外はすっかり暗くなり、早い人はそろそろ寝はじめるようなそんな時間。
小野寺家のキッチンには明かりが点いており、そこには可愛らしいエプロンを身に着けた小咲がいた。
『次は残りのメレンゲを加えて…』
耳には、肩に挟まれた受話器が当てられ何やら電話の相手から料理のレシピの説明を受けている様だ。
『…ねぇお姉ちゃん、やっぱり私無茶だと思うなぁ。お姉ちゃんが手作りでおいしいチョコ作るなんて』
「いいから、次教えてよ次…!」
言われなくてもわかっている。自分が料理下手だという事は。
だがこれは譲れない。今ここだけは、絶対に譲ることは出来ない。
「うぅ…。私もこんな風に料理上手だったらなぁ…」
『いや、お姉ちゃんはちょっと特別というか…』
電話をスピーカーモードにしてテーブルに置き、小咲は下準備を終えたものをオーブンの中に入れる。
後は、焼けば終わりだ。少し苦労したが、これで明日は安心…。
そう思い、小咲がスイッチを押したその直後…、轟音が響いた。
『お、お姉ちゃん!?今の音なに!?』
「…」
電話から慌てる声が聞こえてくるが、小咲はその声に返事を返すことができない。
呆然と、蓋が開き中から黒い煙を上げるオーブンを眺める。
「…私、今なに作ってたの?」
『何って…、ガトーショコラでしょ?』
この失敗から、小咲への試練は始まる。
何度も何度もトライを続け、何度も何度も失敗が続き…、気づけばもう日を跨ぐ時間にまで来てしまった。
『お姉ちゃん、もう止めたら…?私、眠くなってきたよ…』
「ご、ごめん。もう少しだけ…」
『それ、さっきも言ってたよ…』
電話の相手もさすがに眠くなってきたようだ。そしてそれは、小咲にも同じことだった。
けど、諦めたくない。何とか、おいしく作りたい。その思いが、ひたすら小咲を突き動かす。
『ねぇ、やっぱりお姉ちゃんには無理だよ…。チョコなら明日の朝に買えばいいんだから。相手の事も考えないと…』
「そんな事ないもん…。私だって、たまにはおいしく…」
受話器から聞こえてくる言葉に、小咲は唇を尖らせながら返し、そして口の中に新たにできたチョコを入れる。
先程までは、入れた瞬間に衝撃が奔った。しかしさらに前には完成にさえ至らなかったのだから成長した方だろう。
しかし、今回は違った。口の中に広がるのは、確かなチョコの甘み。それこそ、コンビニやスーパーなどで売られている商品よりも断然…
「おいしい…!」
『え!?』
上手くいった…?上手くいった!
心の中に歓喜が満ちる。受話器から賛辞の言葉が聞こえてくるが、小咲は返事を返さない。返すことができない。
感激と、明日は絶対にこのチョコを渡したいという欲求が全てを支配していたからだ。
そう、明日は二月十四日。
バレンタイン──────乙女の戦争の日である。
「珍しいな、楽が俺と一緒に学校行くなんて」
「ん…まぁな。今日は何か早く起きちまったし、千棘も今日は一緒に行けないとかメールで来てたからよ」
バレンタイン当日、陸はいつも通りの時間に、楽はいつもより早い時間に家を出て、双子は並んで歩いていた。
二人は特に当たり障りない話を交わしながら学校の敷地内へと入っていく。
玄関へと入り、先に陸が下駄箱から上靴を取り出して履き替える。
陸が上靴を履いている間、楽も下駄箱を開けようと取っ手に手をかけて…、勢いよく開けた。
(…今、期待したな)
「期待したな、貴様」
「してない。ぜんっぜんしてない」
陸の内心の呟き、そしていつの間に背後に来ていたのか集が楽の耳元で囁いた言葉は重なった。
即座に楽が否定の言葉を言うが、先程の行動を見ればチョコを期待していたのは明らかだ。
さらに、楽の愚行はそれだけではなかった。
教室に入り、陸と楽はそれぞれの席に座る。
陸は先日の席替えで楽の後ろの席になったから、前の楽の行動が良くわかってしまう。
楽は、机の上に鞄を置くと体を傾けて机の中を覗き込んだ。
「期待したな、貴様」
「し、してないって言ってんだろ」
玄関での集と同じ言葉を楽だけに聞こえるようにボリュームを下げて言う陸。
集の時と同じように、楽はすぐに否定するが…バレバレである。
「ていうか、お前はどうなんだよ陸。期待してねえのか?」
「期待っていうか…、確信、かな?」
