「ねえ、響?」
第二出撃ドック、その更衣室。
暁は自分のロッカーの前で着ている服をすべて脱ぎ去り、隣りで着替えている響の方を見ずに声を掛けた。
響はと言えば、ちょうどパンツを脱ぎ去って一糸纏わぬ姿になったところだ。
生地が痛み始めているお気に入りの水色のパンツを指にひっかけてくるくると回し、響は姉の方を横目に見る。
「下着って、インナーの中に履くべきかな? インナーの上から履くべきかな?」
暁の問いに響は「ふむ」とひとつ頷いて、くるくると指で回していた自分のパンツをロッカーの中に放った。
「……インナー着るなら、履かなくてもいいんじゃないかな?」
暁たちが着用する補助艤装のインナースーツは、それ自体が下着のようなものだ。
波長を弄って透明にしなければ、充分に局部を隠す役割を果たす。
そういった機能がある以上、響としては下着をつける意味を見いだせなかったのだが、どうやら暁は違ったようだ。
「勝負パンツよ。響も履くでしょ?」
そう言って暁が掲げたのは、まるで水着のようにハンガーに掛かった白と黒の下着だ。
どちらもこの島に漂着した物資の中にあったものなのだが、高級感漂うそのつくりに気後れして、六駆の誰もが身に着けなかったものだ。
それを、この出撃の時に身に着けていこうというのだ。
ハンガーを左右の手に持ち真剣な表情で悩む暁に、響は半目で呆れ顔だ。
「勝負下着って……。あの夜戦大好き軽巡3人組に、ちょっと影響され過ぎじゃあないかな?」
「ええ? そうかしら?」
「それに、そのマントもだよ……」
響の視線の先、暁のロッカーの中には軍刀と、黒いマントがかけてあった。
どちらも、とある軽巡洋艦の改二艤装、その衣装のひとつだったものだ。
暁が自らのロッカーに入れていたということは、出撃時にこれを身に着けていくつもりだったのだろう。
「戦友の遺品を着飾るのは、感心しないかな」
「そんなんじゃないわ! ……それにこれ、遺品なんかじゃないもの。あいつは、これを着る前にいなくなったんだから……」
この衣装を身に纏うはずだった軽巡洋艦は、重雷装巡洋艦への改造を目前にして轟沈している。
暁は、その瞬間を目の当たりにしている。
「……でも、そうね。響の言うとおりかも。居なくなったみんなと一緒に戦いたい、みんなに見守っていてほしいって、思っているのかもね」
珍しく弱音を吐く暁に、響はインナーに足を通そうとしていた動きを止めた。
今まで、妹たちの前では絶対に弱音を吐かなかった暁が、ここに来て弱気な姿を見せたのだ。
10年振りの出撃で感情が揺らいでいる、というのもあるのだろう。
しかし響には、暁の弱気の原因が、別のところにあるように思えていた。
響が思い当たったのは、提督の存在だ。
彼がまだ、この島に漂着したばかりの青年だった頃から、暁が何かと提督のことを気にかけていたのは、響以下、姉妹たちは知っている。
提督の前で弱みを見せて以降、暁は妹艦たちの前でもあまり顔をつくらず、自然に振る舞うようになってきている。
良いことだと、響は思う。
しかし、だからこそ、そういった彼是を鑑みて今の暁を見ると、その弱気の原因が提督に由来するのではないかと、察するのだ。
そう思い至るだけのことが、昨日あったばかりだから。
「司令官に対して、不満があるのかい?」
何気ない口調で響が問えば、暁は目を丸くして妹艦を見返した。
どうしてわかったのだと言いたげな姉の視線を、響はため息を吐きそうになるのを堪えつつ受け流した。
わからないわけがない。
いくらかの隔たりがあったものの、10年以上の時間を共有してきたのだ。
変化があれば気付くし、それがおかしな変化であれば尚更だ。
暁の変化はわかりやすいものでもなかったが、響は気付くことが出来た。
