[完結]Home is the sailor, home from the sea.   作:Гарри

9 / 49
「第二特殊戦技研究所」-3

 僕と隼鷹は歓迎会という名前の能力テストの報告をしに、提督に会いに行かなければならなかった。気が重かった。二度目の爆弾直撃で日向に負けた後も、腕を修復材で治療してから響や妙高さんと戦って、その度にさんざっぱら叩きのめされたからだ。響には引き分けか、まあちょっとひいきして貰って勝ち、というところまで持ち込めたが、妙高さんには射的の賞品扱いされただけだった。この出来事は初めての戦闘で大戦果を上げ、自分は強いのではないかと心の奥底でちょっぴり慢心していた僕の自己評価に、多大な影響を与えた。だって仕方ないじゃないか、と言い訳したくなるが、ああもしっかりと鼻っ柱を折られてしまっては、そんなことをしても恥の上塗りにしかならない。かくなるは事実を事実として受け止め、これが演習であって実戦でなかったことを幸せに思いながら、次に備えるしかない。

 

 僕らは執務室に行き、提督を前にして、以前の上層部への報告の時みたいに演習でのことを語った。反応は特になく、口にしたことは「そうか、もう行っていい」だけだった。僕は失望されたかと思って焦った。その感情には慣れていなかったんだ。僕の焦燥を感じ取ったのか、提督は意地の悪い笑みを浮かべて「子犬が狼に勝てるとは最初から思っていない。さて……報告は済んだんだろう? ハウスだ、子犬ちゃん」と言った。

 

 最後の言葉のせいもあって、執務室を出ても楽しい気分にはなれなかった。子犬扱いは気に入らない。僕は羞恥から生まれる怒りを抑えた。怒りには、それを解放するに適切な時、相手、手段というものがある。感じた怒りを即座にばら撒いていては、本当に三つの子供や子犬そのものと変わらない。もし提督からの評価を引き上げたいなら、結果を出すことだ。そうすればいずれ、彼女は僕らのことを狼の一匹として数えるようになるだろう。その日が来るのを早める為に、僕と隼鷹は早速演習の見直しをすることにした。暇そうにしていた伊勢を今度甘いものをおごるからという言葉で釣って、食堂の片隅での反省会に付き合って貰う。彼女は演習の時のふざけた態度や、相手を軽んずるような戦い方とは裏腹に、丁寧に僕や隼鷹の欠点、あるいは演習で犯した失敗を指摘してくれた。それが一つ一つ、伊勢の気兼ねなく素直な言葉で以って言われるごとにすとんと僕の胸に落ちて、気にしていたことや自分でも気づいていなかった恥部や落ち度を指摘された時にしばしば人を襲う、あの激しい恥辱を一切生み出さなかったことに、僕は驚いた。

 

 一段落ついたところで、隼鷹が持ち前のずけずけとものを言う性格で伊勢に尋ねた。「随分親身になってくれるねえ?」その言葉にはからかいの意図と、自分を侮って刀一本で相手をしようとした伊勢が、こうもよくしてくれることへの意外さが含まれていた。伊勢はそれに気づきもしないような裏のない笑いを見せて答えた。「だって見込みあるもの、二人ともね。それに先輩が後輩の面倒見るのは当たり前でしょ?」からかおうとした相手にこんなにまっすぐなことを言われては、僕らは顔を見合わせてばつの悪い思いを分かち合い、はにかみの笑みを浮かべ、伊勢に礼を言うしかなかった。

 

 途中、日向もふらっとやってきた。日課のトレーニングを済ませて来たところだったそうで、運動着を着て額に汗を浮かべ、スポーツドリンクを片手に持っていた。元気なものだ。僕はそれだけで僅かに尊敬の念を抱いた。演習でもかなり動いただろうに、その上更に訓練を行うとは。僕もその向上心を見習わなくてはいけないだろう。日向はスポーツドリンクを飲み終わるまでの短い時間だったが、瑞雲を用いた彼女なりの航空戦術について説明してくれた。伊勢が細やかで具体的なのと対照的に、抽象的でフィーリング頼りな日向の説明は僕には半分も理解できなかったが、それでも分かるところが皆無だった訳ではなかった。日向にはまだまだ聞きたいことがあったが、彼女は彼女でやることもあるだろうし、次の機会まで取っておくことにする。と、彼女と入れ替わりに妙高さんが現れた。彼女は数学がそう得意でない僕にも飲み込めるように、優しくゆっくりと噛み砕いて、砲撃時の計算のコツや、精度の低下が許容範囲内に収まる程度の手抜きの仕方を教えてくれた。僕はそれを、乾いたスポンジが水を吸い取るように身につけていった……と言うと嘘になる。僕は三人から教わったことについてそれぞれ紙に欠かさずメモを取っていたが、覚えたぞ、と思って確認の為に見返すと、何度も覚え切れていないところを見つけてしまうのだった。自分の能力の低さが悲しいことだ。それでも、僕はその弱さを努力で克服できると信じていた。そうでなかったら、絶望するしかないじゃないか?

