凡矢理高校、1-C教室。ただいま、ホームルームの真っ最中である。
教壇の上に立ったキョーコ先生が、一枚の紙を見ながら告げる。
「えーおはよう諸君。今日も元気に行こう…と言いたいところなんだが、一条陸は今日からおよそ一週間、家庭の事情という事で学校を休むそうだ」
その言葉を聞いた生徒たちは、表情に困惑を浮かべながらざわつき始める。
入学してから、陸はここまでまだ休んだことはない。それに、小学中学と付き合ってきた人たちならばわかるのだが、陸は年に一度ほど長期間休むことがある。
陸と昔からの付き合いの人たちは、またか、といった表情を浮かべている。
「ねえダーリン。家庭の事情らしいけど…、何か知ってる?」
「…まあ、な」
キョーコ先生が何やら「家庭の事情って、何なんだよ」と愚痴を漏らす中、千棘が身を乗り出して楽に近づいて問いかける。
返ってくる楽の答えは、どこか曖昧なもの。
「どうしたのよ?元気ないわよ?」
「…まあ、お前らには話してもいいかな。ホームルーム終わったら、鶫も連れて屋上に来い」
楽の顔はどこか浮かない。
それが気になった千棘は楽の様子を窺う。
楽も、千棘と鶫ならばあれを話してもいいか、と考えて、屋上に来るように言う。
千棘は、きょとんと目を丸くするが、すぐに頷く。
そしてホームルーム終了後、楽と千棘と鶫の三人は屋上に集まっていた。
「…え!?香港?!」
「それも、悪徳組織の鎮圧、か…」
楽が話した、陸が学校を長期的に休む理由に千棘は驚き、鶫は考え込むように拳を顎に当てる。
「確かに、香港にはかの叉焼会が手を焼いている組織があると聞いてはいたが…。その鎮圧に、ディアナが向かわされるとはな…」
「ちゃーしゅーかい?それに、ディアナって何なの?」
鶫のつぶやきは、すぐ傍にいた千棘の耳には届いていた。
叉焼会、それに、ディアナとは何なのか。
「叉焼会は、中国の中で一番規模が大きく、そして一番歴史が古い組織です。ディアナは…、まあ簡単に言えば、裏社会に通じる、一条陸の異名です」
「異名…?」
こくん、と首を傾げる千棘。そんな千棘にさらに詳しく説明を続ける鶫。
「はい。何でも、狙った標的は逃さない。狙った獲物を必ず狩る。という意味で、狩猟の神でもあるディアナという異名が着けられたのです」
ここまで、陸は任された仕事を失敗したことがない。
その事実もまた、異名の有名さに拍車をかけていた。
「でも、ディアナって…女神でしょ?陸は男じゃない」
そこで千棘は、一番気になる所にツッコミを入れた。
そう、ディアナとは女神の名前である。陸はもちろん男。
それなのに、何故男である陸にディアナという異名が着けられたのだろうか。
「あぁ…。陸は小学生のころからたまに仕事に連れてかれてたんだけど…。その時、あいつの髪って女の子みたいに長くてさ…」
その千棘の問いに答えたのは楽だった。
陸が仕事に出始めたのは、小学三年生の頃のこと。
その時の陸は、髪が背中まで伸び、動くごとに揺れるのである。
陸が初めて仕事に出た時、その仕事は今回と同じ、ある組織の鎮圧だったのだが、陸にやられた男たちが目にしたのだ。
長い髪を輝かせ、舞い踊るかのごとく敵を屠る、陸の姿を。
まさにその様は、女神だった、と後に語ったのだ。
「で、陸は裏社会で<ディアナ>って呼ばれ始めたんだ…。あいつ、なんて失礼な!て暴れてたなぁ…。初めて知ったときは」
陸が二度目に仕事に出た時、初めて自分にディアナという異名が着けられていることを知った。
だがその時、陸は小学四年生。ディアナという言葉の意味を知るはずもない。
そこで陸は親父に聞いたのだ。ディアナとは何なのかと。
返ってきた言葉は、月の女神。
当然、陸はショックを受けてしまう。
陸が長い髪を切ったのは、そのすぐ後だった。
「…そっか。あんたが朝から元気なかったのは、陸が心配だったからなのね…」
「…まあ。毎年毎年味わってるんだけど…、馴れないんだよな…」
楽が、毎年毎年陸が危ないことをしに行っていることを知ったのは、中学生になった時である。
当然、親父にも陸にも止めるよう告げた。
だが、親父はそういう事は陸に言えと相手にしなかったし、陸も、自分は集英会が好きだからといって止まらなかった。
そこから楽は毎年、弟が命の危険に晒され、もしかしたら死ぬかもしれないという懸念を抱きながら生活するという期間、最大一か月をその状態で過ごしてきた。
この年で四年目。だが、陸にしては八年目。
未だ、楽はこの懸念を抜き取ることができない。
「ふん。貴様が心配するまでもない。あのディアナが…、一条陸が、そう簡単に死ぬはずがない」
俯く楽を、鶫が素っ気なくはあるが慰める。
