ザルティス・クラークスヌイが紅魔館に取り立てられ、数日後の朝。何時もと同じく、咲夜は雑務をこなしていた。
たとえ新人の使用人が来たところで、それは何も変わらない。いつも通りに掃除を行い、いつも通りにレミリアの身の回りの世話をし、客室や寝具の整備をする。たとえザルティスが強力な技術を持っていたとしても、咲夜にとってザルティスは以前から雇っている妖精メイドたちと、見方は変わらなかった。
咲夜はこの館で言うとメイド長。つまりハウスキーパーである。つまりたった一人の使用人が増えたところで、特に気にもしないのだ。もっとも彼女はメイドとしても業務をおおよそ行うために実際のハウスキーパーとしては少々違うのだが、地位的に言えば紅魔館の中で四番目に高く、また実質的に紅魔館を取り仕切っているために、もはやハウスキーパー以上の権力を持っていた。
だが、たとえ咲夜はそうであっても、レミリアはザルティスを放っては置けないようであった。
彼は過去の幻想郷で名をはせた「十手持ち」と呼ばれる組織の一人であると、レミリアは言っていた。つまり実力はお墨付きと言え、なおかつハイカラな技法を使うザルティスをただの使用人として見るわけがなかったのである。
そこで咲夜は、ザルティスがこの館に慣れるまで多少の面倒を見ろと、取り立てた晩にレミリアから命じられていた。あくまで主人である彼女の言葉に、咲夜は逆らうわけにはいかず、その場は嫌な顔せず引き受けた。もっとも、命令自体に不服を持っている訳ではないが、レミリア以外の面倒を見ることに少しばかり抵抗があった。
さて、そんな咲夜であるが、彼女は現在ザルティスの部屋の前にいた。彼にはこの館で働くための要領を、いろいろと仕込まなければならないのだ。確かにこれも面倒を見る方法の一つであり、レミリアの言葉に逆らっている訳ではないだろう。
「ザルティス。起きているかしら?」
コンコンと扉を叩き、咲夜はザルティスへ返事を求める。すると、まるで咲夜が訪れることをわかっていたかのように、すぐさま扉が開いた。
「ああ、咲夜さんおはようございます」
眠そうな顔一つせず、ザルティスは支給された燕尾服を身にまとっていた。きっちりと整えられて皺はなく、ホワイトタイもズレは無い。
「ふうん。相変わらず乱れはないわね」
咲夜は、純粋にザルティスを評価した。どうやらザルティスは洋服を難なく着こなせるようであり、加えて日本人特有が持つ和の顔つきではない為か、風貌も様になっているのだ。ゆえに彼には、非の打ちどころがない。
ちなみに、ザルティスが該当するメイドの男性版であるフットマンや、使用人としては有名である執事は、燕尾服をいつも来ているという訳ではない。燕尾服は本来男性用の礼装であり、舞踏会などのパーティに出席する際に着る物であるのだ。つまりよく空想の話などで見かける執事などが、作業着として燕尾服を使うことはないのである。
だがこの紅魔館では、この燕尾服がフットマン用の制服であった。その理由はただレミリアが「それらしいから」と命じただけであり、特別深い意味があるわけではない。
「さて、そろそろ行くわよ。今日も仕事は、山ほど溜まっているわ」
その言葉に彼は頷くといったん部屋の中へと戻っていく。そして約二分後に再び扉を開き、準備が整ったことを表した。咲夜はそんなザルティスの行動に疑問を持つことなく、確認次第、廊下を歩き始めた。
二人の足音がコツコツと、無音の廊下に響く。これも、いつもの光景であった。
咲夜は意味のない事だと判断し、ザルティスに話しかけることはない。また彼も、そんな自分の意図を読み取っているのか、喋りかけては来なかった。
二人は無言のまま階段から降り、一階の広間へと足を運ぶと、不意に咲夜はザルティスに振り返った。だが彼は驚きもせず、背筋を伸ばして静止をする。
「今日は、玄関一帯を掃除してもらうわ」
