英雄になるのを望むのは間違っているだろうか   作:シルヴィ

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原作1巻・オラトリア1巻
幸福な日々は続かない


 最初は、ちょっとした憧れだった。なれたらいいな、と空想するだけで、本を見て満足する程度の、誰もが持つちょっとした夢。

 「あなたなら、きっとなれるよ」

 「そうかなぁ? でも、本に出てくる英雄様がやってることってホントにあったことだと思えないんだよね」

 「どうして?」

 「だって、一人でできることなんてしれてるじゃん。みんなみんな頑張って、手を取り合わなきゃ生きてけないって、義姉さんも言ってたし」

 ふてくされたように言う、少年。

 肩口で整えた、艶やかな白に近い銀の髪と、クリクリとした同色の丸い瞳。相貌は男性、というよりも女性寄りだ。子供らしく赤みがかった頬が初々しい。簡素な麻の服が、別のものにさえ見える程だ。ふらふらと小さな足を揺らしていた。

 対して義姉さんと呼ばれた人は、どちらかというと平凡だった。垢抜けない、というべきか。磨けば光る物はありそうだが、野暮ったい服と、ざっくばらんに切られた髪が、彼女の本来の可愛らしさを損なっている。

 けれど二人の間にあるのは、何も阻むことない笑顔だった。

 椅子に座り、抱きしめられる少年と、抱きしめる少女は、言葉を交わす。

 「ふふ、確かにそうね。でも、この人達だって何も最初っからすごかったわけじゃないのよ?」

 「え~、うっそだぁ」

 「ほんとよ、ほんと。ほら、例えばこれ」

 取り出したのは、一冊の本。

 『アルゴノゥト』と呼ばれた英雄のお話。

 英雄になりたいと夢見るただの青年が、牛人に攫われたとある国のお姫様を救いに迷宮へと向かう物語。

 時に騙され、王に利用され。

 友人の知恵を借り、精霊から武器を授かって。

 なし崩しにお姫様を助け出してしまう、どうしようもなく滑稽で、しかし自らの意思を成し遂げた、英雄の名前。

 「私はね、英雄様になるのに条件なんて必要ないと思うんだぁ」

 ニコニコと、心底からそう思っているような顔で。

 「最後まで貫き通す、強い意思。それだけが、英雄様を英雄様たらしめる絶対の条件。少なくとも私はそう考えてるの」

 「意思、って……そんなのあったって、死んじゃったら意味無いじゃん」

 「かもしれないね。ほとんどの人は、きっとそうなっちゃう。だけど、もし意思を持たない力を持っただけの人間なら」

 ――それはきっと、『化物』って呼ばれちゃうんじゃないかな。

 悲しそうに、何かを耐えるように、義姉さんは言った。彼女はそれをすぐさま振り払うと、少年の頭を優しく撫でる。

 「だからきっと、あなたが英雄様になりたいと願うのなら、最後まで貫ける意思を持ってほしいな」

 それは、少女の願いだった。自分よりも小さな小さな庇護の対象に、間違えた英雄への道に進んで欲しくないから。

 うーん、とよくわかっていなさそうな少年に、仕方ないなぁと苦笑い。

 「ならなくていいや」

 すると唐突に、少年がそんなことを言った。

 「ならなくてもいい、って……英雄様に?」

 「うん! だって、義姉さんがいるもん。英雄様はカッコイイし憧れるけどさ。こんなに色んな厄介事があるんだから、なりたくない。英雄様になるより、義姉さんと一緒にいたい」

