英雄になりたいと少年は思った   作:DICEK

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『女主の神娼殿』

 

 

 

 

 

 

「待ってたぜー」

 

 人の目を憚るようにして少年は待ち合わせの場所についた。その様子は人目を憚るように挙動不審である。待ち合わせの男が堂々としているのと酷く対照的である。椅子に腰を降ろしてさえ自らの二つ名にある兎のようにしている少年に、男は小さく声を漏らすようにして笑った。

 

「大丈夫だよ。誰も君だと気づいてないさ。だってここに来るまで声をかけられもしなかったろ? 時の人の君がだ。いつもより視線を感じもしなかったんじゃないか?」

「ヘルメス様のアドバイスのおかげです」

 

 笑みを浮かべた少年――ベル・クラネルは、自分の茶色い髪を指で擦って見せた。普段は真っ白い少年の髪はありふれた焦げ茶色に変わっている。染めた訳でもカツラを被っている訳でもない。髪の色を変えて見せるという、ダンジョン探索には全く価値のないマジックアイテムの一種だ。

 

 ダンジョン探索に向いていないだけで、需要がない訳ではない。変装には手軽なこともあり、ちょうど今この時の少年のように、人の目をひかずに行動したいという人間には少なからず需要があった。作成にかかるコストに比して高く売れることもあり、ある程度の腕のある技術者が小遣い稼ぎのために作る、技術者にとってはある種の定番のアイテムでもあった。

 

「で、来てくれたってことは行くってことで良いんだろ?」

 

 にやにや笑みを浮かべて問うヘルメスに、ベルは顔を赤くして押し黙る。予想通りの反応にもヘルメスは気分を害したりはしない。彼の男としての欲望を信じてはいたが、実を言えば来てくれない可能性も考えてはいた。

 

 その場合は違う手段を模索するより他はなかったのだが、ベルがこうして足を運んでくれたことで第一段階はクリアすることができた。後は如何にして彼をその気にさせ、欲望に火をつけるかだ。

 

 その点、ヘルメスは何も気にしていなかった。彼がこの場に来てくれた時点で、勝利は約束されたも同然である。口八丁で相手を煙にまき、相手をその気にさせる。神ヘルメスの得意技だ。

 

「君が心配する気持ちも分かる。君は時の人。冒険者として大事な時期だし、男としても同様だ。君の周囲にはかわいい子も美人も沢山だ。リュー、リヴェリア、レフィーヤにギルドのエイナ、ティオナに椿に、最近はリリルカも――何だか半分以上エルフ関係な気もする辺りに君の運命というか性癖を見た気もするけどそれは今は良い。とにかくいずれ君がモテ男になった暁には彼女らのおっぱいもお尻も思うがままだ。即物的だとか言う奴もいるだろうけど言わせておけば良いさ。命かけて頑張ったんだ。良い目を見るのがフェアってもんだ。そうだろう?」

 

 美女美少女が思いのまま、というヘルメスの言葉にベルの心はぐらりと揺れた。特定の誰かという思いは今のところないが、そんな彼女らの誰かとそういう仲に……と考えるとベルの胸も熱くなる。

 

 女の子にモテたい。それが一番の目的ではないと断言できるけれども、割と上位の目的であることは否めない。それが命を預ける眷属仲間であれば素敵なことだと思うし、そうでなくとも、気立ての良い女性と良い仲になるというのは男の本懐であるとも思う。

 

 ならば余計に、そういうお店に浮気をするのはいけないことではなかろうか。気持ちは強く引かれているけれども、ここは強い決意で持って神ヘルメスの言葉を撥ねつける場面だ。でも、おっぱいか……

 

「でもさぁベルくん。今言ったおっぱいもお尻も未来のことであって今じゃないんだ。今ちょっとだけ勇気を出せば、色々なおっぱいが君の思うがままなんだぜ?」

 