見渡さなければすべてを把握できないほどの広い玄関は、まさに洋館と呼ぶのにふさわしい雰囲気を醸し出していた。その広さを言い表すなら、一般的な人里の民家がすっぽり入ってしまいそうなほどである。また光を遮る為のカーテンが掛けられた窓も大量にあり、一日で掃除することなど到底、一人では不可能であろう。
咲夜は要領のつかめないザルティスの顔を見ると、不服そうに顔を歪め、息を着いた。
「さすがにこの広さを一人でやれとは言わないわよ。適当にメイド妖精たちを三人こっちへと寄越すから、彼女たちとやりなさい」
ザルティスは咲夜の言葉に表情を変えず「はい」と返事をすると、玄関への出入り口へと足を運び、きょろきょろと観察を始めた。窓の桟に指をなぞらせ、埃を絡めとり、真新しい蜘蛛の巣を発見しては、それをじっと見つめている。
これは、彼が掃除を行う際によく行う行動である。この男はこうして埃や汚れが溜まっている場所を的確に見つけ出し、そこから重点的に行っていくのだ。特別不思議なことではないし、何より自分が見落としていた所まで気が付く姿勢に、咲夜は敗北感よりも関心を抱いていた。
咲夜は汚れの観察をしているザルティスに数秒ほど目を向けていたが、伝えることが済んだと判断し、その場から忽然と姿を消したのだった。
*
咲夜に命じられ、三人の妖精メイドたちは喋りに花を咲かせながら玄関へと歩いていた。
既に約束の時間からはそれなりに経っている。だが新人の人間であるザルティスを軽視していることもあり、多少遅れても良いだろうと彼女たちは安易な考えを浮かべていた。
それからしばらく歩いて玄関に到着すると、意外にもすでにザルティスは仕事を始めていた。鉛で作られたバケツは無機質な光を放っており、中にはすでに水が張ってある。雑巾はちゃんと三枚湿っていることから、自分たちの分までもザルティスはあらかじめ用意してくれたのだろう。
妖精メイド達はそんなザルティスを見ると、多少の罪悪感がこみ上げて気まずそうに顔を合わせた。頷き合い、黙々と仕事をしているザルティス習おうと、それぞれは雑巾を手に取る。
「あ、あの!」
ふと、くすんだ赤色の髪をした妖精メイドがザルティスへと声をかけた。彼女は文句や愚痴をこぼしていない彼を見て、こみ上げてきた罪悪感に耐えきれなかったのだ。
急に呼ばれたのにもかかわらず驚きを示さず、ザルティスは振り返ると、不思議そう顔をした。
「どうしましたか?」
「その…遅れてすいませんでした!」
彼女は両手で雑巾を強く握りしめ、ぺこりと頭を下げる。それに乗じてか、他二人の妖精メイドたちも頭を下げる。
しばらくザルティスは彼女たちをじっと見ていたが、ふと目線を外し、作業へと戻った。
「いえ、お構いなく。ですが、これからは気を付けていただけると幸いします。早く終わらせれば、お喋りもできましょうに」
窓拭きの手を止めず、彼は当たり障りの無い口調で言った。どうやら先ほどのお喋りが彼の耳には入っていたらしく、妖精メイド達は途端に申し訳ない気分となる。
しかし、彼女たちは同時に疑問も湧きあがった。
自分たちのお喋りが聞こえてきたのにもかかわらず、この男は何故怒らないのだろうか。これが咲夜であれば、まるで鋭く研がれたナイフのごとく、冷たい口調で叱責されるのだ。ゆえに怒らない彼に疑問を持ち、妖精メイドたちは再び顔を見合わせると、ザルティスの表情を再確認した。
「えっと…怒っていないんですか?」
三人の中で気まずい雰囲気が漂う中、メガネをかけたメイド妖精がふと口を滑らせた。自分でもその言葉を出したことに驚いたのか、彼女は口を両手で隠す。
ザルティスは彼女の言葉に「うーん」と窓を拭きながら返事するように唸ると、再び振り返った。