響自身が提督に対して期待と、それ以上の不満を抱いていたから、というのもあるだろう。
提督に対してまだまだ負い目の念が強い雷などは、まだまだ彼を提督として見ていない節があるし。
電に至っては、正直なところ響でも良くわかっていない。
あの妹艦は稼働時間が姉妹艦の中では一番長く、また人間として過ごした時間も最長なので、計りかねているのだ。
響に内心を言い当てられた暁は、自分のロッカーの中を見つめて考え込んでしまっていた。
だが、おそらくはロッカーの中など見ていない、目の焦点が合っていないのだ。
視線が向けられているのは、己の内側だ。
「……私ね、司令官のこと、好きよ。彼が流れ着いてくれたおかげで、本当に救われた気がするの。でも、こうも思っているの。司令官は、私たちの司令官でもあるのだけれど、でもやっぱり、私たちが守るべき人間なんだって」
「それは、彼が提督ではなく一般人だと言うことかい? 私たちの背を見守り共に戦う者ではなく、背に庇って守るべき、か弱き者だと?」
響の追及に、暁は無言で頷いた。
そんな暁の姿を見て、響は何故暁がこんなにも弱気になっているのかを、改めて確信を得た。
暁が求めていたのは、自分たち艦娘を送り出し、その背を見守る提督だ。
だが、自分たちの司令官は、そんな提督像とはだいぶ異なる。
どちらかと言えば内地に遠ざかってもらっている、守るべき一般市民なのだ。
当初こそ、自分たちにも司令官が出来て喜んでいた暁だったが、提督と日々を過ごすうちに、提督としての彼とよりも一般市民としての彼を強く意識するようになっていたのだろう。
そこに、昨日のあの一言だ。
最初こそ大笑いしていた暁だったが、後になって、はたと気付いたのだろう。
自分が、なんの訓練も受けていないような一般市民を、提督に仕立て上げているということに。
提督への不満とは決して頼りないといったものではなく、本来守るべき者を戦いの場に縫い付けてしまったことへの後悔だ。
だからこそ暁は、彼が提督になると告げた時に難色を示している。
それを忘れたわけではないのだろうが、提督への好意が、楽しい日々が、考えを鈍らせていたのだ。
そして、この出撃の直前になって、今さらに怖くなってしまったのだろう。
この後に及んで、彼に戦いの結果を受け止めさせることを、恐れているのだ。
「私たちの事情に勝手に巻き込んで置いて、今さら不満があるなんて……。最低だわ、私……」
「まあ、司令官は軍属の人じゃあないだろうからね。昨日の、作戦会議の時の発言で、はっきりわかったよ」
昨日の作戦会議で提督が発した一言に、艦娘たちはみんな揃って大爆笑となった出来事だ。
あの時、提督自身も感じただろうなと、響は実感する。
艦娘が、“人間でもある”という存在だということに。
常人とは全く分かり合えないような価値観を、いくつか持っているということに……。
「でも、現状、彼に司令官をやってもらわなきゃ、どの道手詰まりなんだ。特に、生身の人間である司令官には事故死や病死のリスクがある以上、こうして協力してもらう他ない。彼もそれをわかっているはずだよ。現状彼にしか出来ないことを。自分が、適性はあっても“提督”には向いていないということも……」
「響は、司令官のこと……」
「暁と同じだよ」
即答で返され、暁は黙り込んだ。
今までの自らの言葉を思い返して、困ったように顔を赤くしてしまう。
「まあ、不満の量なら暁よりもだいぶ多いけれどね。司令官に言ってやりたいことは山のようにあるよ。でもそれは仕方のないことだから、言うべくもなし、さ。そもそも彼には、選択肢など無いに等しかったのだから……」
深海棲艦の支配領域にたったひとり、記憶を失くして取り残されて、戦いの準備に駆り出される他、進む道はなくて……。
それでも提督は選び、狭められた道を自分から歩いて来た。