 これを乗り切ることができれば明日大金を得られることが解っていても、目の前の端金を無視することができないのが冒険者というものだ。中長期的な計画を立ててその通りに生きることができるのは少数派である。その少数派の代表のように思われているリヴェリアでさえ、王族としての安定した生活よりも冒険者を選んだとびっきりだ。

 

 年端もいかないベルが即物的な欲求に逆らえるほど意思が強いはずもない。英雄というのは逆境においてこそ無類の強さを発揮するが平素は誘惑の類に弱いものだ。転落の切っ掛けになるのが富か女というのは凡庸な者でも英雄でも変わらないのだ。

 

 おっぱいが思うがままというコピーが響いたのだろう。ぐわんぐわんとベルの心が揺れているのがヘルメスには一目で解った。もう一押しだと感じたヘルメスは、べルにそっと顔を寄せる。

 

「欲望ってのは適度に開放した方が良いんだぜ。君はその解放のさせ方がへたっぴさ。俺の紹介なら後腐れはないし、秘密も厳守。俺と君が黙ってりゃリヴェリアたちにもバレないって寸法だよ。もちろんその分金はかかるが、この道に紹介した縁で今回の分は俺が持つからお代の方は心配しないでも良い。こういう遊びが気に入ったなら自分でお金貯めて通えば良いし、バレるのが不安っていうなら、またこうして俺に会いに来てくれれば良い。さて、君の覚悟は固まったのかな? ベルくん」

 

 返事はない。ベルは俯いたままそっと右手を差し出した。自らの企みが成功したと悟ったヘルメスは満面の笑みを浮かべてその手を握り返した。いつの世も、真面目人間も悪い道に引きずりこむのは、楽しいものだ。

 

「任せてくれベルくん。このヘルメスの名にかけて、今日は最高の夜にしてやろう!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バベルを中心に、そして冒険者たちと共に発展したオラリオは、地上に点在する所謂『古都』の中では比較的歴史の浅い都市として分類される。発展に神が関わり、ある程度規則性をもって発展してきたその歴史は、都市の区画に明確な役割分担を生み出すに至った。

 

 今宵ベルが足を延ばす歓楽街はその一つである。必要不可欠であるが公序良俗に反するという理由で直接的な性行為がサービスの一環に含まれる店舗は、オラリオにおいては営業できる場所が著しく制限される。女性が酌をしてくれる程度の店は他の区画にも存在するが、本番行為可能な店は歓楽街にしかなく、その総元締が神イシュタルという塩梅である。

 

 アマゾネスを抱えるファミリアがケツ持ちをしているだけでなく、娼婦として働いている区画である。娼婦を含めた全従業員のうち、冒険者が占める割合というのは一割に満たないが、誰も武闘派のファミリアが睨みをきかせている場所で問題など起こすはずもない。

 

 規模でオラリオに匹敵する都市は地上にも多々あるが、これだけ規模が大きく治安の良い歓楽街は他に類を見ないということで、スケベを求めてオラリオを訪れる外の者は数知れず、また娼婦として一旗揚げようという者も、容姿能力に自信があるのならばオラリオを目指すという環境ができあがっている。

 

 これも一重にイシュタル・ファミリアの営業努力の賜物だ。アテナ・ファミリアの格闘興行、ガネーシャ・ファミリアの『怪物祭』が表の産業だとすれば、イシュタル・ファミリアの歓楽街はまさに裏の産業、その筆頭と言えるだろう。

 

 昼間は扉も窓も閉め切り色町と気づかないような有様であるが、ある刻限を過ぎると一変、オラリオの夜を象徴する場所へと早変わりする。男も女も己の欲望を満たすために往来を闊歩する様は、良くも悪くも生命の象徴と言える。

 

 そんな中、身を縮こませるようにして歩くベルは酷く悪目立ちしていた。隣を歩くヘルメスともどもフードのついたコートを羽織っているが、それでも堂々としているヘルメスと対照的に、

穴があったら入りたいといった風に身体を小さくして歩いている。

 