「怒っていない。と、言えば嘘になりますかね。ですが、私はまだここに努めて数日しかたっておりません。つまり、あなた方先輩の手を煩わせるわけにはいかないと、そんな思いが勝っておりまして」
「そ、そんな…先輩だなんて」
照れくさそうにメガネの妖精メイドは縮こまる。また他二人の妖精メイドも、気恥ずかしそうに頬を軽く掻いた。そんなことを言われたこともないし、ましてやそんな風に思ってくれているとは、思ってもみなかったのだ。
確かに、この三人の妖精メイド達は紅魔館で長く働いている。比較的サボり癖を持っている妖精メイド達の中でもまだ仕事はこなせる方であり要領もよく、妖精メイドの中ではエリートの部類であろう。それゆえか、以前レミリアの思いつきで月へ攻め入ることとなったときにも、彼女たちは付き添いとして抜擢されていた。
「なにか、おかしいこと言ったでしょうか?」
ザルティスは不思議そうに、妖精メイド達に目を合わせてくる。
「いや、どこも間違っていませんけど」
若干嬉しそうな表情をしつつ、緑髪の妖精メイドは言葉を返した。
「そうですよね?さて…では始めましょうか。簡単な場所はおおよそ私がやっておきましたので、残りは少々手間のかかる場所が多いですが、あなた方の力を貸していただきます」
玄関の窓をよく見ると、彼の身長で届く範囲のガラス窓は、ほとんど磨かれていた。それほど彼女たちが遅れたわけではないのだが、ザルティスは掃除に関して要領よくこなせるようである。
「よーし。私たちも頑張ろう!ザルティスさん!やっていない場所、教えてね!」
妖精メイド達は気合を入れるようにそれぞれ意気込むと、ザルティスへと指示を仰いだのだった。
*
ザルティスと妖精メイド達が窓拭きへ専念し始め数時間。唐突に上から低い鐘の音が響いた。
これは十二時の鐘の音。つまり昼休みを伝える鐘の音であり、この鐘が鳴ってから約一時間、使用人達は休憩を取ることが許されていた。
鐘の音が響き終わると、三人の妖精メイド達は脚立から降り、二階へと昇る階段の近くに置いてあったバスケットへと集まった。汚れた手はあらかじめ持ってきた濡れ雑巾で拭い、三人はそれぞれ言葉を漏らしながら長方形のバスケットを開ける。
バスケットの中には色とりどりの具材で作られたサンドイッチが入っていた。これはメガネの妖精メイドの手作りであり、彼女は妖精メイドの中でも料理を得意としているのだ。もともと料理が好きであった彼女は、この紅魔館に勤めることでその腕に磨きがかるとみるみる上達して行き、いつしか妖精メイド達の中で右に出るものはいなくなった。その味は、咲夜も認めるほどである。
赤髪の妖精メイドと緑髪の妖精メイドがいつも通り何も言わずサンドイッチに手を伸ばすと、双方の手をメガネの妖精メイドはぱしりと軽く叩いた。
「なんなのさ!」
不服げに赤髪の妖精メイドはそう言うと、メガネのメイド妖精は申し訳なさそうな表情をしつつ、ちらちらと玄関の窓際を見た。
二人が何であろうかと目を向けると、そこにはいまだ作業をしているザルティスの姿があった。まさか食事をとらないつもりなのだろうかと、赤髪のメイド妖精は驚いた表情をし、ほか二人のメイド妖精に何か合意を求めるべく、彼女たちに振り返り、彼に指をさす。そもそも、あの男が食事をとったところを、三人は見たことがなかった。
赤髪のメイド妖精が驚いているのに対し、緑髪のメイド妖精はそういうことかと、メガネのメイド妖精が行った行動に気が付いた。おそらく彼女は、先ほどの謝罪を込めて、自分の作ったサンドウィッチを送りたいのだろう。
しかし、メガネのメイド妖精には、そんな勇気を持ちあわせてはいなかった。彼女が控えめな性格であり、人見知りが激しく、恥ずかしがり屋なのだ。
つまり彼女の思いに答えるのは自分しか無いと、緑髪のメイド妖精は思い立つと、おもむろに立ち上がりどこか重い足取りでザルティスへと向かう。
「あの…」