 

 夜も更けてきて、僕らは解散した。自室に戻り、ピアスを外してそれをテーブルの上に置く。その片割れは未だに渡す相手を見つけられていない。普通の友達ならこれまでに何人かと出会ってきた。今いるよい友達なら、隼鷹を真っ先に思い浮かべる。彼女は百万人に一人の友人だ。しかし、僕にとってこの耳飾は、それが明確ではないにしろ特別な意味を持つものだった。従って、よしんば隼鷹がこれを受け取るに相応しい相手だとしても、今はその時ではなかった。それに言うまでもないことだが、受け取ってくれるかどうかは彼女次第なのだ。まあ、別に結婚を申し込む訳じゃなし、断られるようなこともないと思うが、受け取るだけ受け取っておいて使いもせずに箱の中に入れて片付けてしまうってこともあり得る。僕としては、そのような扱いを受けて欲しくなかった。

 

 寝る前にシャワーを浴びようと思った。身だしなみはきちんとしていなくてはいけない。特に自分が男で、周りに異性が多い時には、気にしすぎるくらいでいいだろう。彼女たちの鼻や目はどういう訳か男のそれよりも性能が高いらしく、どんな些細な身繕いの失敗や怠慢も、たちどころに見抜いてしまうからだ。そして、彼女たちは自分が入念に気を払っているからこそ他人にも厳しく、公平に同程度の注意を要求する。意志を持つ者はそれを跳ね除けることもできるが、賢いことではない。それに、不潔であることが清潔であることより優れている点など、人類の文明化以来かつてなかったのだ。十九世紀に医者が消毒することを覚える※19まで、どれだけの命が不潔さによって失われたことか。おっと、今はそんな話をしている場合ではない。

 

 僕は着替えを持ってシャワー室に向かった。そこには艦娘用のシャワー室と提督用があり、前者は軍が伝統的に用いている集団シャワー室だった。つまり、僕が使うと何かと問題になる。かなりの希望的観測をしたとしても、紆余曲折の末に僕が持っている骨の半分は粉々になるだろう。事前の説明における合意によって、僕は提督用を使うことになっていた。シャワー室とは言っているが、提督用の方は普通の家風呂のようになっている。バスタブ付なのだ。シャワーに行く途中それをふと思い出し、風呂に浸かり損ねたなと思う。今から湯を入れるのは面倒臭い。

 

 と、間の悪いことに提督も一日の疲れと汚れを暖かいお湯で流してしまおうと考えていたらしかった。僕は彼女をシャワー室の前で見つけた。彼女だけではなく、長門もいる。僕は彼女が提督のものらしき着替えを持っていることで、勝手に納得した。介護役なのだろう、義手義足で杖突きの人間が一人でシャワーを浴びるのは危険が過ぎる。提督は僕に背を向けていて、長門と話していた。その内容を盗み聞きしないで済むように、それと長門に睨まれないように僕はそそくさとその場を逃げ出したが、あのビッグセブンは僕の気遣いを知りもせずに目つきを鋭くした。「編入の挨拶に参りました、これ、つまらないものですが」と言ってガイガーカウンターでも持っていってやろうか、と考える。考えるだけだ、僕も越えてはいけない一線の区別ぐらいつく。それは北上に人間魚雷の話をするようなものだ。龍田に潜水艦の話をするようなものだ。利根にカタパルトの話をするのとは訳が違う。

 