 それを見てバカにする者はいない。特に男はべルの姿を見ると、生暖かい目を向けてその背中を見送るのである。ああ、こいつ今日童貞を捨てに来たんだな。誰もが通る道である。それが今日というのなら邪魔をしては悪い。荒くれ者の冒険者でもそれくらいの配慮はできるのだ。

 

 そんな男たちの視線を受けて、ベルとヘルメスはずんずんと通りを行く。外周と言っても正確な円形をしている訳ではないが、区画一帯が歓楽街となっている都合上外周にある店ほど低い予算で遊べる店が集中している。

 

 大抵の一見はほぼ外周にある店で様子を見て、懐具合に応じて奥の店に足を運ぶようになる。

迷わず奥に足を運ぶということは、それだけ懐に余裕があるということだ。いかにも一見であるべルにそこまで懐に余裕があるとは思い難いので、同行しているヘルメスが太い客なのだろうと当たりがつけられる。

 

 歓楽街には客引きも多い。太い客というのはそれだけ各々の飯のタネになるということでもある。普通であれば引く手も数多であるが、奥の店の常連ということはそれだけケツ持ちであるイシュタル・ファミリアに食い込んでいるということでもある。ケツ持ちの上客を奪ったとなればオラリオの歓楽街では生きていけない。

 

 後ろ髪をひかれる思いの客引きたちの視線を受け、ベルがたどり着いたのは『女主の神娼殿(ベーレト・バビリ)』である。女神イシュタルの宮殿であり、イシュタル・ファミリアの『本拠地』でもある。さらに娼館としても営業しているこの場所はオラリオ歓楽街の中でもトップクラスのサービスを誇る店であり、同時に最も高額の料金を取る店として有名だ。

 

 所属する娼婦はほぼ全てが女神イシュタルの眷属であり、つまりはほとんどがアマゾネスだ。オラリオは人種のるつぼである。娼婦のバリエーションが少ないのは娼館としての欠点ではあるものの、そこを娼婦の技量で補うというある種の力技でトップを守っている店だ。

 

 どうしてもアマゾネスは嫌だとか、エルフでなければ勃たないという者でもない限り、この店がトップという評価は揺るぎないだろう。そんな店にヘルメスは、一見であるベルを連れてきている。初心者に勧めるには大分敷居の高い店であり、普通の感性をしていたらそんな紹介の仕方はしないのだが……

 

 今の状況をよく理解していないベルを、店の前に立ったヘルメスは促した。

 

「さ、ここが俺のオススメの店だ。今日はここで楽しんでくると良い」

「ヘルメス様っ」

「良い感じに興奮してるじゃないか。良い夜を楽しめそうで何よりだ。失敗することもあるだろうが、何。その時は俺が伝えた通りに行動すれば上手く行く。何も心配はいらないぞ、ベルくん」

 

 軽く肩を叩き、ヘルメスは踵を返した。ここから先はベル一人で行く。店に到着するまでにヘルメスから説明されたことだ。一人は心細いというのが正直な所だが、お供がいるというのはカッコ悪いことなのだと道々説明された。紹介状は持っているので問題はない。男なら、と言われてしまうとベルも言葉を飲み込まざるを得なかった。

 

 違う店に行くというヘルメスを見送り、意を決したベルは『女主の神娼殿』に踏み込んだ。

 

 ファミリアの『本拠地』と言えばベルは主神であるロキの『黄昏の館』をイメージする。あれもオラリオにある建造物の中では少々特殊な部類に属するのだが、超一級の娼館を兼ねるイシュタル・ファミリアの『本拠地』であるこの『女主の神娼殿』は宮殿という単語がふさわしいように田舎者のベルには思えた。

 

 フレイヤ・ファミリアの『本拠地』である『戦いの野(フォール・クヴァンク)』と系統は似ているが、『戦いの野』が壮麗でありながらも実利を取った美しい城塞とも言えるのに対し、こちらはまさに英雄譚に出てきそうな宮殿である。