聞き取るのがやっとなほどか細い声で、緑髪のメイド妖精はザルティスに声をかけた。ザルティスはその声を聞き漏らさなかったのか、不思議そうに顔を彼女へと向ける。
「はい、なんでしょうか?」
「食事。取らないんですか?」
何故か気弱そうな声で聞いてくる緑髪のメイド妖精に、ザルティスは苦笑いを作った。
「ああ、どうか御気になさらず召し上がってください。私がその間、少しでも多く掃除をしておきますので」
なんて気が良い男であろうと緑髪の妖精メイドは思ったが、同時にそれでは「先輩としてのメンツ」が立たないと、思い切ってザルティスの服を少し引っ張った。
「それじゃ、私たち…その。まかせっきりは申し訳ないんです。ですからその…」
緑髪の妖精メイドはザルティスの服を手放すと、目を泳がせもじもじとする。そして少し間が開いた後、顔を上げた。
「一緒に、昼食食べませんか?」
その言葉に、ザルティスはいったん間を開けた。
「よろしいのですか?」
驚いたような表情をするザルティスに、緑髪のメイド妖精はこくこくと頷く。ザルティスが再確認の為か奥の二人の妖精メイド達に目をやると、二人も同じく頷いた。
「…わかりました。では、お言葉に甘えさせていただくとします」
にっこりと笑顔を作ると、ザルティスはバケツへ向かい、雑巾を絞る。そして、緑髪のメイド妖精と共に二人の位置まで歩くと、おもむろに座った。
三人のメイド妖精達はごそごそとどこか落ち着きがないような行動をしている中、ザルティスは濡れ雑巾で手を拭うと、サンドイッチをじっと見つめた。
「これは何方が?」
「あ…えっと…私です」
そろりと力なくメガネの妖精メイドが手を上げると、ザルティスは彼女に笑顔を作った。
「色とりどりで素材が生えていますね。本当においしそうです」
嫌味ない言い方に、メガネの妖精メイドは心底嬉しそうに頬を赤らめた。同時に、他二人の妖精メイドも、どこか緊張感が途切れたのか、得意げな顔をしている。
「さーて、いただいちゃいましょ!ザルティスさん。お先にどうぞ!」
赤髪の妖精メイドが元気そういうと、ザルティスは苦笑いを作る。メイド妖精のテンションについて行けず、困っているのだ。
「はは…ありがとうございます。では、いただきます」
乾いた声でザルティスはそう言うと、バスケットの端にあるサンドイッチを手に取り、一口だけ口にした。
すると、純粋に驚いたような表情で、ザルティスは目を見開いた。
「旨いな…」
「え?」
「ああ、すごい…とてもおいしいです。こんなにおいしいサンドイッチを食べたのは、初めてで」
そういうとザルティスは一口で残りのサンドイッチをほおばる。それに続き、妖精メイド達もそれぞれサンドイッチへと手を伸ばしたのだった。
*
昼食の最中、ザルティスに心を許した三人の妖精メイド達は、これまで溜まっていたザルティスに対する疑問を、質問攻めする形をとっていた。
大まかな内容として、まず歳はいくつなのか。里のどこに住んでいたのか。恋人はいたのかなどで、プライバシーなど考えもせず、ただ気になることをひたすらザルティスへと聞いていた。
それに対しザルティスは表情を歪めず、全てをすらすらと答えていった。もちろん、それが本当かどうかは不明であるが、ザルティスの答え方から察するに嘘ではないと、妖精メイドたちは思えていた。むしろこれで嘘を言っているのであれば、この男は相当な達弁であろう。
「こんなところですか」
妖精メイド達の質問を答えきったザルティスは、さすがに若干迷惑そうな苦い笑みを作る。一方的な質問を受ければ、誰もがこうなるだろう。
苦い表情をしているザルティスを見て妖精メイドたちは、やり過ぎたのではないだろうかと自覚し、顔を見合わせる。
「じゃあ、最後に!」
質問をやめようとする雰囲気の中、緑色の髪をした妖精メイドは「最後に」と強調して手を上げて言う。ザルティスは呆れ顔でありながら息をつき、「どうぞ」と優しい表情を見せて答えた。