こちらが遠まわしに脅迫まがいなことをする前に、この島と艦娘たちの事情を見て、たったひとつだけ用意された選択肢を、自分の意志で選び取ったのだ。
「私は、そんな彼だからこそ、司令官を任せられる。そのうち、苦しんだり痛んだりでひとりで散々抱え込んでうじうじ悩みだすのが目に見えているけれど、彼はそれを承知で、私たちの背中を見送る役目を買って出たんだ。だから……」
だからこそ、響は自らの決意を言葉にする。
「司令官、あまり泣かせないようにしないとね?」
言って、響はインナースーツにようやく足を通した。
響の言葉を受けて、暁は俯き、固まってしまった。
悔しさが声となって漏れそうになるのを、腹に力を入れて抑える。
彼が自分たちの司令官になると告げた時に、共犯者になることを決意したはずなのにと。
その決意を忘れたわけではないが、日々の暮らしが緩みを生んでしまっていた。
提督となった名前の知らない彼に好意を抱くほどに、彼は提督にはふさわしくない人物だと、そう強く思ってしまったのだ。
深く息を吐いて、暁は隣の妹艦を横目で見る。
よく考えれば、あまり感情を表に出さないこの艦娘が、他人のことをとやかく言うのは珍しいと、今さらに思う。
響も提督に期待していて、そして不満をも抱いてもいると、はっきり口にしていた。
それだというのにこうもぶれないのは、精神が鋼で出来ているのではと勘ぐってしまう。
「――誰が鋼の女だって?」
「言ってないんだけど!?」
響に横目でにらみ返され、さっさと着ろとばかりにインナースーツを押し付けられる。
「決意が鈍るのは、何もおかしいことじゃないし、恥ずかしいことでもないよ。私たちは人でもあるのだから、そう言った気分や感情の“振れ”があってしかるべきだ。それが、深海棲艦に対抗する一要因になっているは暁も知っているはずだよ?」
「……自分の決意が鈍ったり、自分の決断を疑ったりしちゃった時って、響はどうしているの?」
「簡単だよ。更新するのさ」
「更新?」と姉艦が怪訝な顔を向けて来るのを、響はハンガーに掛かった下着を手に取りながら頷き返した。
「もう一度、決意するんだ。迷ったら、何度でも決意し直す。もしかしたら、以前とは違った心構えになるかもしれないけれど、以前よりも良い方に舵を取れているなら、それでもいいんだ」
響は言って、「ただ……」と付け加える。
「決意が揺らぎ、鈍るってことは、“決めた”段階では見えていないものが見え始めたってことだよ。だから、新しく決意し直す何かが必要だ」
「決意し直す何かって……」
「それくらい、自分で考えるんだね?」
澄ました顔で言われて、暁は頬を膨らませて、受け取ったインナースーツをばさりと振った。
乱暴に手足を通しながらも、暁の頭の中は少し前よりは断然はっきりとものを考えられるようになっていた。
確かに、提督に対して不満や後悔はあったが、よく考えればただそれだけではないか。
ただの記憶喪失の青年を提督に仕立て上げたことに負い目も感じているが、「それはそれ」とだいぶ前に割り切ってもいる。
これからやることは変わらないし、続けていくことも変わらない。
ただ、自分の不満と後悔と弱気とを、はっきりと自覚しただけだ。
新たな決意の材料などいらない。
しかし、響に指摘されなければ、不満を抱えてもやもやしたまま海上に出ていただろう。
油断まみれの心境で敵の領域に突っ込もうとしていたかと思うと寒気がするし、そんなことで延々と素っ裸で悩んでいたのかと考えると顔に熱が上がってくる。
「……ダメね。悩みを打ち明ける、なーんて習慣がないと、わかっていても、抱え込んだままにしちゃう」
「それに気付けただけも良かったし、こうして話してくれたことは何よりの進歩だよ。10年間、私たちが避けてきたことなのだから……。それで? どっちにする?」
