの後輩に話を聞いてみても。
「ああ恭平君。こっちのクラスでもかなり人気ですよ。ああいうクールな子が皆好みみたいで」
「へ、へえ……」
この返答である。
揃いも揃って、と内心で恭子は溜息を吐き出した。それと共に無愛想になった弟分が校内でかなりの人気を集めていることに再度驚く。
漫や絹恵からそんな話を聞いて、どういうわけか無性に腹立たしくなった恭子は眉根を寄せたまま卓に着いた。
積み上げられた牌の山に手を伸ばし、それらを素早く並べていく。手牌に視線を落として、思わず舌打ちしそうになった。手が重すぎる。これではツモ和了は見込めそうにないと判断し、この局は見に徹することにした。
卓に付く残りの部員は、レギュラーではないもののそれなりに腕に覚えのある少女たちばかりである。恭子が攻めてこないことを悟ったのだろう。二人からリー棒が飛び出した。残る一人も既に二副露、叩き合いの様相を呈している。
普段の恭子であったならば、他者の当たり牌を河や視線の動きから察知することも出来ただろう。名門姫松の大将という肩書きは伊達や酔狂で提げられるものではない。視界から得られる情報全てを精査し、吟味して自らの勝利を手繰り寄せる。そんな芸当が恭子は出来る人間だった。
そう、普段であれば。
「ロン、8000」
無警戒に切った牌が河に出たと同時に発せられた対面の少女の声に、ハッと我に返る。少し河の様子を見ればその牌が危険牌であることくらい分かる筈だった。胸の内の燻る感情が思った以上に闘牌の妨げになっていることを自覚して、恭子は卓の下できゅっと拳を握った。
インターハイまで残された時間は多くない。一打とて無駄にすることは出来ないのだ。ましてや恭子にとってはこれが最後の大舞台である。この体たらくでは、レギュラーに選ばれなかった周りの部員たちに示しがつかない。
思考を切り替えるべく、恭子は両手で頬を叩いた。
その様子を他の卓から見つめていた由子に、同卓の漫が尋ねる。
「末原先輩調子悪いんですかね」
「というよりは気持ちの整理がついていない感じなのよー」
「インハイ前で末原先輩も色々悩んでるんですね」
どこか見当外れな意見を述べる漫に、由子はくすりと笑う。こうした漫の意図しない天然な部分は見ていて微笑ましい。恭子がやたらと構うのも理解できるような気がした。
「あ、それロン。24000なのよー」
「えっ」
3
「なぁ、末原先輩紹介してくんね?」
「……あ?」
噴き出す汗をタオルで拭い、スクイズボトルからスポーツドリンクを流し込む。渇いた喉に冷たいドリンクが染み渡り、生き返ったような心地にさせられた折だった。同じ部活仲間である友人から、そんな言葉を掛けられたのは。
練習中であればそんな戯言抜かすなと叱咤することも出来るが、今は休憩の時間。誰が何をしていようが咎められる謂れはない。
無視することも出来たが、そうしたところで食い下がる男ではない事を少年はよく知っていた。
狭山恭平はそれはもう大きな溜息を吐き出して。
「……イヤだ」
そう断言したのだった。
「なんでだよー。恭平幼馴染なんだろー? 親友のお願い聞いてくれよー」
「あー、うぜえ」
「図々しい」が服を着て歩いているような親友を、恭平はバッサリと切捨てた。熱気の籠る体育館を出て、入口の段差に腰を下ろす。当然のように自称親友も恭平の横に腰を下ろした。その間も口撃は止まらない。
「……大体、なんであいつなんだよ」
「は? それ聞く? 普通に美人で面倒見良くて頭も良い、そんな先輩だぞ? 寧ろ何で好きにならないか聞きたいわ」
「…………」
「大体さー。あんな人がすぐ近くに住んでてなんも感じないわけ? なに、お前ホモなの?」
無言でスクイズボトルを投げ付ける。