「そのぉ…家族構成は、どんな感じでしたか?」
そういえばこの質問をしていなかったと、妖精メイドたちは気がついた様な表情をした。それを聞いてどうこうするつもりは無いが、純粋に聞いてみたいとは思えてくる。
この質問は、なんの当たり障りもないような質問であろう。初対面の人間に対して話題を広げようとする際にもよく使われ、家族特有の事柄に同調することもできる、ごく一般的な質問である。
だが。そんなごく一般的な質問であるにもかかわらず、ザルティスは一瞬、顔をひきつらせた。
「えっ」
ザルティスの表情をまじまじと見ていた三人は、思わず声を出してしまった。どうやら彼にとって拙い質問だったのかもしれない。そう思うと緑髪のメイド妖精はやってしまったと、迂闊な質問を悔いた。
そもそも彼がなぜ、この館へ就職できたのかを妖精メイドたちは知らなかったが、それでも相当なる理由があってのことだとは、用意に想像ができていた。わがまま極まりない家主に愛想のないメイド長など、特色な性格の多いこの館で働こうなど、普通の人間であればまず思わないはずである。つまり彼は何かしら里に居ることができない理由を持っていて、しぶしぶこの館で働いているのだと、少し考えれば思いつくはずであろう。
そして今回、緑髪のメイド妖精が思いついた理由として、家族が思い浮かんだのだ。ザルティスは家族と何かしらのいざこざがあり、結果としてこの館で働くことを選んだ。そう考えると、この特色のある館で働いているのにも、納得ができる。
ここまで憶測を立てていた緑髪のメイド妖精であったが、ザルティスが見せた不快感を覚える表情はそれっきりで、優しい表情を失わず口を開いた。
「父親と母親。それに、妹がいました。妹は身内ながら、誇れるほど美人でしたよ」
答えにくいであろう質問だったにもかかわらず、ザルティスは淡々と家族構成を述べる。
自分たちに不快感を与えないように質問を返したと考えると、緑髪のメイド妖精は更に心が傷んだ。
「そ、そうですか」
たどたどしく、緑髪のメイド妖精は言葉を返す。そして、暫くの間沈黙が続いた。
「…次は、私の番でよろしいですか?」
沈黙の中、ザルティスはそれを打ち壊すが如く、質問を返してきた。三人の妖精メイドはおずおずとしつつも、言葉を返す。
「あ、どうぞ」
ザルティスは返事を確認次第「では…」と顎を引いて考えこむような仕草をする。そして、ハッと何かを思いついたような仕草をした。
「こんな初歩的な質問をするのも何でしょうが、あなた方のお名前は何でしょうか?」
その質問に妖精メイドたちは顔を見合わせた。
メイド妖精たちは、名前を持ってはいない。そもそも名前自体の概念が薄く、名前などお遊びにしか過ぎないのだ。故にそのお遊びに参加していなかった彼女たちは、自分たちがなぜ名前を持っていないのかを、考えたことはなかった。
「えっと…あの…ないです」
しばらく困った仕草をしていた三人であったが、緑髪の妖精メイドは恐る恐る口を開いた。怒られるなどと思ったわけではなく、質問を答えることができない申し訳無さから、押し殺したような声が出たのである。
ザルティスはそんな彼女をみて「そうですか」とつぶやくと、再び考える仕草を取る。そして、すぐさま次の質問をしてきた。
「では名前を持とうとは、思わないのですか?」
さらに彼は、名前に関することを聞いてくる。当然メイド妖精たちは困り果て、あたふたとし始める。
「そ、そんなことも考えたことはなくて…。そもそも、なぜそこまで名前にこだわるのですか?」
緑髪の妖精メイドは逆にザルティスへと問い返すと、彼は腕を組んで答えを返した。
「あなた方を呼ぼうとした際、なんて呼べば良いかわからないわけでして…。例えば貴女は緑髪ですので、緑さん。と、呼ぶのはいささか失礼かと思いましてね。何か名前があれば、失礼なく呼べると思ったのですが…」