 

 どちらが好みかと言われればベルは『戦いの野』の方が好みであるのだが、ここが娼館であることを考えるとこちらの方が良いのだろうと納得する。

 

きょろきょろと内装に一々目をやりながらフロントまで歩くベルを見て、受付担当のボーイは自らの取るべき対応として『問答無用でこの田舎者をたたき出す』を選択肢の一つに数えた。ここ『女主の神娼殿』はオラリオ歓楽街の中でも最高のサービスを誇る娼館である。

 

 それ故に料金も高く、何より神以外は紹介がないと利用することはできない。娼婦本人の連れ込みでなければ一定以上の利用実績のある顧客のみが紹介する権利を持ち、後者の場合は大抵連れだってやってくるため、一人での来店というのは珍しい。

 

 その珍しいケースの場合でも優良顧客からの紹介状を持っていなければ利用できない訳だ。来店した客は見るからに素人で、今日童貞を捨てに来ましたという初々しさである。同じ男として無下にするのは心苦しいが、それがこの店のルールであり、法なのだ。

 

「恐れ入ります。紹介状はお持ちでしょうか」

「はい。これになります!」

 

 懐から取り出された封筒を見て、ボーイは軽く眉を顰めた。その封筒はこの『女主の神娼殿』で発行されるもの。つまりは所属する娼婦が、顧客の紹介に利用するものだ。

 

 確認すべきことは四つ。封筒が『女主の神娼殿』の発行のものであること。娼婦本人のサインがされていること。そして紹介をするという事前の告知がフロントにされていることだ。封筒とサインは問題ない。告知も――今リストを確認したがサインの主である娼婦からの告知はきちんとされている。しかも初回費用はその娼婦が持つという優遇っぷりである。

 

 よほど太い客なのかと思えば申請には補足事項があった。サインをした娼婦ではなく、別の娼婦を――この『女主の神娼殿』では特別な意味を持つ狐人の少女を案内するようにとされていた。

 

 不可解なことではあるが、娼婦が申請ついでに注文をつけるのはいつものことだ。無駄に多くの調達を申し付けられないだけマシというもの。相手の指定だけなら手間はかからないのだからフロントとしては文句のあるはずもない。

 

 後は娼婦からの申告のあった名前と、眼前の少年の名前が一致すればクリアだ。

 

「お名前を頂戴してもよろしいですか?」

「ク、クレス・ヘリエルです」

 

 たどたどしい名乗りに思わず吹き出しそうになる。リストと一致してはいるが偽名だろうなというのは察しがついた。オラリオにいれば誰もが知っているような冒険者でも、娼館には偽名で通うというのは良くあることだ。その方が『らしい』というのが理由である。

 

 そんな『らしい』理由に少年まで乗っかるというのだから、気分というのは重要だ。外にはない楽しみを求めて歓楽街にやってくるのだ。どうせならばとことんまで楽しみたいと思うのが人情というものだろう。

 

「承りました。それでは係の者が案内します」

 

 フロントの脇にいたボーイが、ベルを促す。

 

 娼館というものに抱いていた漠然としたイメージとしては、廊下を歩いているだけでも如何わしい声が聞こえてくる猥雑なものを想像していたベルだったが、『女主の神娼殿』の廊下は清潔で綺麗なものだった。これなら夜間の『豊穣の女主人』亭の近くの方がアレなくらいである。

 

 嬌声も耳を澄ませば聞こえる程度のもので、この廊下だけを見れば娼館だとは思わないのだろうが、足を踏み入れると色々と感じるものがある。デメテル・ファミリアのお店とかで良く見る『芳香剤』とはまた違う香りに、ベルの興奮も不思議と高まってくる。

 

「こちらです。嬢はまもなく来ます。今しばらくお待ちください」

 