 着替えを持ったまま何処に行けるでもない。僕は部屋に戻ってそれを置き、食堂に行った。まだ消灯時間は来ていない。誰かいたら、話しかけてみるのもいいかもしれない。だがいたのが第二艦隊だったら、また逃げるとしよう。僕は執務室で加賀に睨まれた時の、あの足元から上がってきた冷気のようなものを思い出して、身震いをした。あの目、あの瞳! あんな目ができるようになるまでには、一体どれだけの、何を経験してくればいいのだろう……彼女が自伝を執筆する気になれば、それを基にして映画の一本や二本は撮影できるに違いない。きっとだ。ちょっと薄めて創作部分を付け加えれば三部作はカタい。

 

 食堂には響がいた。本を読み、透明な液体の入ったコップをその傍に置いていた。僕はまた彼女がウォッカを飲んでいるのかと思ったが、そうではなさそうだった。髪もしっとりと濡れているし、風呂上りに水を一杯といったところだろう。彼女以外に食堂には誰もいなかった。話しかけようかと思ったが、彼女は本を読んでいる最中に邪魔されるのを好まないだろう。僕は、僕も水なんか飲みに来たんだという風を装って、ここを出ることにした。コップ置き場から一つ取り、ウォーターサーバーから水を出す。一口飲んで、息を吐く。単なるポーズの為にやったことだったが、冷水が喉に気持ちよかった。冷たさが食道を通って、胃に落ちていくのを感じる。予想していなかった二杯目を飲んで、僕はコップを返却所に置いておいた。

 

 さあ、食堂を出よう。そう思って出入り口の方に身を向けるが、響がこちらを見ていることに気づいた。既に彼女の手にあった本は閉じられている。そんな気はなかったんだが、やっぱり邪魔してしまったようだ。気を悪くしてないといいのだが。僕は無礼にならないで済むよう、声を掛けた。「やあ、こんなところに一人でどうしたんだ?」すると彼女は言った。「一人で静かに本を読むには、ここがぴったりなんだよ」「悪かったな」「うん? ああ、いや、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。座りなよ、話でもしよう」恥知らずにも、こんな奥ゆかしく礼儀正しいお誘いを断るような奴は、男であることをやめるか、性根を入れ替えてもっと紳士的になった方がいい。僕は返却所に置いたコップをもう一度取り、水を注いで、響の対面に腰を落ち着けた。「その本は?」と僕は尋ねた。革のブックカバーで何の本なのかは分からなかったが、そのくたびれ方から響がそれを何度も何度も読み返して来たことは明々白々だった。彼女は答えた。

 

「宗教書だよ」

 

 心を引く答えだった。つまり、響はロシアに、正確を期するならソ連に縁のある艦娘だ。彼女が訓練所で響になる前にどんな人格の持ち主だったか、僕には知る術がない。だが、それがどんなものであったとしても、恐らく今の彼女のように神聖な静けさを心に持った人格でなかっただろうことだけは確かだった。そういう人間は、もうとっくに絶滅したんだ。今じゃ放射年代測定で本物だと確認された化石標本が、博物館で展示されてる類のものだ。それだというのに、彼女は信仰を持っている。僕には存在や正当性を立証できないものを信じる人の気持ちが分からなかった。それを否定するつもりはない、信教の自由という素晴らしいものがあり、公共の福祉に反さない限り(だから殺人カルトなんかはダメだ)、誰もがそれを誇りに思うべきだ。ただ、時代に逆行するだけでなく、艦娘としての彼女自身の特性や経歴に逆らうような彼女の信仰が、興味深く感じられただけなのだ。

 

 陸の兵士は言う。蛸壺の中では誰もが敬虔な信徒になると。僕だって、訓練所で頭の上を機関銃弾が飛び交う中、泥濘に身を浸して這いずり回ったあの日、信仰に目覚めるところだった。その辛さを、何か絶対的に自分よりも上位の存在から賜わった試練であると解釈しないではいられなかったのだ。それに、信じる者は救われる※20という言葉のことや、フランス人の神と信仰に対する理性的・数学的な判断※21のことも、考えないではいられなかった。

 

「じゃあ、宗教を……天国や地獄を信じているのか? 面白いな、『響』が宗教者ってのは……信仰に文句をつけたりするつもりはないけど、証拠と言ったら昔っからある本に書いてあるってだけなのに」

「信じているよ、私がいつか死ぬってことと同じぐらい、それは確実だって。ある種の事柄では、信じるのに証拠なんか要らないんだ」

 