そういうことかと、緑髪の妖精メイドは理解をした。確かに自分たちは名前を持っていないゆえに、なんと呼べばよいのか困るのは当然である。
名前を呼べないということは当然ながら、指示を出すことも難しくなる。一つの手があるとすれば、一人ひとりに番号をふれば良いのだが、ザルティスは後輩としての位置であり、それは先任の使用人達に失礼極まりない行為であろう。たとえザルティスの仕事が一流であったとしても、先任の使用人達を立てなければならないのは、フットマンとして当然である。
「でしたら…」
緑髪の妖精メイドは考えこむ仕草からぼそりというと、明るい顔を見せた。
「私達の名前を、考えてくださいませんか?あくまでも、お遊びとして」
「お遊びですか?」
その言葉に引っかかりを感じたのかザルティスは復唱したが、直ぐに納得するような表情をみせる。おそらく妖精たちには独自の考え方があると、理解したのだろう。
「ですが、私ごときが名づけても良いのでしょうか…?おそらく、しばらくその名前で呼ぶと思うのですが」
「どうせザルティスさんだけに使われる名前なんだ。私達は特に気にもしないですよ」
ザルティスの疑問に赤髪のメイド妖精は、からからと笑いながら言う。メガネのメイド妖精も、特に異存はないような表情を見せている。
そんな三人を見て少々困ったような表情彼は見せていたが、「わかりました」と頷くと、立ち上がった。
「そろそろ、休憩時間も終わりを迎えます。仕事が終わるまでには考えておきますので、仕事に戻りましょう」
その提案に妖精メイドたちは「はーい」と元気よく返事をすると、バスケットなどを片付けはじめたのだった。
*
気がつけば、すでに黄昏の日差しとなっていた。
自分たちの影は長く伸びており、太陽が落ち始めていることがわかる。すなわち夜が刻一刻と迫っているわけで、そろそろ家主レミリア・スカーレットが活発な気分となる頃合いであろうか。
「すごく綺麗になったなぁ」
緑髪の妖精メイドはそんなことを思いつつ、自分たちが掃除した場所を見渡した。
もともとそこまで汚れていたわけではなかったが、あれだけ広かった広間や、数多くある窓は更に輝きを増しているように見える。自分たちの努力ということもあるが、何よりも自分たちに名前が無いなりに、ザルティスが指示を出した事が大きいであろう。
それに、おそらく先ほどの会話で彼の心も打ち解けたようで、抵抗なく話をすることができるようになった。
「これで、全部ですね。夕食までに間に合って良かったです」
ザルティスは周りを見渡しながら、そうつぶやく。その顔はどこか満足気に見え、メイド妖精たちも顔を合わせて喜んだ。
「さて…では名前の件ですか」
思い返したようにザルティスはいうと、先ほどの満足気な表情から少しだけ苦い顔をして、メイド妖精たちに顔を向けた。
「良い名前、浮かばなかったんですか?」
「いえ、そういうわけではないです。ですが、気に入っていただけるかどうか、少々心配で」
ザルティスはそう言うと、一つ息を吸って、意気込むように頷いた。
「では、まず緑髪のメイド妖精さん」
「は、はい!」
最初に呼ばれたのが自分であったことに少々驚いたが、妖精メイドは背筋を伸ばして、聞き入れる姿勢を取った。そんな彼女の姿勢を見てザルティスも真面目な顔つきとなると、彼女の身長に合わせるようにしゃがみ込み、語りかけるように言う。
「貴方には、アンジェ…ですかね。かつて呼んだ小説に、緑髪のメイドが頑張る話がありまして、まさにその主役がアンジェです。そこから、取らせていただきました」
「アンジェ…アンジェ!いい響きですね…。なんか照れちゃいますよー」