 英雄になれば、確かに富も名声も、何もかも手に入るかもしれない。

 だけど、その過程で降りかかる厄災は、自分だけに留まらないかもしれない。そんな事になってしまうのなら、英雄様なんてなりたくない。

 何より大事なのは、義姉さんなんだから。そう、少年は言っていた。

 「……一生の不覚。ドキッとするなんて、私は普通私は普通ショタじゃないショタじゃないショタじゃ……」

 「えっと、義姉さん?」

 何故か顔を真っ赤にしてぶつぶつと暗示している大切な人(ねえさん)に、少年はどこか引き気味に彼女を呼ぶ。

 気づかずまだ何かを言っているので、厄介事はゴメンだと膝から飛び降りてすたこらと逃げていく。

 流石に飛び降りた時の衝撃で我に帰ったのか、赤かった顔を更に赤くして椅子から立ち上がる。

 「こら、待ちなさい!」

 「やーだね。義姉さんの恥ずかしいところ、みんなに言いふらしてやる!」

 バカバカしくて、遠慮のないやり取り。ごくありふれた、幸せな光景。それがずっと続くと、信じてやまなかった。

 ――そんなこと、ありえるわけがないのに。

 その日、義姉さんはどこかに出かけて行った。どうしても大事な用件で、拒否することができないらしい。

 出かける前に見送ると、

 「いい子にして待っててね。そしたらプレゼント、持ってきてあげる。そろそろあなたの誕生日だからね」

 「ほんと!? やった、楽しみ!」

 「いい子にしてたら、だからね?」

 「はーい!」

 心底から嬉しそうに、堪えきれないとばかりにどたばたと走り回る少年の姿に、少女はくすくすと笑ってしまう。

 「行ってくるね」

 今日はできるだけ早く帰ってこよう。そう決めて、外へ出た。

 「今日はどーしよっかなー?」

 少女のいなくなった家の中は閑散としていて、物寂しい。

 ……この時間は、嫌いだ。

 どうしようもなく『独り』だと、思い知らされるようで。それに耐えられなくなって、家の外へと飛び出した。

 まだまだ朝早く、人の通りはまばらだ。

 ダイダロス通り。オラリオの東と南東のメインストリートに挟まれる区画にある、貧民層の広域住宅街。朝早くから活動する冒険者とは違い、こちらに住むのは一般的な人間だ。

 そもそもここ、奇人とまで言われたダイダロスという人物が設計した結果、度重なる区間整理によって複雑怪奇な様相を呈している。

 一度迷い込めば二度と出てこれないとまで言われるほどで、『街中にある迷宮(ダンジョン)』としてある意味有名だ。

 とはいえ住んで長い人間にとっては勝手知ったる庭だ。全てを網羅している人間はまずいないだろうが、自分の家近辺からメインストリートまでの道のりなら誰でもわかる。迷い込めば二度と云々は単なる噂話に尾ひれがついたものにすぎない。

 黒ずんだ煉瓦が陽の光を遮断し、微かに光る魔石灯が周囲を照らす。太陽があるのにどこか薄暗いここは、あまり長くいたいとは思えない。

 ドタドタとダイダロス通りを出て、メインストリートへ躍り出る。

 そこは既に、別世界。

 ダイダロス通りとは違い冒険者達の姿に溢れ、その冒険者に売り込もうと露店等が開かれ呼び声が響く。

 高すぎると値引きする者、昨日は頑張ったと酒を浴びるように飲んでいる者、これから行く迷宮の探索する階層を決める者達――本当に、色々な人がいる。

 どちらかというと目立つ少年だ。大人、最低でも青少年ばかりいる中で、五歳程度の子供がいるというのは異彩となる。

 しかし、何故だか誰も彼もが声をかけない。どうでもいいというものもいるが、どちらかというとかかわり合いになりたくない、といった人間が多い。

 その理由は簡単で、

 「おや、キミがここにいるのは珍しいね。保護者はいないのかな?」

 心外だ、とばかりに声が降ってくる。

 振り向くと、大人だらけの冒険者の中で一際小さな少年、の見た目をした大人の小人族(パルゥム)

 風に揺れる柔らかな黄金色の髪。澄んだ湖のような碧眼に宿る深い理性。オラリオの中で女性人気――特に『その手』の女性――1、2位を争う存在。

 【勇者(ブレイバー)】フィン・ディムナ。

 都市()()()()の中でもほぼ頂点に位置する【ロキ・ファミリア】の団長であり、L()v().5()の第一級冒険者。

 ちなみにこれで三十歳(アラサー)を超えている。小人族……恐ろしや。

 「うーん、義姉さんはもっと前に家を出て、どこかに行っちゃったよ? どうしても外せない用事なんだってさ」

 「なるほど、そういうことかい。それなら僕が君の護衛を努めよう。幸い、今日は丸一日暇だったんだ」

 「いいの!? なら前の『遠征』がどうなったのか教えてほしい!」

 目を輝かせる少年に、フィンは喜んでと頷いた。

 これが、荒くれ者の多い冒険者がこの少年に手出ししない理由だ。詳細を知らなくとも、『あの【ロキ・ファミリア】と懇意にしている』という事実が、不用意に手を出させるのをやめさせている。

