新一年生の入学式から早一週間。
未だもって、最高学年に上がったという感覚がない。
だが、みんなのように二年の気分が残っているから、というわけでもない。
それはせんぱいが学校にいないという事実が嫌という程教えてくれる。
そもそもわたしは一年半以上、生徒会長を務めているのだ。嫌でも上に立つという感覚が養われている。
だから、なのだろう。
大多数のようなふわふわした気分もなければ、最高学年だからと気を引き締めるようなこともしない。
要するに、クラスに会話する相手がいない。
先輩たちの話をすれば浮き足立った気分になるだろうし、一年の情報を交換すれば自己構えが高くなるだろう。
だけどそうならないのはそもそも話していないから。
去年同様、入学式後の新入生歓迎イベントを行った。ただ、去年と違うのは奉仕部の尽力を仰げなかったということだけ。
だけど、これが大きかった。
卒業式で『甘える後輩』を卒業宣言した手前、誰かに手助けを求めることもお願いすることも何となく憚れてしまった。
それでも何とか無事に終わらせることができたけど、事後処理や議事録のまとめなどを作成するのに大分苦労させられてしまった。今にして思うと、先輩の仕事の早さは社会に出ても一つの能力としてみなされるんじゃないかと思うくらいには、迅速かつ正確だったということを改めて思い知らされた。
そして、あれから一週間。わたしは生徒会の仕事に忙しく、新しくなったクラスメイトと話す間もなく、時間だけが流れ、果てにはクラス内のぼっちが確定されてしまった。
ああ、何か誰かさんの後ろ姿を、そっくりそのまま追っているような気がして堪らない。
わたしもあんな風に目が腐っていくのかなぁ。それとももう腐り始めてるのかなぁ。
はあ、もうダメだよパトラッシュ。…………とかせんぱいだったら考えてるんだろうなぁ、こんな時。
って、わたしは何を考えているのだろうか。机に突っ伏してまで。
環境が似ると思考回路まで似てしまうのだろうか。あっ、それはそれでいいかも。
だから、そうじゃなくって!
ああ、もう! こんなのわたしじゃない。
あの人はなんてものを置き土産にして行っちゃったんだろう。
せんぱい、責任取ってくださいね。
その日の放課後、一通のメールが来ていた。
結衣先輩からだった。
『やっはろー、いろはちゃん。久しぶりだねー、て三日前にもこんなこと言ったような。ま、いっか。それより、今週の土曜日とか暇かな? ゆきのんと小町ちゃんと買い物に行くんだけど、一緒にどーかなーって思って』
………文章だけ見ると普通だけど、これに絵文字を大量に使ってくるとなると話は別だ。
わたしも絵文字は使うが、結衣先輩の絵文字の量は半端ない。
とにかく、読めない。
これはさすがのわたしでも引くレベル。もう慣れたけど。
でもこれをせんぱいや雪ノ下先輩にも使ってるんだよね。
解読できるのかな、あの人たち。
まあ、その話は置いといて、土曜日か。
そういえば、ようやくちゃんとした休日をもらえるようになったんだよね。
先週とか後片付けやらなんやらで駆り出されて、というかわたしも駆り出してた側になるのか。
それで休みなんて休みはなかったんだし。
あーあ、働きたくないなー。
……………………………。
これはアレですね。非常にまずいですね。
気分を変えないとわたしがわたしでなくなりそうだ。
『お久しぶりです、結衣先輩。土曜は生徒会の仕事もようやくひと段落ついたので暇ですよー。なので集合場所を教えてくださーい』
こんな感じでいいかな。
これにあと絵文字を足して、送信、と。
せんぱいとメールする時とは大違いの絵文字量だと思う。
一度、結衣先輩に送るように絵文字を使ったら、読めないと送り返されたことがある。
まあ、せんぱいだからしょうがないんだけどね。
そんなわけで最初と最後にしか絵文字を入れないせんぱいへのメールに比べたら、これはなかなかと思えるレベルの絵文字の量であることを、なんとなく考えてしまっていた。
「さて、今日は帰りますか」
誰に言うわけでもない独り言。
「そーですねー」
なのに言葉が返された。
って、えっ!?