響がハンガーを掲げてきた。
暁は顎に手を当てて目を細め、しばらく黙考する。
結局、暁が白、響が黒いパンツをインナーの上から履くことになった。
そうして、勢い良くパンツを履いて気合を入れたはいいものの、ブラジャーの方はふたりとも着けずにそっとロッカーにしまった。
暁のは胸元がスカスカで、響は胸元がきつくて着用出来なかったのだ。
涙目になって拳を握る暁に、響は呆れた顔で肩を叩くしか出来なかった。
○
暁と響が着替えているあいだ、提督たちは待機場のテーブルにてノートPCに向かっていた。
艦娘の出撃が海上に出るには出撃許可が必須となり、提督がそのための承認を行う必要があったのだが……、
「……改めてこうして確認しているけれど。項目、結構多いんだね?」
提督はノートPCに表示された承認項目にしっかりと目を通し、二度、三度と再確認した後やっとクリックしてチェックを入れる。
「もう、司令官ったら。詐欺師のつくった偽物の書類じゃないんだから、そんなに穴が開くほど確認しなくてもいいのよ?」
後ろから画面を覗き込んでいた雷が呆れたように言うが、提督は「いいや」と画面から視線を外さない。
「みんなの生死にかかわることだから、見落としがあってはいけないよ」
「大丈夫大丈夫。全部チェック入れれば大丈夫なのよ、そんなの。全24項目すべてに目を通していたら、日が暮れちゃうわ? ほーら、さっさとチェックチェックー!」
雷が肩を揉みながら先を勧めろと促してくるのを、提督は苦笑いしながらも、確認を怠るような真似はしない。
そうして密着する提督と雷の様子を、テーブルの端、鼻から上だけを覗かせた人物が見ていた。
まるゆだ。
じっと、半目で穴が開きそうなくらいに強い視線をふたりに送ってくる。
どうしたことかと提督と雷が見守れば、まるゆはキッと目元を鋭く細めて立ち上がり、速足でテーブルを迂回して、提督と雷に向かってダイブした。
「まるゆもー! 入れてくださーいー!」
どうやら仲間に入りたかったようで、提督ごと雷に抱き着いたまるゆは、腕いっぱいに力を込めてロックをかけてくる。
首が閉まる感触に提督は慌てるがどうにもできず、雷は笑いながらその極めを外す。
それどころか、逆にまるゆの背後に回り込んでチョークを極めてしまった。
「鮮やかなものだね?」と提督が感心したように言うのを、雷は「練習したもん?」と笑顔で答える。
趣味だろうかと首を傾げる提督だったが、雷の相手をまるゆに任せて(逆だろうか?)ノートPCの画面に向き直る。
出撃許可の承認項目を、提督は、実は以前にも目を通している。
暁たちが艤装の同期作業を終えて、出撃ドック内の水面にて動作試験を行おうといった段階でのことだ。
しかし、その時確認したのは試験出撃用の簡略化されたもので、いま目にしている本式のように、数十ページに渡りびっしりと文字が羅列されているわけではないのだ。
先程雷が言ったように、この膨大な文字の羅列を逐一確認して理解する意味というのは、確かに薄い。
契約書における同意の是非を確認するものというほど小難しいものではなく、これは単に艦娘の艤装のロックとして働いているが故だ。
例えば、チェック項目のひとつに艤装の重量を減少させるというものがある。
暁型の背部艤装は魚雷発射管やシールドを除いても100キロを超える。
こんな超重量を背負っては、海上に出て戦うどころか、そもそも立って歩くこともできないし、骨格に異常をきたしてしまう。
艤装の超重量を減少する仕組みこそ提督にはわからなかったが、それが彼女たちの枷として充分であったことは充分に理解できた。
艦娘が、提督の許可なく海上に出ることが適わないといった理由だ。
艤装のスターターの投入許可、艤装の重量減少、各種兵装のロック、仮想スクリューの展開回路の接続、等々。