 知らず知らずの内に己が憧れる英雄様、その一人に守れられているのを自覚せず、少年は誰もが認める『勇者』の背中を追っていった。

 「今回の遠征はね、何と! 僕達がまだ到達できていなかった階層にまで行けたんだ!」

 「おお~……! 確か前に到達した場所は47階層だよね? ってことは、とうとう50階層にまで行ったとか!?」

 「その通り。潜れば潜るほどに複雑さを増し迫る脅威。伴って減っていく食料と武器の耐久値を気にしながら、やっと50階層――一つの区切りになる安全階層(セーフティポイント)にまでたどり着いたんだ」

 そう誇らしげに、けれどどこか道化のように語らうフィン。それは眼前の少年のために、即興で行う喜劇だ。

 50階層到達――その影で、数名の団員が命を落としているのを、知らせたくないために。

 「そう、僕達は確かに50階層に到達した。けどその寸前、僕達は階層主――『迷宮の孤王(モンスターレックス)』に遭遇したんだ」

 49階層、階層主・バロール。彼の存在を打倒せんがために無茶をしたフィン達は――冒険者曰く『冒険をした』――数名の団員の犠牲の結果、それを討伐。未到達域にまで行けた代償が、それだった。

 幾人かの【ランクアップ】を果たしたとはいえ、『犠牲が出た』ことそれ自体が問題となり、フィンを中心にした第一級冒険者以下数名が51階層へ足を踏み入れ、遠征は終了した。

 そういった経緯を、血生臭いところだけを除き、華やかな部分だけを抜き取って伝える。純真な子供は時に笑い、時に喜び、時にハラハラとフィンの言葉に耳を傾けた。

 気がつけばスッカリ日も暮れている時間。遠征の始まりから50階層到達までというのは、数時間以上もかかるものだった。もし話していない部分も含めたら、一日どころではすまなかったかもしれない。

