いつからだろうか。
彼女、渋谷凛が学校を休みがちになったのは。
なんでも、家庭の事情ということになっているようだが、おそらくはアイドルとしての活動が本格化してきたということなのだろう。
それは、友人して、応援する身としてはこの上なく嬉しいことではあるのだけれど、それ以上に寂しさが募るばかりだった。
それまでいつも隣にいた人が、急にいなくなるのはどこか受け入れがたい現実で、心に大きな穴が開いたような虚無感が常に胸の中を支配する。
何をしていても集中力を欠いていて、何も手につかない状態であった。
彼女のいない日常はあまりに空虚で、すべてが意味のないものだと思えるほどに、俺の世界は色を失っていった。
それに比例するかの如く、俺の目は濁りを増して本当に腐ってるんじゃないかと思えるほどだった。あまりの腐り方に由比ヶ浜や戸塚にえらく心配された。
何より驚いたのは、あの雪ノ下でさえ俺を罵倒せずに心配してきたことだ。
それほどまでに俺の状態はよくなかったらしい。
胸の中で突っかかって蟠っているこの感情。気持ち。
果たしてこれは恋なのだろうか。
確かに彼女は魅力的な女の子であるし、十分すぎるほど仲良くしていると俺個人としては思っている。
けれどこれが恋かと聞かれて素直に認められるわけでもない。
圧倒的な経験不足。色恋沙汰は自分とはおおよそ無関係で、これまで本当に人を好きになったことがないのだ。故にこの気持ちが一体何なのかが解らない。
例えば、漫画やドラマでは「一緒にいてドキドキする」のが恋だという。
これに関して言えば、俺は渋谷と一緒にいてもドキドキすることはそんなに頻繁にあるわけではない。むしろ一緒にいないと逆に落ち着かないまである。
そういう意味でいうなら、妹の小町に対する感情と似たものがあるのだろうか。
小町は好きだし、むしろ愛しているのだが、一緒にいてドキドキすることはないし、けれどいないと落ち着かないだろう。
となれば、俺は渋谷を妹のように見ているということだろうか。
…どう考えてもあり得ないな。
考え事をしていると、時間はあっという間に過ぎて、気が付けば放課後になっていた。
教室には他に誰もおらず、その静けさは世界に自分しかいないんじゃないかという錯覚に陥るほどだ。
一人で考えてもわからないなら、他の人に聞いてみるしかないか…。
幸いこの学校には困った人を助けてくれる部活があるらしいからな。
× × ×
奉仕部の部室に到着すると、雪ノ下と由比ヶ浜は既に定位置におり、二人で仲よさげに談笑していた。
おざなりに挨拶をして、俺も自分の定位置につき、いつものごとく文庫本を鞄から取り出す。
挟んである栞を外して机に置き、文字列を目で追う。
頭の中でどうやって聞こうかと考えているおかげで、内容が全く入ってこない。
このまま、時間がたってしまうと余計に言いにくくなってしまう気がしたので、2回ほど咳払いをして、問いかける。
「なぁ…ちょっといいか?」
「どうしたのー?」
体を雪ノ下の方へ向けたまま首を曲げて、由比ヶ浜はこちらを見やる。
この片手間に相手されてる感がなんとも俺らしいな。
「……恋ってなんだと思う?」
頭の中で何度も繰り返し反芻したおかげか、その言葉は思いのほかすんなりと自然に出てきてくれた。
何のリアクションもないことを不思議に思い、二人がいる方に目線を向けると、鳩がアトミックバズーカを食らったような表情をして固まっていた。
気持ちは分かる。何こいつ急に気持ち悪いこと言い出してんだと思うのももっともだ。自分でもそう思う。
けれど、この気持ちが分からない。この思いを知りたい。
恥ずかしさよりもその気持ちのほうが大きかった。
「…え、ヒッキーどうしたの?」