「こ、小町ちゃん?!」
振り返えるとそこには、にぱっと笑った小町ちゃんがいた。鞄を後ろ手に両手で持ち、少し前かがみになった状態でわたしを見上げながら。
夏でもないのに向日葵が咲いたのかと思うくらい明るかった。
それと同時にこうも思ってしまった。
あざとい、と。
「こんにちわです、いろは先輩っ!」
「う、うん。こんにちわ」
驚きを見せるわたしにやっぱり笑っている小町ちゃん。
彼女は現在、生徒会副会長としてわたしの手伝いをしてくれている。
さすがせんぱいの妹ってだけあって、要領がいい。
せんぱいに頼れない今、小町ちゃんは生徒会にとっては最強の戦力となっている。
「それにしてもなんだかお疲れの様子ですねー」
歩きながら、そう切り出す小町ちゃん。
「やっぱりそう見えるの? 今朝お母さんにも言われたんだけど」
「だから、私も手伝うって言ったじゃないですかー。ごみぃちゃんに似るのも程々にしないと身体壊しますよ」
ぶーぶー、頬を膨らませる。
「そうは言われてもねー。やっぱりあんな宣言した手前、せんぱいに顔見せできるようなものにしたかったし、その後始末もきっちりやれてこそ自立だと思うしねー。ってなんだか、せんぱいの性格に段々と近づいてきちゃってるね、わたし」
こんなに責任感に溢れてたっけ? わたしって。
「いえいえ、まだまだですよ。うちのごみぃちゃんはもっと捻くれてますから。まあ、流石に働きたくないとか考え始めたら、八幡菌に感染してると思っていいと思いますけど」
ん?!
そういえばさっき働きたくないなー、とか考えてなかったっけ?
「どうしたんですか、そんな図星だったかのような顔をして」
またしてもわたしの顔を覗き込んでくる小町ちゃん。
さっきから冷や汗がたらたらと身体中から溢れてくる。
「い、いや。にゃんでもないにょ」
噛んだ…………(泣)。
せんぱいも図星をつかれるとよく噛んでたっけ。
はあ………、ダメだ。どんなことでもせんぱいに繋がってしまう。繋げてしまう。
ある意味八幡菌に感染してしまっているのかもしれない。それももう末期で。
「ぷっ、くくくくくっ」
口をお腹を押さえて笑われた。
確かにせんぱいがこんな感じの時はわたしも笑ってたけど、やられる側っていうのはこんな感じなんだね。
ごめんなさい、せんぱい。以後気をつけます。………無理でしょうけど。
「ちょ、そ、そんなに笑わなくたっていいじゃん。わたしだって噛むときくらいあるよ」
「くっくく、ご、ごめんなさいです、いろは先輩。反応が、くくっ、兄に似てたもんで、つい」
「は、恥ずかしいからそういうことは言わないでっ」
やっぱり、似てたんだ。なんか嬉しいような悲しいような。
「でも小町的には嬉しい限りですよ。あんなごみぃちゃんでも受け入れてくれる人もいるし、認めてくれている人もいる。さらには好きになってくれたお姉さん候補が三人もいるとなるともう涙ものですよ」
お姉さん候補って………。
それも三人って後の二人はあの人たちなんだろうな。
「………自分でもそこは驚いてるよ。妹相手に言うことじゃないかもしれないけど、せんぱいの何がいいのかは自分でもわかっていないの。けど、あの人は私をわたしに変えてくれたから。つまらない幻想から目を覚まさせてくれたから。この感情が好きと呼ぶのかはわからないけど、特別であることには変わらない。男子に甘える私の相手をさせていたのがいつの間にかせんぱいだけに自分から甘えにいくようになってるんだから、好きってことなんだとは思うけど………」
ほんと、こんなこと彼の妹相手に話すようなことじゃないと思う。
昇降口に着き、それぞれの下駄箱へと別れた。
あれから一ヶ月か……………。
なんかあっという間だったなー。
「お待たせしました、いろは先輩」
なんて考えていたら、小町ちゃんが横に並んだ。
それを確認してわたしは歩き出した。
「それじゃ、いこっか」
小町ちゃんもわたしの横に並び歩く。
せんぱいたちが卒業して、残された私たちはよくこうして二人で歩いて帰っている。
「あの、一つ聞いてもいいですか?」
そんな中の突然の質問。
「ん? わたしに答えられることならいいけど」
「いろは先輩はお兄ちゃんの妹になりたいって思ったことありますか?」
……………………………………。
妹………、か。
「………確かに、せんぱいに甘えたいって感情を認めた頃は何度か考えたことはあるよ。妹だったら、もっと甘えられるのに、て。………だけど、なんかそれは違うんだよなー。妹になっちゃったら、それ以上もそれ以下の関係にもなり得ない。そんなのは…………わたしが求めているものじゃない」
妹になってしまえば、それまで。
一番近いようでいて、それ以上は近づけない関係。
「………………」
「……小町ちゃん?」
「え? あ、はい。やっぱりそうですよね」
なんか、影をまとっているように見えるんですけど。
気のせい、じゃないよね。
やっぱり、そういうことなんだよね。
この質問も。