 「それじゃ、そろそろ帰ろうか。君のお姉さんに怒られたくはないからね……」

 「? うん、わかった。ありがとね、フィンッ」

 【ロキ・ファミリア】の団長を呼び捨てにする――それが如何に無謀なことか。しかし相手は子供であり、フィンは子供に礼節を求めるほど狭量ではない。

 ダイダロス通りへ面する場所へと送る。さすがのフィンも、遠征から帰ってきて数日でまた迷宮へと――しかもなんの利益も無い場所に潜るほど、酔狂ではなかった。

 完全に太陽が沈む、その前に家へと帰る。

 そうしたら、きっと。

 「ただいま、帰ったよ義姉さん!」

 バンと扉を開き、見つけたその姿。けれど彼女はニヤッと笑う。その顔にどこか嫌な予感を覚えたが、

 「ギリギリセーフってところね。お帰りなさい、ちょっと心配したわ」

 「ご、ごめんなさい……」

 すぐにイタズラっぽい笑みに変わり、その心を告げられる。こんな時間までフィンに話をねだっていたのは自分なのだから言い訳のしようもない。

 「で、どうしてこんな時間まで外にいたの?」

 「えっと……」

 一瞬、言い淀む。伝え方を間違えるとフィンに迷惑をかけかねない。

 「フィンに頼んで、遠征の話を聞かせてもらってた! とっても楽しかったよ!」

 ならば、と事実を言う。嘘偽りのない、心の奥底から思っていた事を。なのに、なぜだかピキリと固まってしまう。

 「そう……楽しかったのね」

 「うん。50階層にまで到達できたって、そこまでの道のりを本の中のお話みたいに語ってくれたんだぁ」

 今でも思い起こせる。あの、心躍るような英雄譚を。

 「これは……あの子にお仕置きが必要かなぁ。ふ、ふふふ――」

 だから、気付かなかった。

 義姉が、どこか妬んだように、そう呟いていたのを。

 しかしそれも一瞬。変わり身かと思うほどの速度で笑顔を浮かべると、言った。

 「それじゃ、ご飯にしましょうか。今日はご馳走よ?」

 「やったー!」

 義姉さん手ずからの料理は、とても美味しい。好き嫌いもあるけれど、それを考えてメニューを考えてくれるから、無理なく食べられる。

 むぐむぐと口一杯にほうばる。口は開けない。クッチャクッチャと音を立てて食べるのを、義姉さんは嫌っているから。

 子供の旺盛な食欲でもって料理を制したあと、席を立って食器を流しに置きに行ったとき。いつの間に後ろに移動したのか、義姉さんはその細い首筋に、鎖を通した。

 「……?」

 「動かないで。今つけるから……ここを、こうしてっと。はい、どうぞ」

 首の裏にかかる、ちょっとした重み。鎖の先を持ち上げると、そこについていたのは、大きな石だった。

 見れば見るほど吸い込まれそうな、深緑の色。少し角度を変えると、色が変わって見えるのも面白い。

 「約束のプレゼントだよ。とっても高価な物だから、大事にしてね?」

 「する! 絶対大事にするから!」

 髪を一度揺らして鎖を隠し、その後石を服の下に入れる。これなら、少し服の位置に気をつければ何かを隠しているとは思われないだろう。

 その様子を見て義姉がどこかほっとしているのが、ちょっと印象的だった。

 ――フィンに、友達に出会って、話をする。

 ――家に帰れば、大好きな義姉がいる。

 「それじゃ、今日はもう寝よっか?」

 「わかった。おっやすみ~」

 ――そんな毎日が続くんだって、信じてた。

 信じて――いたかったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガタガタと体が震える。

 「ふん、震えてやがる。まぁいいさ。お前は人質だ、大人しくしてりゃ少なくとも死にはしねぇよ。死には、だがな」

 目の前をチラつく、銀の光。それは自分の髪とよく似ていて、けれど決定的に違った。自分の髪が柔らかな物だとすれば、この銀は、攻撃的なそれだ。

 一瞬その銀が揺らぎ――ナイフが、眼球を撫でる。

 「ッ」

 悲鳴を噛み殺し、だが恐怖で目を閉じ身を竦ませる。この状況が、どうしようもないくらいに恐ろしい。

 「あ~あ、怯えちまって。こんなのが義弟だってんだから、あのクソ女も随分苦労してるんじゃねえのか?」

 単なる挑発。だから耐える。反発すれば殴られるか、蹴られるか。最悪ナイフでどこかを切られる可能性もある。もし逃げられるような状況になったとき、その怪我は絶対に不利になる。

 「一丁前にだんまりってか。まぁ、いいさ。どうせあの女もお前みたいなガキ放り投げてどっか男の上でケツでも振ってるさ。来なかったら殺すから、精々祈るこった――」

 「おい」

 「あ゛?」

 だけど、だから何も言わないというわけには、いかなかった。

 「息が臭い。ここまで臭いが飛んでくるとか、どういうわけだ。ちょっと、いや結構離れてくれるとありがたいんだけど」

 顔を逸らし、うわぁとドン引きの表情を浮かべる。子供とは思えないほどその演技は秀逸で、いっそ本当にそう思っているのかとさえ感じられた。

 そして、沸点の低い男が耐えられるはずもなく。

 「こンの、クソ餓鬼がぁ……!」

 息が臭いというのなら、存分に嗅がせてやろうと首を引っつかむ。更にナイフを振るいその玉のような頬に、一線の傷がつく。痛みが響く。ちょっとした傷なのに、泣き叫びたいくらいに恐怖を感じる。

