物陰に隠れて、数十秒経っただろうか。動きはない。自分も、相手も。それでも一応の警戒心を残しつつ、シオンはサニアの顔――正確には口――を自分の肩に寄せた。そして彼女の肩に突き刺さった短剣の柄を握り締め、一気に抜き取った。
「――ッ!??」
彼女の意識は無い。だがその肉体に走った激痛によって、反射的に叫び声を上げかけた。それを自身の肩で抑え込むも、代わりに彼女の口が全力で噛み千切ろうとしてくる。
シオンは彼女の体から力が抜けるまでその体勢を維持した。それから片手で彼女の体を支え、抜き取った短剣を口に咥えてから、ポーチに入れた万能薬を取り出す。
片手で何とか万能薬の蓋を外すと、血を流す彼女の肩にそれを半分振りかける。驚く速さで無くなっていく傷を確認し、それから少ししてサニアの体からふっと力が抜けた。
シオンはサニアの体を自分から離すと、肩にあるであろう傷に少量の薬を塗り込み、残りを全て彼女に飲ませた。そこまでしてやっと彼女の呼吸が安定する。
自分の代わりにサニアを木に寄りかからせると、シオンは短剣を見た。彼女の血に塗れたそれを何度か見て、血が付着していない部分を軽く
別に猟奇的な意味でも、気が狂った訳でもない。単に確認したいことがあっただけだ。
――視界が歪む。音がズレる。臭いが変化する。
五感に異常が起きたということは、予想は当たりだった。これで確信できた。この短剣がサニアに当たった可能性の一つに、たまたま遠くから流れ弾が来た、というのがあったのだが。
それはない。ありえない。
だって本当にそうなら、この短剣に
シオンがこの程度で済んでいるのは、『耐異常』アビリティがCになっているからだ。もしこのアビリティが無ければ、舐めた時点で動けなくなっている。
多分サニアもこのアビリティはあるのだろうが、シオン程ではないのだろう。……まぁ、そもそも『発展アビリティ』は一つランクを上げるのに途方も無い時間を要する。シオンがおかしいだけだ、あるいはユリエラの作る試験薬が狂っているだけか。
ふぅ、と一つ息を吐き出す。サニアはしばらく動けない。この毒の種類が何なのかは予想できないが、シオンのアビリティを突破できる以上、生半可な物ではないだろう。
一応先に飲んだ万能薬のお陰でもう無効化されたが。
――『下層』か『深層』レベルのモンスターが持つ毒、か?
流石にそこまで行くと情報が無い。
仮にそうとして、これ以上この毒をサニアが喰らえば不味い。基本的にシオンは万能薬を共に潜る人数分しか持ってこないので、残り二本。つまり、サニアとリオンがもう一回ずつこの毒を受けただけで無くなってしまう。
そうなったら詰みだ。回復魔法――それも状態異常系列を何とかできる魔法使いがいない今、全滅する未来しか見えない。
逃げる。これしかないだろう。だが、シオンがサニアを背負って逃げる事はできない。腕力と体力はどうとでもなるが、身長差は如何ともしがたい。無理に背負えば格好の的だ。
だから、シオンは木の影から飛び出した。
「【
それと同時に詠唱する。
「【迸れ、紫電の稲妻。それは全てを貫くもの】」
シオンはまだ完璧な平行詠唱ができない。だから、単純で簡単なものにする。
「【ライトニングスピア】!」
紫雷の槍を、天井の水晶目掛けて放つ。これでいい。それでいい。どこにいるのかもわからない敵に撃つような魔力は無いのだから。
この槍を届けるのは、リオンだ。異常事態が起きた、すぐ戻ってきてくれ――そんな思いを込めて、届ける。
槍が空を駆けるのを見届けぬまま、シオンは更に言う。
「【
間髪入れず叫んだ。
「【ライトニング】!」
バチンッ、とシオンの足元から雷が走り出す。その一瞬後、シオンの詠唱を阻止するために放たれた短剣が心臓めがけて飛んできたが――遅い。
トン、と軽く地面を叩いた時には、シオンはもうそこにいない。アイズの【テンペスト】では総合力で劣るが、ただ一点のみに特化させれば、この魔法でも勝る。
今は速さを求めた。だから、今のシオンなら全力を出したベートと同等の速さを持つ。――問題は、今の体調でこの速度を制御できるかどうかだが……気にするのを止める。
どうやってか相手は前後左右更には上からも短剣を投げてくる。上から来る、と察した瞬間上を見ても、影も形も無いのに、だ。
サニアの方へ向かう短剣だけを受け止め、逸らしておき、自分の方へ来るものは極力回避して時間を稼ぐ。
――数分だ。数分だけでいい。リオンの全力はわからないが、その数分を稼げば、彼女はきっと戻ってきてくれる――!?