その名を聞いて緑髪のメイド妖精改め「アンジェ」はそう言うと、その響きに酔いしれるように、くるくると回り始めた。自分には少々もったいないと言うか、名前負けしそうではないかと思ったが、それよりもその響きに酔いしれた。
ちなみにアンジェとは、舶来の世界であるフランスと呼ばれる国で「天使」という意味の言葉である。その他天使のような人、さらには警察などの意味合いもあり、この場合は先に述べた二種が当てはまる。
さて、アンジェが喜びに満ちている中、次にザルティスはメガネのメイド妖精へと顔を向けた。目を向けられた彼女は一瞬身をたじろいでみせたが、アンジェの嬉しさを爆発させたような行動を見て、覚悟を決めるような表情になると、ザルティスへと目を向ける。
「次にあなたですが…「メアリー」はどうでしょうか?しかし、私が込めた意味での「メアリー」とは、外の世界に住む画家の名前から、取らせて頂いた名前です。力強いタッチの絵は、彼女の持ち味であり、貴女もこれを気に、自信を持ってほしいと思いました」
メガネのメイド妖精改めメアリーは、その名前を聞くと顔を赤くして、頭を下げた。嫌がっているわけでは無く、純粋に照れくささと恥ずかしさがこみ上げてきたからだ。自分の欠点である控えめな性格を改善できるきっかけを作ってくれたザルティスに、メアリーは純粋に嬉しさを感じていた。
「そして…最後に貴女ですね」
メアリーは自分の名前を復唱している最中、ついに赤髪のメイド妖精へザルティスは目を向けた。さすがに三回目である故か、赤髪のメイド妖精は期待を込めた目で、ザルティスを見る。
「あなたには、これしか無いと思いました。「アン」という名前は、どうでしょうか。外の世界では有名な小説の主役であり、赤毛の代名詞とも言える女性です。活発であり、そこが可愛らしい。個人的に、良い名前であると思います」
「そ、その名前かぁ…」
自信があるように言うザルティスに対し、赤髪のメイド妖精ことアンは、ほか二人と違い落胆したような表情となる。前二人の名前があまりにもよく考えられた名前であったために、アンは少々肩透かしを食らった気分に陥ったからだ。
ちなみに言うまでもなく。ザルティスが付けたこの名は、「赤毛のアン」の主役であるアン・シャーリーから取った名前である。想像力豊かで美しいものに名前を付けたがる彼女は、有名すぎる女性であろう。
「お気に召しませんでしたか…?」
不服そうにしているアンに対し、ザルティスは申し訳無さそうな表情をしている。仮にも自分たちが勝手に名前をつけてくれと行ったわけで、彼に罪はない。故にアンは、しぶしぶ納得したような表情を作った。
「まあ、いいよべつに。アンって名前、嫌いじゃないし」
「私としても、素晴らしい名前だと思いますよ。むしろ貴女はどうも彼女とかぶる気がいたしまして、これがピッタリだと、思わざる得ないわけでしたので…」
「そ、そう?私って主役を張れるかな?」
若干違う解釈をしているようにも思えるが、そこまで絶賛されたのであれば、納得せざるを得ないだろう。しぶしぶという考えから、むしろ誇れる名前であると、アンは思い直した。
「これで、全員ですね。アンジェさん。メアリーさん。アンさん。これからもよろしくおねがいしますよ」
ザルティスは三人を見ると、深々と頭を下げた。どこまでも律儀な行動に三人は苦い笑いを作ったが、同時にこれで一緒の使用人仲間として見ることが、できるようになったのであった。
*
日をまたぐ調度の頃合い。咲夜はカツリカツリと足音を立て、ザルティスの部屋へと向かっていった。
理由はひとつ。妖精たちに、名前を授けたことである。
そもそもザルティスは、一使用人にすぎない。それなのにも関わらず、家主であるレミリアを差し置いて使用人に名前をつけるなど言語道断であろう。そんな権力を持ち合わせていないし、与えた覚えもない。明らかに身勝手な行動によるもので、咲夜は見過ごすわけには行かなかったのだ。