 けれど目を逸らさない。キッと強気に睨みつける。

 「気に食わねぇ……」

 それが、相手の逆鱗に触れた。

 「あの女みてぇな目を、してんじゃねぇよゴミがぁ!!」

 その小さな体が、文字通りゴミのように吹っ飛んでいく。大きく、派手に。いっそありえないまでの距離に。

 ゴロゴロと地面を転がった故か、体中が埃と泥に塗れ、薄汚れる。その時になってやっと、自分が暗い、倉庫のような部屋にいるとわかった。

 普通に家を出て、ダイダロス通りからメインストリートへの移動中に襲われ意識を失い、ここまで運ばれた――それで正しいはず。

 「う……ッ……」

 『わざと』うめき声をあげる。痛がっていますよと、アピールする。

 そうすれば、

 「無駄な足掻きをするからだ。お前の仕事はバカみてぇに怯えてることなんだからなぁ?」

 この単細胞は、油断する。

 子供だからと侮った結果だ。義姉さんと、フィン。それにたまに会うリヴェリアやガレスからじゃれ合いという名の稽古を受けた事だってある。

 そのシゴキが、結果的にこの状況で役立っていた。

 『人生何があるかわからないんだから、覚えておいて損はないよ』――なんて言って、ニッコリ笑顔でいじめてきたフィンに、今は感謝する。

 ――自分一人でも、逃げ切ってみせるッ。

 そう決意して、あの男が隙を見せる瞬間を。

 ――この場所から出て、帰るんだ。あの日常(ばしょ)に!

 「とでも、思ってるんだろう? だからテメェはクソガキなんだ」

 「え――?」

 ボキン、という音がした。その発生源は、足元。いいや違う――()()()()()()()

 「あ……ガッ!? ~~~~~~!??」

 足に走る、激痛。

 歯を食いしばって耐えようとしても、痛みを逸らそうと足を動かしてしまい、その動作が痛みを呼ぶ。

 哄笑をあげる男の声さえ耳に入らない。ただ涙を流さないよう、理不尽に耐えるしかない。でもそんなちっぽけな決意を嘲笑うように、腹に追撃。

 吐いた。

 朝食べた物を、血の混じったものと一緒に。

 「ああ? きったねぇな。しかもクセえ。ッハ、お前の息のが臭くなっちまったなあ?」

 「テメェの腐りきった性根程……臭くは、ないね」

 「口答えする余裕があるか。んじゃあよ」

 グイッと髪が引っ張られる。自重に耐え切れず何本もの髪がブチブチとちぎられた。

 「死なねぇ程度に痛めつける。加減はするがよ。死ぬんじゃねえぞ?」

 ――そこから、拷問紛いの痛みが続いた。

 骨を折るなんて、普通のこと。関節を外して、またくっつけて。髪を数本ごとに引き抜かれたりもした。

 手足の爪を剥がされて。服を切り裂かれナイフで背中に血で象れらた【神聖文字(ヒエログリフ)】を刻み込まれる。痛みで暴れるために線は歪み、完成した時背中に刻み込まれたその紋章は、ぐちゃぐちゃだったが。

 自分の血に塗れて、どんどん命の炎が削れていく。

 「もう痛みに叫ぶ気力もないってか。暇潰しも終わりかね、お前に死んでもらっても困るしよ」

 地獄は終わったけど、意味はない。放っておいても自分は死ぬ。そのくらいの自覚はある。

 ――痛みも、どっかいっちゃった。

 あれだけ痛かったはずなのに。苦しくて苦しくて仕方なかったはずなのに。それが、全部消えてしまった。

 「……来たか」

 「?」

 もう体は動かないけれど、目だけは動かせる。ボヤけてしまう視線の先で、そこに立っていたのは姉と慕う、大切な人。

 「その子を、返して! その子は私が――!」

 何の装備もなく、着の身着のまま走ってきたのか、その手にはなにも無い。

 ――逃げて!

 そう言いたかった。自分の事はいいから。自分の身を優先して欲しかった。

 「組んでいたパーティの子供、か?」

 「え……」

 だけど。

 もし『自分の身を優先する以上の理由がある』のなら?