 『証拠なんか要らない』と、ここだけを聞いたらきっと世界中の法曹界の関係者たちが怒り出すだろう。それから、合理主義者たちや一部の哲学者たち、攻撃的無神論者たちもだ。僕はそこまで人の内面に口出ししようとは思わなかったので、あくまで彼女の言葉への返答は、個人的なコメントをするに留めた。

 

「その答えは理性的じゃないな」

「そっちこそ、随分と西洋かぶれじゃないか。西洋的思想の、人間の理性的本質に対する傾倒は、彼ら特有の注意……個人の自由意志だとか、人間が自律して、自発的に、運命を選ぶことができる、という考えが引き起こしたことだ。でも、私はそうは思わない。辺りに何もない、誰もいない海で溺れている時に、人間の力が何になる? 大海原に頼んでみても、彼女はきっと答えないよ。私たちは無力で、理性なんてちっぽけな爪楊枝みたいなものさ。精々が自分の汚れを掻き出すことにしか使えないんだ。そういう考え方をするという意味では、私はとてもロシア的だと言えるだろうね」

 

 それには僕も賛成だ。

 

「ロシアはアジアだもんな。でも、もし信仰が間違ってたらって思うことはないのか? 何処の誰だかも分からない神様が本物の神様で、偽者の神様を信仰した罰で地獄に落とされたりなんかしたらって。あるいは、そもそも天国も地獄もなかったらって」

「全部アジアって訳じゃないけど、まあそうだ。分かってくれて嬉しいよ。そして、その問題については簡単なことでね。私にはこれしかないんだ──罪深い私が救いを求め、救われるには、この信仰しかないんだ。他に道があったら後悔するかもしれないけど、最初から歩く道が決まってたら、その先に何が待っていようと私は受け入れるだけさ」

「響が罪深いとは思えないけど」

「ありがとう、でもこれは宗教的な意味でだよ。その観点に立って言えば、私は大罪人なんだ」

 

 彼女は微笑んだ。前に僕に見せたのとは違う、もっとはっきりとした微笑だった。それを見せられた後の僕には、どんな観点に立っても、彼女を罪悪と結びつけて考えることはできなかった。彼女は水を飲んで言った。「楽しい話だけど、そのせいでつい喋りすぎてしまったよ」「他の艦娘たちなんかとはこの手の話はしないんだな」「信仰について勘違いをしているか、頭から拒否しているか、だから。まあ、何を期待するにしても、人それぞれさ。例えば不知火は『神様がいるなら奇跡で深海棲艦を一掃してくれる筈だ』と言って譲らないんだ」僕はその様子を思い浮かべた。響は声をひそめて笑って、そんな風に考えるなんて彼女は可愛いよ、そうじゃないか? と僕に同意を求めた。僕は頷いた。響が被った帽子をくいっと動かして、表情を隠そうとしながら言った。

 

「また話が重苦しい方に行きそうだ。と言って、私は本来口数の多い性格じゃない。何かないものかな、私ならではの話題が」

「響ならでは……ロシア語?」

「ほう、こいつは驚いた。折角学問とは無縁の世界に辿り着いたのに、また勉強したいのかい? Вызов принят(いいだろう)※22, я вас проучу.(教育してあげよう)

 

 僕は地雷を踏んだかもしれなかったが、響がそれで喋りやすくなるなら構わなかった。彼女のロシア語の知識は、艦娘になった時に得たものだそうだ。生きて退役したら、この知識を使った仕事に就けるんじゃないかと期待していた。全国に何人の響がいるか知らないが、少なくはあるまい。終戦を迎えて少ししたら、ロシア文学や映画の翻訳ブームが来そうだ。響の語学教育は実践的だった。小中学校で英語を学んだ時のように、無駄を感じることはなかった。代わりに文法は時々崩壊していたし、スラングも混じっていた。だが、その方がやっていて楽しいものだ。汚い言葉は悪行の一つだが、それにはそれなりの魅力がある。そして人が生きているとどうしても綺麗な言葉を使っては表せないものに出くわすことがあり、そういう時にはどんな聖職者でも、内心忸怩たる思いを抱えつつ、この悪徳に手を染めるしかないのだ。

 

 学問は高尚な行いだが、翌朝に影響しない程度にしなければならなかった。僕も彼女もだ。適当なところで響と別れ、シャワーを浴びて寝た。

 