咄嗟に体を倒す。そんなシオンの体を撫でるように、一筋の線が浮かび上がった。その線から、赤い血が零れおちて行く。
短剣は来ていなかった。けれど、確かに腕には切られた痕がある。
――スキル、魔法、アビリティ、技術……どれかで不可視にしているのか!?
さっき避けられたのは、完全に偶然だろう。避けた後でわかったが、風切り音に体が反応してくれたお陰だ。……フィンの槍も、そんな感じで避けていたから、訓練の賜物とも言えるが。
けれど、やはり、偶然なのは事実だ。
『風切り音』がしたから避けられます、なんて言えるほどシオンは極まっていないし、そもそも触覚が消えている状態でできるはずがない。
少しずつ、徐々に、微かに、傷跡ができていく。その度に、毒が体に蓄積される。シオンの『耐異常』アビリティが年齢の割にどれだけ高くとも、それだけだ。それ以上の毒を喰らえば、分解出来ない物が体の内側を蝕んでいくしかない。
そして、シオンはそれに気付かない。仮に気付いても、どうしようもない。サニアを置いて逃げられないのだから、このまま座して待つしかない。
けれど現実は非情だった。サニアの方へ向かった短剣を弾いた瞬間、ドスン、という音が聞こえてきた。目線だけを下ろせば、シオンの体に穴が空いていた。
――二つ、連続か……!
シオンは風切り音を頼りに不可視の短剣を避けていた。逆に言えば、それだけしか感知する術が無いとも言える。目視できる短剣の後に不可視の短剣が続いてくれば、当然、シオンが知覚する前に剣は刺さる。
……サニアを狙ってシオンに避けさせない、という念の入れようだ。幸い骨や内臓を避けてくれているが、このまま大きく動けば、その限りではないだろう。
だが、シオンはそれを問題ない、と判断した。まだ万能薬は残っているのだから、死なない程度に動けるとも言える、と。
――その考えが甘いと知ったのは、すぐのことだった。
「……あ、え……?」
シオンの手から、奪った短剣が落ちる。すぐさま拾おうとして、片足から力が抜ける。口に力を入れようとして、思い切り目が閉じられた。
その間にも、短剣が飛んでくる。シオンはそれと何となく察知して、横っ飛びしようとして、思い切り真上に飛び上がっていた。
――体が、うまく、動かない!?