そう言った項目が24もの数があり、そして許可を出せるのは人間、提督のみだ。
チェック項目はあくまでロック解除のための一動作、艦娘……少なくとも雷はそう考えているようだ。
しかし、提督はそうは思えなかった。
確かに承認項目は形骸化されているのかもしれないが、目を凝らせば新たな発見が山のようにあったからだ。
例えば、各種兵装のロックに関する項だ。
艦娘の半径数メートル以内にて人間の生命反応を感知した場合、兵装が自動的にロックされるという記述があるし、そもそも兵装の最終安全装置は外洋に出た時点でようやく解除状態となるという記述も初めて目にするものだった。
深海棲艦の支配海域であるこの孤島においてはあまり意味のないことかもしれないが、これが本土周辺の鎮守府や近海であれば話は変わってくる。
これは艦娘が誤って人間に対して攻撃を行えないようにという措置だろうと、提督は苦い顔をする。
艦娘の艤装時の動きを制限する記述は、この他にもかなりの数見られた。
中でも、海上において艤装の強制解除という項目には目を疑った程だ。
いったい何をどうすればそんな事態に成り得るのかと困惑して、そして、そう言った事態を想定できないのが自分の考えの甘さなのだなと提督は思い知った。
クレーンなどの動作を確認していた電が、通りがかりに「あまり気にしすぎるのも、ダメなのですよ?」と力を抜くよう窘められたが、提督はどうしても、自らの緊張を解くことが出来なかった。
この思いつめ方はいけないなと自覚しながらも、それをやめることが出来ないでいる。
これは性分なのだろうかとも考えるが、その答えは、記憶を失う前の自分か、“提督”となる前の青年を知る人にしか出せない。
気分を変えるために時間が必要だと感じるが、もう出撃までに時間がない。
暁たちが準備を終えて更衣室から出て来るまでに、なんとか平静を取り戻したいと考えていたが、それも叶いそうにない。
もっと早くにこの承認項目に目を通しておくべきだったと後悔する。
優先順位を完全に誤ったのだ。
こんな重要な記述があるのならば一早く教えてほしかったと不満を述べたいところだったが、彼女たちなりの気遣いでもあったのだろうと思うと、そう無下にもできない。
自分が考えすぎて深刻になっていると、提督自身も理解している。
たった今目にした重要項目も、これからの出撃に直接関わってくるとは限らないし、例え熟読して吟味したとて妙案が浮かぶとも限らない。
完全な素人目線での考えだが、何かあった場合に判断に時間がかかるのはまずい。
そう言った部分まで、暁たちは提督に期待していないことは承知している。
緊急時の対応などは彼女たちの方が良く知っている以上、提督の仕事は“是”の一言で許可を下すことだけなのだ。
彼女たちが承認事項の詳細を熟読する必要がないと判断したのならば、それが正しいのだろう。
提督が納得すればすべてが順当に行くが、その納得を今すぐ得るには、どうすれば良いか。
「……電、いいかな?」
作業を終えて、後ろに控えて動向を見守っていた電に、提督は声を掛ける。
電は笑顔で応じる。
まるで、提督の問いをあらかじめ知っていたかのような笑みだ。
「これらの項目、要点を検索できるような機能はないかな? 緊急時に必要な項目をすぐに検索できるような……」
これらの項目すべてに目を通していたら、日が暮れるどころか明日の朝になっても終わらないだろう。
内容を熟読しないうちにチェックを入れることはしたくなかったが、このまま先延ばしにしても良くはない。
ならば緊急時、即座に確認だけでも出来るようにしておきたい。
例え有効な判断が出来なかったとしても、考えが及ばず右往左往するのは御免だ。
出撃する彼女たちの、命がかかっているとすれば尚更だ。