 この男の言葉が示すのは、つまり。

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 自分でさえ理解できないまま、ズキリと胸が痛んだ。

 「全く、こんなお荷物がいては出会いなど望めなかっただろうに。いや……お前のことを好く人間など、元からいないか?」

 お荷物。

 無理矢理背負わされた、余計なモノ。

 「……私、は」

 泣きそうな顔で、義姉さんが視線を逸らした。それは格好の隙。男は動き出そうとして、

 「黙れぇ!!」

 そう叫んだのは、もう動けないと思われていた子供。ぐちゃぐちゃの両手で地面を叩きつけて転がり肉薄、大口を開けて『噛み付いた』。

 「ッ、このガキ!」

 服の上から、しかも子供の乳歯で噛み付いたところで、意味はない。義姉さんがいるからか、余計な動きを見せない男に縋りつきながら、叫んだ。

 「うるさいうるさいうるさいッ! 認めない、義姉さんが好かれてないなんて! テメェに義姉さんの何がわかる!?」

 「少なくともお前が知らない、人殺しの一面なら知ってるよッ」

 その言葉は、きっと嘘じゃない。でもそんなこと、どうだっていい。

 「じゃあ俺は、テメェの知らない義姉さんの優しいところを知ってる! 演技だって構わない。それでも俺は信じてる!」

 小さな体で、ボロボロの心で、必死に相手を引っ張る。

 「義姉さんは俺の憧れだって、()()()()()()って信じてるんだ!!」

 誰かに優しくあれる、そんな英雄(ひと)に。

 強くなくっても、みんなが笑って助け合える、そんな英雄に。フィンが、リヴェリアが、ガレスが、みんなが言っていた、かつての義姉さんの姿に。

 話の中でしか知らない英雄の姿に、憧れた。

 「ハッ、ならどうしてお前の義姉とやらは動かない? 憧れてる相手が本物なら、今頃お前を助けてると思うんだがな」

 そう。義姉さんは動いていない。何かを恐るように、瞳を揺らしていただけだ。でも、それら全てがどうでもよかった。

 「もうお前の言葉は信じない」

 ただ無意味に声を発していたわけじゃない。バレないように服の裾をズラしていただけだ。

 「俺が信じるのは――義姉さんだけだ」

 そして、思いっきりふくらはぎに噛み付いた。

 多分、意味なんて無い。この男は『神の恩恵(ファルナ)』を受けているのだろう。しかもかなりの上位冒険者。この程度、嫌がらせ以外にはならない。

 殺そうと思えばあっさり殺せるのにそうしないのは、きっと義姉さんを意識してのこと。

 こいつは言っていた。自分は人質だと。死んでは困ると。

 (なら――その立場を最大限利用する!!)

 この男が割いている意識の、一割だけでも構わない。その一瞬の隙を、きっと義姉さんは狙ってくれる。根拠もなく、そう『信じた』。

 男が大きく足を揺らす。それだけで乳歯のいくつかが欠け、折れた。元々頬を殴られていたせいだろう。

 だからそれさえ利用する。欠けた歯も折れた歯も唇周辺に集めて思い切り押し付ける。チクチクとした小さな痛みを与えた代償に、唇が裂けた。

 「こんの、ガキィ――」

 ついにキレた男が、一際大きく足を揺らす。

 「人が大人しくてりゃ、余計なことをしてくれやがって」

 足がブレ、噛み付いた歯を持ってかれた。その上縋っていた足が消えたせいで地面にドシャリと倒れこむ。

 そんなところにいて、無事ではすまない。振り下ろされた足が背中に迫ってきて。

 「……あ、あ゛……?」

 それが落ちきる前に、手刀が男の心臓を貫いた。抜き手によって腕の半ばまで貫かれた男の口から血が零れ、義姉さんの腕に付着する。

 「……私は、義理とか同情でこの子を育てていたんじゃない」

 震える声で、泣きそうな眼で、言う。

 「この子が大切だから、一緒に過ごしていただけなのよ」

 「ハン、そうかい……お前みたいな殺人鬼が、一丁前にそういうか」

 ボッと、男の体に熱がこもる。

 「だったらよ――()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 ずっと――義姉が来る前からこの男は、ただ待っていた。機を。問答の中で、目の前の相手が一番嫌がる事を、するために。

 詠唱は、とっくのとうにしていた。それを相手に悟られないよう内に魔力を押し留め、荒れ狂う嵐を制御し続けて。

 更に付け加えれば、男はいきなりポーチを開き、小瓶をバラ撒いた。パリンという儚い音を立ててこぼれた中身は、油。

 「さぁ、て……お前は、どうする? お前は、耐えれても……そのガキは、どうなるのか、見物だぜ」

 「……ッ。離しなさい!」

 最後の力を振り絞り、義姉の手を掴んで離さない。義姉にはこの男が何をするつもりなのかわかってしまったが、火事場の馬鹿力か、離してくれない。

 この腕力はLv.4だ。全力の相手から手を振り放すのは至難のワザ。もう息の根を止めようと、虫の息の相手にもう一度手刀をお見舞いする。

 だが腐っても生死を争う戦いを経験しただけあって、掠ることはあっても、当たらせてくれない。しかも男は冷静になりきれない思考を読み取っているのか、時折腕から手を放して反撃してくるから攻撃だけに徹するのも難しい。ただでさえ胸を貫いている現状不安定な体勢も相まって、命中率が著しく下がっているのに。攻撃の機会そのものが少なくなるなんて。

 ――逃げ、られない!!