この毒が何なのか、今の今まで全くわからなかった。けれど今ならわかる。これは、神経に異常を来す猛毒だ。今は体が動かない程度で済んでいるが、いずれ五感も侵すだろう。
そうなったら本当に終わりだ。いや、もうこの時点で詰みか。空中にいるシオンは動けない。多少は何とかできるが、もうこの考えをしている間に一本、二本と短剣がシオンの体を貫いていく。
死ぬ、という考えが頭を過ぎった。あながち間違いでも無いだろう。シオンの持つ技術とスキルと魔法に、この状況を打開できる方法が無いのだから。
それでも即死だけは免れようと、言うことを聞かない体を動かした。それは無様な悪足掻きに過ぎず、ほんの数秒、時間を伸ばせる程度だった。
けれど、その数秒が全てを左右した。
「――すいません、遅れてしまいました」
感覚のない体に、けれどふわりと、暖かいものが身を包んだ。それが誰かに抱きしめられたからだと気付くのに、結構な時間がかかった。
「謝罪は、いいから……今は、逃げる。全力、で! サニアも、担いで!」
自身を抱いて守ってくれるリオンに、『
腕に、体に、足に短剣が突き刺さっている上に、神経系に異常が起きて体どころか口もまともに動かせないシオンは、これだけしかできない。
それに不甲斐なさを感じているシオン。けれど、リオンは感謝していた。口には決して出さなかったが――シオンが否定すると考えていたし、事実それは正しい――サニアを守るため、体の不調を押してくれたのだから。
リオンは、エルフだ。エルフは極度の潔癖症で、他種族と触れるのを種族の本能として拒否してしまう。
その本能を捩じ伏せて、リオンはシオンを胸に抱える。この間にも短剣が飛んでくるが、全て無意味だ。エルフの長い耳は、伊達や飾りじゃない。シオンよりも遥かに優れた聴覚が、不可視の短剣すらも正確に見極めてくれる。
シオンを抱え終えると――投げ飛ばしそうになる体を理性で抑えつつ――すぐにサニアの元へと向かう。彼女の体を、米俵を持つようにすると、全力で走りだした。
普通なら足を止めてしまいそうになる場面でも、リオンは全力で走り続ける。森を走るのは大の得意だから。どちらかというと、体が勝手にシオンを放り投げないか注意する方が苦労したくらいだ。
短剣は背後から飛んでくる。その場に留まっていた時は全方向から来たのに、今は後方だけ。つまり、相手は一人だけなのだろう。それもかなりの速度特化型。リオンと同タイプ。
――シオンの『指揮高揚』の効果を受けた私と同じ速度、ですか。厄介ですね……。
恐らく自分達よりも上のレベルだ。Lv.3のシオンが耐えられたのは、相手が一度も姿を現さないよう注意していたためだろう。
そうでなければ、リオンが来る前に、二人共――そう考えて、リオンは思考を打ち消した。相手の考えがどうあれシオンとサニアは生き残った。それが結果だ。
飛んでくる短剣に当たらないよう、二人にも当てないよう後方に意識を向けつつ、森の中を駆け抜ける。淀みなく、一瞬であっても止まらないように。相手はそれに戸惑っているように見受けられるが、エルフを舐めているのだろうか。
いや、リオンはフードを被って顔を隠しているから、気付いていないだけか。ならその利点を有用に使うだけだ。
戸惑っているだろう相手を攪乱するように、リオンは自由に森を駆ける。この感覚は、森を出て以来。この状況で不謹慎だが、とても楽しかった。
顔も知らぬ相手はリオンに追いつけない。短剣を投げてもリオンの影さえ踏めず、動きを予想して投げても見当違いな方へ飛んでいく。
18層の森は、迷わなければそう深くない。だから、リオンはあっさりと森を抜けた。人二人を抱えているというハンデを物ともせずに。
森を抜けたが、リオンはまだ走り続ける。少なくとも森の中から短剣を投げても届かない位置までは。
十分程走ってやっと足を止める。念のため周囲を見渡してモンスターがいるかどうかの確認をして、森から見て影になるような場所へ。これで直接短剣を投げるのは難しくなったはず。そう判断すると、リオンはシオンとサニアを下ろして横にした。
「……酷い、傷」
全身に裂傷の走ったシオンの体。血が滲み、遠くから見れば失血死した死体に見えかねないほど汚れている。
「荷物……は、大半置いてきてしまってますね」
シオンが常に持っているポーチと剣、サニアの双剣以外はあの場所に置いてきてしまった。まぁ入っているのは魔石とドロップアイテム、乾燥させた干し肉と果物、回復薬、それからタオル等の布程度で、大した被害は無いが……。
――仕方ありません、汚れは我慢してもらいましょう。
そう判断して、シオンのポーチから高等回復薬を取り出そうと手を伸ばした瞬間、
「――あの、何かお困りでしょうか?」
「……ッ!?」
そんな、涼やかな声がすぐ傍から聞こえてきた。息を呑んで振り向き、短剣を取って構える。
――いつの間に!?