 案内された部屋は東洋風のものだった。西洋風の扉の先、横滑りする仕切りをスライドさせて先、床には全てヘファイストス・ファミリアの椿の私室で見た畳が敷き詰められ、部屋の大体中央には直接寝具が敷かれている。枕は二つ。娼館なのだからそういう意図で置かれているのは当たり前なのだが、それを求めてきたというのにベルの緊張は無駄に高まってしまう。

 

 寝具の近くには大きめのサイドテーブルがあり、冷えた飲み物と軽く摘まめるお菓子。それから定食屋で見るようなメニューが置かれていた。何の気なしにパラパラとめくってみる。前半は軽食から酒。後半はベルには何やら用途のよく分からない道具が乗っていた。

 

 割とお高めな設定をされている『豊穣の女主人』亭の同じようなメニューと比べても三倍以上の値段に眩暈がしたが、後半の用途不明の道具はさらにその倍くらいの値段がしていた。貸出ではなく買い切りらしいが、一体何に使うのだろうか理解に苦しむ代物である。

 

 品名だけがずらりと書かれ、横にはその値段。解説などはないから、ここに来る人間にはその名前だけで用途が理解できる代物なのだろう。奥の深いことだと感心していると、部屋の扉が小さくノックされた。

 

「ど……どうぞっ!」

「失礼いたします」

 

 横滑りする仕切りの先、両膝をついた姿勢でそこにいたのは金髪の狐人の少女だった。立ち上がり、赤い着物の裾を乱さないよう音もたてずに歩いた少女は、仕切りを閉めると再びベルの前で両膝をつき丁寧に手をつく。

 

 東の国で、屋内でやる作法だと椿に聞いたことがある。ベルには馴染みのない作法であるが、少女の所作は淀みがなかった。赤い着物の示す通り東の生まれなのだろう。まっすぐな金色の髪に同じ色の狐耳がひょこひょこ揺れている。顔を上げた少女の碧色の瞳が見えた。肌は白く、緩く開いた胸元からは深い谷間が見て取れた。

 

「お初にお目にかかります。サンジョウノ・春姫です。今宵はどうぞ、よろしくお願いいたします」

「よろしくお願いします!」

「……お客様のことは何とお呼びすれば?」

「失礼しました! 僕はベ――じゃない、クレス・ヘリエル、です」

「ではクレス様と」

 

 くすくすと春姫は穏やかに笑う。もう少し年上の女の人が来ると思っていたのに、大分年の近い美少女がやってきた。緊張の度合いはお姉さんが来た場合でもそう変わらなかったろうが、同じくらいの年でアマゾネスでもないのにこういう仕事をしてるんだ、と眼前の美少女にこれから自分は如何わしい行為をするんだと思うと、うるさいくらいに心臓が高鳴っていく。

 

「それでは、クレス様。今宵、春姫はクレス様のもの。何なりとお申し付けくださいませ」

「な、なんなりと……」

「はい。娼婦として一通りの作法は教えられましたので、ご期待には沿えるかと」

 

 そこはかとない自負があるのか、春姫は目を閉じて胸を張る。豊かな胸が突き出されるようになり、思わず反射的に動きそうになる手を、ベルは多大な自制心で持って抑えなければならなくなった。

 

 ベルが動かず、また春姫は目を閉じたままなので、その豊かな胸は変わらずベルの前に存在している。目に毒だ。でも、これを自由にして良いのか……煩悩と戦うベルに、しかし時間はついてきてくれない。男の方からアクションがあるものと身構えていた春姫は、どうもベルからは動かないのだと悟ると目を開き、着物の衿に手をかけた。

 

「とりあえず脱ぎましょうか?」

「――とりあえず待ちましょう!」

 

 思い切りが良いのか返事の前に春姫は動き出していたため、まろび出そうになる白い肌に思わずベルの反応も遅れてしまった。あと一瞬止めるのが遅れていたら目の前の狐耳微少女が半裸になっていたのだと考えると惜しい気もしたが、半裸一つでここまでになってしまう以上、今の自分はどうしてもこれ以上すけべなことができる精神状態ではないとベルは判断する。