「恭平が末原先輩のことそう思ってんのか知らねーけどさ、あの人狙ってる奴かなり多いぞ」
「…………」
「俺的にはおしとやかな真瀬先輩も捨てがたいが……!」
友人の言葉には口を開かず、内心で恭平は呟く。
そんなこと、とっくの昔から知っていると。
恭子は昔から誰にでも優しく、面倒見の良い少女だった。困っている人間に手を差し伸べ、優しく導いてくれる。時には厳しいこともあるが、それが優しさの裏返しであることを恭平は身をもって理解していた。
じわりと、恭平の心を黒い感情が蝕む。
その感情の正体を知っている故に、自身の器の小ささが嫌になる。
昔から恭子と一緒だった。だからこそ自身と彼女を比較してしまうのだ。そしてその度に、己の矮小さを痛感する。
釣り合わない、いつのまにかそう思ってしまうようになった。
共に過ごす時間を、心から楽しむことができないようになった。
これではダメだ。こんな自分では、今のままの自分では。あの末原恭子には釣り合わない。
「……渡さねえよ」
「ん?」
変わらなくてはいけなかった。
彼女と肩を並べて歩むために。彼女の隣に立つために。それに相応しい男になることこそが、恭平にとっての全てだ。
今こうしてバスケットを続けているのも、恭子が何かに打ち込む男が好ましいと言ったから。
口数を少なくしたのも、寡黙で冷静な男の方がタイプだと言ったから。
好きだった麻雀を辞めたのは、彼女と同じステージには立てないと悟ったから。
恭平にとって全ての行動の根幹には、必ず恭子が存在していた。
そんな事、本人には死んでも言わないけれど。言えば恥ずかしさで死にたくなる。
「そういや恭平よ、お前さっき後輩の女の子に呼び出されてなかったか?」
「……そんなことはない」
「嘘つけよ。ばっちり見てたぞ俺は」
「……練習終わったら教室に来てくれって言われただけだ」
「それ絶対告白される流れのやつだろ死ね」
モテる男には平等に死を! とか宣っている隣の男を冷めた目で眺めつつ、内心で恭平は呟く。
愛の告白なんて、好きな女からでなければ朝の挨拶と変わらない。
ぬるくなったボトルの中身を飲み干して、恭平は立ち上がる。こうしている今もきっと、彼女は地道に努力を続けている。ならば自分も置いていかれるわけにはいかない。これ以上溝を開けられるわけにはいかない。
そんな思いを抱いて、自称親友と共に熱気の篭った体育館内へと戻っていった。
4
強豪校ほど練習の時間が長くなるのは、部員たちの熱量と顧問の熱意からすれば当然のことだった。ここ姫松高校で言えば女子麻雀部と男子バスケ部は野球部よりも練習時間が長いことで有名である。
窓の外は既にすっかり暗くなっており、時計の短針は九に届こうかとしていた。
部活終了のタイミングで行われる監督代行とのミーティングを終えて帰りの支度をする恭子だったが、ここで弁当箱を教室に置き忘れていることに気が付いた。別に弁当箱くらい、とも思ったが最近の気温のことも考えると衛生上決してよろしくはない。本音を言えば疲れていると言い訳してそのまま帰路についてしまいたいところだったが、そうすると母が激怒する姿が鮮明に浮かぶ。
はぁ、と一つ溜息を吐いて恭子は自身の教室へと向かった。廊下の電気は着いているものの、基本的に人の気配はない。この時間帯まで残っている生徒などほぼいないし、教師たちは見回りをすませ職員室だろう。やたらと疲れた身体に鞭を打って廊下を歩く恭子は、その途中でとある教室の電気が点いていることに気付いた。他の教室の電気は全て消されていたため、単に消し忘れかとも思ったがどうやらそうではないようだ。
教室の内側から、何やら話し声がする。
「……好き……付き合って……」
所々聞こえてきた言葉から、恭子は大凡の状況を把握した。