気付かなかった。少なくとも先程モンスターの姿を確認した時にはいなかったはずだ。どうやってこんなに近くまで来たのか、疑問に思いつつ警戒心を剥き出しにして言う。
「……それ以上近づかないでください。見ての通り仲間が傷ついてまして、見知らぬ相手と話す暇は無いのです」
その言葉に、相手は一歩下がった。それでも遠くには行かない。不快感を見せつつ――フードを被っているので雰囲気だけだが――相手を見る。
相手も自分と同じでローブを纏っているせいで顔が見えない。しかし微かに覗く体と足、杖を持つ手と声から、恐らく女性と判断した。だが、それで警戒心を無くす理由にはならない。例え彼女が善意から来てくれた
「もっと遠くへお願いします。そこでは針一本でも投げれば私を殺せる距離なので」
「……申し訳ありません。ですが、どうしても気になるのです。あなたが庇う、
彼女の言葉に、リオンの眉が寄る。
――シオンを、男性と見抜いた?
今のシオンは血塗れだ。リオンが盾になっているから顔も、どころか体もまともに見えない。見えて彼の長い髪くらいだろう。そして、シオンの髪は女性も羨む美しさだ。
本人曰く母譲り、だそうだが……それを見て、何故男の子と断じれた? 今ここにいるのは彼本来の仲間ではない、リオンとサニアなのに?
「顔を、見せてください。少なくともそれくらいしていただかなくては、信用することもできませんので」
「あ、そうですよね。ごめんなさい、忘れていました」
パサリ、とフードを取る。そこから見えた顔に、リオンは目を見開いて驚いた。
白銀の髪。それもかなり長いようで、恐らく腰か膝まではある。瞳は海のように澄んだ青色で、垣間見える顔は、エルフにも勝るほど美しい。
けれど、リオンが驚いたのはそこではなかった。
「……シオ、ン?」
そう呟いてしまうほど、彼女は彼に似ていた。
逆なのだ。彼女が彼に似ているのではない。彼が、彼女に似ているのだ。そこで、ハッと気付いた。かつて存在した【ファミリア】において、その名を轟かせた
「まさか……【聖女】イリス……?」
【英雄】シオンは、【将軍】と呼ばれた男性と、【聖女】と呼ばれた女性の間に生まれた子供である、という噂は、誰しも一度聞いたことがある。
そう……シオンが生まれてすぐに死んだ、という事実と共に。
だからありえない。ありえない、はずなのだが。目の前の女性が、イリスであるという考えを否定しきれない。
何故なら、イリスの顔を見た人間はほとんどいないからだ。常にローブで全身を覆い隠した彼女の顔を知るのは、夫である【将軍】と、彼女の神であるヘラ。後は彼女達の事実上の弟子であったとされる【殺人姫】くらいだろうか。
「ええ、そうですよ」
そして、その疑念を【聖女】は肯定した。そのまま彼女は続ける。
「もしかしたら、あなたの後ろにいるのは、私達の子……シリスなのではありませんか?」
「シリス? シオンではなく?」
「その名はその子が自分自身で付けた物でしょう。私とあの人が付けたのは、シリス……シリスティアなのです」
……その話は、知らない。ここにいるのがフィンやロキであれば知っていたかもしれないが、リオンとサニアは所詮部外者、同じ【ファミリア】でない以上、それが真実か嘘かがわからない。
けれど、彼女はそこに対して嘘を言っている様子はなかった。
まだ一摘みの疑念を抱きつつも、リオンは彼女を信用しようとして……ガッと、腕を掴まれた。
「シオン? まだ動いては……治療もしていないのに!」
掴んだのは、シオンだった。目の焦点がほとんど合わず、息も荒い。体もまともに動かせないようで、腕じゃなく足が変な動きをしていた。
それでも、シオンの顔は真っ直ぐに見つめられている。
母と――己の母の名を言った、女性の顔を。ただジッと。
女性は動かない。ただ今にも抱きしめたいと言うように、慈愛溢れた眼差しをしていた。それでもシオンは、言った。