その言葉を聞いた千棘が、楽が目を見開いて鶫を見る。
「…な、何ですか。お嬢も…」
まじまじと見つめらる鶫が、もじ、と体を縮こませる。
「いや…、鶫が俺を心配してくれるなんて…」
「うん…、何か意外だね…」
「なっ!?わ、私は貴様の心配などしていない!!」
顔を赤く染めて否定する千棘。どう見ても、恥ずかしがっているようにしか見えない。
「ふふ…、ははは!」
「はははは!!」
「わ、笑うな!笑わないでくださいお嬢~!!」
笑いながら、屋上から去っていく三人。
だが、楽は笑いながらもこう心に決めるのだった。
(小野寺には…、絶対に言わないでおこう)
香港国際空港、現地時間で9時30分に陸は到着した。
スーツケースを引いて空港から出て、指定された場所へと向かう。
陸はバス乗り場を通り過ぎ、傍の横断歩道を渡ってすぐの黒いビルの前に止まっているリムジンの傍で立ち止まる。
リムジンの傍には、黒いスーツを着た男性が立っていた。男性は、陸の姿を見とめると、綺麗に腰を折ってお辞儀をする。
「お待ちしておりました。集英会、一条陸様でございますね?」
「ああ。…叉焼会の王天宇か?」
男は陸の言葉に頷き、王とお呼びくださいと告げる。
ここまでの会話、全て陸と王は英語でこなしている。
こういう外国での仕事が多い陸は、否が応でも英語を使えるようにしなければならなかった。
ちなみに、中学からこれまでの英語のテスト、陸は全て満点である。高校受験も込みで。
さて、リムジンに乗り込んだ陸だが仕事の概要について聴いていた。
今回、陸が標的にする組織の名は、麻竹会。叉焼会の中では、支那竹会と言われている。
支那とは、中国では蔑称として使われている。まわりに害しか及ぼさない麻竹会に、蔑称を使うのにためらいがないという事だろう。相当手を焼かされているようだ。
「しかし、叉焼会の規模があれば俺の…、いや、他の組織の手を借りなくても鎮圧できるんじゃないのか?」
「いえ…。残念ながらそういうわけにはいかないのです」
陸が問いかけると、王は首を横に振りながらその言葉を否定する。
「今、叉焼会はかなりきわどいバランスで成り立っている状態なのです。前首領が急死してから、首領候補の人たちが相次いで死去。現首領である奏倉様も頑張ってはおられるのですが…」
「そう上手くはいかない、か…」
俯きながら言う王から引き継いで、陸が一番王が言いづらい言葉を窓の外に視線をやりながら口にする。
「まあ、今の首領は優秀ではあるが若いからな。様々な組織が、今が好機と襲ってくるのも致し方なし、か」
「その通りでございます」
現叉焼会首領、奏倉羽(かなくらゆい)は、若干16歳で就任。
前首領が死去した影響で弱体化した組織を、必死に立て直そうと努力していることを陸は知っている。
「…ここからは、首領の家族として聞かせてもらう。…羽姉は、元気にしているか?」
不意に、陸がそんなことを口にする。
王は、首領を姉と呼んでいる、傍から見たら訳の分からない言動をする陸に対して、何ら表情を変えずに答える。
「はい。今日も、あなた様にお会いしたがっており、抑え付けるのが大変だと連絡が入りました」
「あ…、そう…」
陸と、今日本にいる楽。そして、叉焼会首領の奏倉羽は、幼馴染なのだ。
羽が小学六年、陸と楽が小学三年の時に羽は転校してしまい、そこからはあまり連絡も取れず時は過ぎていたのだが。
7年ぶり、もしかしたら会えるかもしれないと陸も期待していたのだが…、やはり無理なようだ。
話を聞く限り、羽は強引にでも来ようとしているようだが、不可能だろう。
陸が滞在するのは香港、羽が今いる場所は、恐らく北京なのだから。
二都市間の距離、およそ3000㎞。…やはり不可能である。
陸は、自分に会いたいとはしゃぐ羽を想像する。
…昔とあまり変わっていないのだろうか。いつか会ってみたいものだ。
陸が思い出にふけっていると、リムジンが大きな建物の前に止まる。
先に王が降り。反対側に回って陸側の扉を開ける。
「ここが、陸様にお泊り頂いてもらうホテルでございます。お部屋は、最上階のスイートルームでございます」
「そこまでしなくていいんだが…」
「いえ。陸様には最上級のおもてなしをしろとの、首領からのご命令ですので」
(羽姉…)
何てことをするのだ…。いや、その心遣いはありがたいのだが…。
「いや、スイートルームは止めてくれ。なるべく、建物の少ない道路に面した普通の部屋を用意してくれ。許可がもらえたら、スイートルームとそのお客の部屋を交換してもらっても構わない」
「…承知いたしました」
正直、一客としては横暴ともいえる暴挙なのだが、叉焼会ならばこのくらい簡単にできるだろう。