「は?」
陸の言葉を怪訝に思い、眉を顰める楽をよそに陸は机の中に手を入れる。
「…やっぱりあった」
「…」
机の中から取り出されたのは、可愛らしいピンクの包装に包まれたチョコ。
楽は目を点にして、呆然と陸の手が握る物を見つめる。
「…俺たち双子なのに、どうしてこうまで差が広がったんだ」
「知るか」
少し嫌な言い方をした陸だが、大体小学五年生くらいからだろうか。
チョコをもらう様になり、そしてそれから毎年バレンタインにはチョコをもらい続けてきたのだ。
先程の陸が言った確信とは、これまで毎年本命義理に関わらずチョコをもらい続けてきたから多分今年ももらうだろというものだったのだ。
「俺だって本命はそう何度ももらってないぞ?ほら、これだって友達からだし」
「…何でそんなのわかるんだよ」
「だってこの紙に書かれてる名前の人、彼氏いるから」
「…」
リア充でした。双子の弟は、彼女こそいないものの完全なるリア充でした。
(何だよお前の交友関係の広さはよぉ…。小せえ頃は先が心配になるくらいコミュ障だったくせに…)
心の中で感じた安堵の気持ちはもうどこかに行ってしまった。
先程も言ったが、どうしてここまで差が開いてしまったのか。
別にそこまでかけ離れた行動はしていなかったはずなのに…。
「おはよう、もやし」
「ん…、あぁ、おはよう」
落ち込む楽に、冷ややかな挨拶がかけられた。
楽が見上げると、そこには楽を見下ろす千棘が立っていた。
千棘は楽から視線を外して、椅子を引いて腰を下ろし鞄から教科書などの荷物を出して整理を始める。
「…ねぇ、今日は何でみんな浮足立ってるの?」
「あ?…あぁ、お前アメリカ育ちだからバレンタインの事知らねえのか?」
「あぁ…、バレンタインね。そっか、今日はバレンタインなのね…」
「…」
前の席に座る二人のやり取りを、陸は黙って眺める。
「千棘は楽にチョコ上げんの?」
「はぁ!?」
そして陸が千棘に、楽にも聞こえるように問いかける。
瞬間、千棘は両目の端を吊り上げて陸を睨みつける。
「そんなわけないでしょ?確かにこいつとは恋人の振りしてるけど、そこまでする義理ないじゃない」
ボリュームを抑え、周りに聞こえないようにして千棘は言う。
その言葉を聞いた楽は、少しショックを受けたように表情を歪めるが、千棘は知らぬ顔でそっぽを向いている。
(…素直じゃねぇ)
そんな千棘の様子を見て、陸は呆れたようにため息を吐く。
どうせ楽のためにチョコを作ってきたのはわかっている。…出来はわからないが。
何で素直に渡せないんだか…、気持ちはハッキリしてるんだろうに。
「ほーい、皆席に着け―」
素直じゃない千棘に呆れている中、チャイムが鳴り、同時にキョーコ先生が教室に入ってきた。キョーコ先生がファイルを机に置き、教室にいる生徒を見回した。
「…小野寺はどうした?欠席か?」
そこで、キョーコ先生が小咲が席にいないことに気付く。
席に鞄などもないし、まだ学校に来ていないのだろう。
陸も楽と千棘のやり取りを見ながら気にしていたのだが、風邪でも引いたのだろうか。
と、そこに教室の扉が開く音が響き渡った。教室にいる人たち全員の視線が集まる。
そこには、こそこそと体を小さく縮こまらせながら教室に入ってくる小咲の姿があった。
「おー、小野寺。遅刻なんて珍しいな」
「す、すいません…」
「昨日、遅くまでチョコ作って寝坊したのか?おーおー、青春してるなー」
「ち、違います!」
途端、ドッと笑いが溢れた。
だがそれと同時に、キョーコ先生の言葉を真に受けた男子もいた。
「小野寺が、チョコ…」
「ふっ、そのチョコは俺が頂いた…」
「小野寺さん…、も、もしかして僕に…」
(丸聞こえだぞお前ら、もっと声を抑えろ)
心の欲望を抑えられず、口に出してしまう数人の男子に内心で忠告するがもちろん届くはずもなく。
周りの席に座る女子達に、冷たい視線を向けられていた。
「はぁ…」
「でも、本当に珍しいな。どうしたんだ今日は?」
「あ…、ちょっと寝坊しちゃって…」
ため息を吐きながら席に着く小咲に、陸がこっそり話しかける。
小咲はハッ、と顔を上げて陸に返事を返す。
寝坊、か。やっぱり、キョーコ先生の言うようにチョコを作っていたのだろうか?