 

 今日はこの辺で、と帰ってしまうのが良い。しかし、料金は支払われてるのだとしても果たしてどうやって打ち切って帰れば良いものか。自分の気持ちの問題で帰るのに、客が勝手に帰ってしまったことでもしかしたら春姫にペナルティがあるかもしれない。すけべなことをしないで帰るにしても、角が立たない方法というのが必要だ。

 

 着物を直してちょこんと座りなおして黙って待つ春姫の美貌を見る。単純に、男として、即物的に考えるならば、この狐耳美少女と仲良くなる機会をふいにするのはもったいないような気がしてきた。こういう場所で考えることではないのだろうが、要は普通に仲良くなる方法があれば良いのだ。すけべな場所だからと言ってすけべなことをしなければならない訳でもないだろう。

 

「まずはその……お話でもしませんか? できれば静かな所で」

 

 道々ヘルメスが説明してくれた。娼婦というのも娼館に雇用された労働者なので、勤務時間が決まっている。娼館で対応された以上その娼婦は勤務時間内である訳で、よほど上客で金でも積まない限り、その時間内に外に連れ出すのは難しい。

 

 デートなどを積み重ねた結果すけべなことをする普通とは逆に、娼婦と娼婦としてデートするというのは上級者の遊びなのだ。その点娼館の内部で場所を変えるだけならばそれほどハードルは高くない。追加料金が取られるケースもあるが、ここならば問題はないとヘルメスも言っていた。

 

 問題は春姫が受けてくれるかである。場所を変えようという提案に春姫は目を泳がせていた。芳しくない反応である。自分では判断がつかないといった様子の春姫に、さてどうしたものかとベルが頭を捻っていると、遠くに鈴の音が聞こえた。

 

 その音にベルは周囲を見回す。音は状況を把握するために必要な大事な要素の一つである。周囲を警戒する際にも聞き漏らすことなかれとリヴェリアやリューにも教わった。ベル自身、聴力には人間にしてはそこそこという自負があるのだが、今の音は近いということ以外どこから聞こえたのか特定できなかった。だが、

 

「お受けします。静かということでしたら屋上が良いでしょう。今日は星が良く見えると思いますよ」

 

 首を傾げるベルを他所に、春姫はあっさりとベルの提案を受け入れた。先ほどの鈴が何かの合図だったのだろうと察すると共に、部屋の様子が第三者に見られている可能性に思い当たり、ベルの背に冷や汗が流れた。スケベなことをしていたら誰かに見られていたのだ。

 

 娼館はそういうものだと言われるとそれまでなのだが、やっぱり僕にはこういうお店はまだ早いらしいと悟ったベルは、お話だけして帰ろうと心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、今日はどういう用向きだ」

 

 テーブルを挟んで相対する男神に、『女主の神娼殿』の主であるイシュタルは胡乱な目を向ける。イシュタルの私室であり、娼婦としての仕事をする部屋でもあるそこに招かれたのは上客でもあるヘルメスだ。

 

 伝令吏たる男神は出されたワインに口をつけつつ、相変わらず捉えどころのないへらへらした笑みを浮かべて応える。

 

「そう尖らないでくれよ。今日は君に良い情報を持ってきたんだぜ?」

「そうか? 本当に良い情報だったら良いんだがねぇ」

「良いに決まってるだろ。ベル・クラネルを知ってるね?」

「ロキ・ファミリアの『白兎』だろ? フレイヤの奴もお気に入りって話だ。寝取ってやれたら面白いと思っちゃいるが、その『白兎』がどうした?」

「さっき、ここの入り口で見たよ。うちの子供が作った魔道具で髪の色を変えちゃいるが、あれは彼で間違いない」

 

