あの引きは卑怯だ、先が気になる。
今日も快晴。電気も溜まって良い日になりそうだ。園芸日和、とでも言えるだろうか。外を見てから、私は屋上につながる階段を上っていく。
美紀さんがここに来て数日が経った。まだ正式には入部していないけれど、ほぼ部員と言っても差支えないだろう。ゆきちゃんとも仲良くやっているようだし、今では美紀さんにゆきちゃんの面倒を見てもらうこともある。何だか二人は姉妹のようだ。子供っぽい姉と、しっかり者の妹――。
「そう、妹……」
妹。その言葉が私の頭の中を回る。理由は分からないけれど、私の胸が締め付けられるような感覚があった。何もないのに。どこにも、悲しむところなんてないはずなのに。
「疲れているのかしら」
多分そうだ。いえ、そうに決まっている。こんなときは楽しいことを考えればいい。例えば美紀さんが入部すること。これは時間の問題だろうから、そうなったら歓迎会でも開こう。サプライズでクラッカーを鳴らしてみるのも面白いかもしれない。
そう考え始めたら、不思議な感覚は消えていった。気のせいだったのだろう。私は一度息を吐いて、屋上への扉を開いた。ギイ、と小さく音が鳴る。隙間から陽の光が差しこんできた。薄く目を開けて扉を開ききる。
「……オジサン?」
誰もいないだろうと言う私の予想は覆され、視線の先には手すりに肘を置き、ぼんやりと空を見上げるオジサンがいた。そんな姿は今までにも何度か見たことはあるけれど、いつもと雰囲気が違ったから声をかけるのに戸惑ってしまった。煙草を吸っていて、片手でその箱を持ち上げている。
「もう……」
私がどれだけ言ってもオジサンは煙草を止めない。私は少なからずむっとしてオジサンに近づいて行く。オジサンは私が来たことが分かると、視線をこちらに向けて笑った。その笑みは、どこかぎこちないように感じる。
「やあ、りーちゃん。どうしたんだい?」
「菜園の様子を見に来たんだけど、どうやら不良を見つけてしまったみたいね」
「あはは、その不良ってオジサンのことかな」
「もちろん」
そう言っても、オジサンは動じていない。表情に変化が見られなかった。困ったなあ、と呟いてまた空を見上げた。やっぱりどこかいつもと違う。何かあったのだろうか?
「……ふう」
オジサンは息を吐いた。煙が風に乗って空に消えていく。疲れている、のかもしれない。でも、私にその理由は分からなかった。
「どうかしたの?」
「え、何で?」
「いつもと、様子が違うから」
「あ、そう? ……そっか」
私がそう言うと、オジサンは手すりから離れて小さく伸びをした。腰を気にしているように見えるから、まだ快調とはいかないようだ。でも、それが理由という風でもない。
私がそうやって探っていると、オジサンは私に聞こえないくらいの大きさで何かを呟くと、持っていた煙草の箱を見せてきた。中には何も入っていないのか、振っていたが音はしなかった。
「……実はさ、この煙草、貰い物なんだよ」
「それが、今のオジサンと何か関係しているのかしら?」
「関係っていうか、原因かなあ」
オジサンは曖昧に笑った。普段なら見ない笑い方だった。それがまた、私の不安を誘う。
「夢、見たんだよね、昔の。まだオジサンが会社に勤めてたころのを。起きた時は全然思い出せなかったんだけど、直樹君に先輩って言われたのが引っ掛かってさ」
オジサンは、美紀さんに先輩と呼ばれてから、彼女のことを直樹君と呼ぶようになった。私たちが何でそう呼ぶのか聞いてみたら、学生のころから先輩と慕ってくれる後輩には君付けで呼んでいたそうで、その名残らしい。ゆきちゃんは、直樹君じゃ可愛くない、と怒っていたけれど。あれは面白かった。
思い出して和んでいた私とは対照的に、オジサンは脱力するように息を吐き、吸った。
「で、ずっともやもやしてたんだ。まあ、煙草でも吸えば消えるだろって思ってね。それでこれを見たら、思い出してきちゃってさ。ああ、そう言えばって」
「何を思い出したの?」