「貴女は、おれの母か?」
「はい。私はあなたの母。あなたは私の子。私とあの人の愛しい子。シリスティア」
愛情溢れる声だった。愛する子を想う母の声だった。全てを忘れさせてくれるような――そんな女性の声だった。
……けれど。
「『ティア』の、意味は?」
「え?」
「おれの名前の後に付けられる、『ティア』の、意味は?」
リオンも、サニアも。……イリスでさえも。
その質問の意図が読めなかった。
そして。読めなかった時点で、シオンは確信した。
「リオン、今すぐこいつを殺せ! 無理なら気絶でもいい、とにかくこいつをおれ達に近づけさせるな!」
「なっ!? ……いえ、わかりました!」
理解できない。全くもって意味がわからない。
わからなかった、が、全てを横に置いてリオンは指示に従った。短剣を取り出し、それを瞬時にイリスの顔面目掛けて投げつける。
「きゃぁ!? シリス、どうしてこんなことを? 私はあなたに会いに、あなたとまた一緒に暮らすために……!」
「うるさい黙れ。母を騙る偽物野郎」
杖で短剣を受け止め、距離を取る。その顔は悲痛に彩られ、見る者の心に罪悪感をもたらす。事実リオンはそうだった。だが、シオンは逆に怒りを露わにして叫んだ。
「お前が『ティア』の意味を――おれじゃなく、『私達』と訂正しなかった時点で! お前は偽物だと確信したッ。そして、母の顔を知る人間は、片手で数えられる程度しかいない!!」
先程のリオンの考えをもう一度反復する。
イリスは既に死んだ。
そんな彼女の顔を知る者は、【将軍】、ヘラ、【殺人姫】、そして【殺人姫】に育てられた、シオンのみ。
ここから考えられる答えはとても単純で……とても、胸糞の悪いものだった。
「お前だ。……お前が、父を。……母を! おれの両親を殺した奴だッ、違うか!?」
その言葉に、リオンは振り向きそうになるのを全力で押さえなければならなかった。
シオンの声には、怒りがあった。悲しみがあった。……憎しみがあった。疑念はなく、ただただ確信だけがあった。
それはつまり、シオンが本当の意味で親の死を受け入れた瞬間だった。
今までは、自分を騙せた。両親は死んだと皆が言っても、その瞬間を見た人間は誰もいない。そして、シオンは『モンスターの中にも味方はいる』という事実を知っている。
だから、もしかしたら、という考えを捨てられなかった。捨てるには、シオンはあまりに父と母の愛情を知らなすぎた。
だって。……もしこの考えを捨てたら。自分は一生、アイズの母から受けたあの感情をくれる人がいないという、事実しか残らない。
孤児。血の繋がった家族は、誰もいない。それが、事実になってしまうから。
「どうなんだ!?」
だから、否定してくれと願う。たまたまだ、と。ただおれの命を狙うのに都合が良かったから、と。そう言ってくれと、願った。
「なぁんだ」
願って――叶えられなかった。
「お前の事は誰より知っていると思ってたんだが……まだあのクソアマには負けるか。死んでも面倒な奴だ」
それが、【殺人姫】を、シオンを育てた人を言っているのだとすぐにわかった。そして、その口ぶりが、ある思考を生んだ。
「……おい。待て。義姉さんを知ってるって、まさか。お前……まさ、か」
「あァ? んだよ、まーだ気付いてなかったのか、能天気だな」
母の顔で。母の声で。歪に笑い、嘲笑の籠った言葉を吐き出す。
「大正解だ」
シオンの願いを、粉々にするために。
「お前の親を、お前の義姉を。殺したのはオレだよ。直接、間接の差はあるけどな」
「――ッ」
肯定した。……肯定、されてしまった。
その時シオンが何を思ったのかなんて、自分でもわからない。ただわかったのは、自分の体が勝手に動き出して、こいつを殺そうとしただけだった。
「おっと、そいつは勘弁だ」
「ぐ、ぁ……!?」