それに、スイートルームと交換できるのだ。こんな魅力的な交換条件を飲みたいと思う人は大勢いるだろう。
(最上階、それもスイートルーム。まわりの建物の状況から見て、狙撃するには絶好のポイントだからな。羽姉には悪いけど、部屋は変えさせてもらおう)
周りには、多くの高層ビルやら高級ホテルやらが並んでいる。
陸を客として最高のもてなしをしようという羽姉の心遣いなのだろうが…、最上階の部屋というのは最悪のチョイスである。
麻竹会に陸が叉焼会の援軍として来ているという情報が渡っている可能性がある。
まだ視線を感じたことはないが、これから陸が見つかり、そして監視を受けるという可能性だってある。
そんな状況で、最上階でなおかつ、見事な景色を見せるために窓が多くなっているであろうその部屋に泊まってしまったら…、狙撃の格好の標的になってしまう。
「陸様。お部屋に関してですが、ご要望通りのお部屋をご用意できました」
「そうか…。お代に関しては、そちらに任せるという事でいいんだよな?」
ホテルのロビーに入った陸に、王が駆け寄って話しかけてくる。
用件は、陸の要望通りの部屋が取れたという事。
陸は王に向かって頷く。王もまた頷き返し、黙って陸を先導してエレベーターに乗り込む。
陸の部屋は、三階の一部屋。
窓は一つだけであり、さらにベッドの傍らで寝転がれば、外からは姿が見えなくなるという好条件である。
「では。私どももこのホテルの部屋にお泊りしています。何か御問題があれば、508にご連絡ください」
「…わかった」
「では、二時間後にもう一度お訪ねします。その時に、今回のあなたのお役目について詳しくご説明いたします」
王の説明を聞きながら部屋の点検を行い、カーテンを閉め、最後に内線を見つけてから頷く。
王がそう言い残して部屋を去っていくと、陸はスーツケースを壁際に置き、再び部屋を調べ始めた。
念のため、可能性は少ないだろうが盗聴器の点検である。
コンセントのカバーの裏、テーブルの裏、ベッドの裏。
様々な設置しやすそうな場所を点検し、盗聴器は仕掛けられていないという事を確認すると、陸はホッと息を吐く。
点検を終えた陸は、部屋ごとに置かれているテレビを本体のスイッチを押して付ける。
陸はその後、スーツケースの中からゲーム機PFPを取り出し、電源を入れてゲームを始める。
ちなみに、そのゲーム機の中に入っているのは日本で大人気である、魔物を狩るゲームである。
画面の中で、キャラクターが日本の剣を手に巨大な魔物に立ち向かっていく。
長い間の移動時間で疲れた体を休めるという名目で、陸は自身の欲望を満たすべくゲームに没頭するのだった。
「…そうか、無事に到着したか。わかったね。後は任せるよ」
「夜ちゃん夜ちゃん!陸ちゃん、着いたって!?」
北京にある、とある家のとある一室。
そこには、一人の女の子と女性がいた。
夜と呼ばれた女の子は、持っていた携帯電話をテーブルに置いてから、わくわくと体を揺らしている女性に目を向ける。
「そうね。無事についたようね。けど、やはりスイートルームには泊まらなかったそうね」
「えー!?むぅ~、陸ちゃんのバカ…」
夜の最後の言葉、スイートルームに泊まらなかったという言葉を聞いて、女性は唇を尖らせて拗ねる。
「普通ならそうするね。首領もわかってたね」
「まあ…、そうだけど…」
夜が女性を横目で見ながら告げると、女性はしゅん、と俯いてしまう。
「でも、陸ちゃんには会えなかったし…。少しでも楽しんでもらえたらな、て思って…」
「無理ね。ディアナは仕事をしに来たんだから、楽しむなんて無理よ」
この二人、ただいま陸がゲームをして楽しんでいるなど全く知らないのである。
「…やっぱり私、今から香港に「おバカ。やめろ」…はい」
可愛らしく女性が両拳を握ったかと思うと、勢いよく駆け出して部屋を出ようとする。
だが、女性が部屋を出る直前、夜が先程までとは違う、殺気の籠った声を発すると、女性の動きは固まり、ぎぎぎ、と錆びたロボットのような動きをしながら振り返り、弱弱しく返事をする。
そんな女性の様子を見た夜は、ため息をついてから口を開く。
「我慢するね。後一年もすれば日本に行ける。そしたら、あの双子にだって会えるね」
「…そうだね。うん、ありがとう夜ちゃん」
またまた夜の声の様子は変わり、今度はまるで幼子を宥めるような声で女性を慰める。
女性も、言葉を返しながら夜に笑みを向けてから、長い髪を揺らしながらテーブルに着く。
「さーて!陸ちゃんも頑張ってるんだし、私も頑張らなくちゃ!」
女性…、叉焼会首領、奏倉羽は、いつか訪れる再会を夢見て自身の役目に身を埋めていくのだった。
羽がここでの登場!陸には会いませんが…。