だとすれば、小咲がチョコを渡したいと思う相手がいるという事だ。
…何だろう、少し気になってしまう。決して口には出さないが。
「…あれ…、陸君。その包みは…」
「ん?あぁ、これ?チョコ。勿論義理だけどな」
ふと、小咲の目が陸の机の上にいく。陸の机の上には、ホームルーム前に陸が机の中から出したチョコがあった。
そのチョコについて問われた陸は、正直に友達からもらった義理チョコだと答える。
その時、一瞬だけ小咲が悲し気に眉を顰めたことに陸は気づかなかった。
「そっか…。良かったね、陸君」
「まぁ…、もらわないよりはマシかな?」
「っ…」
今度は、前の人へも聞こえるように少しボリュームを大きくして答える陸。
直後、僅かにピクリと楽の体が震えたのを陸は見逃さなかった。思わず小さく吹き出してしまうのだった。
「そういえば、今日橘来てないよな?」
「あぁ…。風邪でも引いたのかねぇ?」
授業が終わり、放課後。ホームルームが終わって教室を出た陸と楽、集の三人は集まって話をしていた。
その時、ふと楽が言って集が答える。
(…いや、今日がバレンタインだと考えると橘なら間違いなく風邪を引いてたとしても無理して学校に来ようとするはず。だけど、まだ来てない。…それはつまり)
「あっ、楽様!」
楽と集が万里花の欠席について話している間、陸は万里花が学校に来ない理由は他にあると考えていた。
そんな中、三人の背後から聞こえてくる声。
振り返れば、そこには…巨大な楽の像。
「は?」
呆けた声を漏らす楽。陸と集も、あんぐりと口を半開きにさせて楽の像を見つめる。
そうして見つめている内に気づいたのだが、あの楽の像の材料はチョコだ。こちらまで甘い匂いが漂ってくるのがわかる。あの楽の形をしたチョコが間違いなくおいしくできていることが、わかる。
だが…
(怖い…、怖ぇよ…)
万里花とすれば溢れる楽への愛を込めたつもりなのだろうが、見ている側からしたら正直恐怖しか感じない。それは、受け取る側の楽の方が大きいだろう。
「っ!」
「あっ!逃がしませんよ、楽様!」
現に逃げ出した楽がそれを物語っていた。
「逃げたくなる気持ちはわかるけど…、ちゃんと最後は食べてやれよ、楽」
ぽつりと、楽へ忠告した陸は集と分かれて鞄を持ち、帰るために玄関へと向かう。
「陸君、待って!」
だが、一階へ降りる階段に差し掛かったその時、背後から先程とは違う声が陸を呼び止めた。
立ち止まって振り返ると、そこにはこちらへ駆け寄ってくる小咲の姿があった。
「小咲?」
「あのっ、私!陸君に渡したいものが…きゃっ」
何かを抱えているのが見えたが、それが何なのかを確認する前に走っていた小咲が派手に転んでしまう。
「小咲!?大丈夫か!?」
慌てて陸が倒れた小咲に駆け寄ろうとする。
「来ないで!」
「え?」
しかしその前に、小咲が陸が近寄ろうとするのを拒む。
思わぬ小咲の大きな声に、陸は驚き立ち止まる。
陸の目の前で小咲は、震えながらゆっくり立ち上がる。
「大丈夫…、大丈夫だから…」
大丈夫なら、それで良い。
それで良いのだが、どう見ても大丈夫のようには見えない。
「…ごめんね」
「あ…」
突然、立ち上がったと思えば走り出す小咲。
何か自分に用があったんじゃないのか?転んで大丈夫だったのか?
聞きたいことはたくさんあるが、何よりも一番陸が聞きたいのは。
(何で…、泣いてるんだ…?)
小咲が駆けだす直前、一瞬だけ見えた目から零れる光るもの。
何が起こったのかわからず、少しの間、陸はその場で呆然と立ち尽くすのだった。