入渠ドックを離れた後、この暑さの中工廠へ行ってみる気も起きず、他に行き場所も考えつけなかったため司令室へと足を向けていた。道中不知火の姿が頭にちらつき、その好意について漠然と考える。特別何かをした訳では無く、秘書艦の時に一緒に一日を過ごしたが、大きなアクシデントも無かった。
「……まあいいか。好かれて損なことはないし」
「Hey!提督ゥー!Tea Timeにしまショ!」
司令室がある最上階への階段を昇ろうと一段目に足をかけた時、頭上から金剛の声が響く。階段を見上げると、仁王立ちした金剛が笑顔で自分を見下ろしている姿が映った。
「いきなり悪いんだけど、艤装つけてくれ!」
先程の出来事を心の片隅に追いやると、正面の金剛を見据え頭を下げた。金剛は慌てて階段を駆け下りると、朝霧の肩に手を置く。
「What?そのメガネは……それに艤装デスカ?」
「嫌ならいいんだけど」
「いえ、よくわかりませんがOKデス!」
金剛から承諾を得ると、二人は出撃ドックへと再び足を運ぶ。お茶をしようと司令室を訪れたものの、朝霧が不在で探しに行こうと思っていた矢先に出くわしたと聞き、手間が省けたとレンズを通し金剛を見つめる。その横顔は何時も通りの表情だったが、朝霧から見て心なしか嬉しそうであった。
「なあ、瑞鶴とか翔鶴とか、何処行ったか知らない?」
「……工廠へ艦載機の整備に行ったそうデスヨ」
他の艦娘の話題を出された金剛は、眉を顰め口を噤み、その表情に不快感を表した。その事に気付いた朝霧は何とかご機嫌を取ろうとこの後お茶を飲むことを約束し、出撃ドックへの階段を降りる。ドックに辿り着くと、金剛は置かれている艤装を背負い朝霧と向き直す。
「これでOKデス?」
「ああ」
金剛の艤装を見つめると、先程までと同様メガネの端に妖精さんが映り、頭の中に声が響く。
『戦艦金剛の貴方への信頼度は中。好感度は激高です』
「んん?」
予想外の結果に首を傾げ、再び艤装を見つめるもその結果は変わらない。朝霧のその様子につられ金剛も首を傾げ、此方を覗き込む。
「どうしましタ?」
「いや……すまんかったな、ちょっと工廠に寄って直ぐ戻るから、お茶の準備しといて」
「……直ぐ戻って来てくださいヨ?あんまり他の娘と仲良くするのは許さないからネ!」
「分かってる分かってる」
未だ怪訝な表情を浮かべ、睨みつけてくる金剛を尻目に踵を返すと、工廠へ駆け足で向かう。
道中、メガネの妖精さんに問いかけようと、メガネを外しそのレンズを見つめる。
「えっと……妖精さん?」
『はい』
「見た通り金剛は俺に凄い懐いてるけど、あんまり信頼されてないの?」
『信頼度と好感度は別です。戦艦金剛は貴方に強い好意を抱いてはいますが、戦場を共にした回数はまだ一回だけです。得る信頼もないのでしょう』
「厳しいな……」
真夏の工廠に来る物好きは、艦載機の整備を日課としている空母か普段から居座っている明石だけである。工廠の前の扉に立つと、既に溢れだしてくる熱気に扉へ伸ばした手を思わず引っ込めるが、覚悟を決め取っ手に手を掛ける。再びメガネを掛け直すと、真夏の工廠への扉を開き、中から溢れてくる熱気に思わず顔を顰めるが、中に朝霧が一番知りたかった瑞鶴、翔鶴、龍驤の三人の姿があることを確認し、漂う熱気の中、腕を振り斬り進んでいく。額から汗を流し、見たことのない黒縁のメガネを掛けながら険しい表情を浮かべ歩み寄ってくる朝霧に、一同は顔を上げ互いに見合わせる。
「えっと……何それ?」
瑞鶴は薄ら笑いを浮かべると、目線を手元の艦載機に落とす。朝霧は瑞鶴の使っている弓が真横に置かれていることに気付き、レンズを通して見つめる。先程とは違い、朝霧は妖精さんは何やら唸っているように見えた。事実直ぐに返って来ていた妖精さんの声が無く、沈黙が続く。
『……はい、正規空母瑞鶴の貴方への信頼度は中。好感度は中です』
「んんん?」