 そしてまた夢を見た。夢を見たことを覚えている。だがそこで何を見た? 忘れてしまった。息苦しさだけが喉の辺りに残っている。夢の中で「できる」と誰かが言った。でもそれが誰だかも分からなかった。一体、僕に分かっていることは何なんだ? 医者に掛かることは考えられなかった。戦闘不適合と思われることが嫌だった。戦闘を重ねて、僕の心が折れてしまったら、その時に自分への言い訳として悪夢を使うとしよう。しかし今、実戦を前にして逃げ出すようなことはできなかった。一緒にここまで来た友人を失望させたくなかった。手紙を送ってくれる友達をがっかりさせたくなかった。やっと彼女たちと一緒に、場所は違っても同じ敵と戦えるようになったのに、たかが夢に邪魔させる訳にはいかない。

 

 嫌な寝覚めだったが、体は休まっていた。自分の今日の予定を確認する為に手帳を取り出そうとして、もう広報部隊とは違うのだと思い出す。僕は服を着替え、ピアスを身につけて、部屋の外に出た。そこには不知火が待っていた。何かしくじったかと考える。先任が後任を待っていた時には、大抵の場合、後任にとって嫌な知らせを伴っているものだ。朝の挨拶を交わす。どうやら運のいいことに、不知火は丁度今来たようだった。彼女は僕に対する提督の指示書を持っていて、それを渡しに来たのだ。僕はそれを受け取って、さっと目を通した。第一艦隊への出向命令、一三〇〇に出撃だ。現在時刻は〇九〇〇。「三十分前までに工廠へ集合して下さい。健闘を」と不知火は言った。「ありがとう、不知火先輩」「いえ、構いません」今度は不知火も上手に表情を作った。でも僕にはお見通しだ。

 

 初めての実戦ではない。あの岩礁での交戦は激しかった。あれよりもひどい戦闘が、いきなり起こるとは思えない。最悪を想定しておくことは大事だが、それは針の先ほどの恐怖を、わざわざ自分で増大させる必要があるというのではない。大丈夫だ。それに今回の出撃には仲間も大勢いる。僕よりも鍛え上げられ、経験に裏打ちされた能力があって、信頼できる。僕は朝昼兼用の食事を取る為に、隣の部屋の隼鷹を誘って食堂に行くことにした。ノックを三度、だが彼女はそれで起きないことの方が大半だ。そういう時には叩き起こしてくれ、という取り決めを僕たちは交わしていた。これは僕が起きなかった時についてもそうだ。僕がこれまでの人生で結んだ契約の中でも最高のものだ、と思っていた。泥酔した隼鷹がとても再現性のない独創的なやり方で僕を起こそうとして、危うく殺しかけるまではだ。酔いを覚まさせた後で僕は彼女に聞いた。「スクイーザーと耳かき、それと袋詰めした鉄くずでどうやって僕を起こすつもりだったんだ? 永遠に寝かせるつもりだったんじゃないのか?」彼女は答えられなかった。

 

 ドアを開けて中に入り、後ろ手に閉める。鍵を掛けていないのは無用心だが、今はありがたい。そら、隼鷹はベッドで毛布を引っ被って寝ている。それを掴んで、引き剥がす。もう何度もやったことだ。それからテーブルの上の水差しを……そうだ、水差しはないんだな、今度用意しておこう。仕方ないので、鼻をつまんでやる。頬をぺちぺちしてやってもいいが、榛名さんによれば美容によくないらしい。※23広報部隊勤務の経験から言わせて貰うが、美容は大事だ、疎かにするべきではない。

 

 彼女は起きた。髪がぼさぼさだが、互いに慣れてる。「朝かい?」「うん、九時過ぎだ」「もう指を離してくれていいよ」「そうしよう」僕は隼鷹の鼻から指を離した。彼女は鼻の頭を爪で軽く引っかき、背伸びをした。「さあて、着替え着替えーっと」「待ってるよ。食堂で何か食べよう」「おっ、いいねえ……でもさ、待つなら外で待っててくれないかい?」「そりゃ残念」笑いながら僕は部屋から出た。近くの壁にもたれ掛かり、隼鷹の準備が整うのを待つ。毎朝、女性は多くの時間を費やすものだ。もし彼女たちがみんな、今の三分の一、いや三分の二ほどに毎朝の努力を減らせたなら、その余剰分の時間とエネルギーを使って人類は更なる勝利と発展へと跳躍できるだろう。その為のロールモデルには隼鷹が相応しい。彼女は、彼女自身がどう考えているにせよ軍隊向きだ。何でも手早く、効率的にやるし、しかもやったことがちゃんと作用する。