先ほどと同じセリフではあるけれど、その雰囲気はまるで別のものだった。体はこちらに向き直っているし、目線は所在な下げに俺の周辺を行ったり来たりし、その声音は何かを恐れているかのようにおっかなびっくりであった。
そして隣の雪ノ下は携帯を取り出して1のボタンを二度押していた。
「待て、落ち着け。とりあえず雪ノ下はあと0を押すだけで警察に繋がってしまう携帯をしまえ」
「久しぶりに挨拶以外の言葉を発したと思ったらどういうつもりなのかしら?」
依然として携帯から手を離さない雪ノ下。どうやらここからの駆け引き、一歩でも間違えたら俺の人生はあらぬ罪によって終わりを告げることになるらしい。
「いや、単純な興味だ。小町の持ってる漫画にそういうセリフがあってな」
嘘八百である。いやこの場合嘘八万のほうが八幡的にポイントが高い。
とにかくこの場は、なんとしても切り抜けて本題に入らなければならない。
そんな俺の浅はかな考えはお見通しだとばかりに雪ノ下は冷え切った笑みを浮かべる。
「ダウト。私にそんな程度の低い嘘が通じると思ったの?嘘谷君」
「もうそれほとんど捩る気ないだろお前…」
「そうね…私も鬼じゃないわ。その質問の意図を話したら考えてあげないこともないわ」
その意図を話したくないからわざわざ嘘ついてまで誤魔化しているというのに。この女充分すぎるほどに鬼である。
「わ、私も知りたいかなー、なんて」
たはは、と力なく笑う由比ヶ浜。
そう言われても、なんと説明すればよいのだろうか。気になる人がいるが、それが恋なのかどうかわからないから教えて欲しい?か。
そんなこと口が裂けても言えねーよ。恥ずかしすぎんだろ。想像しただけでも恥ずかしいんだから実際やったら恥ずか死ぬレベル。
煙に巻いてどうはぐらかすか頭の中で思案していると、由比ヶ浜が、消え入るような声で呟いた。
「…しぶりんのこと好きなの?」
心臓を鷲掴みされたかのような感覚に陥る。
背中から暑さからくるそれとは違う汗が流れているのがわかる。一瞬ではあったが顔が強張ったのもわかった。
平たく言えば、分かりやすいほどに俺は動揺していた。
「…俺が好きなのは戸塚だ」
焦りからか普段より幾分か低い声が出てしまった。
その声音を聞いて由比ヶ浜の肩がピクリと反応する。一瞬目を瞑って逡巡した後にいつもの通りの表情に戻る。
「ヒッキー相変わらずキモいし!」
「…ええ。通報しましょうか。戸塚君のためにも」
僅かな気まずさをきっとこの場にいる3人全員が感じていただろう。けれど、誰もそれを口にすることはなかった。
それは口にすることで、言葉という形にすることで、何かが決定的に瓦解してしまうと感じたからかもしれない。
「…それで、恋ってどういう状態のことなんだ?」
それでも尚、俺は問いかける。
恐らく、こういった話は雪ノ下よりも由比ヶ浜の方がわかるだろう。
静かに由比ヶ浜を見やる。
「…その人と一緒にいたいなぁって思ったり、ずっとその人のこと考えたり、気が付いたら目で追っていたり…。私もよくわからないけどさ、きっとその人のことが好きだなぁって自分に誤魔化さないで言えるようになったら恋なんじゃない…かな?」
由比ヶ浜は、優しく語りかけるようかのように話す。
その瞳は少し悲しげに窓の外を眺めていて、それはまるで彼女自身の記憶をなぞっているかのようで、不思議な説得力があった。
「…そうか」
それが答えなのか。
渋谷凛という人間に惹かれていた。
いつの間にか彼女といるのが当たり前になっていた。
隣で無邪気に笑う彼女がいるのが日常だった。
目で追う必要もないくらい、彼女は俺の側にいた。
彼女は俺といて楽しいと言ってくれた。
俺も彼女といて楽しいと感じていた。
ああ、そうか…。
これが……。
俺は渋谷凛が好きなんだ。
感想、アドバイス等あればお願いします。
誤字脱字などは見つけ次第報告していただけると助かります。
次で渋谷凛編完結です。