「それならもう、緊急対応時のリストをつくってあるのですよ?」
電に笑顔で告げられ、提督は急速に緊張感がしぼんでいくような感触を味わった。
それはそうだと、心の中で苦笑いする自分がいる。
いくらこちらを気遣ったとは言え、「不要だから話す必要がない」などと電が言うとは考えにくい。
現に、提督の隣に移動した電はノートPCを操作して、件の重要項目リストのファイルを開いてゆく。
「もしかしたら、と思ってつくっておいて良かったのです。司令官さんはたぶん、こういうの見過ごせないと思ったので……」
「電には敵わないなあ……」
安堵するように深く息を吐いて提督が言うと、ロックを極めた(極められた)まま動向を見守っていた雷とまるゆが、わあっと提督と電に襲い掛かった。
もみくちゃにされながら、いつにもまして落ち着きがないなと感じるのは、今が出撃前だからだろうかと提督は思うのだ。
立ち止まっていると不安がこみ上げて来るから、動いていたり、誰かに密着していたい。
その思いは、考えは、理解出来る。
昨日、失言して笑われたことを引きずっているのだろうなと、提督は内心のざわめきを悟られないように努めるので精いっぱいだった。
会議の時は恥ずかしさしか感じなかったが、後々になって自分の認識に甘さに愕然としたものだ。
自分が接して向き合っている彼女たちが“艦娘”であると、そういう認識が足りなかったのだ。
今まで彼女たちを人間の女の子として見てた面が強かったからこその失言だったが、いざ作戦時となった場合に、その心境のままで挑むのは非常にまずい。
今のように、要らぬ所で時間を食って、後々の状況に悪い影響を与えてしまうことだってある。
彼女たちから許可を求められ“是”と返すだけの人形になどなる気はないが、だからと言って素人判断で意固地になってしまってもいけない。
……と、そんなことを考えている提督に、電は先ほどと同じ笑みを向けてくる。
気にしすぎないように。
考えすぎないように。
優しく諭されているようで、やはりこの子には適わないなと、提督はそう思って、苦笑いするしかない。
その時、ようやく更衣室の扉が開かれた音を耳にする。
揚々と出て来たふたりの姿を目にした提督は、口を半開きにして固まってしまった。
原因は、主に暁の格好だ。
暁が身に纏っている衣装は、いつもの制服と帽子に加え、裾に白い波紋が刺しゅうされた黒いマントだった。
マントは右半身を覆うように着こなされ、背部艤装を装着する空間を設けている。
右半身を覆うようにしているのは、暁が主砲を左腕に装備するためだろうかと提督は推測する。
そういった部分で納得することは出来るのだが、やはり根本的な部分で「何故マント?」と疑問してしまう。
「どうしたの? 司令官。お馬鹿さんみたいに口開けて」
「……うん。気にしないことに、しようかな? うん」
「何がよ?」と、暁が不満そうに口をとがらせるのは、期待したリアクションがなかったからだろうか。
口を真一文字に引き結んでじっと提督の顔を睨んだかと思うと、次の瞬間には「よし、大丈夫ね?」とひとりで完結してしまうので、提督には何がなんだかわからない。
そんな姉とは対照的に、響の方はいつもの落ち着いた雰囲気で肩を竦めて見せた。
響が着ているのは、黒い細身のコートだ。
袖元や首元、腰回りもしっかりと引き締め、体の線に密着するようなデザイン。
裾は膝上までの丈で、脚部艤装の展開に干渉しないようになっているようだ。
動作試験時にテストしていたヘッドフォン型の複合ソナーも首に掛かっている。
そして、腹回りには大きなベルトが装着されていた。
機械的なデザインから察するに、おそらくはこれも艤装なのだろう。
提督の視線に気付いた響が「爆雷のストッカーだよ」と捕捉する。