 

 部屋を出て来た時には、彼女は普段の様子だった。少しアルコールの臭いがする、寝覚めに一杯やりやがったな。ほら、いつも通りだ。二人で食堂に行くと、第一艦隊の面々が先にいた。彼女たちに挨拶をして、食事を共にさせて貰う。吹雪秘書艦、日向、伊勢、響……妙高さんはいない。彼女は第二艦隊との掛け持ちで、丁度今の僕みたいな立ち位置だったのだが、僕と隼鷹の着任によってその激務から解放されたのだ。昨日、妙高さんが優しかったのはそのせいかもしれない。

 

 券売機コーナーで食券を買う時、僕は何となく隣の券売機を使って日向と伊勢が何を頼むか見た。それはどう考えても、航空戦艦の食事量ではなかった。艦種での食事量の違いは存在するが、一般に艦娘はよく食べる。これは彼女たちが肉体労働に従事しているからというだけで、艦娘の特性としてではない。僕はダイエットでもしているのだろうかと不思議に思いつつ、自分の分を頼もうとした。そこではたと理解した。出撃前だからだ。負傷した時に、胃腸が破れて中身が体内にぶちまけられることがある。修復材で外傷は何とかなっても、異物までは取り除けない。そこから感染症を起こし、死に到ることもある。買おうと思っていたセットをやめ、日向たちに倣う。僕らは同じテーブルに落ち着いた。隼鷹の持っている食事を見る。ほんの僅かな量だった。彼女も気づいたのだろう。

 

「今日の出撃はどんなものなんだ?」

 

 友達に聞くように、僕は気軽に伊勢にそう質問した。僕と隼鷹はそれを許されていた。伝統的に、軍では階級と着任順が部隊内での序列を決めてきた。どれだけ早く着任しても、伍長じゃ少尉に逆らえない。軍規上はそうなってる。同様に、先任の軍曹と新しく昇進した軍曹では発言力が違う。こっちは明文化されていないが、自分たちで作ったルールってのは外から押しつけられたものより大事にされる。で、ここからなんだが、前線の実戦部隊と後方で勤務する部隊では、一つ二つルールの数が違うんだ。実戦部隊には追加のルールがあって、それは部隊、艦隊によって違う。例えばある艦隊では、右手に艦隊のモットーを記したリストバンドをはめる。それは内と外を区別し、彼女たちの結束を強める。他の艦隊では、お互いを特別な名前で呼び合う。また別の艦隊では、そういった外見的・表面的な細かい違いによって区別したりしないで、もっと兵士として分かりやすいやり方で分ける。実戦経験があるかどうかだ。そしてここの第一艦隊は、そのルールを採用していた。で、僕と隼鷹は本物の戦闘を経験した後だったから、最初から仲間として受け入れて貰えた訳だ。

 

「ん? ああ、まずは慣らしみたいなものよ。適当に航行して、索敵して、敵を見つけたら撃って、弾と燃料が少なくなったら帰る。分かりやすいでしょ?」

「今回の海域で確認されている艦種は?」

 

 これは日向が答えた。

 

「駆逐、軽巡、重巡、空母、それから稀に潜水艦と戦艦だ。目を覚まして指示を聞いていれば、死ぬ心配は少ない。秘書艦、今回の組み合わせは?」

「組み合わせ?」

「ま、言ってみれば戦場での相棒みたいなものかなあ? 行動の最小単位って奴」

 

 疑問を差し挟むと、また伊勢が答えてくれる。真に頼りになる先輩だ。

 

「隼鷹さんは私が。日向さんは伊勢さん、それからあなたは……」

 

 彼女はこちらを向いて、言葉を濁した。「私だね」と響が引き継いで言った。丁度いい、宗教と語学を通じて仲良くなったところだ。「よろしく」と僕は向かいの席に座る彼女に手を差し出した。彼女の小さな手が重なり、力強くこちらを握ってくる。これもまたいいね、だ。握手はこうじゃないといけない。響とのコンビの結成後、僕は食事の間中、戦術的な質問を仲間たちに投げかけた。砲戦については伊勢、対航空機については日向、雷撃については響が答えてくれた。世話になり通しで悪いなと思うし、自分の無知を知らされて恥ずかしいが、戦場で切羽詰ってから聞く方がもっと彼女たちに迷惑を掛けるだろう。恩返しの為にも、一刻も早く一人前になることだ。

