「――っ!」
あたしは勢いよく体を起こした。息が上がっていた。震えもあった。それらを深呼吸をして落ち着かせる。陽はまだ上っていなかった。右隣ではゆきがなぜか笑顔で寝ていて、その奥では美紀が規則正しい寝息を立てて寝ている。左隣ではりーさんが鼻提灯を作ってすぴーと寝ていて、その奥ではめぐねえがほっとしたような顔で寝ていた。何かいつも通りで安心した。自然と笑ってしまう。でもすぐに引っ込んだ。
「……夢、か」
あの日の記憶はいつまでもあたしを追ってくる。好きだった先輩をこの手で殺した記憶。初めて奴らをシャベルで殺した記憶。忘れようとしても忘れられない。忘れちゃ、いけないんだと思うもの。
夢のショックが落ち着くと、背中が汗で酷いことになっていることに気が付いた。着替えようにも服に余裕はない。このまま寝るのも難しいから、あたしはみんなを起こさないよう静かに立ち上がって廊下に出た。
廊下は綺麗な月明かりに照らされて、結構明るかった。掃除でもされてたら、幻想的な風景にでもなっていたんじゃないかってくらいだ。もしかしたら懐中電灯でもないと危ないかもしれないと思っていたけど、そんなことはなかった。左右を確認してみると、まだ夜中だから誰もいない。当たり前か。少し風に当たったら、すぐに戻って寝直そう。
適当に廊下を歩く。あたしの靴の音だけが響いていた。夜風を浴びながらの散歩は気持ちいい。りーさんにばれたらこっぴどく叱られそうだから、長くは出来ないけど。ゆきはよく怒られてるよなぁ、と思って一人笑ってしまった。子供っぽくて危なっかしい奴だけど、今ではいなくてはならない大事な奴だ。初めて会った時、あたしが先輩を殺してしまったときも、あいつはあたしと一緒に泣いてくれた。悲しんでくれた。それが、あたしは嬉しかった。
「ありがとうってのは、今更過ぎて言えないよな」
そうだよな、と自分で頷く。それに、面と向かって言うのも恥ずかしい。仲良くなると逆にやりにくくなることってあると思う、うん。あの時言えればよかったけど、そんな余裕あたしになかった。
「……あ」
そこで思い出した。あの時オジサンに貸してもらったハンカチを持ったままだった。いつも持っていたから、いつの間にか自分のものだと勘違いしてたんだ。あたしが涙とか鼻水とかで汚しちゃったから、洗って返すって言ってそのままだった。ポケットに手を突っ込むと、やっぱりそこにはそれがあった。白無地のハンカチ。あたしはそれを目線の高さまで持ち上げて見つめた。
「……」
返すタイミング、完全に逃してる。オジサンが何も言わないからだ、とも思うけど、オジサンのことだからこれはあたしにあげたって思ってるか、それとももう忘れてるかもしれない。勝手にもらったものにするのも悪いしどうしよう、と悩んだあたしはとりあえずハンカチを適当に折ってポケットに戻した。トイレの近くまで来ていたから踵を返す。
「思い出してそのまま、は気持ち悪いしなぁ……」
今返そうにも時間が時間だ。夜中に行くのは駄目だろう。オジサンが偶然出てきてくれればいいんだけど、そんな都合よくいくわけない。でも早く言った方がいいし、と色々悩んで職員更衣室の近くでうろうろしていた。すると、前触れなく扉が開いた。
「……ん? あ、くるみちゃん」
「……」
「だ、大丈夫かい? 止まっちゃってるけど」
「……あ、あたしは大丈夫、全然。何もないって、元気元気」
あまりに都合よくオジサンが出てきたから、ちょっと固まってしまった。不思議そうに私を見るオジサンに、矢継ぎ早に話して自分を落ち着かせる。その時、オジサンが驚いたようにあたしを見たのが少し気になった。
「……それならよかった。で、何かあったのかな? ここまで来たってことは、オジサンに会いに来たようにも思えるけど」
オジサンがそう言うのは当たり前だ。職員更衣室の方向には夜中に行く必要のある場所なんてない。トイレはこことは反対方向だ。心配そうに見てくるオジサンに、あたしはポケットからハンカチを取り出して渡した。
「ほら、これ返そうと思って。借りたままだったから。さっき思い出してさ」
オジサンはそれが最初何か分からないようで、不思議そうな顔をした。
「これは……ああ、あの日の。別に返さなくてもいいよ。オジサン的にはあげたって思ってるからさ」
あたしが考えていたことと同じで、思わず笑みがこぼれる。そんな私を見て、オジサンは不安そうな表情になった。すぐ顔に出るオジサンに、あたしはまた、ちょっと笑ってしまった。
「……に、二度笑い……もしかして、変なこと言っちゃった感じかな?」
「違う違う。予想通り過ぎてさー」
オジサンは首を傾げた。説明するのも変だし、何でもないと付け加える。
「まあいいや。それで、これどうする?」