「けどさー、妹ってのも羨ましいって思っちゃうんだよねー。わたしと出会う前のせんぱいを一番知っていて、どんな将来が来ようとも切り離せない関係だし、何よりお互いに信頼し合える関係なわけだし」
せんぱい相手なら尚更そう思ってしまう。
あの人は関係を壊すことには長けているから。
感情を隠すことだってできてしまうから。
「……いろは先輩?」
「宣戦布告してから1年経つけどさ、せんぱいはわたしを意識してくれるようにはなったんだよ。だけど、それは恋愛感情から来るものじゃないのは何となくわかるの。1年経っても『たった一人の後輩』までにしかなれなかった。そう考えると、この先何年かかるのかわからなくて、不安になるの。その度に妹という安定した関係に逃げたくもなっちゃってさー。だけど、そういうのは本物じゃないと思うから」
せんぱいに特別だと思われるのは素直に嬉しい。
だけど、特別な後輩じゃなくてわたしは…………。
「わたしが求めてるのは『特別な後輩』じゃなくて『特別な女の子』だからさ」
気恥ずかしくなって空を見上げる。
夕暮れの空は夜に向けて藍色に染まり始めていた。
「……強いですね、いろは先輩は」
同時に小町ちゃんの感情も藍色に染まっているようだ。
「強くなんかないよ。ただ、強がってるだけ。今だって、頭の中はせんぱいで埋め尽くされていて、会いたい衝動に駆られてるもん。生徒会の仕事でなんとか紛れていたけど、一段楽ついた今じゃ、意識的に我慢しなきゃいけないからすっごく辛いよ」
そうなんだよねー。
自由ができるということは、気を紛らわすものがないということなんだもんなー。
だけど、小町ちゃんの辛さはわたしにはわからない。
だって、わたしはわたしで小町ちゃんは小町ちゃんなんだから。
せんぱい曰く、話してわかるというのは言った本人の傲慢であり、聞いた相手の思い上がりでしかない。
だから、わたしは………。
「……千葉の兄妹なら、何らおかしくはない」
「えっ?」
「いつだったかせんぱいが言ってたんだよね。千葉の兄妹は愛でできてるんだって。その時は何言ってんのこのシスコン、て思ったんだけど、二人を見てたら否定できないんだよね。逆にそれが自然体ですらあって、そうじゃない二人を想像できないんだよ。だから、小町ちゃんも自分なりの愛し方でせんぱいのことを愛せばいいと思う。わたしだってそうだし、多分あの二人だって自分なりの愛し方ってのを探してるんだと思う」
せんぱいがシスコン呼ばわりから逃れるために言っていた言葉を、そのまま彼女に伝えた。
こんなの何の問題の解決にはならないだろうけど。ただの遅延行為でしかないけど。
「……まったく、敵いませんなー、いろは先輩には。でも……、そっか。だから、みんな
手探るように近ず離れずなんですね」
それでも人は言い訳があれば、自らを納得させようとすることもできるから。
「………せんぱいは他人の好意を素直に受け取れないからね。この好意に裏表なんてないことをみんな分かってもらうためにあれこれ考えてる。それはせんぱいも同じだと思うよ。他人からの好意をどう受け取っていいのか探ってるんだよ」
でも、その言い訳で納得いかなくなった時に、初めて人は本気になれるんだと思うよ、小町ちゃん。
わたしには言い訳を与えることはできても、答えを与えることはできないからね。
「……やっぱり、奉仕部って人間味がありますねー」
「それ、わたしも奉仕部の括りにされてるようだけど、部員じゃないからね?」
「でも、奉仕部の理念には結衣さんよりも理解があるように見えますよ?」
「それは多分違うものだと思うなー。わたしもあの二人も基準はせんぱいだし…………」
確かに、奉仕部の理念に近い考えを今の今までしてはいたけど。
だけど、それは奉仕部、というよりはせんぱいの性格にあるんだと思う。
「せんぱいに似ようとする雪ノ下先輩。せんぱいに似ることのないの結衣先輩。そして、せんぱいに似てしまったわたし。それと……せんぱいに似ようとしない小町ちゃん」
「えっ? 小町も?」
心底驚いたような表情を見せる小町ちゃん。
「そうだよ。わたしも入れて奉仕部っていうのなら、小町ちゃんも入れてこそ奉仕部だと思うよ。そして、わたしたち四人の中心にいるのが本物を求めるせんぱいなの。だから、奉仕部が人間味があるように見えるのは、そんなせんぱいの性格に影響されたから、なんじゃないかな?」
最近になって気づいたことだ。
ぼっちは一人の時間が多いからよく考え事に耽っている、てせんぱいも言っていたけど、本当にそうだった。
クラスが変わってから生徒会の仕事で忙しくてぼっちになってしまったわたしは、モノゴトをじっくり考えられるようになった。その一つがこの結論である。
四者四様にせんぱいの影響を受けて今の自分がある。
ぼっちにならなかったら、こんなこと考えもしなかったんだから、ぼっちも悪くないと思えてしまう。これ、せんぱいに言ったら絶対ドヤ顔しそう、というかするだろうなー。言わないけど。
「ふふ、確かにそうかもですね♪」
「でしょ♪」
残されたわたしたちは夕日に向かって走り出した。