つまるところ、告白の現場に遭遇してしまったのだ。恭子に落ち度は全く無いが、居た堪れない気持ちになる。しかし身体は正直で、自然足音を殺してゆっくりとその教室へと近付いた。JKとはこうした話題に食いつく生き物なのだ。
建付の問題か僅かに開いた扉の隙間から仲を覗けば、そこには体操服姿の少女の後ろ姿があった。運動部のマネージャーだろうか。
そう思った恭子の視線が、自然と少女と向かい合っている男へと向かう。
「っ……」
思わず声を上げなかった自分を、恭子は褒めてやりたかった。
練習後なのか、バスケットボールがプリントされたシャツを着た弟分の姿がそこにはあった。本能的にこの場を去りたい衝動に駆られるが、どうしてか視線と身体は釘付けになっていて全く動こうとしてくれない。
「……気持ちは嬉しい、ありがとう」
幼少と比べて格段に低くなった恭平の声が、恭子にはやけに大きく聞こえた。心臓の鼓動が、自覚できるほどに早くなる。
「でも、ごめん」
「……理由を、聞いてもいいですか?」
「好きな人がいる」
肩が震えた。形容し難い感情が、津波のように押し寄せてくる。瞳が揺れる。視界が押し寄せる感情で滲んでいくのが分かった。
ああ、そうなのか。
どこか他人事のように、恭子は思う。
アイツだってもう高校生なんや、別に好きな人の一人や二人おってもなんもおかしくない。
無意識のうちに走り出していた恭子の瞳から、ぽろぽろと涙が溢れる。
なのに、どうして。
こんなにも胸が苦しいのか。
ここに来てようやく、恭子はここ最近の感情の正体を知った。
恭平と一緒に過ごす機会が減って、寂しいと感じていたのだ。他の女にちやほやされる恭平を見て、嫉妬していたのだ。
いつのまにか恭平に、恋愛感情を抱いていたのだ。今更ながらにそれを自覚して、恭子は歯を食縛る。
己の気持ちを自覚したところで、もう手遅れだというのに。既に恭平には好きな人がいる。教室内で恭平が口にした言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。
弁当箱の存在などすっかりと忘れ、恭子は何かから逃げるように姫松高校を後にした。
5
翌日。優等生として生徒、教師から好印象を持たれている恭子が遅刻してきたことで、教室内は俄かに騒がしくなった。担任の教師は体調不良ならと声を掛けているが、恭子は申し訳なさげに眉尻を下げて自分の席へと着いた。どこか元気のない恭子の目の下には、誰が見てもわかるほどはっきりと隈ができている。
そんな恭子の異常事態に、由子や洋榎が動かないはずがなかった。
SHRが終わったと同時に席を立ち、やけに憔悴した恭子のもとへと向かう。
「キョーコ、どないしたん? 遅刻すんのも珍しいけど、隈スゴイで」
「ああ、主将。別になんもないですよ」
「それは流石に無理があるのよー」
人間は基本的にストレスを周囲に発散するタイプと内側に抱え込むタイプに分かれる。恭子の場合は圧倒的に後者であり、それを由子はよく知っていた。インターハイを間近に控える今、恭子がこの状況なのは姫松高校麻雀部としても、また親友の身としても非常によろしくない。
故に由子は何があったのかを問い掛けた。普段の調子で、なにげなく。
だからこそ由子は、次いで恭子の口から飛び出した言葉に呆然とするほか無かったのだ。
「……隠してもしゃーないか、うん。いや、実は昨日、うち失恋したんです」
頬を引き攣らせそう言う恭子に、由子は開いた口が塞がらなかった。
いったいどんなウルトラCが起これば、そんなミラクルな展開に発展するというのか。
窓の外に広がる青空は、夏の到来を予感させた。
末原さんはいじめたくなる性格をしている(真顔)
後編は近々投下します。