オジサンはハンカチを持って言う。折り目が付いている以外は、綺麗な状態だ。
「ん、ならもらっておこうかな、折角だし」
「うん。じゃあ、はい」
オジサンはあたしに笑いかけながらハンカチを渡してくる。受け取りながらあたしはその笑顔を見て、何となく安心して頬が緩んだ。
「……また変なこと言っちゃった?」
「何もないって」
「それならいいんだけど」
オジサンは納得のいってない表情をしていた。でも、あたしが理由を言うのはさすがに恥ずかしい。
「じゃあ、あたしは寝るよ。……りーさんにばれないうちに」
「ああ、うん。りーちゃん怖いからね……オジサンもすぐ寝よう。おやすみ」
そうしてあたしは来た道を戻る。ふと振り返ってみれば、オジサンと目が合った。そしたら手を振って来た。あたしも振り返す。何となくだけど、下校風景を思い出した。友達と一緒に帰って、分かれ道に来た時と似ているように思えたから。まあ、そんなの気のせいなのはわかってるけど。
だけどあたしは気分が良くなって、でもその気持ちは外に出さず、そろりそろりと部屋に戻った。まだみんな寝てるだろ、なんて軽く考えてたら、扉を開けた先には正座して如何にも怒っています、と言った感じのりーさんとめぐねえがいた。まさかのダブルパンチだ。冷や汗が流れる。もうこれは怒られる流れだった。
やっちまったなぁ、と思いながら、どうしてオジサンが今の時間に起きてきたのか、今になって気になった。
○
恵飛須沢が部屋に戻ったことを確認したオジサンは、ゆっくりと口を開いた。
「直樹君、もう出てきていいんじゃないかい?」
そう言うと、校長室に身を潜めていた直樹が姿を現した。
「ばれてましたか」
「慌てて隠れようとしたのが見えちゃったからさ」
あはは、と笑うオジサンを見て、直樹はくすっと笑った。
「先輩はいつでも変わりませんね」
オジサンは、さっきから笑われてばかりだなあ、と呟いて頭を掻いた。渋い顔はしていないので、それが嫌なわけではないようだった。
「直樹君はどうしてここに? と言うか何で隠れたの?」
「くるみ先輩が出ていくのが分かったので、少し考えてから後を追ったんですよ。一人での夜間行動は危険ですから。そしたらここに着きました。隠れたのは、その、あのタイミングで見つかるのも気まずかったので……」
「なるほどねえ。りーちゃんが起きてたら、かんかんに怒ってるだろうね」
「ふふ、でしょうね」
直樹は微笑んで言う。笑顔なのはいいことだけど、もしかしたら次はあなたの番だと言うことを忘れているのでは、とオジサンは思った。だが胸の内だけで留めた。自分だって変わらないのだから。ただ、誰かが言わなければオジサンのことはばれない。オジサンはそのちょっとした希望を見ていた。
「そう言えば、先輩は何で起きたんですか?」
「うん? あー、トイレに行こうと思ってさ」
この歳になるとトイレが近くなって嫌になるよねえ、と誰に同意を求めるでもなく、上を向いて呟いた。
「一人で大丈夫ですか? 腰、まだ治ってないんですよね?」
「ん、まあ大丈夫だよ。大分回復したから」
オジサンは腰をさする。実のところは分からないが、直樹はその一言だけでも安心できたようだった。ほっと安堵のため息を吐く。
「なら良かったです。早く元気になってくださいね」
「もちろん。おっさんパワーをなめちゃいけない。明日には治ってるかもだ」
「何ですか、おっさんパワーって」
「そりゃあ、あれだよ。よく分からない精神的な力みたいな」
「……本当、子供っぽいですよね。ゆき先輩と変わりませんよ」
そう言う直樹は、どこか楽しげな雰囲気を纏っていた。
「えー、オジサンもさすがにゆきちゃんよりは大人だと思ってるんだけどなあ」
と言いながら、オジサンは歩き出した。突然歩き出したオジサンに驚きながらも、直樹は並んで歩きだした。トイレの方向だった。直樹は気付いたように声を上げる。
「あ、もしかして話が長すぎましたか?」
「いやいや。もう夜も遅いから寝たほうがいいと思って」
夜更かしは美容の大敵でしょ、とオジサンはさも分かっている人の様に言う。その姿が似合わなくて、直樹は顔を背けて笑った。前を見ていたオジサンは、気が付いていないようだった。
「じゃ、オジサンはトイレに行くから。おやすみ」
部屋の前に来て、オジサンは立ち止まってそう言った。
「はい、おやすみなさい」
直樹はオジサンに軽く会釈をして中に入った。中からは一瞬怒っているような声が聞こえて、オジサンは巻き込まれないうちにそそくさとそこを離れた。
オジサンはそのままトイレの方に歩いていく。
そうして、学園生活部の夜は更けていった。
話しは進展していない。
申し訳ない。
自分で設定しておいて呼び方を書き間違えていた。
何ということでしょう。