朝霧は思わずメガネを外し、少し腰を落とすと椅子に腰かけている瑞鶴と目線を合わせる。
「何?」
「いや……んー」
瑞鶴とはかなり古い付き合いになり、例の一件があったものの既に信頼されているとばかり思っていたが、その予想とは裏腹の結果に肩を落とす。
「どうなの妖精さん」
『色々な気持ちが渦巻いているので難しかったですが、以前程の信頼はまだ得られていないそうです』
「……うい」
「何さっきから一人で呟いとんねん」
「そのメガネ似合ってますよ」
翔鶴は艦載機から視線を朝霧に向けると、普段を変わらぬ笑みを浮かべ、龍驤はやれやれと苦笑いを浮かべる。
「…………翔鶴はさ」
「はい?」
「俺が逃げ出した時、どう思った?」
この緩やかな雰囲気でその話題が振られると思ってもいなかった翔鶴は目を細め、表情が固まり真剣な眼差しを朝霧に向ける。
「悔しかったですね。私がもっと支えるべきだったんじゃないかと。私に貴方の横に立つ資格はないと思い塞ぎ込みました」
「龍驤は?」
一方の龍驤は、朝霧と談笑する時と同じ様な笑みを浮かべると、何時も通りの口調で返答する。
「まあその内帰ってくると思っとったわ。帰ってこんからわざわざ連れ戻しに行ったんやで」
朝霧は心を決めると、本命であった二人の艤装を見つめる。今度は瑞鶴と違い、メガネの端に映った妖精さんは此方にサムズアップし、ウィンクすると同時に声が響く。
『正規空母翔鶴の貴方への信頼度は激高。好感度は激高です』
『軽空母龍驤の貴方への信頼度は激高。好感度は激高です』
「……ふぅ、明石!」
「はいはーい!」
朝霧はメガネを外し、折りたたむと機材の陰から此方の様子を伺っていた明石にメガネを放る。明石は慌ててメガネを受け取ると、手元と交互に朝霧を見る。
「もういいんですか?」
「ああ。まあ暇つぶしにはなったかな」
「何の話や?」
「何でもないよ、龍驤は俺のことがだーいすきってことが分かったからいいや」
「何でそうなるんやっ!」
それは普段通りの光景だった。朝霧が龍驤をからかい、翔鶴がそれを見て顔を綻ばせる。瑞鶴はそれを宥め、やれやれと溜息を吐く。瑞鶴はそれを、第一部隊と朝霧の間で見た過去の光景と被らせる。二度と見ることは出来ないと思っていた光景だった。姉がこれ以上悲しまないよう、そしてこの鎮守府から再び提督が居なくなる事態が起きないよう、自分が支えると決心し、整備していた弓を強く握りしめる。
「……今度は離さないようにしなさいよ」
「……瑞鶴?何か言ったかしら?」
「いーや、なんでも無いわ」
「じゃ、司令室に戻るわ」
ある意味優柔不断な決断を出すと、朝霧は満足げな表情を浮かべ龍驤の頭を強く撫でる。未だに噛みついてくる龍驤を尻目に工廠の出口へ向かうと、悩みの種を一つ解決させ、金剛のお茶を飲めることを思い出し両手を天に突き出す。司令室に戻った朝霧は金剛のお茶を飲みながら外出許可の旨を夕立に伝えると、一緒に行くと駄々を捏ねる夕立を抑え、デートと勘繰り一緒に行くと駄々を捏ねる金剛を抑えつけ鎮守府を後にした。
その頃、雑談に飽きた第七駆逐隊はみな湯船を出て入渠ドックを後にしていたが、一人不知火は湯船に体を沈め、天井を見上げ続けていた。もしかしたら朝霧のあのメガネが何時もの余興で、口から出まかせを言っていたのだろうか。しかし、陽炎の反応を見ればそれは無いとも言える。加えて余興にしても引き際を知る朝霧が、人の感情面に関してからかうことは無い。好意を抱いている自覚は無かったが、そういうことなのだろうか。不知火は両手でお湯を掬うと、両手の中に映る自分の姿を見つめる。こんな不愛想な女を好きになることなんてあるのだろうか。それに朝霧には龍驤や翔鶴と言った面々が居る、自分では到底敵いそうにない敵が。
「敵……?なんの敵なのかしら」
その問いに答える者は居らず、夕飯時まで入渠していた不知火は再び陽炎にからかわれ、何時も通りの制裁を加えその日は幕を閉じた。