「“ルサールカ”対策の爆雷の予備さ。背部艤装に搭載している分では足りなくなるかもしれないから、予備を、こう、お腹周りに……」
「それは、敵の砲弾など受けて誘爆する危険はないのかい?」
「もちろん、あるさ。しかしどちらにしろ、敵の砲弾が頭に当たれば、問答無用で天国へ真っ逆さまだよ。そうでなくとも、私たち艦娘は誘爆して即死するレベルの武装を山のように積んで海に出るんだ。大した違いはないよ」
響の発した言葉に、提督は「確かに」と頷かん思いだった。
背部艤装の燃料タンクや砲弾や魚雷、すべて含めればざっと暁たちの艦娘の体積の半分くらいにはなる。
それだけの危険物を体に巻き付けて戦うのだ、危険でないわけがない。
そんななか、提督が特に気になったのは、ふたりが首から下げているものだ。
懐中時計のように見えたのだが、よく見れば異なる機構を有していた。
時計で言うところの文字盤が4つあるのだ。
文字盤のうち2つは時計なのだが、もう2つが方位磁石のようなもの。
提督の視線に気付いた暁が「これ? 補助艤装の羅針盤よ?」と、その補助艤装を向けて見せる。
「羅針盤って言っても、半分は時計なんだけどね? 時計ふたつは、所属鎮守府の時刻と、作戦行動時の座標での時刻を確認するため。羅針盤は目的地の進路確認と、これも帰投する所属鎮守府の方角の確認用ね。本当は艦隊の旗艦だけ持ってればいいものなんだけれど……」
「たった2隻では艦隊も何もないからね? 数も余っているし、個人で持つようにしているのさ」
「そうそう。妖精が勝手気ままに回しだすし、何が羅針盤って感じだけどね……。それと響、髪ね?」
先に発進台へ向かおうとしていた暁が足を止めて、振り返りつつ響に告げる。
「わかっている」とばかりに手を挙げた響の肩や背部艤装に、妖精たちが現れる。
妖精たちが誘導灯のようなものを振ってサインを出すような動きを取ると、響の纏っている衣装の明度が落ちていった。
黒や濃い色は光沢を抑え、白や明るい色は配色に黒を混ぜたかのような暗色へ。
そして、響の髪も白から灰色を経て黒へと変化した。
夜戦迷彩というもので、なるべく光源に反射する色を抑えるための措置なのだと、電が提督に解説する。
「……まあ、どうせ髪は纏めるのだけれどね? 一応の措置だよ」
響はそう言いながら長い髪を纏めて、後頭部あたりで団子をつくっている。
暁の方は髪を纏めないのだなと苦笑いした提督は(暁は雷とまるゆに捕まって髪を纏められていた)、ふと、「やっぱり、姉妹艦と言うだけあって似ているものだね?」などと呟いた。
響が黒髪に近い色となったことで、暁と並ぶと顔付などが瓜二つであると気付いたのだ。
姉妹艦なのだから似ているのは当たり前ではないのかと結論付けそうになったのだが、並んでポーズを取って見せる暁と響の姿に(ふたりともノリノリだ)、何故だか違和感が生じた。
それを問おうする間もなく、「さあ、出撃なのですよー?」と、電に背中を押されて、提督は出撃するふたりに続いて発進台へと急いだ。
○
第二出撃場内にある発進台。
その機構は、言わば水の張られていない屋内プールのような形をしている。
ひとつのレーン幅は5メートル程で、それが六つ並ぶ。
深さは4、5メートル程あり、スタート台付近は転落防止の策で覆われていた。
六番まである出撃レーン、その一番と二番のスタート台に、暁と響は立つ。
一番レーンに暁、二番レーンには響。
旗艦は暁だ。
クレーンによって運ばれてきた背部艤装が装着され、後続で運ばれてきた魚雷発射管やシールド、脚部艤装や主砲を追加装備していく。
装着と、それらの動作確認の様子を見守る中、ふと、まるゆが不思議そうに首を傾げた。
「おふたりの魚雷発射管、三連装なんですね? 魚雷は、酸素魚雷ですか?」
「違うわ。あれ、普通の三連装魚雷よ」