 ヘルメスの言葉に、イシュタルは目を細めた。男の冒険者が娼館を使うというのはそれこそ吐いて捨てるほどある話で、そこに時の人『白兎』が含まれていてもイシュタルとしては不思議ではない。

 

 若く力のある冒険者というのは金のなる樹でもある。『白兎』がただの冒険者であれば、イシュタルも気にせずそれどころか自ら相手をしてでも引き込みにかかっただろうが、彼はこのオラリオでも最大ファミリアの一つであるロキ・ファミリアに所属している。そして、そのロキ・ファミリアは、

 

「ロキとフレイヤが共同歩調を取るって宣言されたばっかりだからね。ここらで本腰を入れてくるってのもない話じゃない」

「お前が私に態々忠告するってのはどうしてだ?」

 

 かつてはゼウスのパシリとして活動していたが、彼とヘラがいなくなった今は、世界をふらふらしている男神である。オラリオにおいて神々はいくつかのグループに分かれて活動しているが、こちらでもヘルメスはふらふらしており特定の派閥を持たずに活動している。

 

 それでもいくらかの傾向というのはあるもので、ヘルメスに対するイシュタルを含めた神々の認知は、ヘルメスは特にフレイヤと昵懇であるというもの。そのフレイヤと敵対する自分に忠告などしてくる利はないはずなのだが。

 

 イシュタルが睨みやると、ヘルメスはへらへらと笑みを浮かべ、

 

「おいおい。俺は歓楽街をこよなく愛する男だぜ? 君が何をしようと関知はしないが、ここが休んだり、規模が小さくなるなんてことがあっちゃ困るんだよ。君の歓楽街の運営に関しては、俺は満足してるんだ」

 

 一応筋は通っている。とは言えこれで信用されるとは、ヘルメス本人も思ってはいないだろう。やはりこの男神は信用できない。上客であり遊びも綺麗でファミリアの規模も小さくはないが、顔が広く方々の派閥に手を広げてコネを維持している。イシュタルが何より気に食わないのは、フレイヤに通じていることだ。

 

 忠告にきたというのも本心ではあるのだろうが、何か裏があると見て良さそうである。

 

「それじゃ、俺は帰るよ。明日も明後日もその先も、歓楽街が残ってることを祈る」

 

 出した酒を飲み干し、ヘルメスはさっさとイシュタルの部屋を後にした。歓楽街に来たら大抵は楽しんで行くのだが、今日はそうではないらしい。深々とため息を吐き、イシュタルは部下のアマゾネスに指示を出した。

 

 今日来店した『白兎』らしき人間の男を確認し、本人であれば連れて来いというものである。人違いであれば良し。本人であればロキやフレイヤとの交渉にも使える。その場合は計画を早める必要があるだろうが、それは『白兎』本人かどうか確認してからだ。

 

 さて、と椅子に深く腰掛け、報告を待つ――その矢先、轟音がイシュタルの部屋を揺らした。外からの爆音である。何事だと窓に取り付いて外を見れば北の方角で黒煙が上がっていた。それとほぼ同時に、アマゾネスが転がるようにして部屋にやってくる。

 

「報告します! 『白兎』と思しき客は部屋にはいませんでした! 応対していたのは春姫らしいんですが、こちらも居場所不明! 今人をやって探しています!」

「何としても見つけ出せ!」

 

 転がるようにして部屋に来たアマゾネスは、また転がるようにして部屋を出て行った。北の爆音に『白兎』の不明。襲撃される心当たりはイシュタルには数え切れないほどある。今日がその日かと思考を巡らせていると、別のアマゾネスが飛びこんできた。

 

 北の爆音の一件だろう。もはや何が来ても驚かないと身構えていたイシュタルに齎された報告は、彼女の思考の埒外のものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ロ、ロキ・ファミリアのカチコミです! 先の下手人は『九魔姫』! イシュタル・ファミリアが誘拐した『白兎』を出せと言いがかりをつけ、手近の娼館を吹っ飛ばしました!」

 

 

 

 

 

 


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