咲夜はザルティスの部屋前まで付くと、いつもより力を込めて扉を叩いた。言うまでもなくこれは自分が怒っていることを伝えるため、あえて行ったことである。
しばし間があいて、がちゃりと扉が開き、ザルティスが顔をだす。ワイシャツ姿になっていることから、くつろいでいたのだろう。
「貴方。勝手なことをしないで頂戴」
咲夜はザルティスが顔を出してすぐさま、怒りを孕んだ声のトーンで要件を言う。しかし彼はいまいち意味がわからないのか、困ったような表情をした。
「なに?その表情。とぼけないで頂戴。貴方、勝手に妖精メイドたちに名前を付けたでしょう?」
「…ああ!その件ですか」
ザルティスはようやく合致が行ったのか、気がついたように頷く。
「申し訳ございません。どうしても指示を出す際、困ってしまいまして。かと言って番号を振るのも、失礼な行為ではないかと思いましてね。そこで名前を聞いてみたところ、逆につけて欲しいと言われてわけでして…」
もっともらしい意見を述べて、ザルティスは苦笑いをする。おそらく言っている事は真実であろうが、素直に自分の非を認めないことに、咲夜は更に腹を立てる。
「ふざけないで。貴方にその権利はありません。失礼であっても、貴方は彼女たちに番号をふるべきだわ。あの子達に名前の自由をあげたのは、逆に使用人達のモラルが乱れるの。そもそもあの子達は名前がないからこそ、私達名前のあるものと差別化ができていたのよ?」
妖精メイド達に名前が無いのには、彼女たちの名に対する概念が薄いことに加え、このような理由も存在していた。
この館は言うまでも無くレミリアが主人でありトップである。その下に、咲夜や大図書館に住むパチュリー・ノーレッジ。さらには門番である紅美鈴などが居るのだ。
つまり、名前が無い者は基本的に彼女たちの下ということになり、名前が無い事すなわち全て平等の階級として扱われるのだ。ちなみにこの場合、ザルティスも名前持ちであるために咲夜達と同じ階級になるが、彼の場合はまだ新人ということ、ありなしの間に挟まれている状態であった。
咲夜からそのことを聞かされたザルティスは、初知りだと言わんばかりに驚きと申し訳無さを含んだ顔をし、「申し訳ありません」と頭を下げた。すぐさま頭を下げるこの行動は、もはや彼の得意技のように咲夜は見えた。
「まったく…」
腕を組み、咲夜は冷たい瞳でザルティスを見る。彼は反省が目で見えるような雰囲気を醸し出しており、失態をすべて認めている様子であった。これ以上攻めても、時間の無駄である。
「まあ、私もそのことは伝えていませんでした。故に今回は許します。しかし、再び勝手な行動を取るのであれば、それなりの処罰をしますから、覚悟をしていてください」
若干の物足りなさを咲夜は感じつつも、ぴしゃりとザルティスに言い放つ。そして、この場にいる意味がないと判断し、彼の前から忽然と姿を消したのだった。
しかしその際、密かにはにかんだザルティスの表情を、咲夜は見ることはなかった。
はい。どうも飛男です。
今回、主にスポットが当てられたのは妖精メイドたちです。彼女たちは察しの良い方々ならわかるかと思いますが、儚月抄で出てきたあの妖精メイドたちでした。
さて、今回彼女たちに名前をつける話でしたが、正直公式で彼女たちに名前があるか、知りません。もしあるのでしたら、教えていただけると幸いします。まあその場合、この話は書き直しになりますがねw
読者の皆様もそうですが、親にあたえられた名前は大切なものであり、誇りであると思います。自分は小さいころその名前が嫌いでしたが、今では誇りに思っています。名前も自分の、体の一部なんですから。ちなみに私の名前はDQNネームではないごく一般的な名前ですので、ご安心を。
さて、今回はこの辺りで、次からはおそらく!更新速度が早まると思います。