 恐らく【ステイタス】が違う。例えLvに差があろうと、【ランクアップ】する前に鍛え上げたものにはバラつきが出る。

 潜在値、と呼ばれるものがそれだ。そして目の前の男はその方向が『力』に向いているのに対して自分は『器用』と『敏捷』。何よりランク差を埋めるほどの――この男の執念。

 ――でも、私にだってッ。

 大切なものがある。意地でも守りたい、大切な。加速した脳が、彼女の処理能力をはね上げた。刻一刻と増していく魔力を見極める。

 覚悟は、できていた。この状況、必ず、どちらかは死ぬ。瀕死の子供が、Lv.4冒険者の決死の一撃に耐えられるはずはないのだから。

 「う、おおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉっぉぉぉぉおぉ!!?」

 男が、吠えた。

 詠唱しようとして血を吐き、言葉にならない掠れ声。だがそれがトリガーとなり、最後の防波堤が崩れ去った。

 ――魔力暴発(イグニス・ファトゥス)

 制御しきれなくなった魔力が持ち主の元から離れ、自爆攻撃ならぬ自決攻撃が、二人の元へ牙を剥く。

 心臓を貫かれた男は即死――力が抜けたと悟り即座に腕を引き抜く。

 そのまま倒れこむように、小さな小さな少年へ、覆いかぶさった。

 その間一秒にも満たない。『器用』と『敏捷』に割り振られた【ステイタス】が、行動に淀みを生まないですんだ。

 大爆発が、耳を貫く。

 同時、巻かれた油に引火し、その威力をはね上げた。

 オラリオを揺るがすかのような地震。それは、少年を探していた小人族が理解するほどの衝撃を生んでいた。

 「……あっちか。どうか無事でいてくれ!!」

 Lv.5冒険者の脚力を存分に活かし、大道芸と思われても構わないと、屋根の上を跳んで、その場所を目指す。

 小人族、フィンがその場所に到達するのに数分とかからなかった。

 「な、これは……」

 凄まじい、焼け跡。屋根は崩れ、赤熱によって焼かれた部分と、黒ずんだ煉瓦。それが、この場所で大きな爆発があったのだと嫌でも理解させられる。

 「そんな……これじゃ……」

 可能性に過ぎない。

 けれど、もしここに少年がいたならば。絶対に、助からない。

 一縷の望みに賭けて、中へと足を踏み入れる。背を向けられた小さな背中に、フィンは安堵を覚えた。

 「おい、大丈夫か!? 意識は明瞭か、ちゃんと自分を覚えているのか?」

 常になく慌てた口調でフィンは問う。そして顔を覗き込んで、気づいた。

 ポロポロと、焦点の合わない瞳で目の前を見つめる、少年に。

 ――目の前にあるのは、焼け切った女性の死体。

 少年を抱きしめるように回された両手が、そして前に比べて焼け跡が酷い背中が、必死になって少年を庇ったのだと理解させる。

 「義姉……さ……」

 理解できない、したくない現実を前に。

 少年は、意識を手放した。

 ――幸福が続くなんて……ありえない。

 それを身に沁みた、そんな出来事。

 ――英雄に、なる。

 この不条理を、覆せるくらいの、そんな英雄に。




えーっと、作者名に見覚えがある方はこんにちわ。そうではない方は初めまして。

まだもう一つの作品終わってないのについ書き始めてしまいました。それもこれも1巻を私に貸した友人が悪い!(責任転嫁)
つい全巻買ってハマって書き始めてしまったじゃないか。(自己責任)

もう一つの作品があくまで主流なんでこっちはダラダラ書いていきます。気分転換、って感じでしょうか。

できれば拙作のお付き合い、よろしくお願いします。

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