まるゆの問いに雷が答える。
確かに、暁と響の装備している魚雷発射管は三連装のものだ。
「四連装とか五連装の発射管もあるし、酸素魚雷もストックがあるんだけどね? あのふたりは三連装が使い慣れてるって言って、絶対三連装の通常魚雷なのよ」
「使い慣れない最新式よりも、使い慣れた旧式よね?」
「そうさ。それに、雷跡を残さない酸素魚雷よりも、雷跡を残す通常魚雷の方が使い道があるのさ」
三連装の有用性を主張するが暁と響だったが、雷に「おばあちゃんじゃないんだから、最新式の使い方覚えなさいよ」と言われて、気まずそうに顔を逸らしたり、吹けない口笛を吹いて誤魔化し始めた。
そうして一通りの動作確認を終えると、いよいよ出撃体勢への移行だ。
「ふたりとも、しっかりね?」
雷は、それぞれの額にキスして頬を優しく叩いて激励。
そうして提督たちの元へ戻ると、総員で揃って敬礼する。
暁と響は脇に抱えていた帽子を被り直し、響はヘッドフォンを装着してコードを妖精に渡し背部艤装へと接続した。
ふたりが提督たちに返礼すると、スタート台が下方へと降下を開始した。
深層へと降下中に脚部艤装を展開して接続、さらにはスタート台から補助パーツが追加補強されて、長さ3メートル超の、サーフボード状の一枚板が形成される。
進行方向側へ向く左側には、艦名と速度メーターが。
逆の右側には仮想スクリューの回路ボックスと、巻き取られた状態のアンカーのチェーンが覗いている。
スタート台がゆっくりと回転して、ふたりの左半身が進行方向を向く。
駆逐艦の、高速巡航形態の完成だ。
レーンに海水が通され、スタート台が着水。ボードが浮力を得て水上に浮いた。
すぐに仮想スクリューが展開して、ゆるやかに回転を始める。
ボードとスタート台を繋ぎとめていたアンカーが外れ、生じた推進力のままに前進を開始して、徐々に速度を上げていく。
抜錨だ。
艤装の重量を軽減された艦娘の体は軽く、静止状態からでもトップスピードに移行できるが、このレーン上での水上航行が最終確認の意味も含んでいるため、初動は緩やかなものになる。
屋内プールのような発進機構から暗いトンネルに入り、誘導灯が灯るレーンに沿うように航行して、ふたりは徐々に速度を上げて行く。
「暁、出撃口から鎮守府外へ出ると同時に高速巡航開始だよ」
「……近くで張ってるの? ヤツが……」
「いいや。ただの勘だよ。とても嫌な勘だ……!」
響の忠告通り、暁は目の前の景色が開けると同時に妖精に指示を出して高速巡航を開始した。
緩やかな加速から、急加速へ。
ボードの先端が天を仰ぐほどの角度で持ち上がるが、すぐに体勢を立て直して真っ直ぐに行く。
ちらりと背後に目を向けると、ちょうど響が高速巡航を開始して、出撃口がゆっくりと閉じてゆくところだった。
敵の侵入を防ぐため、出撃後は引きこんだ海水が一度排出されるため、例え“ルサールカ”が入り込んだとしても地面に打ち上げられることになるはずだ。
そもそも響のソナーに反応がないということは、出撃口の真ん前の張り込んでいたという勘は外れたのだろう。
「……やっぱり、遠洋に出てから仕掛けてくるのかしら?」
「ここで仕掛けて来ないとなれば、その可能性が高いね。今のところは感無し。――このまま速度と間隔を維持。目標座標到達まで、およそ1時間」
暁は視線を進行方向へ戻しつつ、夜空を見上げた。
分厚い鉛色の雲に覆われた夜空には、月も星もない。
それだというのに海上が仄明るく見えるのは、この一帯がもう深海棲艦の支配領域だからなのだろう。
異常な環境下。
10年ぶりの出撃。
思うところは多々あるものの、今はただ進む。
艤装の最終安全装置が解除される音が聞こえ、自分の意志もそちら側に切り替わった。
鋼のような硬質な波間を、高速にて行く。