正直に言って、シオンの動きはトロすぎる。既に【ライトニング】は途切れ、触覚が無く、神経が狂っているせいでまともに動かない。
そんな相手、慣れていない杖でも簡単に吹き飛ばせる。その気になれば杖の先で風穴空く事も不可能ではないが、それをするにはリオンという女が邪魔だった。
――隙を見せたら首を落とす。
そう目が告げていた。
だがシオンはそんなの知るかとばかりに体を動かす。
「……っ。もうやめてください、シオン! ここで戦っても私達に勝ち目は無い。あなたが前に出ればサニアにも危険が及びます。堪えて……堪えてください、シオン!」
どういうわけか、相手は徐々に距離を取っていた。その相手を追ってシオンも言ってしまえばいよいよどうしようもなくなる。
だから、リオンはシオンの体を押さえつけた。止まって、と。理不尽な事を言っている自覚があっても、リオンはサニアに、シオンにも死んで欲しくなかったから。そう言うしかなかった。
それでもシオンは止まらない。ただ相手の顔を見て、殺してやると目で叫んだ。
「あァ、そうだ。最後に一つ、良い事教えてやるよ」
それが決して良い事ではないと、リオンにはわかった。ただ、シオンに対して酷な事を言おうとしていることだけは、わかった。
「お前達が来る前に、狼が来たんだよ」
その言葉に、シオンの動きが止まる。
「おお、かみ……?」
「ああ。なんっつったか……ああ、そうだ。思い出した」
ニヤニヤと、見下す笑みを浮かべて。
「ベートなんちゃらだったな」
「――ッ、お前! お前はぁ!!」
「ハハハッ、まぁそんな顔すんな。あの犬っころ、お前さんのために一人で28層に向かってったんだぜ? いやぁ、お涙ちょうだいだわ。腹抱えるしかねーだろ?」
自身の体を押さえるリオンを剥がそうと再度暴れるシオン。相手の意図がわかったからだ。こんなところにいる時間なんて無い。
無い、のに……!
「時間稼ぎか……そのためだけに、お前は!」
「両親が死んだ。義姉も殺した。さて、ここで大の親友を失ったお前は、どうなるかねぇ? 楽しみだ、その時のお前の顔を想像するだけでゾクゾクする!」
今から追っても間に合わない。
サニアはまだ目を覚まさず、シオンは身体に染み付いた毒をまず抜かなければならない。例え毒を抜いたとしても、28層まで出てくるモンスターを相手するには、リオンと二人ではあまりにも不安だ。
わかる、わかってしまう。
シオンは、ベートを追えない。追える状況にないのだと。
相手は笑っていた。シオンとベートの状態を理解して、哂っていた。
「……ころ、してやる」
憎悪に染まった目を、『敵』に向ける。
「ベートが、もし、死んだなら!」
歯を剥き出しにして、ただ殺すべき相手を見た。
「おれの、全部を差し出してでも――お前を探し出して、首を落とす! 絶対にだッ!」
その言葉を聞いても、相手は笑うだけだった。楽しみだねぇ、と煽るように言って、背を向けて去っていくのを、見るしかなかった。
リオンはただ、抱きしめるしかなかった。シオンの言葉を聞いて、安堵した自分に嫌悪した。全員の命が無事だった事実に、安心なんてできなかった。
……そんな自分が、嫌いになりそうだったくらいに。
しばらくして、シオンの体が震えているのに気づく。ボロボロと涙を流して、父と母と義姉の名前を呟く彼から、いつもの姿を想像できない。
その小さな体を、強く抱きしめる。
ヒューマンである彼に触れるのに、もう嫌悪感はわかなかったけれど。
何の慰めの言葉をかけられない自分が……とても、ちっぽけに思えた。
サボり癖ができたようです。中身思いついてもPCのワードを開く事さえしないダメ人間と化している……!
今回は黒幕さんと顔合わせ。シオンを殺さない理由は見ての通り『苦しんで苦しんで絶望の果てに殺したい』から。狂ってますね。
次回はベート戻ります。