「会社の後輩、だった子って言えばいいのかな……今、無事なのか分からないし。ま、彼のことについてあれこれを思い出したんだよ。自分でも何で忘れてたのかわからないくらいに。いやあ、彼がいればこの状況も何とかしてくれたかもしれないのにねえ。残念、残念」
そう言ってオジサンは笑っていたけれど、小さく鼻をすすった音が聞こえてきた。よく見ると、オジサンの目が赤い。泣いていたように見える。その後輩の人との思い出は、大切なものだったのだろうか。
踏み込んではいけないような気がして、私は深くは聞けなかった。オジサンにも、どうしようもない悩みと言うのがあったのだと思うと、私の胸がちくりと痛んだ。
しばしの沈黙が流れる。爽やかな風が吹き、私の髪が流された。穏やかな陽気だと言うのに、ここだけは暗く見える。私が口を開けずにいると、オジサンは無理矢理と言った風に口を開いた。気を遣わせてしまったらしい。自分を情けなく感じた。
「ああー……何だかごめんね。辛気臭い感じでさ。煙草ももう消すよ」
「吸ってていいわよ。たまには、ね」
今のオジサンに駄目だと言うのも気が引けた。いつもよりも弱々しく見えて、このまま消えてしまいそうな雰囲気だったから。それで、私は強く出ることが出来なかった。
私の言葉を聞いたオジサンは、小さく頷く。
「私はまた後で来るから。戻った時に言ってね?」
「……ん」
オジサンは私から視線を外してまた同じように空を見上げ始めた。反応からしてうわの空だった。煙草から煙が立ち上り、ゆらゆらと舞っていた。私はそれを見て心配になったけれど、オジサンにしてあげられることもない。私はまだまだ子供なのだと言うことを気付かされた。私は浮かない顔で屋上を後にした。
○
太陽の眩しさに目を細めた。耐えられなくなって視線を下げれば、今も尚変わらずそこにいる奴らが目に入った。獲物を求めて彷徨っているかのようだ。一人一人は大した脅威ではないが、数が多い。厄介な相手だ。オジサンは赤くなった目で、彼、彼女らの様子を見ている。
「……」
オジサンは口の中で転がしていた言葉をこぼした。誰にも聞こえずに、それは消えていく。
「……ふう」
オジサンは持っていた空の箱を見た。今まで吸っていたものだったが、銘柄は知らなかった。
「確か、いつも同じの吸ってるからって、自分のをくれたんだっけ」
小山は気の利く男だった。明るく、気遣いが上手く、過度な遠慮はしない。付き合いやすかった。オジサンが会社に残り続けることが出来たのも、彼の影響が大きかった。
「君は今、どこにいるだろう」
視線は保ったまま、小山に話すようにオジサンは続けた。
「生きていてくれることを祈るよ。俺は君ほど頼りになる男を知らないから」
そう言うと急に風が強くなり、持っていた箱が手から逃げて飛んで行く。慌てて手を伸ばして取ろうとしたが、風に乗ったそれはそのままどこかに行ってしまった。もう、見えるところにはいない。しばしの間、何が起きたのか分からないようで、手を伸ばした体勢のまま呆然としていたオジサンは、急に笑い始めた。腹を抱えて笑っている。そのせいで腰が痛みを発し、苦笑いに変わった。
「い、つつ……はは、頼るなってことかねえ。厳しい男だよ」
ひとしきり笑った後、短くなった煙草の火を消した。そしてそれを校庭に向かって落とした。オジサンはポイ捨てかな、と頭をよぎったが、今回だけは勘弁してくださいと心の中でお願いした。
「最後だったし、ちょうどいいのかな、うん。よし、頑張ろうか」
オジサンはすっきりした顔でそう言う。気持ちの整理がついたようだった。
「君みたいにスマートにはいかないだろうけどさ、俺は俺なりに何とかやってみるよ」
オジサンは手すりから離れた。そして出口まで歩いていく。その途中、不意に立ち止まった。空き箱が飛んでいった方向を眺めた。
「未練がましいなあ、俺」
自分で自分を笑う。視線を戻して、また歩き始めた。
もう立ち止まることはなかった。
オジサンは一人、何を思う。