 

 食事を終え、食器を返して別れる時に、日向が言った。「遺書は書いたか?」僕は首を振って答えた。「書いておいた方がいい。死んだら慰めになる」この出撃で死ぬかもしれないほど僕が間抜けだってことか? と曲解することもできたが、日向はそんな無駄なことを言う性格ではなさそうだ。それよりも、言葉が足りないばかりに他人に誤解されそうになるが、透けて見えるような彼女の人間性によって正しく解釈し、理解して貰える、という人付き合いの上で得するタイプだろう。そこで、僕は遺書を書くことにした。でも何を書けばいい? まず伝えるべきは家族にだろう。『これを読んでいる頃、僕はもうこの世には……』いやいやいや。幾ら何でもその書き出しはないな。自分の息子の遺書が届いて、震える手で開いて読んでみたらおふざけで書いたような内容だったなんて、笑い話にはならない。

 

 笑い話とはこういうのを言うのだ。ある龍驤が提督に金を借りた。それは結構な額だったが、その龍驤はそれをさっさと使い切ってしまった。提督は督促に督促を繰り返し、とうとう次の期限を守らなかったら解体だ、と彼女に通告した。そしてその期限の日のことだ。彼女の部屋に返済を求めて入った提督が見たのは、素っ裸の尻に部屋の鍵を突っ込んで仰向けに寝転がり、腹の上に茶碗を乗せた龍驤だった。彼女は叫んだ。

 

腹椀(払わん)ケツ錠(決定)や!」

 

 これは僕のお気に入りの話だ。多分その龍驤は解体されたろうが。

 

 他にもある。ある艦隊の提督がこう頼まれた。「正規空母の凄いところを教えて下さい」そうすると彼は答えた。「深海棲艦でさえ手出しできなかった我々の補給線に打撃を与えました」。艦娘は死と密接に繋がっているから、そのことを笑おうとするものもある。「このところ加賀は五航戦と仲がいい。毎日のように花を持って会いに行っている」過酷な条件下で戦わされる艦隊についてのネタも多い。新人艦娘が先輩艦娘に尋ねて言う。「艦隊って何人で戦うんですか?」先輩が答える。「海域に出てから何戦目かによるわね」。そうそう、隼鷹ネタもあった。「提督ー、工廠はどっちだったっけ?」「あっちにまっすぐ行きたまえ」「まっすぐぅ? それじゃ、あたしにゃ無理だなあ」……結構沢山覚えているものだな。

 

 遺書を書く上で大事なのは、残された人間の心を癒すか、慰めるような文を書くことだ。だから間違ってもここで、軍に志願したことへの後悔を書き綴ったりしてはいけない。それにそんな遺書は多分、何故か郵送途中に一度紛失され、筆跡と内容が変わってから到着するだろう。だから僕はまず自分の艦娘としての給料が全部親に渡るようにちゃんと書き記して、それから私物をリストアップし、これこれのものを誰それにと書いておいた。カメラは利根に、ピアスの片割れは北上に、飲めずに残ってしまった酒は全部隼鷹に、広報部隊での壮行会にて四人で撮った写真は両親に、もし僕の死体からナイフが回収できたら那智教官に、それと本は響に。宗教書もいいが、世俗の楽しみに触れるのもいいだろう。その他にも細々としたもので、誰かに贈ることのできるようなものは何もかも書きつけた。それから紙の余白に小さな文字でできるだけ沢山の人々にそれぞれ個人的なメッセージを入れ、日付を書いた。

 

 どうだ、これで立派な遺書になったんじゃないか? 僕は奇妙な満足感を覚えながら手の中の紙を見て、それに書かれた文章を何度か読み直した。名文ではないが、心のこもった最後のメッセージに仕上がったと思う。手紙用の封筒に入れ、可能な限りの綺麗さで「遺書」と書いておく。手紙を書く時の癖で切手を貼りそうになって、それを止めた。切手代ぐらいは軍が出してくれるだろう。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。